53 第5章:黒幕(第4の男)の浮上
第3節:前世の最大の敵
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
三人の男たちが泥沼の醜態を晒して失脚し、去っていった後に残された静寂の中で、妻・愛華が「あの方」と呼んで密連絡を取り合っていた人物――。
その電話の主は、かつて前世の俺(佐藤一真)がビジネスの表舞台と裏社会の双方で死闘を繰り広げ、最終的に俺の命と成果のすべてを奪い去った真の仇敵、黒木 宗一郎であった。
通話が切れ、静まり返った室内で、愛華は先ほどまでの「可哀想な被害者」の仮面を脱ぎ捨て、不気味な悦びに身を震わせていた。
「フフ……あははっ……!」
彼女は乱れた高級シルクの部屋着を整え、陸斗に殴られて腫れ上がった頬を細い指先で撫でながら、心の底から可笑しそうに笑声を漏らした。
「神条も、陣内も、陸斗も……みんな自分が一番賢くて、私とこのタワマンと保険金を独占できると思い込んでいた愚か者たち……。邪魔なハエどもは、一私の手を汚すことなく、勝手に潰れ合って消えてくれたわ……」
愛華は床に散乱したガラスの破片を踏み越え、金庫から取り出した極秘契約書ファイルを愛おしそうに胸に抱きしめた。
そのファイルに刻まれた社名とロゴマークを見た瞬間、ベビーベッドの冷たいマットレスの上に横たわる俺――佐藤一真の全神経に、激しい怒りの電撃が駆け巡った。
(黒木……! やはりお前だったか、黒木宗一郎……!!)
赤ん坊の小さな体の中で、前世の脳裏に刻み込まれた忌まわしい記憶の濁流が、一気に押し寄せてきた。
前世の俺は、IT業界で次世代の分散型暗号処理とAIインフラストラクチャに関する画期的な基幹特許を開発したITエンジニアであり、ベンチャー企業のCTO(最高技術責任者)だった。
そして、その俺の前に立ちはだかった「最大のビジネスライバル」こそが、政財界や巨大ヘッジファンドに暗い人脈を持ち、大手ITホールディングス『黒木グループ』の総帥として君臨していた黒木宗一郎だったのだ。
黒木は、表向きは日本のIT産業を牽引するカリスマ経営者としてメディアにもてはやされていたが、その実体はライバル企業の技術を手段を選ばず強奪し、政財界の汚職や裏金工作を取り仕切る「政財界の暗黒のフィクサー」であった。
前世の俺が命を削って完成させたあの特許――市場価値にして数百億円、いや、世界展開を行えば数千億円にも上ると試算された人類史に残る技術革新。
黒木はその技術の価値を誰よりも早く見抜き、俺からすべてを奪い取るために周到な「殺人工作」を仕掛けたのだった。
俺が務めていた会社の役員であった陣内を買収して過労死寸前の過酷な労働環境を作り出し、弁護士の神条を使って法的な逃げ道を塞ぎ、そして妻であった愛華を金と権力で誘惑して「毒婦」へと仕立て上げた。
俺が病室のベッドで苦しみ、意識を失っていく中で、俺の口から特許の暗号化キーを聞き出し、病死に見せかけて俺の命を奪った黒幕。
それこそが、神条でも陣内でも陸斗でもなく、この「黒木宗一郎」という男だったのだ。
「フフ……一真も空の上で悔しがっているかしら?」
愛華はファイルを開き、そこに挟まれた前世の俺の顔写真がついた資料を、冷ややかな瞳で見下ろした。
「あなたが一生懸命作っていたあの凄い特許……陣内たちみたいな現場のバカには『数億の保険金とタワマン』という小さな餌をチラつかせて踊らせておいて、黒木様とその裏の大口ファンドが数百億円で世界に売り払う……。完璧なスキームだったわ」
愛華の口から語られる真実に、俺は暗闇の中で歯ぎしりをした。
神条、陣内、陸斗の三人は、自分たちが事態をコントロールし、愛華と巨額の遺産を手に入れていると錯覚していたが、最初から黒木という巨大な蜘蛛が張り巡らせた巣の上で躍らされていた「捨て駒」に過ぎなかったのだ。
彼らが表で派手に揉め、警察や世間の目を集めて自滅してくれたおかげで、黒木の本命である「数百億円規模の特許国外流出と資金洗浄」からは世間の視線が逸れた。
「黒木様さえいれば、私はもう何も恐れるものはないわ。あの三人が捕まろうが逃げようが、私には『被害者』としての完璧なシナリオが用意されている……。明後日の深夜、特許の最終決済が完了すれば、私はスイスのプライベートバンクに振り込まれる数十億円の報酬を持って、優雅に高飛びするだけ……」
愛華は勝利の余韻に浸り、うっとりと目を閉じた。
(――なるほどな、黒木。そして愛華)
ベビーベッドの特等席で、俺は激しい怒りの炎を鎮め、氷のように冷徹な「エンジニアとしての思考」へと全意識を切り替えた。
前世の俺を食い物にし、死へ追いやり、その命の結晶である特許を掠め取ろうとした最大の敵・黒木宗一郎。
神条、陣内、陸斗の三人を片付けたことで、俺の復讐劇は終わったどころか、ようやく「本丸の首を撥ねる最終ステージ」へと到達したのだ。
黒木が明後日の深夜に行おうとしている、海外ファンドとの「特許権不正譲渡および大規模資金洗浄の最終決済」。
黒木ほどの男であれば、自身のセキュリティや法的な防壁は神条や陣内の比ではないほど堅牢に固めているはずだ。並大抵のハッキングや告発では、巨大な権力と政財界の圧力によって容易に揉み消されてしまうだろう。
だが――。
黒木が奪い取ったその特許システム自体をゼロから構築した「設計者」は、他でもない、このベビーベッドの中にいる俺(佐藤一真)自身なのだ。
システムの欠陥、バックドア、そして設計者しか知り得ない極秘の緊急停止プロトコル(キル・スイッチ)。
黒木がどれほど巧妙に偽装しようとも、俺の手元にあるこの小さなハッキング端末と前世の記憶があれば、彼が最終決済を行おうとしたそのまさに「その瞬間」に、世界中の金融機関と公的機関の目の前で、彼のすべての暗部と不正取引の全容を大白日のもとに晒し出すことができる。
「あの子(自分)と黒木様の天下……素晴らしい響きだわ」
愛華はファイルを金庫に戻すと、満足げにソファーへと身を投げ出した。自分が完全犯罪の勝者となったことを100%疑っていない、愚かな笑みを浮かべたままで。
俺は小さな赤ん坊の手足を動かし、ハッキング端末のコンソール画面に、前世のコードを一つ一つ思い起こしながら、黒木宗一郎を永遠の地獄へと叩き落とすための「最終決戦用スクリプト」を打ち込み始めた。
(……黒木宗一郎。お前が前世で俺からすべてを奪ったように、今度は俺がお前の持つ権力、財産、名誉、そして自由のすべてを、世界中の目の前で跡形もなく砕いてやる)
第一幕の「泥沼の同士討ち」は終わりを告げた。
ここから始まるのは、前世の宿敵・黒木宗一郎との、すべてを賭けた「最終決戦(第2幕)」である。
タワーマンションの最上階。
夜の静寂のなかで、小さな復讐者の瞳が、冷たく、そして激しく青い光を放ち続けていた。




