52 第5章:黒幕(第4の男)の浮上
第2節:電話の相手の正体
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
神条、陣内、陸斗という三人の男たちが泥沼の醜態を晒し、警察の介入とデジタルの罠によって一人残らず社会的・法的に抹殺された後。嵐が去り、不気味な静寂だけが漂うその空間で、妻・愛華の態度は激変していた。
先ほどまで黒幕――「あの方」からの冷酷な通話に怯え、震える手でスマートフォンを握りしめていた彼女。しかし、プツリと通話が切断された瞬間、その顔から被害者としての惨めな表情や動揺の影は跡形もなく消え去った。
「フフ……あははっ……!」
静まり返ったリビングに、愛華の低く歪んだ笑い声が静かに響き始めた。
彼女は乱れた高級シルクの部屋着をゆっくりと整え、陸斗に殴られて腫れ上がった頬を細い指先で愛おしそうになぞった。その瞳に宿っていたのは、絶望などではない。自分を脅かし、搾取しようとしていた愚かな男たちが全員自滅し、真の「目的」へと一歩近づいたことに対する、底知れぬ狂気の歓喜だった。
愛華は床に散乱していた書類やガラス片を踏み越え、部屋の隅にある鍵付きの壁面金庫へと迷いのない足取りで歩み寄った。
暗証番号を打ち込み、指紋認証をクリアすると、重厚な金属扉が静かに開く。
彼女がその奥から取り出したのは、これまで神条や陣内にも決して見せたことのない、一冊の極秘契約書ファイルと、もう一台の「暗号化された衛星通信対応スマートフォン」だった。
愛華はその端末の画面をスワイプし、先ほど切断されたばかりの「あの方」の番号へ、今度は自分から折り返しの発信を行った。
プルルル……プルルル……。
わずか二回のコールで、再びあの低く重厚な男の声がスピーカー越しに響いた。
『……私だ。愛華、何の用だ。先ほど指示を出したはずだが』
男の声には、一切の隙も感情の揺らぎも存在しない。だが、今度の愛華の態度は、先ほどの平伏するような怯えとは全く異なっていた。彼女は唇の端を吊り上げ、甘く狂気じみた声を電話口へと滑り込ませた。
「ええ、分かっていますわ……『会長』。……でも、どうしても一言、あなたに直接お伝えしたくて」
(……会長……!?)
ベビーベッドの冷たいマットレスの上で、息を殺して会話を傍受していた俺――佐藤一真の全神経が、その一言によって激しく逆立った。
前世の俺(一真)が命を削って働いていた大手IT企業「サイバー・ノクシリア」。
その親会社であり、政財界や国際ファンドに巨大なパイプを持つ日本有数の巨大ITホールディングス――その創業者にして現・最高権力者である創業者会長、黒木 宗一郎。
(黒木……! 陣内や神条の上に見座する、あの『政財界のフィクサー』と呼ばれた男か……!?)
脳裏に電撃が走る。
陣内はただの現場の実行部隊に過ぎず、神条はその法的な揉み消し役に過ぎなかった。前世の俺が開発した「次世代AIインフラと分散型暗号処理の基幹特許」――市場価値にして数百億円、いや数千億円とも試算されるその超巨額の知的財産権を、俺の死に乗じて会社ごと掠め取り、海外の巨大ファンドへ極秘裏に売却しようとしていた真の首謀者。
それこそが、この電話の向こうにいる黒木宗一郎だったのだ。
「フフ……神条も、陣内も、陸斗も……みんな自分が一番賢くて、私とこのタワマンと保険金を独占できると思い込んでいた愚か者たちでしたわ」
愛華は窓の外に広がる港区の夜景を見下ろしながら、心底可笑しそうにクスリと笑った。
「あの三人の邪魔者は、全員見事に消えました……。神条は偽造遺言状で逮捕され、陣内は横領とチャット誤爆で会社を追われて逃亡、陸斗もDVの生配信で警察に連れて行かれました。これで……邪魔なハエどもは一匹残らず排除されましたわ」
電話の向こうで、黒木がフッと低く鼻で笑う気配がした。
『くだらん有象無象どもだ。陣内も神条も、自分たちが知恵者だと過信していたが、最初から我がスキームの『捨て駒』に過ぎん。奴らが表で派手に暴れて自滅してくれたおかげで、警視庁もマスコミも『悪徳弁護士と横領役員の愛人トラブル』というストーリーに飛びついた。警察の捜査線が、本命である特許権の国外流出に届くことは永遠にない』
「ええ、すべてはあなたのご計画通りですわ……。あんな愚か者たちに、一真の遺した『真の資産』の価値など分かるはずもありませんもの」
愛華の声には、かつて前世の俺に見せていた控えめな妻の面影など微塵も存在しなかった。
そこにいたのは、最高権力者である黒木と深い泥沼の蜜月関係を結び、夫の死と特許権の掠め取りを冷酷に手引きした、真の「悪魔」そのものだった。
愛華はスマートフォンを強く握り締め、うっとりとした表情で言葉を続けた。
「……これで、ようやく邪魔者がすべて消えました。これからは……あなたと、あの子(自分)の天下ですわね、黒木様」
(……なに……!?)
ベビーベッドの中で、俺の血が急速に冷却されていくのを感じた。
愛華の口から出た「あの子」という言葉。
彼女は今、自分自身のこと、そして黒木との間に築き上げるはずの「絶対的な支配と巨額の富の王国」を指して、そう呼び放ったのだ。
前世の俺を病死に見せかけて殺害し、その裏で黒木と密約を交わし、三人の男たちを囮として使い潰しながら、最終的に数百億円の特許売却益を手に入れて高飛びする――それが、愛華という女が描いていた「本当のシナリオ」だったのだ。
『フッ……調子に乗るなよ、愛華』
黒木の冷酷な声が、甘える愛華の言葉を鋭く制した。
『天下だと? 浮かれるのはすべての取引が完了し、海外の口座へ資金が着金してからだ。一真が死ぬ間際に遺したあの特許の暗号化キー――あれの最終承認プロセスが、明後日の深夜に完了する。それまでは大人しくそのタワマンで息を潜めていろ』
「ええ……分かっていますわ、黒木様。私はあなたの忠実な小鳥ですもの。指示通り、警察には『男たちに脅されていた可哀想な被害者』として泣きついて見せますわ」
愛華は艶めかしい笑みを浮かべ、金庫から取り出した特許譲渡の予備書類を愛おしそうに胸に抱きしめた。
『よし。捜査の目が沈静化し次第、お前をスイスへ出国させる。……余計な動きは一切するな』
プツッ――と、二度目の切断音が響き、通話は終了した。
静まり返ったリビング。
愛華はスマートフォンを置くと、深く息を吐き出し、勝利の余韻に浸るように天井を見上げた。
三人の男たちが去り、黒木との密約がいよいよ最終段階に入ったことで、彼女は自分が「完全犯罪の勝者」となったことを疑っていなかった。
だが――。
その一部始終を、ベビーベッドの特等席から一言一句漏らさず聞き届けていた俺(佐藤一真)の胸の内では、暗く激しい「復讐の業火」が、これまでにないほど狂おしく燃え広がっていた。
(……黒木宗一郎、そして愛華)
前世の俺を過労死寸前まで使い潰し、病床の俺から知的所有権を掠め取り、死後もその利益を山分けしようとしていた真の黒幕と、その毒婦。
神条、陣内、陸斗の三人は、ただの「前座」に過ぎなかった。
この二人こそが、前世の俺の人生を永遠の闇へと叩き落とした「真の仇敵」であり、解体すべき最大の巨悪だったのだ。
俺は赤ん坊の小さな手足をそっと動かし、シーツの奥深くに隠してあったハッキング端末の内部プログラムを、静かに再構築し始めた。
(――黒木。お前が明後日の深夜に行おうとしている『特許権の不正売却と資金洗浄』。その最終承認プロセスこそが、お前たち二人を社会的・法的に、そして経済的に永久に地獄の底へ叩き落とす最高の首切り台になる)
三人の男たちが去り、静寂を取り戻したはずのタワーマンション。
しかし、その静寂の裏で――「真の黒幕」に対する最も冷酷で、最も完璧な最終決戦のカウントダウンが、今まさに始まろうとしていたのだった。




