46 第4章:候補3・トレーナー陸斗の社会的抹殺(SNS拡散)
第1節:陸斗の暴走と脅迫
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
エリート弁護士である神条健輔が警視庁の捜査員たちに手錠を掛けられて連行され、大手IT企業の取締役であった陣内健一が3億円の横領と社内チャットへの録音データ誤爆の末に夜の街へと逃亡・失踪を遂げた後、この密室に残された「男」は、もはやただ一人となっていた。
第三の男――パーソナルトレーナーの陸斗。
これまで神条という「法と知性の盾」や、陣内という「権力と財産の盾」の陰に隠れ、若い肉体と野性的な魅力だけを武器にして愛華に取り入り、裏では「あいつが消えてスッキリしたろ」と冷笑を浮かべていた肉体派の青年。しかし、自分を支えていた二人の「オッサンたち」が音を立てて共倒れし、社会的な破滅の泥沼へと沈んでいく現実を目の当たりにした彼の心には、かつての余裕や不敵な笑みのかけらすらなかった。
残されたのは、底知れぬ焦燥と、剥き出しの暴力性だけだった。
「……くそっ……! なんなんだよ、あのオッサンどもは……! 勝手に自滅しやがって……!」
リビングルームの中央。
トレーニングウェアの上から羽織ったレザージャケットのポケットに両手を突っ込み、陸斗は血走り、殺気立った目をギラギラとさせながら部屋の中を荒々しく歩き回っていた。その足音が、静まり返った高級フローリングの床に不気味に響く。
ソファの端で、両膝を抱え込み、まるで抜け殻のように小さく縮こまっている妻・愛華の姿には、もはやかつての美貌や「毒婦」としての気高さは微塵も残されていなかった。神条の逮捕と陣内の失踪という現実の重みは、彼女の精神を破壊し、言葉を発する気力すら奪っていた。
だが、陸斗にとって、愛華がどうなろうとそんなことはもうどうでもよかった。
彼の脳裏を支配していたのは、「自分もまた、この崩壊した密室の中で警察に捕まり、すべての責任を押し付けられるのではないか」という極限の恐怖と、それに伴う狂気的なまでの被害妄想だった。
「おい、愛華……! ちょっとは何か喋ったらどうなんだよ!」
陸斗は苛立ちを爆発させ、愛華の座るソファの背もたれを足蹴りした。
ガツン、と重い衝撃音が響き、愛華はびくりと激しく体を震わせたが、顔を上げることすらしなかった。その怯えた反応が、陸斗の沸点をさらに急上昇させた。
「ふざけんなよ……! 俺は最初から、お前の面倒に付き合ってやっただけだぞ! 神条の野郎や陣内のオッサンみたいに、莫大な遺産や保険金が手に入るって聞いたから協力してやったのに、蓋を開けてみれば何だこれわ! 警察の捜査の手がすぐそこまで迫ってんじゃねえか!」
陸斗はソファに歩み寄ると、愛華の細い肩を両手で荒々しく掴み、無理やりその身体を引き起こした。
「いっ……! 痛い、離してよ、陸斗……っ!」
「うるせえ! 黙れよ、この役立たずの女が!」
陸斗の顔が、怒りと恐怖で醜く歪んでいた。
エリートたちに見下されてきたという長年のコンプレックスと、若さと筋肉だけが取り柄である自分という現実。そのすべてが追い詰められたことで、彼の理性のリミットを吹き飛ばしていた。
「お前が俺に『あなただけが頼りなの』とか甘い言葉を囁くから、俺はわざわざこの部屋に出入りして、あのガキの面倒まで見てやったんだぞ! それなのに、なんだこの有様は! 俺まで共犯者として警察にしょっぱわれるようなことになったら、お前のその綺麗な顔をグチャグチャにしてやるからな……っ!」
「やめて……! そんなの私のせいじゃないわ……勝手にあなたたちが……っ!」
「言い訳するなよ!」
パチンッ――!
乾いた、しかし容赦のない高い打撃音が、リビングルームの空気を切り裂いた。
陸斗が振り抜いた右の掌が、愛華の真っ白な頬を容赦なく打ち据えたのだ。
「きゃっ……!」
愛華の身体はバランスを崩し、ソファのクッションの上へと無様に倒れ込んだ。彼女の左頬には、みるみるうちに赤く腫れ上がった痛々しい掌の跡がくっきりと刻み込まれる。口の端から、一筋の赤い血がタラリと流れ落ちた。
「はぁ……はぁ……っ、くそっ……!」
陸斗は自分の荒い息遣いを聞きながら、殴りつけた方の右手を知らず知らずのうちにわなわなと震わせた。暴力という禁忌を犯してしまったことへの微かな動揺と、それを上回るさらなる恐怖が、彼の精神をさらに追い詰めていく。
「お前のせいだ……お前が俺をこんな泥沼に引きずり込んだんだ……! なあ、愛華、隠してあるんだろ? あのオッサンたちから巻き上げた金や、まだ手元に残っている保険金の隠し場所がどこかにあるはずだ! それを今すぐ吐けよ! その金さえあれば、俺は今すぐ海外へ高跳びできるんだからよ!」
陸斗は愛華の髪を乱暴に掴み、無理やりその顔を上げさせた。
愛華は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を歪め、「そんなもの……ないわよ……神条が全部持って行ったわ……私には何もない……っ!」と泣き叫ぶしかなかった。
「嘘をつけ……! 女ってやつは、いざとなったら平気で嘘をつきやがる!」
陸斗はさらに興奮を昂らせ、愛華の胸倉を掴んで激しく揺さぶった。暴力と脅迫によって相手を屈服させ、すべてを奪い取ろうとするその姿は、知性のかけらもないただの粗野な暴力を振るう獣そのものだった。
――そのすべての光景を、ベビーベッドの特等席から、冷徹なまでの冷静さで見下ろしていた俺(佐藤一真)は、赤ん坊の小さな体の中で、静かに、そして圧倒的な嘲笑を浮かべていた。
(……見事だな、陸斗。お前は自分の醜い焦燥と暴力性を、よりによってこの最も人の目に触れやすいリビングの真ん中で、愛華に対して盛大に爆発させてくれたな)
神条が法的知識の逆用で自滅し、陣内が横領とチャットの誤爆で失踪した今、残された最後の男である陸斗が取る行動が「女性に対する暴力と脅迫」であることは、最初から計算の範疇だった。
知性や権力を持たない肉体派の男が追い詰められたときに見せるのは、決まって最も原始的で、最も愚劣な「暴力」だ。
そして、その暴力を振るう瞬間こそが、彼を社会的に永遠に抹殺するための「最高のシャッターチャンス」にほかならなかった。
俺はそっと小さな体をベッドのシーツの上で動かし、ベビーベッドの柵の至近距離に巧妙に設置しておいた「高画質ベビーモニター」および「隠しネットワークカメラ」のレンズの角度を、わずかに調整した。
リビングの天井、壁、そして愛華が倒れ込んでいるソファの方向を死角なく捉える複数のカメラレンズが、陸斗が愛華の髪を掴み、暴力を振るい、脅迫の言葉を吐き散らしているそのすべての生々しい一連の動きを、余すところなく高解像度動画としてリアルタイムでキャプチャし続けている。
(――そうだ、もっとよく見せろ。お前がその鍛え上げた若い肉体と暴力で、か弱い女性を脅し上げ、暴力を振るっているその卑劣な姿を、この世界に生きるすべての人間たちにたっぷり味あわせてやるとしよう)
俺は心の中で静かにコマンドを入力した。
すでにバックグラウンドのシステムを通じて、陸斗が愛華に暴力を振るっているこの瞬間の一連の高画質動画データは、暗号化パッケージとして切り出され、大手SNSのトレンド監視アカウント、女性の権利を守る告発系プラットフォーム、そして警察の捜査本部へと自動送信される準備を整えていた。
「おい、返事をしろよ愛華……! 金はどこだ、隠し財産を出せって言ってるんだよ……っ!」
「やめて……もうやめて……助けて……っ!」
愛華の悲鳴がリビングに響き渡る。
陸斗はさらにその手を振り上げ、彼女を再び殴りつけようと身構えた。
その瞬間――。
この「暴力の瞬間」を切り取った決定的な動画ファイルが、日本全国の数百万人のスマートフォンやパソコンの画面に向けて、一斉にネットの海へと放たれようとしていた。
パーソナルトレーナー・陸斗の社会的抹殺に向けた劇的なカウントダウンは、この暴力を契機として、いよいよ引き返せない最終章へと突入していくのだった。




