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45 第3章:候補2・上司陣内の社内追放(ITトラップ)

第5節:第2の男脱落


港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。

社内Slackの全体チャンネルへの「3億円の横領とパワハラ・愛人発言」の録音データ誤爆に端を発した空前の大炎上、株主総会を目前にした株価の暴落、そして臨時取締役会による「取締役即時解任」の冷酷な通知。


数時間前まで、大手IT企業の取締役として強大な権力を誇り、冷徹な知性と莫大な隠し資産を武器にすべてを支配していると錯覚していた男――第二の男・陣内健一の王国は、そして音を立てて崩れ去っていた。


手元のスマートフォンやタブレットは、もはや無数の罵詈雑雑言やマスコミからの執拗な督促、そして警察の経済事件捜査課からの出頭要請を告げるアラート音を鳴らし続けるだけの、ただのガラクタと化していた。


「終わった……何もかも……すべてが……俺の手から……零れ落ちていく……」


陣内は血走った目を大きく見開き、床のフローリングの上に膝をついたまま、虚空を見つめてかすれたうめき声を漏らした。

彼の身体は激しく震え、冷や汗が額から顎へとダラダラと伝い落ちている。高級なオーダーメイドスーツのシャツは泥のように汚れ、エリートとしての気高さや冷徹な威厳は、微塵も残されていなかった。


隠し持っていたはずの3億円の海外口座は国家レベルの金融セキュリティによって一斉に凍結され、会社からは刑事告訴と巨額の損害賠償請求の刃が突きつけられている。警察の捜査員がこのタワーマンションの地下駐車場に到着しているという最悪の知らせが、彼の脳裏を恐怖の影で塗りつぶした。


ここにいれば、逮捕される。

社会的にさらし者にされ、暗い留置場の冷たいコンクリートの床の上で、残りの人生を犯罪者として過ごすことになる。


「逃げなければ……どこかへ……誰も俺を見つけられない場所へ……!」


陣内の胸の内で、生存本能という名の最後のパニックが爆発した。

彼はもはや取締役としてのプライドも、大人のとしての体面もかなぐり捨て、這いつくばるようにして床から立ち上がった。足元がふらつき、何度もバランスを崩しながらも、彼は玄関の方向へと狂ったように走り出した。


「陣内さん……?」


ソファの傍らで、膝を抱えたまま放心状態になっていた妻・愛華が、わずかに顔を上げてその背中にうつろな声をかけた。しかし、もはや陣内にとって愛華の存在など眼中にすらない。彼女は自分を破滅へと導いた「共犯者」の一人にすぎず、一緒に逃げる価値すらないただの足手まといに成り下がっていたのだ。


「ふざけるな……お前も、会社も、世間の奴らも……全員、俺をハメやがって……!」


陣内は叫びながら重厚な玄関のドアを乱暴に引き開き、振り返ることもなく夜の廊下へと飛び出した。

ガチャリ、とオートロックの鍵が重く閉まる音が、静まり返ったペントハウスに虚しく響き渡る。


彼はプライベート・エレベーターのボタンを狂ったように連打し、一刻も早くこのタワーマンションの密室から脱出しようと身悶えた。

だが、そのエレベーターが到着するまでの数秒間ですら、彼にとっては永遠のように長く感じられた。


(来るな……来るな……! まだ捕まるわけにはいかない……俺は、俺は陣内健一だぞ……っ!)


チーン、と澄んだチャイムとともにエレベーターの扉が開く。

陣内は飛び乗るように箱の中へ滑り込み、一番下の階を示すボタンを拳で何度も叩きつけた。


地下駐車場。

夜の闇に紛れるように停められていた彼の愛車である高級セダンの周囲には、すでに制服姿の警察官や私服の捜査員たちの影がちらついていた。正面から逃げれば、その瞬間に手錠がかけられるのは明白だった。


「くそっ……! 正面突破は無理か……!」


陣内は車に乗り込むことを諦め、監視カメラの死角を縫うようにして、タワーマンションの裏手にある薄暗いサービス通路へと走り出した。

高級革靴がアスファルトの地面を激しく叩く音だけが、彼の焦燥感をあおるように響く。


エリートとしての地位を剥ぎ取られ、3億円の財産を凍結され、世間から追われる野良犬のように夜の港区の街を逃げ惑う男。

彼の足取りはもはや支離滅裂であり、どこへ向かえばいいのかという具体的な目的地すらなかった。ただ「捕まりたくない」「この現実から消え去りたい」という絶望的な逃避行の衝動だけが、彼の肉体を突き動かしていた。


遠ざかる足音、そして冷たい夜風。

IT企業のエリート役員として君臨し、前世の俺(佐藤一真)を過労死寸前まで追い詰めて使い潰し、その死を踏みにじりながら我が物顔で生き抜いてきた第二の男・陣内健一は、こうして誰にも看取られることなく、失意と恐怖のなかに身を投じ、夜の闇へと姿を消した――。


文字通りの「失踪」、そして社会的な完全脱落の瞬間だった。


――静まり返ったタワーマンションのリビングルーム。

陣内が逃げ去った後の重苦しい静寂のなかで、取り残された妻・愛華は、もはや涙を流す気力すら失い、ただ床の一点を見つめたまま人形のように固まっていた。

弁護士の神条は逮捕され、上司の陣内は失意のなかで失踪し、残された男はパーソナルトレーナーの陸斗だけとなったこの密室は、かつての華やかな栄華の面影を失い、破滅の廃墟と化していた。


だが――。

そのすべての修羅場の只中で、ベビーベッドの特等席に横たわる俺(佐藤一真)は、冷徹なまでの冷静さを保ちながら、小さな唇の端を美しく、そして冷やかに吊り上げて微笑んでいた。


(第二の男・陣内健一の失踪および完全脱落、これにて見事に成就した)


前世の俺を精神的・肉体的に追い詰め、会社組織のなで歯車として使い潰した悪徳上司は、自らが撒いた横領とハラスメントの毒によってすべての社会的生命を奪われ、文字通り地獄の底を這いずる逃亡者へと成り下がった。


残された最後の獲物は、若い肉体と暴力性だけを頼りに生きるパーソナルトレーナー・陸斗のみ。

泥沼の人狼ゲームは、いよいよすべての因縁に決着をつける最終章へと、猛烈なスピードで突入していくのだった。

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