42 第3章:候補2・上司陣内の社内追放(ITトラップ)
第2節:社内チャットへの誤爆
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
先ほどまで、会社資金を不正に流用してかき集めた「3億円の隠し資産」を盾に、愛華を無理やり海外へ連れ出そうと狂乱していた第二の男・IT企業役員の陣内健一は、突如として叩きつけられた口座凍結と逮捕状の通知に打ちのめされ、文字通り床に崩れ落ちていた。
「終わった……俺の3億が……海外口座の資金がすべて凍結されただと……? なぜだ……誰がこんな短時間で……っ!」
陣内は血走った目をさらに剥き出しにし、手元に握りしめていた最新型のタブレット端末を床に叩きつけようと振り上げた。だが、そこまでの気力すら奪われたのか、その腕は途中で力なく折れ曲がり、端末はソファのクッションの隙間へと滑り落ちた。
彼の顔からエリート役員としての冷徹な威厳やプライドの光は消え去り、あるのはただ、社会的破滅と経済的死刑宣告におびえる一人の惨めな犯罪者の絶望だけだった。
ソファの端で、愛華はその崩れ去った男の姿を、まるで底なし沼の底から見上げるような、うつろで恐怖に満ちた瞳で見つめていた。
神条が逮捕され、陣内もまた社会的・経済的に抹殺された今、この密室に残された男はパーソナルトレーナーの陸斗だけとなった。しかし、その陸斗もまた、これまでの修羅場の連続と自身のボロの出た焦燥感から、どこかへ姿を隠すように息を潜めている。
――だが。
その誰もが絶望の淵に沈み、思考を停止させかけているリビングの片隅で、ベビーベッドの特等席に横たわる俺――佐藤一真は、赤ん坊の小さな体の中で、最高潮に研ぎ澄まされた冷徹な思考を巡らせていた。
(ふん……陣内。お前は自分の保身と欲望のために会社資金を億単位で横領し、それを隠し口座にプールしていた自らの罪を、このリビングで大声で喚き散らした。だが、それだけではまだ足りない)
陣内がどれほど個人的に破滅しようとも、それだけでは前世の俺が会社組織全体から受けた理不尽な搾取、そして「使い捨ての歯車」として踏みにじられた無念に対する復讐としては、まだ不完全だ。
あの会社には、陣内以外にも、彼の不正を黙認し、あるいはその恩恵に浴しながら、労働者たちを過労死の瀬戸際まで追い詰めてきた腐り切った経営陣や幹部たちが数多く巣食っている。
陣内という一人の人間の堕落にとどまらず、彼が牛耳っていたIT企業の本丸そのものを、内側から瓦解させるための「最後の一撃」。
それこそが、今まさに彼の足元に転がっている「あのタブレット端末」だった。
俺はそっと小さな体をベッドのシーツ上で身じろぎさせ、陣内が床に落としたタブレット端末へと視線を固定した。
先ほどまで陣内が海外口座の確認や隠し資産の操作に使っていたその高性能タブレットは、画面がロックされることもなく、大容量バッテリーのバックライトを明るく点灯させたまま、ソファのクッションと床の隙間に挟まっている。
そして、その画面の上部には、国内最大手のビジネス用チャットツールである「社内Slack」の公式アプリが、何食わぬ顔で常時ログイン状態のまま開かれていた。
チャンネルの一覧には、全社員が参加する巨大なオープンチャンネル「all-company(全社全体チャンネル)」、取締役会メンバー限定の「board-members」、そして彼が直属の部下たちを管理していた「dev-core」の文字が並んでいる。
特に「all-company」のチャンネルには、数千名におうじる全従業員がリアルタイムで接続しており、先ほどからの陣内のスキャンダルや会社を揺るがす異常事態の噂を聞きつけて、無数の社員たちが動揺のメッセージを書き込もうとチャット欄を高速でスクロールさせている最中だった。
(――そうだ。お前がこのリビングで喚き散らした「3億円の横領に関する詳細な自白」と、愛華に対して投げつけた「愛人関係の暴露発言」、そして前世の俺を過労死寸前まで追い詰めて使い潰したすべての暴言の音声……。その決定的な録音データを、今この瞬間に、その社内Slackの全社全体チャンネルへダイレクトに叩き込んでやるとしよう)
俺は心の中で静かに笑みを浮かべ、赤ん坊の小さな手足を激しくバタつかせるふりを始めた。
「うぅ……あぅ……んぁぁ……っ!」
わざと不快そうな泣き声を小さく漏らしながら、俺はベビーベッドの木枠を小さな手でグッと掴み、全身の筋肉をしなやかに躍動させた。
前世の記憶と、大人の意志を宿した肉体制御。生後間もない赤ん坊の筋力では本来不可能なはずの俊敏な動きで、俺はベビーベッドの柵の隙間から、まるでトカゲのようにスルスルと身を滑り込ませた。
ドスン、とはいわない。綿密に計算された無音の着地によって、俺の小さな体は冷たいフローリングの床へと見事に降り立った。
リビングの中央で、陣内はなおも頭を抱えて「うう……俺の金が……」とうめき声を上げており、愛華は恐怖のあまり目を硬く閉じたまま動けない。
誰も、足元を這うように移動する赤ん坊の姿になど、意識を向ける余裕すらなかった。
俺は床を這うようにして、陣内が落としたタブレット端末が転がるソファの足元へと静かに接近した。
(――よし、届いた)
小さな両手を伸ばし、ソファの隙間に挟まっていたタブレット端末の本体をそっと引き寄せる。
画面の光が、俺の赤ん坊としての小さな瞳にパッと反射した。
タブレットの画面上では、陣内が先ほどまで操作していた「音声メモ(ボイスレコーダー)」のバックグラウンドアプリが起動したままになっており、そこには【緊急音声ログ_2026年◯月◯日_密室の会話.wav】というファイル名で、彼が愛華に対して叫んだ「3億円の横領自白」「愛人関係の強要」「一真へのパワハラ隠蔽工作」のすべてが生々しく高音質で録音されていた。
さらに、そのすぐ隣には「社内Slack」の全体チャンネル(all-company)の投稿画面が大きく広がっている。
俺は小さな人差し指の先端をタブレットの静電容量式タッチパネルの上にそっと乗せた。
生後間もない赤ん坊の皮膚の水分量や指紋の面積は微小だが、現代の最新型タブレットの超高感度センサーは、そのわずかな接触をも正確に「タップ操作」として認識する。
(――行くぞ、陣内。お前が会社から搾取し、踏みにじってきたすべての労働者たちの前で、お前の醜い本性を盛大に合唱させてやる)
俺は小さな指先でボイスレコーダーの該当ファイル長押しし、そのままメニューから「共有(Share)」のアイコンをタップした。
続いて、ポップアップで表示された送信先アプリの中から「Slack」を選択。
最後に、全社員数千人が常時接続している最上位の全体チャンネル――「all-company」のアイコンを力強くタップした。
画面のポップアップに、『ファイルを「all-company」に送信しますか?』という確認の文字が浮かび上がる。
迷うことなく、俺はその中央にある【送信(Send)】のボタンを、小さな指で思い切り押し込んだ。
ピコンッ――!
静まり返ったリビングルームに、タブレット端末からごく小さな、しかし鮮やかな送信完了の電子音が響いた。
それと同時に、世界中のネットワーク回線を通じて、陣内のタブレットから数千名の社員たちが接続する社内Slackのサーバーへと、あの忌まわしい「横領と愛人発言の録音ファイル」が、数メガバイトのデータパッケージとして一気に高速アップロードされた。
『ファイルが正常に送信されました。投稿者:陣内 健一(取締役)』
画面の隅に表示されたその無機質なテロップを確認し、俺は心の中で痛快な歓声を上げた。
(――よし、完璧だ。これで、あの会社のすべての人間が、陣内の犯罪の証拠と醜悪な本性のすべてを同時に耳にすることになる)
俺はタブレットを元の位置にそっと転がすと、再び素早く体を反転させ、誰にも気づかれないように元のベビーベッドのマットレスへと這い上がり、何食わぬ顔でスヤスヤと眠る赤ん坊の演技に戻った。
――ほんの数秒後。
リビングの床に転がっていた陣内のスマートフォン、そして彼が放り投げたはずのタブレット端末が一斉に、これまでに聞いたこともないような凄まじい勢いで鳴り響き始めた。
ヴーッ! ヴーッ! ピピッ、ピピッ、ピンポンポンポン……!
「なっ……なんだ……!? この音は……ッ!?」
陣内は頭を抱えたまま、血走った目を剥き出しにして自分のスマートフォンとタブレットに飛びついた。
画面に表示されていたのは、社内Slackの全体チャンネルからの通知の嵐だった。数千人の社員たちから、一斉に返信やメンション、驚愕のメッセージが雪崩のように流れ込んできている。
『――おい、今の音声ファイル聞いたか……!?』
『これ、陣内取締役の声だぞ……! 「会社の金から3億横領した」って自分で言ってなかったか……!?』
『待て、愛人とか、死んだ佐藤さんのことまで……これ、どういうことだよ……!』
『コンプライアンス委員会から緊急連絡だ! 全員、今の全体チャンネルの音声を保存しろ! 警察に通報が走ったぞ……っ!』
画面を埋め尽くす数百件、数千件のメッセージの奔流。
その中央には、陣内自身のアカウント名で投稿された【緊急音声ログ_2026年◯月◯日_密室の会話.wav】というファイルが、青く光り輝く再生ボタンを伴って堂々と鎮座していた。
「あ……あ……あ……っ!!」
陣内の顔から、血の気が一瞬にして引いた。
先ほどまで怒りと絶望に歪んでいた顔面が、今度は恐怖のあまり蒼白を通り越して土気色に変色していく。
「違う……! 違うんだ……! これは俺が送ったんじゃない……! 勝手に……勝手にファイルが暴走して……!」
陣内は叫びながらタブレットを激しく振ったが、一度世界中の社内ネットワークに拡散されたデジタルデータを取り消すことなど、もはや神様にだって不可能だった。
全社員がその録音を再生し、取締役会のメンバーや社長の耳に、陣内自身の生々しい自白の声がダイレクトに叩き込まれている。
「終わった……俺の人生が……終わった……っ……!」
陣内はタブレットを床に叩きつけ、文字通り狂ったように自分の頭髪をむしり取りながら、リビングの床を転げ回って絶叫した。
ソファの傍らで、その光景を呆然と眺めていた愛華は、もはや恐怖ですらなく、ただ目の前で崩れ去る男の姿に魂を抜かれたように立ち尽くしていた。
――ベビーベッドの特等席の上で、そのすべてを冷静に見下ろしながら、俺(佐藤一真)は小さな唇の端を冷徹に吊り上げて微笑んでいた。
(第二の男・上司陣内の社内追放、および社会的完全抹殺。これにて見事に完遂だ)
前世の俺を使い潰し、死後もその名誉を踏みにじろうとした悪徳役員は、自らが撒いた横領と不貞の毒によって、自分の会社と社会から永遠に放り出された。
残された最後のステージは、野性と暴力性だけを武器にする最後の男、パーソナルトレーナー・陸斗の断末魔のみ。
復讐の炎は、最高潮の熱量を保ったまま、いよいよ最後のクライマックスへと突き進んでいくのだった。




