41 第3章:候補2・上司陣内の社内追放(ITトラップ)
第1節:陣内の逆上
港区の高級タワーマンション、その最上階ペントハウスのリビングルーム。
エリート弁護士である神条が、自ら捏造した偽造遺言状のデータ流出と恐喝の音声ログによって、警視庁の捜査員たちに冷酷な手錠を掛けられ、惨めな叫び声を上げながら連行されていってから、まだ数時間のしか時間が経過していなかった。
部屋の中に立ち込めていた異様な熱気は去り、代わりに残されたのは、すべてが破滅へと向かう底冷えのするような沈黙と、壊れかけた人間が放つ焦燥の臭いだけだった。
ソファの端にうずくまり、両手で頭を抱えたまま震える妻・愛華の姿は、かつて男たちを手玉に取っていた「毒婦」の面影を失い、怯えに満ちたただの犯罪の共犯者へと成り果てていた。
そのベビーベッドの特等席から、俺――前世の記憶を持つ赤ん坊・佐藤一真は、冷徹なまでの冷静さを保ちながら、次に訪れるべき破滅のシナリオを頭の中で組み立てていた。
神条の脱落によって、残された「候補」は二人。
そのうちの一人――第二の男であるIT企業役員・陣内健一の身に起きていた劇的な転落のドラマは、まさに今、この瞬間も最高潮の狂気をもって進行しつつあった。
少し前、陣内は社内チャットの誤爆とスピーカー通話の暴走によって、自らの口でパワハラによる追い詰めと、会社資金の不正流用、そして前世の俺(一真)の死に対する隠蔽工作のすべてを全社に向けて暴露してしまった。
その後、会社からの緊急連絡を受けて逃げ出すようにこのタワマンを飛び出した彼を待ち受けていたのは、救いなど存在しない完全なる「社会的死」の現実だった。
本社に戻った陣内を待ち受けていたのは、臨時取締役会による即時解任決議、そしてコンプライアンス委員会による徹底的な内部監査の嵐だった。
彼が長年かけて築き上げてきたエリート役員としてのイス、数千万円にのぼる年間報酬、そして社会的信用――そのすべてが、たった数分間のデジタルな失態によって、一瞬にして灰燼に帰したのだ。
しかし、陣内健一という男の底知れぬ狂気と強欲さは、そこで大人しく折れるような生易しいものではなかった。
会社をクビになり、警察の捜査の手が自分の首元へと確実に迫りつつあるという極限の恐怖と絶望のなかで、彼の脳裏を支配したのは、「すべての責任を他人に擦り付け、自分だけは巨額の富を持って逃げ延びる」という歪んだ生存本能だった。
――ガチャリ。
再び、重厚な玄関のスマートロックが乱暴に解除される乾いた音が、リビングの静寂を切り裂いた。
「っ……!」
愛華がビクリと肩を跳ね上げ、血の気の引いた顔で玄関の方角を振り返る。
ドアが激しく押し開けられ、そこに現れたのは――かつて「冷徹なIT企業のエリート役員」として優雅に振る舞っていた陣内その人の姿だった。
だが、今の彼の有様は、見る影もないほどに変わり果てていた。
仕立ての良い高級イタリア製スーツのジャケットは脱ぎ捨てられ、ワイシャツのネクタイは大きく歪み、髪はボサボサに乱れている。その両目は血走って充血し、口元は痙攣したように引きつっていた。まさに、すべてを失った獣の狂気がその全身から剥き出しになっていた。
「愛華……! おい、愛華っ……!!」
陣内は荒々しい足取りでリビングに踏み込むと、その場に崩れ落ちるように突っ立っていた愛華の細い両肩を、まるで折れんばかりの力でガシッと掴み上げた。
「いっ……痛い……! 離して、陣内さん……っ! あなた、会社は……どうなったの……?」
愛華が恐怖に震える声を絞り出すと、陣内は狂気に満ちた笑みを浮かべ、歪んだ顔を彼女の顔のすぐ間近へと寄せた。
「会社だぁ……? そんなもの、もうとっくにクビだ……! 役員会で全員から弾劾され、俺が築き上げてきたキャリアも、地位も、名誉も……すべて、あのチャットの誤爆とスピーカーの音声のせいで、一瞬にしてパーになったんだよ……っ!!」
陣内の声には、絶望と怒りが入り混じった凄まじい濁流が渦巻いていた。
彼はそのまま愛華の体を激しく揺さぶり、血走った目をさらに大きく見開いた。
「だがな……! すべてを失ったからこそ、俺にはもう後がないんだ! 警察が来る前に、この日本から、この地獄のような現実から逃げ出さなければならない……! だが、一人では逃げきれん。だからお前だ、愛華……お前が俺と一緒に来るんだ!」
「い、一緒にって……どこへよ……? 私はどこにも行かないわ……それに、神条はさっき警察に逮捕されたのよ! 私たちもいつ捕まるか分からないのに……っ!」
「逮捕だと……? あの気取った弁護士の野郎が、先に落ちやがったのか……!」
陣内は吐き捨てるように悪態をついたが、すぐに狂ったような笑みを浮かべ、自分のポケットから一台の小型のハードウェアウォレット、および大量の電子決済用タブレットを取り出して愛華の目の前に突きつけた。
「安心しろ、愛華。俺はバカじゃない。会社をクビになる直前、いや、その前から――俺はこの日のために、会社の裏金口座や秘密のシステムを利用して、総額で『3億円』にのぼる隠し資金を、海外の匿名口座へと少しずつ分散してプールし続けていたんだ!」
「3億……円……!?」
愛華の瞳が、驚愕と恐怖で見開かれた。
陣内は自分の狂気を肯定するかのように、血走った目でそのタブレットの画面を指さした。
「そうだ! 会社のシステムを裏からハッキングし、架空のプロジェクト費用として流用し続けた、俺だけの秘密の逃走資金だ! これだけの金があれば、南米だろうがどこだろうが、誰にも見つからずに一生遊んで暮らせる! 神条の野郎みたいに国内でコソコソ法律の網をかいくぐる必要すらないんだよ!」
陣内は、自分が犯した会社資金の横領と流用という、さらに重大な刑事犯罪の証拠を自らの口で得意げに暴露していた。
もはや彼は、自分が犯罪を重ねているという自覚すら失い、ただ「金さえあればすべてを買い戻せる」という歪んだ妄想に取り憑かれていたのだ。
「さあ、愛華! そのガキをさっさと置いて、俺と一緒にこの国を出るぞ! お前が欲しいと言っていたタワマンも、ブランド品も、すべてこの金でさらに豪華にしてやる! だから俺を買え……! 俺のこの3億円の財産で、お前は俺の妻として、一緒に海外へ高跳びするんだ……っ!」
陣内は狂気に満ちた目で愛華を強引に抱き寄せ、その唇を奪おうと無理やり顔を近づけた。
「やめて……っ! 離してよ、陣内さん、狂ってるわ、あなた……っ!」
愛華が必死に顔を背け、彼の胸を押し返そうと両手で激しく抵抗する。
だが、失うもののなくなった男の怪力は凄まじく、愛華を床へと押し倒す勢いでさらに強引に迫っていく。
――その一部始終を、ベビーベッドの上から冷徹な眼差しで見下ろしていた俺(佐藤一真)は、小さな赤ん坊の胸の内で、氷のように冷たい微笑みを浮かべていた。
(……見事だ、陣内。お前は自分の保身と欲望のために、会社資金から3億円を不正に流用し、それを海外口座に隠していたという決定的かつ最大の自白を、自らの口で盛大に果たしてくれたな)
神条が法律の網の裏をかいて自滅したように、この第二の男・陣内健一は、「会社の金を億単位で横領した経済犯罪者」として、自らの足で逃げ場のない泥沼へと踏み込んだのだ。
愛華を買収し、海外へ逃亡するための資金として彼が誇らしげに見せびらかしているその3億円の隠し口座データ――それ自体が、陣内を日本の司法制度における「最重要指名手配犯」および「経済事犯の巨悪」として永遠に葬り去るための、最高にして最後の決定的な証拠となる。
俺は赤ん坊の小さな手足をそっと動かし、ベビーベッドのシーツの陰に隠してあった小型の通信端末に意識を集中させた。
すでに、陣内が会社から不正に引き出した隠し口座の暗証番号、トランザクションのログ、そして今このリビングで彼が叫んだ「3億円の資金流用に関するすべての自白音声」は、自動的にバックグラウンドのシステムを通じて、警視庁の経済事件捜査課、国税庁の査察部、そして陣内が所属していたIT企業の最高経営責任者(CEO)の直通メールボックスへと、暗号化パッケージとして高速転送される仕組みにセットされていた。
(――さあ、陣内。お前がその狂気に満ちた頭脳でかき集めた3億円の隠し財産も、お前が夢見た海外逃亡の切符も、すべてはこの一真(赤ん坊)の手のひらの上で凍結される。お前のエリートとしての人生のフィナーレを、盛大に飾ってやるとしようか)
俺は心の中で静かにスイッチを押下した。
ピピッ――という微かな電子音の幻聴が脳裏に響くのと同じタイミングで、陣内のポケットの中で、彼のスマートフォンが再びけたたましい警告音を鳴らし始めた。
「……っ!? なんだ、また会社からの嫌がらせか……!?」
陣内は愛華から無理やり手を離し、不機嫌そうにポケットからスマートフォンを取り出した。
画面に表示されていたのは、会社からの連絡ではない。
それは、彼が海外の匿名口座へプールしていたはずの「3億円の全資金口座」が、国家レベルの金融セキュリティシステムと国税査察部によって一斉に「不正資金凍結(Freeze)」されたことを告げる、冷酷な警告通知の嵐だった。
『緊急通知:お客様の名義および関連する法人名義の全口座について、資金洗浄および業務上横領の疑いにより、管轄官庁および金融庁の命令に基づき即時凍結処理を実行しました』
『通報:警視庁捜査二課(経済事件担当)より。被疑者・陣内健一に対し、業務上横領および資産隠匿の容疑で逮捕状が執行されました。現在地へ捜査員が急行中です』
「なっ……馬鹿な……!? 俺の3億が……凍結されただと……!? なぜだ、誰がこんな短時間で俺の海外口座の所在地を特定できた……っ!?」
陣内は血走った目をさらに剥き出しにし、スマホの画面にかじりつくようにして絶叫した。
彼の顔から、先ほどまでの狂気的な自信の光は消え去り、あるのはただ、すべてを奪われた男の底知れぬ恐怖と絶望だけだった。
「終わった……俺の金が……逃げ道が……すべて……消えた……っ!」
崩れ落ちるようにリビングの床にひざまずき、頭を抱えてわめき散らす陣内の姿を、ソファの傍らで震える愛華は、もう何の感情もこもらないうつろな目でただ見つめていた。
第二の男・上司陣内の完全な失脚と破滅へのカウントダウンは、今、この瞬間に音を立てて完了したのだ。
そして、この泥沼の修羅場劇は、いよいよ最後のクライマックスへと突き進んでいくのだった。




