04 第1章:最悪の目覚め(現代タワマンと赤ん坊の屈辱)
第4節:前世の自分の死の違和感
寝室へと駆け込んだ妻・愛華の背中が完全にドアの向こうへと消え去り、重く閉ざされた木の扉がピタリと音を立てて静止した。
リビングルームには、再び重苦しい静寂が戻ってきた。
ベビーベッドの上に仰向けに寝かされたまま、俺――前世の記憶を持ったまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、小さく荒い息を吐き出しながら、天井のダウンライトの光をじっと見つめていた。
(今の電話の相手は誰だ……。「あの子は元気にしているか?」――あの声、あるいはあの言い回し。間違いなく、この家には俺以外の「男」の影が、何重にも張り巡らされている……)
頭の中で、先ほどから集まりつつあるピースがカチリと音を立てて噛み合い始める。
しかし、ピースが揃えば揃うほど、その全体像が描き出す絵面は、おぞましい悪夢のような現実を俺の突きつけていた。
愛華は、本当に俺を愛していたのか?
いや、その問いの答えは、先ほど洗面所の鏡の前で彼女自身が吐き捨てた言葉によって、すでに残酷なまでに証明されている。
「あんな真面目だけが取り柄の、冴えない男の血なんて要らないもの」
「あの男が遺したお金で、最高に幸せになりましょうね」
そうだ。愛華にとって俺は、愛する夫などではなかった。彼女の贅沢な生活を支えるための財布であり、都心の高級タワーマンションというステータスを買い与えるための便利な道具にすぎなかったのだ。そして、その道具としての価値が尽きかけた時、あるいは――それ以上の莫大な利益(生命保険金や資産)を引き出すために、俺は「排除」されたのではないか?
(待て……。俺の死は、本当にただの「病死」だったのか……?)
脳裏に、前世の最後の記憶がフラッシュバックのように蘇ってきた。
あの頃の俺は、たしかにIT企業で激務をこなしていた。プロジェクトの炎上に伴う心身の疲労、慢性的な睡眠不足。だからこそ、突然の激しい胸の痛みと呼吸困難に襲われた時、俺はそれを単なる過労による心筋梗塞、あるいは突発的な心不全だと疑いもしなかった。
だが、冷静に思い出してみれば、あまりにも出来すぎている。
俺が倒れる直前の数ヶ月間、やたらと体調を崩すことが増えていなかったか?
毎朝、愛華が「あなた、お仕事頑張りすぎよ。体に良いからこれ飲んで」と、手作りのスムージーやサプリメント、特製の栄養ドリンクを毎日のように進んで差し入れてくれていた。あの時の愛華の優しい笑顔と、心配そうに潤んだ瞳を、俺は疑うことすら知らなかった。
もし――。
もし、あの時俺に盛られていたものが、過労を誘発するような、あるいは心臓に負担をかける緩慢な毒物だったとしたら……?
「……っ!」
赤ん坊の小さな喉から、思わず息が漏れそうになる。
全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、未発達な心臓がバクバクと狂ったような鼓動を打ち始めた。
もしそれが事実だとしたら、俺の死は病死などではない。
愛華の手によって計画的に仕組まれた、冷酷無惨な「謀殺(毒殺)」にほかならないのだ。
自分の死の真相に思い至った瞬間、怒りと憎悪の炎が、赤ん坊の小さな肉体の隅々までを焼き尽くすように燃え広がった。
声をあげて泣き叫びたい。こんなクソみたいな女と、その裏で糸を引く共犯者どもを、この手でズタズタに引き裂いてやりたい。だが、今の俺にできるのは、ただベビーベッドの上で小さな手足をジタバタと痙攣させることだけだった。
(くそっ……! 動けよ、この体……! さっさと大きくなれ……!)
悔しさに歯噛みしながら、俺は必死に頭を巡らせ、周囲の状況を再確認しようと視線を動かした。
愛華が慌てて出て行ったこのリビング、そして俺たちが暮らしていたはずのこの空間には、決定的な「異常」が隠されているはずだ。
意識を集中させ、ぼやける視界を限界まで絞り込みながら、リビングルームの隅々を見渡していく。
高級感のあるイタリア製のソファ。
デザイン性の高いガラスのローテーブル。
壁に掛けられたモダンアートの絵画。
そして、無機質に美しく整えられたインテリアの数々。
一見すると、雑誌のワンシーンを切り取ったかのような、完璧に洗練された「理想のタワマンライフ」の空間だ。
だが――何かがおかしい。
何かが、圧倒的に「欠けている」。
(……俺の痕跡が、ない)
胸の奥が、冷たく凍り付くような感覚に襲われた。
この部屋を見回しても、前世の「佐藤一真」がここで生きていたという証拠が、綺麗さっぱりと、まるで最初から存在しなかったかのように消し去られているのだ。
前世の俺は、仕事柄、自宅でもノートPCを開いて作業をすることが多かった。愛用していたゲーミングチェアや、背中を労るための特製のクッションがあったはずだ。
だが、それらは一切見当たらない。
それだけではない。
テレビボードの脇、あるいはサイドボードの上には、通常であれば夫婦の思い出を飾る写真立てがあるはずだった。
数年前に二人で出かけた沖縄旅行の写真。
お台場の夜景をバックに、肩を寄せ合って笑い合っていた結婚式の前撮り写真。
愛華が「これ、一真くんがすごくかっこよく撮れてるから飾るね」と言って、お気に入りの額縁に入れてリビングの特等席に置いてくれていた、あの思い出の写真の数々が――影も形もなくなっていた。
本棚の並びはどうだ?
前世の俺が専門書やビジネス書、読破した小説の数々を詰め込んでいた大きな本棚。そこに並んでいたのは、俺が学生時代から大切にしていた文庫本や、仕事の資格試験のためにボロボロになるまで読み込んだ参考書たちだった。
いま、そこにあるのは、愛華が好んで買い揃えたであろうインテリア用の洋書や、育児雑誌、あるいはファッション誌ばかりだ。俺の生きた証であった蔵書たちは、どこへ行ったのか? 古紙回収の日にまとめて、すべてゴミとして処分されたのだろうか。
クローゼットや書斎の中まで見えなくとも、このリビングの変わりようだけで十分に想像がつく。
愛華は、俺が死んだその瞬間から――いや、もしかすると俺が死ぬ前から、この家から「佐藤一真」という存在の痕跡を、塵一つ残さず徹底的に排除し、塗り替えようとしていたのだ。
「私のかわいい、いい子ちゃん」
「あの男が遺したお金で幸せになりましょうね」
彼女が口にした言葉の本当の意味が、ここでようやく完全に腑に落ちた。
愛華にとって、前世の俺は「愛する夫」などではなく、ただ自分の望むタワマンと莫大な資産を遺して死んでくれるだけの「利用価値の高い生贄」にすぎなかった。俺が死んだ途端、その思い出の品々をゴミのように処分し、新しい男たちをこの部屋に招き入れ、何食わぬ顔で優雅な生活を謳歌している。
(許さない……。絶対に、許さない……!)
目の前が真っ赤に染まるような激しい怒りが、赤ん坊の未熟な涙腺を刺激し、目から熱い涙がポロポロとこぼれ落ちた。
愛華のスマホに届いた謎のメッセージ。
「あの子は元気にしているか?」という不気味な問いかけ。
ガチャン、と寝室のドアノブが回る音がした。
「……ふう、びっくりした。大事なクライアントからの連絡だったからさ」
寝室から戻ってきた愛華の顔は、すっかりいつもの「優しく美しい母親」の表情に戻っていた。彼女はスマホをポケットにしまい、何食わぬ顔でリビングへと歩み寄ってくる。
その足音が、今の俺にはまるで死神の足音のように響いていた。
だが、恐怖はもうない。あるのは、この冷酷な悪女と、俺の人生を踏みにじったすべての者どもを地獄へと引きずり下ろすという、氷のように冷たく研ぎ澄まされた復讐心だけだ。
ベビーベッドの中で、俺は涙を引っ込め、赤ん坊なりの愛らしい笑顔を無理やり作りながら、近づいてくる愛華をじっと見据えた。
(せいぜい今のうちに笑っていやがれ、愛華。お前の築いた砂の城は、俺がこの手で必ず音を立てて崩壊させてやるからな……!)




