03 第1章:最悪の目覚め(現代タワマンと赤ん坊の屈辱)
第3節:妻のスマホと通知音
洗面所の巨大な鏡の前で突きつけられた残酷すぎる真実は、俺の魂の底を凍り付かせるには十分すぎた。
冴えない男の血なんて要らない。
あの男が遺したお金で幸せになりましょう――。
妻であったはずの女、愛華の口から零れ落ちた言葉は、前世の俺が積み上げてきた十年の結婚生活のすべてを踏みにじり、嘲笑うかのような劇薬だった。俺は殺されたのだ。それも、愛していると信じ込んでいた女の手によって、あるいは彼女が手引きした何者かの手によって、病死という名の巧妙な偽装工作のもとで。
「さあ、お部屋に戻りましょうねー」
愛華は冷酷な本性を一瞬だけ垣間見せた後、何事もなかったかのように穏やかな「良き母親」の仮面を完璧に被り直し、俺を抱いたままリビングへと戻ってきた。
フローリングの床を軽やかな足取りで歩く愛華の腕の中で、俺は小さな体を硬直させていた。
(許さない……。絶対に、許さない……!)
赤ん坊の柔らかく未発達な喉からは、依然として「あー」「うー」という情けない喃語しか漏れない。手足は思うように動かず、自分の意思で反逆することすらままならない。だが、内側にある精神――前世のIT企業で修羅場をくぐり抜け、泥沼の人間関係を泳ぎ切った俺の頭脳は、冷徹に、そして狂気的なまでに鋭く研ぎ澄まされていた。
形勢不利。今はまだ歯向かう時ではない。徹底的に情報を集め、敵の正体を暴き、奴らを共倒れさせるための布石を打つ。それが、今の俺にできる唯一にして最大の反撃手段だった。
リビングの中央に置かれた高級なローテーブルの上に、愛華は俺をそっと寝かせた。
「よしよし、ちょっとおむつが濡れちゃったみたいだから、綺麗にしようね」
愛華の優しい声が上から降ってくる。
しかし、今の俺にとってその言葉は、拷問の始まりを告げる宣戦布告に等しかった。
(おむつ替え……だと……?)
三十代半ばの、社会的な地位もプライドも持っていた大人の男が、生後間もない赤ん坊の姿に戻され、かつて愛した妻――いや、今は殺意を抱くべき仇敵の女の手によって、下半身を丸裸にされ、汚物まみれの布切れを剥ぎ取られる。
これほどまでに屈辱的で、精神をズタズタに引き裂かれる経験が他にあるだろうか。
「んしょ、っと……あー、いっぱい出たねぇ。いい子、いい子」
愛華は微塵の嫌悪感も見せず、手際よく俺の足を掴み、腰をひょいと持ち上げた。
お尻の下に敷かれていた汚れたおむつが引き抜かれ、ひんやりとした空気がデリケートな肌に直接触れる。羞恥心と怒りで、俺の顔面は赤ん坊ながらに真っ赤に染まったはずだ。声を上げて暴れたい、ふざけるなと罵声を浴びせたい。だが、口から出るのは「きゅえーっ!」という情けない叫び声だけであり、愛華には「あらあら、ご機嫌斜めかな?」と微笑ましく受け止められるだけだった。
(くそっ……! この屈辱、一生忘れないからな……!)
無慈悲に足を高く持ち上げられ、お尻をウェットティッシュで拭き取られる。大の大人としての尊厳が音を立てて崩れ去っていくのを感じながら、俺は必死に視線を別の場所へと向け、精神を保とうとした。
視線の先――リビングのソファの脇にあるガラステーブルの上。
そこに、愛華のスマートフォンが無造作に置かれていた。
新型のiPhone。背面のガラスが洗練された光を放ち、画面を下にして伏せられている。
そのスマホこそが、このタワマンで繰り広げられているドロドロとした愛憎劇と、俺を殺した陰謀のすべてを繋ぐ「パンドラの箱」に違いなかった。
(あのスマホをどうにかして覗き見ることができれば……!)
愛華が俺のおむつ替えに集中している今が、最大のチャンスだ。
しかし、俺の体はまだ首すら満足にすわっていない。手を伸ばしたところで、テーブルの端にすら届かない。もどかしさに歯噛みしている、その時だった。
――ピコン♪
静かなリビングに、澄んだ電子音が響き渡った。
それは、通常のメールやLINEの通知音とは明らかに違っていた。暗号化されたメッセンジャーアプリ、あるいは秘匿性の高い通信ツール特有の、どこか冷たい響きを持つ特殊な通知音だった。
「……っ」
愛華の手が、ぴたりと止まった。
おむつを留めるテープに伸びていた彼女の指先が硬直し、その表情から一瞬にして余裕が消え去った。愛華は慌てたように顔を上げ、テーブルの上に置かれたスマホへと視線を走らせた。
スマホの画面が、ピカッと眩い光を放って自動的に点灯した。
ロック画面。通常であれば、メッセージのプレビューや差出人の名前が表示されるところだが、その画面には鍵のアイコンがぽつんと浮かび上がっているだけで、セキュリティによって本文が隠されている。
だが、その鍵付きの通知ウィンドウの下部に、ほんの一瞬だけ、プレビューのテキストがスライドして表示された。
――『あの子は元気にしているか?』
心臓が、激しく跳ね上がった。
文字の数はわずか数文字。しかし、その短い一文が放つ圧力は、リビングの空気を一瞬で凍り付かせるほどに重く、禍々しいものだった。
「あの子」とは、言うまでもなく、今まさに愛華の目の前で寝かされている「俺(赤ん坊)」のことだ。
そして、その「あの子」の安否を尋ねてくるということは、このメッセージの差出人こそが、俺をこんな泥沼の運命に陥れた元凶――あるいは、この赤ん坊の「本当の父親(種馬)」に他ならない。
(誰だ……!? 誰からだ……っ!)
必死に目をこらし、画面の上の差出人の名前や、アドレスの端っこを読み取ろうと試みる。しかし、愛華は素早い手つきでスマホを掴み取り、画面を自分の胸元へと隠すようにしてひっくり返した。
「……っ、もう、こんな時に……!」
愛華の唇がかすかに震えていた。普段の冷静沈着で計算高い彼女からは想像もつかない、焦りと、どこか底知れぬ恐怖が入り混じった表情だった。
彼女は慌てておむつのテープをパチンと留めると、俺をベビーベッドに放り込むように寝かせた。
「ごめんね、ちょっとママ、大事なお仕事の連絡があるから……あっちにいるね」
作り笑顔を張り付けたまま、愛華はスマホを強く握りしめ、足早に寝室の方へと引っ込んでいこうとした。ドアが完全に閉まる直前、彼女がスマホのロックを解除し、猛烈な勢いでフリック入力を行っている指先のシルエットが隙間からチラリと見えた。
(逃がすか……!)
ベビーベッドの上で、俺は小さく息を呑んだ。
あのメッセージの主は誰だ?
愛華がこれほどまでに動揺し、怯えているということは、彼女にとってもその差出人は「完全にコントロールしきれない絶対的な存在」であることを意味している。
(いいぞ……ボロを出せ。お前たちが張り巡らせた嘘の糸を、俺が一本残らず引きちぎってやる……!)
赤ん坊の小さな体の中にみなぎる熱い復讐の炎は、もはや誰にも止めることはできなかった。
タワマンの静寂の裏で、泥沼の人狼ゲームは、確実に次のステージへと駒を進めていた。




