02 第1章:最悪の目覚め(現代タワマンと赤ん坊の屈辱)
第2節:鏡の中の「他人」
喉がつぶれんばかりの赤ん坊の叫び声は、豪奢なタワーマンションのリビングにむなしく響き渡るだけだった。
「あー! うあーっ! ぶふっ、うあーっ!」
助けてくれ。嘘だと言ってくれ。俺の頭脳はパニックで煮え立ち、激しい混乱と狂気じみた混乱の渦の中にあった。
俺は死んだはずだ。病室のベッドの上、呼吸器をつけられ、愛華の手を握り締めながら意識を失った。そして目覚めたら、愛する妻の腕の中に抱かれた赤ん坊になっていた。
それだけなら、あるいは神様がくれた奇跡の二度目の人生だと、自分を納得させることもできたかもしれない。だが、命の計算式がどうしても合わないのだ。
俺が病床で死にかけていたあの数か月間、夫婦の営みなどあるはずもなかった。それどころか、俺の意識が朦朧としていたあの時期に、愛華のお腹の中に宿った命――それが、いま赤ん坊として覚醒した「俺」なのだ。
(誰の子だ……!? 一体誰の種なんだよ、愛華……っ!)
抱き上げられたままバタバタと小さな手足を暴れさせる俺を、愛華は困ったような、だがどこか慈愛に満ちた表情であやし続けている。
「あらあら、急にどうしたの? ウンチでも出ちゃったかしら。それともお顔、拭いてあげようか」
愛華はトントンと俺の背中を優しく叩きながら、リビングから洗面所へと歩みを進めた。
そこは、前世の俺がリフォーム時にこだわり抜いて選んだ、ホテルライクな二層式の洗面化粧台がある空間だった。広々とした大理石調のカウンターと、壁一面に嵌め込まれた巨大な一枚鏡。照明がパーッと明るく点灯し、眩しさに俺は目を細めた。
「ちょっとお顔、綺麗にしようねー」
愛華が俺を抱きかかえ、鏡の正面に立った。
その時、俺のぼやけていた視界が、パッと焦点を結んだ。
鏡の中に映し出された二人の姿。
一人は、前世と変わらぬ美しさを誇る妻・愛華。ほんのり薄化粧を施し、産後とは思えないほど整った容姿。
そしてもう一人――その愛華の胸に抱かれている、一人の赤ん坊。
俺は、自分の目を疑った。
(な……なんだ……これは……!?)
鏡の中に映っている赤ん坊の顔。それは、前世の俺の面影など微塵も残していない「完全な他人」の顔だった。
前世の俺――「佐藤 一真」は、典型的な和風の顔立ちだった。黒髪で、一重まぶたの少し細い目、やや平坦な顔立ち。お世辞にもモデルのような華やかさはなく、真面目さと質素さだけが取り柄のような男だった。
だが、いま鏡の中に映っている赤ん坊は違った。
産毛のような柔らかい髪は、光に透けるような綺麗な色素の薄い栗色。
瞳は、薄い茶色――いや、緑がかかったアンバー(琥珀色)のような透き通った色をしている。
鼻筋は赤ちゃんにしては驚くほどすっきりと通り、二重の幅がくっきりと刻まれた、まるでヨーロッパの血が入っているかのようなハーフ顔の赤ん坊だった。
愛華自身は純粋な日本人だ。黒髪で黒い瞳をしている。
もし俺が父親で、愛華が母親であるならば、どうひっくり返ってもこんな色素の薄い、ハーフのような顔立ちの子供が生まれるはずがない。遺伝子の法則が、容赦なく俺の正解を突きつけていた。
(違う……俺じゃない……! 俺の血なんか、一滴も入ってない……!)
全身の血が引き引いていくような感覚。赤ん坊の小さな体が、恐怖と屈辱でガタガタと震え出す。
俺が死の淵で苦しみ、病院のベッドで一人寂しく息を引き取ろうとしていたその裏で、愛華は別の男と肌を重ねていた。そして、その男との間にできた子供を身ごもり、こうして何食わぬ顔で生み落としたのだ。
しかも、その浮気相手の種から生まれた赤ん坊に、死んだ俺の魂が宿ってしまうという、悪趣味極まりない地獄のような皮肉。
(なんでだ……愛華……! 俺たちは愛し合っていたろ!? 住宅ローンを払って、お前が欲しいと言ったタワマンを買って、俺は毎日必死で働いて……! なのに、なんで……っ!?)
前世の思い出が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
「一真さん、いつもお仕事お疲れ様」と笑って迎えてくれたあの笑顔。
「あなたと結婚できて幸せ」と言ってくれたあの声。
すべては偽りだったのか? 俺が死ぬのを待ち望んでいたのか?
俺は絶望のあまり、声にもならない悲鳴を上げようとした。
その時だった。
鏡の中で俺を抱いている愛華が、フッと頬の力を抜いた。
さっきまでの「優しい母親」の微笑みが、綺麗さっぱりと消え去っていた。
代わりに浮かび上がったのは、氷のように冷たく、どこか嘲笑うような、見たこともない暗い影を帯びた表情だった。
愛華は鏡の中に映る赤ん坊――つまり俺の顔を、じっと見つめた。
そして、小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……よかった」
(え……?)
「……あの男(前世の夫)に似なくて、本当に安心したわ……」
愛華の口から漏れ出たのは、耳を疑うような冷酷な言葉だった。
彼女は俺の顔に触れ、愛おしそうに頬を撫でながら、さらに言葉を続けた。言葉の端々に、隠しきれない軽蔑と悪意がにじみ出ている。
「あんな真面目だけが取り柄の、冴えない男の血なんて要らないもの。黒髪で一重のブサイクな子が生まれたらどうしようかって、ずっと怖かったのよ……」
「……っ!?」
心臓が、握り潰されたかのように激しく痛んだ。
赤ん坊の胸の中で、前世の俺のプライドと愛が、木っ端微塵に砕け散る音がした。
冴えない男? 黒髪で一重のブサイク?
俺は愛華のために働いていたのだ。彼女に不自由のない生活をさせたくて、自分の服も買わず、趣味も諦め、毎日終電まで残業をして、体を壊すまで働いた。その結果がこれか? 俺が命を削って稼いだ金で買ったこのタワマンで、俺の死後に別の男の種を抱き、俺の容姿を「ブサイク」と蔑んでいるのか。
「ねえ、あなた……。あなたはあんな男とは違う、特別で素敵な男の人の血を引いているのよ。だから、これから私と一緒に、あの男が遺したお金で最高に幸せになりましょうね」
愛華はうっとりとした表情で、俺の額にキスの落ちをくれた。
その唇の感触が、吐き気がするほど不快だった。恐ろしい。前世で「愛しい妻」だと思っていた女は、こんなにも恐ろしい毒婦だったのか。
俺は病死したと思っていた。
だが、本当にそうなのだろうか?
「真面目だけが取り柄の冴えない男」
「あんな男の血なんて要らない」
「あの男が遺したお金で――」
頭の中で、黒い疑念が急速に膨れ上がっていく。
俺が病気で倒れたのも、本当に単なる過労や突然の病死だったのだろうか?
もしや、俺の生命保険金や、このタワマンの権利、遺産を手に入れるために、愛華が裏で何かを仕組んでいたとしたら……?
(殺された……のか……? 俺は、この女に……!)
背筋に激痛のような悪寒が走る。
愛華は鏡の前で、不敵な笑みを浮かべていた。その瞳には、かつて俺に向けられていたような温もりなどひとかけらも存在しない。あるのは、計算し尽くされた欲望と、自分以外の人間を道具としか思っていない冷酷さだけだ。
「さあ、お顔も綺麗になったし、お部屋に戻りましょうか。今日はあの人が……うふふ、どのパパが最初にお祝いに来てくれるかしらね」
愛華は軽やかな足取りで洗面所をあとにした。
「どのパパが」――愛華は今、確かにそう言った。
父親の候補が、一人ではないのか?
抱っこされながら、俺は必死に溢れ出る涙を堪えた。
赤ん坊の弱々しい体の中で、前世の男の魂が、静かに、だが熾烈な殺意をもって燃え上がり始めていた。
俺は妻の子に転生した。
だが、父親は俺ではない。そして、俺を裏切り、嘲笑い、殺したかもしれない悪女が、母親として目の前にいる。
(許さない……絶対に許さないぞ、愛華……!)
言葉も喋れない。首もすわっていない。一人で歩くこともできない、哀れで無力な赤ん坊。
だが、俺の頭脳は大人だ。前世で培った知識も、記憶も、すべてここにある。
この家で何が起きたのか。
俺を殺した犯人は誰なのか。
そして、俺にこんな屈辱を味わわせた「実の父親(種馬)」と、この悪女・愛華を――
俺は、赤ん坊の小さな拳を、ちぎれんばかりに強く握りしめた。
(全員、どん底に叩き落としてやる。この手で、必ず……!)
鏡の中に映っていた「他人」の顔をした赤ん坊は、愛華には見えない角度で、暗く冷たい決意の瞳を光らせていた。




