01 第1章:最悪の目覚め(現代タワマンと赤ん坊の屈辱)
【第1巻】~赤ん坊の覚醒と3人の父親候補(人狼ゲーム開幕編)~
第1節:死と再会
意識が覚醒する直前の記憶は、冷たく不快な機械音と、鼻を突く消毒液の匂いに満ちていた。
息が吸えない。肺が重く麻痺し、胸の奥から押し寄せる激痛に身をよじらせることもできず、視界が白く霞んでいったあの感覚。――そうだ、俺は死んだのだ。
まだ三十代半ばだった。IT企業の中堅社員として昼夜を問わず働き詰め、ようやく社内で自分のチームを持ち、これからという時だった。激しい胸の痛みに襲われ、救急車で運ばれた病室の天井。泣き崩れる妻の声を遠くに聞きながら、俺の意識は深い深い闇の底へと落ちていったはずだった。
(……だが、ここはどこだ?)
暗闇が打ち払われ、まぶたの裏にぬくもりのある光が差し込む。
徐々に開いていく視界に飛び込んできたのは、見覚えのある部屋の風景だった。
高くそびえる天井、規則正しく配置されたダウンライト、そして大きな掃き出し窓の向こうに広がる都会の絶景。港区の一角に建つタワーマンションの四十階。前世の俺が三十年ローンの重圧に耐えながら、愛する妻のために購入した、あの自慢の我が家のリビングだ。
(助かったのか……? あの病死から奇跡的に一命を取り留めたのか?)
安堵の息を漏らそうとした、その時だった。
「……あ、起きたのね。私のかわいい、いい子ちゃん」
上空から降ってきたのは、鈴を転がすような美しく愛おしい声。
視界の真ん中に、一人の女性の顔が覗き込んできた。
整った鼻筋、吸い込まれそうな大きな瞳、柔らかく波打つ黒髪。間違いようもない。前世で俺が死ぬほど愛し、生涯をかけて守ると誓った妻――愛華だ。
「愛華……! よかった、俺、生きて――」
言葉を発しようとした瞬間、喉から漏れ出たのは声ではなかった。
「あー……? ぶふっ、うぁう、あー……!」
情けない、甲高い赤ん坊の泣き声とも喃語ともつかない奇声。
(な、なんだ……!? 声が出ない!?)
パニックに陥った俺は、必死に自分の手で妻の頬に触れようとした。愛華の体に触れて、自分が生きていることを確認したかったのだ。
だが、目の前に現れた自分の手を見て、俺は息をのんだ。
視界に入ってきたのは、大人の男の無骨で筋ばった手などでは断じてなかった。
関節の節目すら見当たらない、ちぎりパンのようにムチムチと丸みを帯びた、ピンク色の小さな小さな「赤ん坊の手」だった。
(な……なんだこれはっ!?)
パニックは加速度的に膨れ上がっていく。
動かそうと試みるも、腕は自重すら支えられずに力なくグラグラと揺れ、足もまた自分の意志とは無関係にバタバタと空気を開くだけだ。それだけではない。視界の解像度が異常に低い。焦点がうまく合わず、愛華の顔以外はぼやけて見え、色彩もどこか淡くあやふやだ。
「あらあら、どうしたの? お腹が空いたのかな? それとも……パパに会いたくなった?」
愛華が柔らかい微笑みを浮かべながら、優しく俺の体を抱き上げた。
包み込まれるような暖かさと、愛華が昔から愛用していた微かなローズの香水(あるいは柔軟剤)の匂いが鼻腔をくすぐる。
しかし、抱き上げられたことで俺の視界はさらに回り、部屋の全貌を捉えた。
ベビーベッド、色鮮やかな知育玩具のガラガラ、オムツの入った専用ペール。
そして、愛華の腕の中でゆらゆらと揺られている自分自身の小ささ。
(嘘だ……嘘だろ!? 転生……!? 俺が、赤ん坊に……!?)
知識としては知っていた。創作物によくある「異世界転生」や「過去へのタイムリープ」。だが、ここは異世界でも過去でもない。目の前に広がっているのは、俺が命を削って住宅ローンを払い続けていた、現代日本の港区のタワマンそのものだ。
そして俺を抱いているのは、前世の妻である愛華。
つまり俺は――「前世の自分の妻」の子供として生まれ変わったのだ。
「よしよし、いい子ね……。あなたは私にとって、最高の宝物よ」
愛華は心底愛おしそうに俺の額に唇を寄せ、静かに囁いた。
愛する妻と再び巡り合えた。新しい命として、彼女の腕の中で生き直すことができる。
普通なら、奇跡のような再会に涙し、新しい人生を受け入れる場面かもしれない。
しかし、俺の脳裏を冷や汗が吹き出し、激しい違和感と狂おしいほどの戦慄が突き抜けた。
頭脳(前世の記憶)が急速に回転し、冷酷な数学的計算を叩き出す。
俺が病室で息を引き取ったのは、ほんの十か月ほど前のことだ。
そして今、俺は生まれ出でたばかりの赤ん坊としてここにいる。
人間の妊娠期間は、およそ十か月。
(……待て。計算が合わない)
俺が病院のベッドで病魔と闘い、意識を失い、冷たくなっていったあの時期。
愛華の腹の中に、この「新しい命」が宿ったことになる。
当時の俺の体は、病状の悪化によって夫婦の営みなど到底不可能な状態だった。最後に愛華と夜を共にしたのは、倒れて入院するよりもはるか前のことだ。時系列がどうあがいても繋がらない。
抱き上げられた赤ん坊の胸の中で、前世の大人の心が、狂おしい悲鳴を上げた。
愛華が抱いているこの命。
今、愛華の腕の中で赤ん坊として覚醒した「俺」の種。
――この子の父親は、一体誰なんだ……!?
かつて愛した妻の腕の中で、俺は自分を殺したかもしれない何かと、決して直視したくなかった最悪の裏切りの存在を察知し、ただただパニックのまま泣き叫ぶことしかできなかった。




