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35 第1章:リビングの三つ巴(修羅場開幕)

第5節:破滅の火種


リビングルームに漂う狂気と憎悪の密度は、すでに限界を突破していた。


「お前が過労働で追い詰めたんだろ!」

「バカを言うな、遺産をネコババしようとしていたのは貴様だ!」

「オッサン二人とも見苦しいんだよ! 保険金の横取りなんか絶対に許さねえぞ!」


神条、陣内、陸斗――互いに「前世の俺(佐藤一真)」を殺害し、見殺しにした責任を擦り付け合う男たちの怒号は、もはや理性を失った獣の唸り声と化していた。床には砕け散ったガラス花瓶の破片が散らばり、ソファの横では妻・愛華が膝をついたまま「もうやめて!」と頭を抱えてすすり泣いている。


誰もが己の保身と欲望、そして裏切られた嫉妬心に囚われ、周囲の状況など一切目に入っていない。

全員が頭に血を昇らせ、大声を張り上げて自分の罪を他人に擦り付け合っているこの状況こそ――俺がずっと待ち望んでいた「完璧な隙」だった。


(……ククク、実に見事な修羅場だ。だが、この密室の中でどんなに醜く吠え合ったところで、外の世界にその罪が届かなければ復讐としてはまだ半分に過ぎない……)


ベビーベッドの冷たいマットレスの上で、俺――前世の記憶と大人以上の頭脳を持つ赤ん坊・佐藤一真は、静かにターゲットを定めた。


狙うのは、第二の男――IT企業役員の陣内だ。


陣内は激昂のあまり、胸ポケットから取り出した最新型のスマートフォンを、まるで自分の興奮を抑えつけるかのように乱暴にリビングのローテーブルへ叩きつけていた。

画面は明るく点灯しており、そこには「役員会議・緊急オンライン音声グループ通話(保留中)」の文字が表示されていた。


陣内はここへ乗り込んでくる直前、会社で役員会や緊急の社内協議に参加していたのだろう。あるいは、部下や他の役員からの連続着信を苛立ち紛れに拒否、もしくは保留状態にしたまま、愛華のタワマンへ乗り込んできたのだ。


(陣内……お前は前世の俺を過労死寸前まで使い倒し、死後も不正の罪を擦り付けようとした。なら、お前が最も命の次に大切にしている『社会的地位』と『役員としての名誉』から、真っ先に破壊してやる)


俺は決意を固めると、意図的に体を大きく捩り、火がついたような大声を上げてバタバタと暴れ始めた。


「ギャぁぁぁぁぁああああッ!! ギャー―――ッ!!」


甲高い赤ん坊の金切り声が、男たちの怒号を切り裂いて部屋中に響き渡る。


「チッ……! またこのガキか! うるさいんだよ!」

陸斗が耳を塞ぎ、苛立ちを爆発させて唾を吐き捨てる。


「愛華! 早くそのガキを抱きかかえて奥の部屋へ連れて行け!」

陣内が血走った目を剥き出しにして、ローテーブルのすぐ脇で怒鳴り散らす。


今だ。


俺は暴れる振りをして、わざとベビーベッドの柵の隙間から、小さな足を大きく外へ突き出した。そして、足の爪先をベッドの木枠にひっかけてバランスを崩し、体を大きく乗り出すような姿勢を取った。


「ヒック……ッ! ギャー―――ッ!!」


ドスン! と音を立てて、俺の小さな体がベビーベッドの柵越しに傾き、ローテーブルの目と鼻の先へともつれ込む。


「あっ……! 赤ん坊が落ちるぞ!」

神条が思わず声を上げた。


陣内が「チッ、邪魔なガキが!」と忌々しそうに顔を歪め、不機嫌そうに身を乗り出して俺の体を押し戻そうと手を伸ばしてくる。


その瞬間――。


俺は赤ん坊特有の不規則で制御不能な動きを装い、小さな両手を力任せに振り回した。


パシッ――!


小さな俺の手のひらが、偶然を装ってローテーブルの上に置かれていた陣内のスマホの画面を強く叩いた。


画面に表示されていた「通話再開(スピーカー)」のアイコンが、俺の小さな指の接触によって鮮やかに緑色に点灯する。


ピコッ――という静かな電子音が、男たちの怒号と俺の泣き声にかき消されながら、ひっそりと鳴り響いた。


それだけではない。俺は手の甲を滑らせ、音量ボタンの「+」を何度も連続で押し込み、スピーカー音量を最大値へと引き上げた。


これで、通話は接続された。

陣内のスマホを通じて、このリビングのすべての音声が――会社の役員会議室、およびオンラインで繋がっていた数十名におよぶ全社幹部・役員・社員たちのスピーカーへと、リアルタイムでダイレクトに流れる状態が完成したのだ。


しかし、頭に血が昇りきっている男たちは、スマホの画面が切り替わったことに誰も気付いていない。


「触るな、汚い手で俺に触れるな!」

陣内は俺の手を払いのけると、再び神条に向かって猛烈な勢いで掴みかかった。


「神条! 警察に売るだの、不審死だのと言って俺を脅すつもりなら容赦はせんぞ! 一真が過労で死んだのは自業自得だ! 会社の機密データを海外に流出させようとしていた不正を隠蔽するために、俺が奴を極限まで働かせて潰してやったんだからな! 感謝されても恨まれる覚えはないわ!」


陣内の口から、決定的な「パワハラによる追い詰め」と「不正の罪を死人に擦り付けた隠蔽工作」の自白が、狂乱の怒号となって吐き出された。


そして、その大声はそのままスマホの超高感度マイクに拾われ、会社中のスピーカーから大音量で響き渡っていた。


『……え?』

『今の……陣内取締役の声か……!?』

『過労で死んだって……佐藤さんのことか……!? 不正を隠蔽するために潰したって……今、なんて言った……!?』


スマホのスピーカーの奥から、ノイズ混じりに会社側のパニックと動揺の声がかすかに漏れ聞こえてくる。だが、リビングの男たちは自分の叫び声でそれに気付かない。


「ハッ! 偉そうに語るなよ、陣内さんよぉ!」

陸斗が嘲笑しながら、陣内の肩を強く突いた。

「あんただって不妊治療の裏支援とか言って、愛華に何百万も渡して囲い込んでただろ! 自分の子供だと思って必死になってたのに、海外のDNA鑑定で『不一致』って出た瞬間に狂いそうになってたくせにな!」


「貴様……! 余計なことを喋るなッ!」


「事実だろ! 一真の奴が死んで一番喜んでたのはあんただ! 『これで愛華も会社も俺の思い通りだ』って、裏で酒飲んで笑ってたじゃねえか!」


さらに神条が冷酷な追い打ちをかける。

「ふん、無様だな陣内さん。あなたが会社資金を私的に流用して愛華さんに与えていた領収書のコピーなら、すでに私の手元にありますよ。佐藤一真氏の死を利用して会社と遺産の両方を貪ろうとしたあなたの罪は、法的に言い逃れができません」


「神条……! 貴様ぁぁぁッ!!」


怒号、暴力、不貞の暴露、そして会社資金の横領とパワハラ殺人の告白。

すべての致命的な犯罪的自白が、隠すことなく、完璧な高音質で会社中にリアルタイム中継されていく。


『おい……これ、警察に通報した方がいいんじゃないか……!?』

『取締役の言っていた不正って……全部、陣内さんが一人でやってたことだったのか!?』

『佐藤さん……やっぱり陣内さんに殺されたようなもんじゃないか……!』


スピーカーの向こう側で、会社組織の根底が音を立てて崩壊していく気配が漂う。

陣内が長年かけて築き上げてきたエリート役員としての地位、社内での権力、そして信頼――そのすべてが、たった今、一瞬にして消滅したのだ。


(くくく……はははははッ! ざまあみろ、陣内……! お前が最も恐れていた『社会的な破滅』のスイッチを、死んだはずの佐藤一真(赤ん坊)の手で押してやったぞ!)


俺は心の中で狂喜の声を上げながら、わざと「うわぁぁぁん!」と泣き叫んで身をよじらせた。


「おい……陣内……」

神条がふと、異変に気付いたように眉をひそめた。

ローテーブルの上で、陣内のスマホの画面が明るく発光し、スピーカーから無数の社員たちの戸惑う声や怒号が、小さく漏れ聞こえていることにようやく目がいったのだ。


「……ん? なんだ……この音は……?」

陣内もまた、神条の視線を追って自分のスマホへと目を向けた。


画面には、大書された「通話中:役員緊急会議(参加者42名)」の文字。

そして、スピーカーから流れてきたのは、陣内が最も信頼していた社長の、怒りに震える冷酷な声だった。


『――陣内取締役。……今の会話、すべて聞いていたぞ。……今すぐ会社へ戻りなさい。警察と一緒に、君の到着を待っている』


「あ………………」


陣内の顔から、一瞬にして一切の血の気が引いた。

朱に染まっていた顔面が、まるで紙のように真っ白に変色していく。


「あ……あ……嘘だろ……? なぜ……通話が……繋がって……!?」


ガタガタと全身を激しく震わせ、陣内は狂ったようにスマホに飛びついた。しかし、時すでに遅し。

彼が口にしたすべての罪、不貞、隠蔽、パワハラ、そして佐藤一真への害意は、会社の全人間に共有され、取り返しのつかない破滅の火種となって燃え上がってしまったのだ。


「う、嘘だ……! 違うんだ! 今のは冗談で……ハメられたんだ! 誰だ、誰がボタンを押したぁぁぁッ!?」


陣内が頭を抱えてリビングの床に崩れ落ち、獣のような絶叫を上げた。


神条は状況の異常さを察知して絶句し、陸斗もまた「やべえ……」と青ざめて後ずさる。愛華はただ絶望の眼差しで、崩れ去った男たちの姿を見つめることしかできなかった。


(第一の破滅は完了だ。……だが、これはまだ序章に過ぎない)


ベビーベッドの中で、俺は静かに泣き声を潜めた。


神条、陣内、陸斗。

三人の愛人たちが互いの存在を認知し、泥沼の同士討ちへと突き進む修羅場の幕は開いたばかりだ。

ここからさらに、現代のデジタルツールと俺の罠によって、一人また一人と地獄の底へ叩き落としてやる。


俺は小さな手を固く握り締め、破滅の狂騒曲の次なる章へと向かって、冷ややかな瞳を光らせるのだった。


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