36 第2章:候補1・弁護士神条の失脚(法的手法の逆用)
第1節:神条の脅迫
陣内が社内チャットへの誤爆とスピーカー通話の暴走によって、会社関係者から糾弾されながら絶望の淵で連れ去られるように去っていった後、港区の高級タワーマンションのリビングルームには、まるですべてを焼き尽くした後のような重苦しい静寂が舞い戻っていた。
床には先ほど陣内が投げつけて粉々に砕いたガラス花瓶の破片が散らばり、窓の外の夜空には、冷たい都会のネオンが無機質な光を投げかけている。
ソファの傍らに崩れ落ちるように膝をついたまま、妻・愛華は血の気の引いた顔で床を見つめていた。その美しかったはずの顔は恐怖と絶望で歪み、震える両手で自分の肩を強く抱きしめている。
先ほどまでの「全員を手の内で踊らせていた毒婦」としての強気な態度は見る影もなく、彼女の精神は今や音を立てて崩壊しかけていた。
そして、その混沌としたリビングの中央で――。
第一の男、エリート弁護士である神条は、静かに、しかし底知れぬ冷酷さを宿した足取りで、愛華の目の前へと歩み寄った。
かつてその紳士的な態度と知的でスマートな身のこなしで愛華の心を奪い、法律の裏技を駆使してこの完全犯罪の「ブレーン」を気取っていた男の面影は、もはや微塵もない。フチなし眼鏡の奥の瞳には、獲物を確実に追い詰める肉食獣のような、凍てつくような殺意と計算高さがギラギラと光っていた。
「……さて、愛華さん」
神条は低い、しかし耳に突き刺さるような冷徹な声で呟いた。
彼は手元に持っていた上質な革製のアタッシュケースの留め金を、カチリと音を立てて外した。中から取り出したのは、数枚の厚手の用紙と、きれいにファイリングされた法的な書類の束だった。
「陣内がああいう形で脱落し、この現場にはもはや余計なノイズはなくなった。……だが、だからこそ、私たちだけでしっかりと『清算』を済ませておかなければならない事がある」
愛華はビクリと肩を震わせ、おそるおそる神条の顔を見上げた。その瞳には、かつての恋人に向けるものではなく、恐怖の対象に向けるような怯えの色が浮かんでいた。
「な……なにを言うの、神条さん……? あなたもさっき、私と一緒に……」
「私と一緒に何だというのです?」
愛華の言葉を遮るように、神条は冷ややかな笑みを浮かべた。その笑みには温かみのかけらもなく、ただ法的な刃物で相手を切り刻むような残虐さが漂っていた。
「勘違いしてもらっては困るな。私は弁護士だ。依頼人の利益を守るのが仕事であって、犯罪の片棒を担いで人生を棒に振るほどお人好しではない。……もっとも、これまでの段階では、あなたの夫である佐藤一真の遺産と生命保険金を合法的に山分けするための『共同作業』として、私は様々なアドバイスをしてあげたはずですがね」
神条はそう言いながら、手元の書類の一枚を愛華の目の前へと突きつけた。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、愛華の顔から最後の血の気が引いた。
「っ……これ、は……!」
用紙に印字されていたのは、佐藤一真が急死する直前、あるいはその前後に交わされた電子メールのやり取り、そして愛華が「夫の健康管理」を名目に特殊な海外製サプリメントや薬品を継続的に購入していた決済履歴、さらに神条自身がアドバイスしたとされる「保険金の受取人変更および遺産分割に関する法的な密約書」のコピーだった。
「驚いたかな?」
神条は冷徹な眼光を愛華に浴びせかけながら、容赦なく言葉を叩き込む。
「あなたが佐藤一真に何を飲ませ、どのような方法で彼の肉体を弱らせていったか。そして、その死後にどれほどのスピードで生命保険の請求手続きを進めようとしていたか。そのすべての軌跡は、私の手元で完璧にデータ化され、タイムスタンプ付きの電子証拠として保全されている」
「うそ……そんな……! あれは、あなたも一緒に……!」
「私がいつ、あなたに毒を盛れと言いましたか?」
神条は鼻でせせら笑い、鮮やかに切り返した。
「私は一貫して、法律の枠内で相続の手続きをサポートしていた『善良な法律顧問』に過ぎない。捜査機関や裁判所に対してそう主張するための証拠も、アリバイも、私は完璧に用意している。だがね、愛華……。そのすべての証拠の矛先を、あなた一人の『計画的殺人および保険金詐欺』へと向け直した瞬間、どうなるか分かるか?」
愛華は喉の奥で小さく「あ……あ……」と悲鳴のような息を漏らし、その場に崩れ落ちた。
「あなたが単独で夫を毒殺し、私や陣内、そしてあの若いトレーナーをも巧みに騙してアリバイ作りの道具に使っていた――。すべての証拠とシナリオが揃えば、司法の裁きの下であなたがどうなるか、法律の専門家である私なら、誰よりも正確に予測できる」
神条の言葉は、愛華にとってまさに死刑宣告そのものだった。
彼女は神条の足元にしがみつこうと手を伸ばしたが、神条は冷ややかにその身をひるがえし、一歩後ろへと下がった。
「汚らわしい手で私に触るな。……さて、本題に入ろうか、愛華さん」
神条は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、さらに冷酷な条件を突きつけた。
「あなたがこれまで手に入れたタワーマンションの権利、そして佐藤一真から引き出したすべての資産と生命保険金の請求権。そのすべてを、今すぐ私の指定する法人の名義へと完全譲渡してもらう。もちろん、一切の異議申し立ては認めない」
「なっ……そんな……! それじゃあ私は、すべてを失って、ただの犯罪者として刑務所に放り出されるだけじゃない……!」
「そうだ。だが、全財産を私に譲渡し、すべての罪を被って海外へ逃亡するなり自首するなりする道を選べば、『弁護士としての私の裏技』を使って、少なくともあなた個人の刑期を少しばかり軽くしてやる法的な弁護工作をしてやれなくもない。……選ぶのは君だ。すべてを私に差し出して生き延びるか、ここで私にすべての証拠を警察に持ち込まれて破滅するかね」
圧倒的な権力と法的知識を武器にした、容赦のない脅迫。
愛華は絶望に打ちひしがれ、声を上げて泣きじゃくることしかできなかった。
――ベビーベッドの冷たいマットレスの上で、そのやり取りのすべてを耳にしていた俺(佐藤一真)は、赤ん坊の小さな胸の内で静かに、しかし激しく冷笑していた。
(愚かだな、神条……。お前は自分が一番安全な高みから、すべての証拠を握って愛華を完全支配したつもりでいるらしい)
神条は、自分が愛華を脅迫し、遺産と保険金をすべて横取りするための「完璧な法的手法の逆用」に成功したと確信している。陣内が消え、陸斗も怯えている今、このタワマンの勝者は自分であると。
だが、神条よ。
お前が今、手に握りしめているその「完璧な電子証拠のデータ」や「密約の記録」――それ自体が、お前が保険金詐欺の片棒を担ぎ、遺産強奪の主犯格として共謀していた動かぬ決定的な証拠であることに、なぜ気づかないのか。
俺は小さな手を動かし、ベビーベッドの柵の影に隠してあった「ある小型の記録デバイス」にそっと指先を触れた。
そこには、神条が今まさに愛華に対して放った「すべての脅迫の言葉」と「保険金詐欺の隠蔽工作を自ら認めた音声」が、一言一句漏らさず高音質でリアルタイムに録音され続けている。
神条が愛華を追い詰めるために使っているその手段こそが、そのまま神条自身を社会的・法的に一巻の終わりへと叩き落とすための最高のブーメランとなるのだ。
弁護士・神条の失脚劇のカウントダウンは、今、この脅迫の瞬間をもって開始された。




