33 第1章:リビングの三つ巴(修羅場開幕)
第3節:妻の冷酷な態度
ガシャンッ!!!
リビングの床に叩きつけられた高級ガラス製花瓶が粉々に砕け散り、無数のきらめく破片が散らばった。その破壊音と、俺――前世の記憶を持つ赤ん坊が放つけたたましい絶叫が混ざり合い、タワーマンションの最上階リビングは修羅場のピークを迎えていた。
「うるさい! いい加減にしろ、このガキ……っ!」
陣内が血走った目を剥き出しにして怒鳴り声を上げ、陸斗は神条の胸ぐらをつかんだまま激しく揺さぶる。神条もまた、冷徹な法曹としての仮面をかなぐり捨て、歪んだ顔で「手を離せ、この無知な若造が!」と毒づいている。
三人の男たちは互いの喉元に牙を突き立て、己の保身と嫉妬、そして莫大な資産への執着心から、醜い罵り合いの泥沼を底なしに転げ落ちていた。
どれほど言葉を尽くしても、そこにあるのは底知れぬ猜疑心と、相手を引きずり下ろそうとする殺意の泥仕合だけだ。
そのあまりにも滑稽で、あまりにも醜悪な男たちの姿を――リビングの隅、ソファの傍らにうずくまっていたはずの女が、じっと見つめていた。
――ピタリ。
それまで狂ったように「やめて、やめてよ」と泣き叫んでいた愛華の震えが、嘘のようにピタリと止まった。
ボロボロに流れていたはずの涙が、まるで最初から存在していなかったかのように乾いている。乱れていた髪をすっと白く美しい指先で掻き上げると、愛華は地面に這いつくばるような姿勢から、ゆっくりと立ち上がった。
その表情に、もはや怯えや恐怖の欠片すらない。
そこにあったのは、すべてを冷徹に見下ろす、絶対的な「毒婦」の顔だった。
「……いつまで、そんなみっともない犬の遠吠えを続ける気?」
その、あまりにも冷ややかで、氷のように凍りついた声がリビングの空気を切り裂いた。
怒号と罵声を浴びせ合っていた三人の男たちの動きが、まるで時が止まったかのようにピタリと硬直する。
「……え?」
陣内が息を呑み、血走った目を瞬かせた。
「愛華……? お前、いま何と言った……」
「聞こえなかった? ――耳まで遠くなったのかしら、おじさんたち」
愛華はフッと鼻で笑った。その笑みは、これまでの可憐で儚げな未亡人の仮面を綺麗に剥ぎ取った、あまりにも残酷で、美しいまでの冷笑だった。
彼女は床に散らばるガラスの破片など意にも介さず、優雅な足取りで男たちの中央へと歩み寄る。そのただならぬ気迫と、空気の質の変化に気付いた陸斗が、思わず神条の胸ぐらから手を離し、後じさった。
「な、なんだよお前……さっきまで青い顔して震えてただろ……っ!」
「震えてるふりをしてあげていたのよ。あなたたちがどれほど滑稽に、私のために必死で牙を剥き出しにしてくれるかが見ていて面白かったから」
愛華は三人の男たちを順番に見据えた。
その瞳には、かつて彼らに向けられていたはずの甘い熱や、依存の色は微塵もない。まるで道端に転がる虫けらを観察するかのような、底冷えのするような冷徹な視線だった。
「神条……あなた、自分が一番賢い弁護士だと思っていたでしょう? 私を法的に守り、裏で佐藤一真の遺産を山分けするための完璧なシナリオを描いているつもりだった。ねえ、そうでしょう?」
「っ……!」
神条の顔色が一瞬で青ざめた。フチなし眼鏡の奥の目が大きく見開かれる。
「陣内さん、あなたもよ。大手IT企業の取締役様が、不妊治療の支援だの、会社資金の融通だのと言いながら、私を自分の愛玩動物のようにはじき出せる気でいた。海外のDNA鑑定なんて持ち出して、私を追い詰められると思った? 愚かねぇ。あなたはその社会的地位とプライドを利用されるだけの、ただの『金づるの都合のいい財布』だったのよ」
「な……なにを……ふざけたことを……っ!」
陣内は全身を震わせ、声すらうわついた。エリートとしてのプライドが、音を立てて崩壊していく。
「そして――陸斗」
愛華の視線が、最後に若いトレーナーの男を捉えた。陸斗は思わず息を呑み、息を詰まらせる。
「若い肉体と耳あたりのいい言葉で私を満足させてくれるから、ちょっと可愛いペットとして可愛がってあげたけれど……。まさか自分が『愛人の中の勝者』だなんて本気で信じていたわけ? あんたなんか、私の暇つぶしの道具にもならない、ただの使い捨てのチンピラよ」
「てめえ……っ! なんだと……っ! 俺をバカにするな!」
陸斗が逆上し、つかみかかろうと一歩踏み出した。
だが、愛華はその場微動だにせず、氷のような笑みを浮かべたまま、男たちの真ん中で高らかに、しかし冷酷に言い放った。
「――目を覚ましなさいよ、勘違いのバカ男ども。あなたたち三人はね、全員、私に踊らされていたのよ」
「なっ……なんだと……!?」
「私を愛しているだとか、私があなたたちのものだとか……そんな甘い幻想を抱いていたのは、世界中であなたたち三人だけ。神条が持ってきた法的隠蔽も、陣内が差し出した巨額の資金も、陸斗が私に囁いた甘い言葉も――すべて、私があなたたちから引き出すための『便利な道具』にすぎなかったの」
愛華は両手を軽く広げ、まるでオペラの舞台の主人公であるかのように、うっとりとした、しかし狂気に満ちた笑みを浮かべた。
「佐藤一真が遺したあの莫大な保険金、そしてこの港区のタワーマンション。私が本当に手に入れたかったものを安全に、誰にも邪魔されずに我が物にするために、あなたたち三人はそれぞれ、私にとって最高の『盾』であり『ダミー』だったのよ。神条は警察や外部の目を眩ますための法の盾。陣内は資金と組織の盾。陸斗は私の孤独を紛らわせる若さの盾。……ねえ? 誰一例外なく、私に都合よく利用されていただけじゃない」
「ふざけるな……っ! ふざけるなよ愛華ぁっ!!」
陣内が精神の糸を断ち切られ、狂乱した獣のように叫び声を上げた。
「俺は、俺は会社を揺るがすリスクを冒してまでお前を支えたんだぞ! なのに、最初から俺を騙して……利用していただけだと……っ!?」
「騙された方が悪いのよ。あなたたちが私の美しさと、佐藤一真の遺産に目が眩んで、勝手に群がってきただけでしょう? 私はただ、あなたたちの欲望をほんの少し刺激して、思い通りに操ってあげていただけよ」
愛華の冷酷な言葉は、男たちの胸に突き刺さる毒矢そのものだった。
自分こそがこの未亡人の「唯一の男」であり、彼女を救い出してすべてを我が物にする「覇者」だと信じ込んでいた男たちの自尊心は、今や粉々に微塵切りにされていた。
弁護士としての誇りも、IT役員としての権力も、若い肉体としての自信も――すべては愛華という一人の毒婦の掌の上で踊らされていた道化の小芝居にすぎなかったという現実が、彼らの頭脳を破壊していく。
「この……この……女ぁ……っ!! 裏切りやがったな……っ!」
陸斗が怒りと絶望のあまり、狂ったような顔で愛華の細い腕を掴みにかかった。若い肉体の暴力性が、理性のリミットを外して愛華へと襲いかかる。
「っ……! 離しなさいよ、この肉体バカ!」
愛華が初めてわずかに顔をこわばらせ、身を引こうとする。
だが、その暴力を止める者は、このリビングにはもう誰もいない。
神条は絶望のあまり床に膝をつき、陣内は頭を抱えて奇声を上げ、陸斗は殺意に満ちた目で愛華の首筋へとその手を伸ばしている。
(……素晴らしい。実に美しい自壊劇だ)
ベビーベッドの柵を握りしめながら、俺――佐藤一真は、その阿鼻叫喚の地獄絵図を冷徹な瞳で見下ろしていた。
愛華がどれほど冷酷に男たちを嘲笑し、自分こそがすべての支配者であると錯覚していようとも、彼女自身もまた、真の黒幕が張り巡らせた巨大な蜘蛛の巣の真ん中に囚われた、哀れな獲物の一匹に過ぎない。
男たちの怒号が再び最高潮に達し、愛華の悲鳴が混ざり合う。
崩壊の時は来た。泥沼の同士討ちは、いよいよ誰も引き返せない修羅場の最深部へと突入していくのだった。




