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32 第1章:リビングの三つ巴(修羅場開幕)

第2節:赤ん坊の絶叫(演出)


怒号と罵声、そして醜い擦り付け合いが充満するタワーマンションのリビングルーム。

エリート弁護士の神条、IT企業役員の陣内、そしてパーソナルトレーナーの陸斗。三人の男たちはもはや愛華のことなど眼中になく、己の保身とプライド、そして惨めな敗北感を隠すために、相手の胸ぐらを掴み合わんばかりの勢いで威嚇し合っていた。


「触るなと言っているだろう、この脳筋肉野郎が! 法的措置をとるぞ!」

「あぁん!? 法的措置だぁ? 裁判所へ行く前にその気取ったツラ、ボコボコにしてやろうか、オッサン!」

「二人ともやめないか! 警察を呼ばれたらどうする! 俺の立場を考えろ!」


三人の男たちの怒声が重なり合い、空気の振動がビンビンと伝わってくる。

ソファの端で頭を抱え、ただ「やめて、やめて」と壊れたおもちゃのように繰り返す愛華の悲鳴は、男たちの狂乱にかき消されていた。


ベビーベッドの特等席に寝かされたまま、俺――前世の記憶と大人以上の知性を保持したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、冷徹な思考でこの絶妙な戦況を観察していた。


(フン……実に醜い。だが、まだ足りないな。この程度の罵り合いでは、一握りの理性が残ってしまう。互いに冷静さを失い、秘めたる本音や隠蔽してきた犯罪的自白を吐き散らかすほどの『決定的なカオス』が必要だ……)


男たちの心理状態は、すでに限界近くまで緊張が高まっている。

神条は己の法的主導権が揺らいだことで苛立ち、陣内は「父子確率0.0%」の衝撃と会社での失脚の恐怖で頭が破裂しそうになっており、陸斗は若い肉体と暴力性を武器にしながらも、エリート男二人に対する強いコンプレックスと焦燥感に駆られている。


彼らの神経は今、ピンと引きちぎれんばかりに張り詰めた糸のような状態だ。

この張り詰めた糸を断ち切り、場を完全な集団狂気へと叩き落とすための最高の触媒。


――それこそが、この無力な「赤ん坊の絶叫」だ。


大人の叫び声や罵声なら、男たちは「うるさい」「黙れ」と一蹴するか、最悪の場合は力で押しつぶすことができる。だが、甲高くて不快な周波数を持った赤ん坊の全力の泣き声は、どれほど理性を装った男であろうと、人間の脳の底にある不快感とストレスを直撃し、思考能力を麻痺させる。


(よし……やってやるか。俺の役者としての初舞台だ)


俺はまず、喉の奥を鳴らすように小さな「くぅ……くぅ……」という不快そうな呻き声を漏らし始めた。

そして、小さな両手を力任せにバタつかせ、足を大きく蹴り上げる。ベビーベッドの木枠が「ガタン!」と音を立てた。


男たちの視線が一瞬だけ、チラリとこちらをかすめる。だが、まだ足りない。


俺は横隔膜を限界まで押し上げ、肺臓の中に残っていた空気をすべて使い切る覚悟で、口を極限まで大きく開けた。


「あぁぁぁあああああ―――ッっ!!! ギャぁぁぁぁぁあああああッッ!!!!」


静まり返っていた部屋の空気を切り裂き、爆音のような絶叫がリビング全体へ突き刺さった。


ただの泣き声ではない。

前世で三十年近く生きてきた大人の知識をフル活用し、「人間がもっともストレスを感じる不快な音程(約3000ヘルツ前後の周波数)」を意識的に狙い撃ちした、完璧に計算された悲鳴だ。


「ギャオォォォォオオオン!! ギャぁぁぁぁぁぁああああッッ!!」


火がついたように泣き叫びながら、俺はわざと顔全体を真っ赤に沸騰させ、ボロボロと大粒の涙を流してみせた。小さな拳を振り回し、狂ったように全身を痙攣させる振りをする。


「っ!? な、なんだ急に! うるさいぞこのガキは!」

陣内が耳を押さえ、ビクッと肩を跳ね上がらせた。


「愛華! おい、なんとかしろ! 泣き止めさせろ!」

神条もまた、不快そうに顔を歪めて眼鏡のツルを指で押さえた。自慢の冷徹な知性が、この脳を揺さぶる高音のノイズによって乱されているのが手に取るように分かる。


「チッ……! くそっ、ただでさえイライラしてんのに、耳が腐りそうだぜ!」

陸斗に至っては、あからさまに怒りを剥き出しにし、ベビーベッドの方へと乱暴な足取りで一歩近づいてきた。


(いいぞ……効いている、確実に奴らの神経を逆撫でしている……!)


俺はさらにギアを上げた。

ただ泣くだけではない。泣き声の合間に「ヒック、ヒック」と呼吸を詰まらせ、まるで呼吸困難に陥って引きつけを起こしたかのように見せかけつつ、さらに甲高い高音の金切り声を叩きつける。


「ギャー―――ッ!! ギャー―――ッ!! ギャぁぁぁぁああああッ!!」


「愛華! 早く抱くんだ! この騒音を止めろ!」

陣内が怒号を飛ばす。


「無理よ……っ! 抱いたって泣き止まないわよ、いつもそうなのよぉッ!」

愛華が両手で耳を塞ぎながら頭を振る。彼女の精神もまた、俺の絶叫によってキャパシティを超えて破綻しかけていた。


赤ん坊の叫び声は、密室であるリビングの高級壁紙や天井のガラス照明に反射し、反響音となって男たちの鼓膜を容赦なく打ち据える。


「くそっ、おい! このガキ、俺たちの顔を見てわざとやってんのか!?」

陸斗が眉間に深い皺を刻み、苛立ちを爆発させた。

「おい愛華、このガキ、まさか病気なんじゃねえだろうな!? それともあんたが変なミルクでも飲ませてんのかよ!」


「失礼な言い方をするな、若いだけの愚か者が!」

神条が冷ややかな毒を吐くが、その声も心なしか荒くなっている。

「乳幼児の夜泣きや突発的な泣き叫びは生理現象だ。そんなことも知らずに愛護面した顔で出入りしていたのか? 呆れた無知だな!」


「んだと……!? オッサン、今なんつった! 知ったような口聞いてんじゃねえぞ!」

陸斗が神条の胸ぐらを掴み上げた。


「やめろ、二人とも! この混乱に乗じて話をうやむやにするつもりか!」

陣内がその間に割って入り、二人を力任せに押し分ける。

「神条! 貴様がさっき言った『不審死』とはどういう意味だ! 一真の死について、何か知っているのか! 警察に余計なことを吹き込んだのは貴様か!?」


「質問の意図が分かりかねますね、陣内さん」

神条は胸ぐらを脱ぎ捨てながら、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。

「不審死は不審死ですよ。彼が急死した際、解剖結果に不審な点があったこと、そして生命保険の受取人が急遽変更されていたこと……。それを調べ上げるのは弁護士として当然の権利です。むしろ、彼の死によって最も利益を得たのは、会社での損失を隠蔽しようとしていたあなたではないのですか!?」


「なっ……何だと!? 捏造するな! 俺は一真を評価していた! 死んで一番困ったのは俺なんだぞ!」


「嘘つけよ、オッサン!」

陸斗が嘲笑しながら叫ぶ。俺の泣き声にかき消されまいと、全員が叫び声のような大声で喋らざるを得なくなっているのだ。


「あんた、前に愛華に札束渡しながら『DNAの件は黙っとけ』って言ってたじゃねえか! 俺は聞いたんだよ! 自分の種じゃねえってバレるのが怖くて、金で口封じしようとしてただけだろ!」


「貴様……! なぜそれを……!?」

陣内の顔が蒼白になり、目が血走る。


「全部お見通しなんだよ! オッサンたち全員、この女にハメられて莫大な金をむしり取られようとしてるだけなんだよ!」


「ギャぁぁぁぁぁあああああ―――ッ!! ギャー―――ッ!!」


俺はさらにボリュームを上げ、全力の悲鳴を叩きつける。

男たちの怒号と、俺の絶叫、そして愛華の発狂したような泣き声が混ざり合い、リビングは正真正銘の混沌(カオス)と化した。


誰一人として冷静な思考ができなくなっている。

男たちは怒りと不快感、そして自暴自棄な感情に支配され、互いに隠してきた致命的な「カード」を、自分から暴露し始めていた。


神条は、遺産の山分けと法的な隠蔽工作のために動いていた証拠を言葉の端々で匂わせる。

陣内は、海外DNA鑑定での「不一致」と、会社組織の不正工作を擦り付けられる恐怖で自爆覚悟の暴言を吐く。

陸斗は、若さと力に任せて二人を脅迫し、金を得ようとする強欲さを全開にしている。


(くくく……いいぞ。素晴らしい旋律だ。お前たちの醜い本性が、俺の泣き声という指揮棒によって見事に奏でられている……!)


ベビーベッドの中で涙をボロボロと流しながら、俺の心の中の復讐者は、歓喜の笑みを浮かべていた。


この赤ん坊の絶叫は、単なるグズりでも生理現象でもない。

奴らの罪を暴き、互いの喉元を食い破らせるための、悪魔のファンファーレなのだ。


「うるさい! うるさい! うるさーいッ!!」

ついに陣内が叫びながら、近くにあった高級なガラス製花瓶を床に投げつけた。


ガシャンッ!!!


激しい破壊音が響き渡り、ガラスの破片が散らばる。

だが、そんな脅しなど俺には一切効かない。


「ギャぁぁぁぁぁああああッ!! ギャオォォォォオオオンッ!!」


俺は間髪入れずに、さらにけたたましい絶叫を炸裂させ、破滅の狂騒曲をどこまでも加速させていくのだった。

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