30 第6章:決着(疑惑のタワマン)
第5節:ラスト(引き)
夕闇が港区の街並みを重く塗りつぶし、タワーマンション最上階のリビングには、血の匂いすら混じりそうなほど不穏で濃密な沈黙が立ち込めていた。
床に伏して精神の限界を迎えていた愛華は、ソファの脇で小さく身を縮め、虚ろな目で壁の一点を見つめたままカタカタと震えている。昨夜、深夜2時に侵入してきた「第4の男」の影、そして自らの口から溢れ出た狂気の自白――そのすべてが彼女の理性を完全に破壊していた。
ベビーベッドの中で、俺――前世の記憶と頭脳を保持したまま転生した佐藤一真は、静かに呼吸を整えながら、部屋全体に張り巡らせた防衛線とセンサーの反応を感知していた。
(来る……。互いに疑心暗鬼を膨らませ、己の保身と欲望のために暴走を始めたハイエナどもが……!)
その予感は、唐突かつ最悪な形で現実となった。
――ガチャリ。
玄関のスマートロックが、荒々しい操作によって解除される音が響いた。
直後、重厚なドアが叩きつけられるように開き、ドカドカと不躾な足音が廊下を狂わんばかりの勢いで突き進んでくる。
「愛華……! おい愛華! 連絡を無視してどういうつもりだ! 神条の野郎と何を企んで――」
怒号を上げながらリビングになだれ込んできたのは、IT企業役員の陣内だった。高級スーツのネクタイは大きく歪み、かつてエリート役員として誇っていた冷徹な面影はどこにもない。そこにあるのは、海外DNA鑑定の「父子確率0.0%」という事実に打ちのめされ、会社での地位と資産を脅かされる恐怖に狂乱した一人の男の姿だった。
だが、陣内が愛華に詰め寄るよりも早く、玄関からさらなる足音が重なった。
「ハッ、やっぱりいたかよ、オッサン。愛華の部屋を自分の持ち物みたいに使いやがって」
あざけるような嘲笑とともに現れたのは、パーソナルトレーナーの陸斗だった。トレーニングウェアの上にレザーブルゾンを羽織ったその姿からは、いつもの人懐っこい仮面が完全に剥ぎ取られており、ギラギラとした野性の殺意と強欲さが剥き出しになっていた。
「なんだと……!? 貴様、どの面下げてここへ来た! 愛華を言葉巧みに騙し、保険金を横取りしようとしていた若造が!」
「横取り? 笑わせんなよ! お前こそ不妊治療の裏支援だかなんだかで愛華を囲い込んでただろ! 自分の種でもねえガキのために必死になっちゃって、格好悪いんだよ!」
陣内と陸斗――年の離れた二人の男が、リビングの中央で激しく胸ぐらを掴み合わんばかりに睨み合った。
だが、修羅場はそれだけでは終わらなかった。
「……フン、醜い醜聞の押し付け合いだな。恥を知りなさい」
冷ややかな声が、開いたままの玄関の方角から差し込まれた。
影の中からゆっくりと歩み出てきたのは、エリート弁護士の神条だった。手には上質なアタッシュケースを握り、眼鏡の奥の瞳には氷のような冷酷さが宿っている。「自分は種馬の代用品だ」と吐き捨てて去ったはずの彼が、法的な書類を携えて再びこの密室へと舞い戻ってきたのだ。
「神条……! 貴様まで……!」
「なにい、あの気取った弁護士のオッサンまで来やがったのかよ!」
一瞬にして、タワーマンションのリビングは狂気と欲望の坩堝と化した。
第一の男・弁護士の神条。
第二の男・IT役員の陣内。
第三の男・パーソナルトレーナーの陸斗。
かつて愛華を裏で抱き、前世の俺の死を喜び、莫大な遺産と生命保険金を狙っていた3人の候補男たちが、ついにこの狭いリビングで完璧に鉢合わせをしたのだ。
「神条! 貴様、俺の会社の機密データにまで探りを入れようとしたろう! 警察に売る気か!」
「言いがかりはやめていただきたい、陣内さん。私はただ、愛華さんがあなた方のような社会的な害悪に搾取されないよう、法的な手続を進めているだけです。……もっとも、この部屋にいる全員が、佐藤一真氏の不審死に関与した『共犯者』ですがね」
「おいおい、俺を巻き込むなよ! 俺は最初から避妊してたんだ! ガキの父親でもねえし、お前らオッサンどものドロドロした犯罪なんかに付き合う義理はねえ! 俺はただ、愛華から約束の金をもらいに来ただけだ!」
怒号、罵声、そして暴露。
互いの不貞と犯罪の匂いを察知した男たちは、自分だけが助かろうと相手の弱みを叩きつけ合い、見苦しい醜態を晒しながら相討ちの殴り合いへと突入しかけていた。
「やめて……! やめてよ……! みんな出て行って……っ!」
ソファの傍らで、愛華が頭を抱えて発狂したように叫んだ。だが、狂乱した3人の男たちの耳に、毒婦の悲鳴など届くはずもなかった。
ベビーベッドの中で、俺はその地獄絵図を冷ややかな瞳で見つめていた。
(醜いな……実に醜い。だが、お前たちがどれほど醜く争おうと、この密室の本当の主は、お前たちの誰でもない……)
まさにその時だった。
――ピンポーン……♪
静まり返った室内を切り裂くように、上品で無機質なインターホンのチャイム音が響き渡った。
狂乱していた3人の男たちの動作が、ピタリと止まった。
互いの服を掴み合ったまま、息を呑んで玄関の方角へと視線を向ける。
愛華がビクリと体を震わせ、血の気の引いた顔で玄関を見つめた。
「……郵便配達か? こんな時間に……」
陸斗が眉をひそめて呟いた。
インターホンのモニター画面には、配達員の姿は映っていなかった。ただ、玄関のドアポストに、滑り込むようにして一通の「重厚な漆黒の封筒」が差し込まれた音だけが聞こえた。
タッ、タッ……と不気味な足音が遠ざかっていく。
静まり返ったリビングで、神条が警戒しながら玄関へ向かい、落ちていたその漆黒の封筒を拾い上げて戻ってきた。
「なんだ……? 誰からの手紙だ?」陣内が荒い息を吐きながら問う。
封筒の表面には、宛名も差出人の名前も記されていない。ただ、封蝋のように押された赤いワックスの真ん中に、特徴的な「親指の付け根に一筋の傷を持つ、鷹の紋章」が刻印されていた。
神条が手袋をつけた指先で封筒を破り、中に収められていた一枚の上質な和紙を引き出した。
そこに書かれていた短い文章を、神条が読み上げようとした瞬間――彼の顔から、すっと血の気が引いた。
「な……なんだこれは……!?」
「おい、気取ってないで早く読めよ!」陸斗が苛立ったように叫ぶ。
神条は震える声で、そこに記された「真の実父(黒幕)」からのメッセージを音読した。
『――愚かな羊どもへ。
佐藤一真を葬り、愛華を抱き、我が子の周りで醜く踊る三匹の狼よ。
お前たちが奪い合おうとしている遺産も、生命保険金も、そして愛華の身体も、すべては最初から我が手の内にある。
お前たちが犯した罪の証拠、隠蔽の記録、そして不貞の証拠は、すでに完璧に整理され、しかるべき機関への送付準備を完了している。
三日後の深夜。指定する場所へ来い。
さもなくば、お前たち全員の社会的な死と、物理的な破滅を同時に執行する』
――手紙の最後には、血のような赤で、あの深夜に聞こえた冷酷な低音の囁きと同じ言葉が添えられていた。
『我が子に手を出す者は、何者であれ許さない』
「な……なんだと……! 誰だ……誰がこんなものを……ッ!?」
陣内の顔が土気色に変わった。
「嘘だろ……俺たちの行動が……全部筒抜けだったってのかよ……!?」
陸斗が後ずさりし、膝をガクガクと震わせた。
神条は手紙を握りしめたまま、絶望に満ちた目で絶句していた。
3人の候補男たちは、自分たちが最初から巨大な蜘蛛の巣にかかった哀れな羽虫に過ぎなかったことを、ついに思い知らされたのだ。
彼らが争っていた盤面そのものが、「第4の男――真の黒幕」によって仕組まれた完璧な罠だったのだと。
愛華は床に伏したまま、「あの方だ……あの方が私たちを殺しに来る……!」と声にならない悲鳴を上げて泣き叫んでいた。
修羅場の只中で、ベビーベッドの中に横たわる俺の小さな口元に、冷たく、恐ろしいほどの笑みが浮かび上がった。
(ついに動いたか……『第4の黒幕』よ)
3人のダミーの男たちを極限まで追い詰め、互いに食い合わせ、最後に自らの手で一網打尽にしようとする黒幕の冷徹なシナリオ。
だが、奴はまだ気づいていない。
その完璧な罠の渦中に、前世の記憶と怒りを滾らせ、要塞化されたベビーサークルの中から静かに牙を研ぐ「覚醒した赤ん坊」が存在していることを。
黒幕からの手紙によって、タワーマンションの密室劇は劇的なクライマックスを迎え、事態は一網打尽の「罠ハメ編(第2巻)」へと、狂気を孕んだままなだれ込んでいく。
(来い、真の敵よ。お前が仕掛けたその地獄の罠ごと……お前の喉元を噛みちぎってやる)
赤ん坊の小さな手が、固く、強く、復讐の決意とともに握りしめられたのだった。
【第1巻・完/第2巻「反撃・修羅場編」へ続く】




