29 第6章:決着(疑惑のタワマン)
第4節:3人の愛人たちの破滅の予兆
港区の高級タワーマンションの一室で、精神の堤防を完全に決壊させた愛華が床に倒れ込み、泥のような昏睡に落ちてから数時間が経過していた。
だが、この密室の外部――かつて愛華を巡り、それぞれの欲望と計算で蠢いていた男たちの世界でもまた、取り返しのつかない破滅の連鎖が始まろうとしていた。
第一の男・弁護士の神条。
第二の男・IT企業役員の陣内。
第三の男・パーソナルトレーナーの陸斗。
三人はそれぞれ、自分こそが愛華を完璧に掌握し、前世の俺・佐藤一真が遺した莫大な生命保険金と高級タワマンの資産をごっそり手に入れる「唯一の覇者」であると信じ込んでいた。彼らにとって、他の男たちは存在すら知らないか、あるいは精々「妻の気まぐれな行き摺りの相手」程度に高をくくっていたはずだった。
しかし、俺が張り巡らせた仕掛けと、彼ら自身の傲慢さによって引き起こされた綻びは、隠しきれない毒となって、男たちの間に致命的な疑心暗鬼を生み出し始めていた。
(神条は法的な隠蔽工作に失敗して身を引いたつもりでいるが、陣内や陸斗の動きに勘づいている。陣内はDNA鑑定の不一致に狂乱し、愛華を狙う『別の男』の影を必死に追っている。そして陸斗は、プロテインの事故と自身の『避妊していた』という暴露で開き直りながらも、残された資産の行方に執着している……!)
ベビーベッドの中で、俺は冷徹に状況を俯瞰していた。
男たちは、まだ気づいていない。
自分たちが手塩にかけて(つもりになって)囲い込んできた愛華という毒婦が、実は三人の誰の子供でもない「第4の男(真の実父)」の種を宿し、彼ら全員を都合の良い「ダミーの盾」として使い捨てていたという残酷な事実に。
そして何より――彼らは互いの存在と、互いが裏でコソコソと蠢いていた不審な行動の痕跡を察知し始めていた。
ことの発端は、神条が残していった法的な書類の控えと、陣内が残していった会社関係のデータ、そして陸斗が愛華のスマートフォンに送っていた下品で露骨なメッセージの通知だった。
「おい、愛華……! 電話に出ろ! あの弁護士(神条)は何なんだ!?」
静まり返ったリビングに、ガラステーブルの上に放置された愛華のスマートフォンから、激しい振動音とともに留守番電話のスピーカー音声が漏れ出した。
陣内からの着信だった。
声は酷く荒れ、エリート役員としての冷静さを完全に失っている。
「私に黙って海外の医療機関に照会をかけようとしたろ! 神条の野郎、俺の会社の機密データにまで探りを入れようとしていた形跡があるぞ……! あいつは一体何を知っている!? あのガキのDNAの件で、俺をハメようとしていたのか!?」
陣内は、神条が裏で動いていた痕跡を掴み、自分を陥れるための罠ではないかと激しい猜疑心を燃やしていたのだ。
陣内にとって、会社の地位や名誉は命の次に惜しい。もし自分の不倫や、死んだ部下の妻との不適切な関係、さらには不妊治療を口実にした買収工作が表に出れば、エリートとしての人生は一瞬で終わる。だからこそ、弁護士という法的な牙を持つ神条の存在が、喉元に突きつけられたナイフのように思えてならないのだ。
だが、留守番電話の怒号はそれだけでは終わらなかった。
陣内のメッセージが切れて数分後、今度は陸斗からのメッセージ通知が画面に連続してポップアップした。
『愛華さん、さっきタワマンの地下駐車場で、見慣れない高級セダンに乗ったオッサン(陣内)とすれ違ったんだけど。あいつ、なんでお前の部屋の鍵の番号知ってんだよ?』
『ていうか、あの弁護士のオッサンもだろ。お前、俺に「あなただけ」って言っておきながら、あのオッサンども全員とデキてたわけ?』
『ふざけんなよ。俺をダシにして保険金独り占めする気か? 冗談じゃねえぞ。俺にも分前を払ってもらうからな』
陸斗の文章には、彼自身の浅はかな強欲さと、年上のエリート男たちに対するコンプレックス混じりの激しい嫉妬と警戒心が露骨に表れていた。
陸斗は自分が一番若く、愛華の肉体を最も満足させているという自負があった。しかし、地下駐車場やマンションの共有部で陣内や神条の影を察知し、自分以外の男たちが愛華の資産と生命保険金に群がっている事実に気づいてしまったのだ。
(くくっ……いいぞ。互いに影を踏み合い、尾を掴み合い、勝手に恐怖と怒りを膨らませていく……!)
ベビーベッドの上で、俺は心の中で嘲笑を浮かべた。
疑心暗鬼というものは、一度芽生えればあっという間に猛毒の蔦となって思考を侵食する。
神条は「陣内と陸斗が裏で自分を警察に売るのではないか」と恐れ、陣内は「神条と陸斗が愛華と共謀して自分を脅迫しようとしているのではないか」と怯え、陸斗は「オッサンたちが暴力や権力で自分を排除して金を独り占めするのではないか」と焦っている。
彼らはもはや、愛華を愛してもいなければ、守ろうともしていない。
ただ「自分の保身」と「裏切られたことへの嫉妬」、そして「奪われるかもしれない金」への執着だけで、互いの存在を抹殺したいほどの敵意を燃やし始めているのだ。
「……あいつら、全員ぶっ潰してやる……」
かつて弁護士事務所のデスクで神条が吐き捨てたであろう呪詛。
「あの女も、あのガキも、あの若い男も、まとめて社会的に抹殺してやる」という陣内の冷酷な殺意。
「オッサンどもに横取りされてまるまる損なんてたまるかよ」という陸斗の暴力的な衝動。
三人の愛人たちは、互いの存在を認知したことで、完全に相討ちの(共倒れの)スパイラルへと足を踏み入れていた。
彼らは知らなかった。
自分たちがどれほど醜く争い、互いの足元をすくい合おうとも、その頭上には「第4の男(真の実父)」という絶対的な捕食者が君臨しており、自分たち三人は最初から disposable(使い捨て)のコマとして配置されていたに過ぎないということを。
そして、その争いの渦中にあるこのタワーマンションのベビーベッドには、彼ら全員の罪と偽りを冷徹に記録し、地獄の蓋を開けるための合図を待つ「小さな復讐者」が静かに横たわっているということを。
「……う……うう……」
床で昏睡していた愛華が、微かな呻き声を上げて身じろいだ。
だが、彼女が目を覚ました時には、もう遅い。
彼女を手玉に取っていたはずの三人の男たちは、互いへの疑念と殺意で自我を崩壊させ、互いを喰らい尽くす死闘(相討ち)へと向かって暴走を始めていた。
崩壊の予兆は、すでに決定的な現実となって、彼らの喉元へと迫っていたのだった。




