28 第6章:決着(疑惑のタワマン)
第3節:妻の涙と狂気
朝の光がリビングのワイドスパン窓から鋭く差し込み、室内を埋め尽くす異質な光景を容赦なく照らし出していた。
知育玩具を再配置した音響トラップ、物理的に補強されたベビーサークル、そしてクラウドへ直結された電子防衛線。無力な赤ん坊の肉体という枷を打ち破るべく、俺――前世の記憶と頭脳を宿したまま転生した佐藤一真が築き上げた「要塞」は、冷たい沈黙の中で完璧な作動状態を維持していた。
サークルの内側から、俺は冷徹な瞳で室内を見渡していた。
(これで、深夜に侵入してきたあの『真の実父(黒幕)』であろうと、正気を失いかけた愛華であろうと、不意打ちで俺の命を奪うことは不可能だ。……さあ、愛華。お前は次にどう動く?)
ソファの上で小さく丸まり、強烈な精神安定剤とアルコールの残泡の中で浅い眠りを貪っていた愛華が、急激に身体を跳ね上げさせた。
「ひっ……! やめて……! 触らないで……ッ!」
彼女はうわ言のような悲鳴を上げながら跳び起き、血の気の引いた顔で周囲を乱暴に見回した。
汗で額にへばりついた乱れ髪、落ちきっていない昨夜のメイク、そして目の下に刻まれた不気味なほど濃い黒ずんだ隈。かつて「港区の高級タワーマンションに住む洗練された美女」として前世の俺の隣に立っていた女の面影は、もはや微塵も残されていない。そこにあるのは、自らが招いた罪と恐怖の苛みによって、精神の堤防が完全に壊壊した一人の毒婦の破滅的な姿だけだった。
愛華はガタガタと全身を震わせながら、両手で自分の頭を抱え込んだ。
「神条さんも……陣内さんも……陸斗さんも……みんないなくなった……。私を捨てたのよ……私を利用するだけ利用して……っ!」
彼女の口から漏れ出るのは、自業自得の自滅に対する見苦しい被害妄想だった。
弁護士の神条は遺産の山分けを狙う法的ブレーンとして立ち回りながらも「自分は種馬の代用品だ」と捨て台詞を残して去り、IT役員の陣内はDNA不一致の真実に狂乱して逃げ出し、トレーナーの陸斗は「最初から避妊していた」と吐き捨てて去った。世間の目や警察の捜査、そして夫の目を眩ますための「3枚の不快な盾」は、全て自滅の形で剥ぎ取られていた。
だが、愛華を真に狂わせているのは、男たちに捨てられた絶望だけではない。
昨夜、深夜2時にインターホンも鳴らさずに合鍵で侵入してきた「あの男」――真の実父であり、前世の俺を毒殺させた真の黒幕の存在そのものだった。
「……あの方……あの方が、また来る……。あの方が私を逃がしてくれるはずがない……っ」
愛華はかすれた声で呟き、ゆらりと立ち上がった。
その目は焦点を失い、まるで取り憑かれたかのような異常な光を宿している。彼女はふらつく足取りで、リビングの隅――俺が構築した要塞化ベビーサークルへと向かってゆっくりと歩み寄ってきた。
(……来させるか。どんな行動に出ようと、この防衛線は破らせない)
俺は身体の筋肉を硬直させ、サークルの内側で身構えた。
しかし、愛華の行動は俺の予測を超えていた。
彼女はサークルの補強された木製ブロックやプラスチックの結合部に手をかけると、狂気じみた力でそれらをむしり取るようにして解体し始めたのだ。爪が割れ、血が滲むのも構わず、彼女は荒い息を吐きながらサークルの壁を抉り開けた。
「一真……! ううん、赤ちゃん……! どこにも行かないで……お願いだから……っ!」
「っ……!?」
愛華はサークルの隙間から両手を伸ばし、なかに寝かされていた俺の小さな身体を、壊れ物を扱うかのような、あるいは逃げ出す獲物を捕獲するかのような異常な力強さで抱き上げた。
ギシッ、と赤ん坊の肋骨が悲鳴を上げるほどの強固な抱擁。
愛華の全身から漂うのは、汗と安酒、そして冷や汗が混ざり合った生臭い恐怖の匂いだった。
「……離せ、この女……っ!」
俺は心の中で毒づき、赤ん坊なりの不機嫌な声を上げて身体を激しく捩らせた。だが、精神の均衡を失った人間の力は思いのほか強く、未熟な赤ん坊の筋力では振るい落とすことができない。
愛華は俺を抱きかかえたまま、フローリングの床の上に膝から崩れ落ちた。
そして、俺の小さな頭を自分の胸元に強く押し付けながら、激しい動悸とともにボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「ごめんね……っ! ごめんね、ごめんね……!!」
ポタリ、ポタリと、冷たい涙が俺の頬や首筋に落ちてくる。
その涙は、彼女がこれまでに見せたどんな作り笑いや芝居がかった嘘よりも生々しく、本物の感情に満ちあふれていた。
愛華は俺の背中をガタガタと震える手で撫でまわしながら、顔を歪めて叫ぶように泣き伏した。
「ごめんね……! でも、あなたを守るにはこれしかなかったの……! あの方の言う通りにするしかなかったのよ……っ!!」
(……何だと……!?)
耳を疑った。
俺の小さな耳に直接突き刺さったのは、単なる謝罪や言い訳ではなかった。
「あなたを守るにはこれしかなかったの」――その狂気に満ちた叫びの意味を、俺の頭脳は瞬時に分析し始めた。
(あなたを守る……? 誰をだ? 前世の俺・佐藤一真のことか? それとも、いま彼女の腕の中にいる『この赤ん坊』のことなのか……!?)
愛華は俺を抱きしめる腕の力を緩めようとせず、まるで絞殺するかのような強さで胸に抱き寄せ続けた。彼女の言動は完全に破綻していた。夫を毒殺し、資産と保険金を奪い、複数の男たちと不倫を重ねていた毒婦が、いまや自分の手で生み落とした(あるいは仕組まれた)赤ん坊に向かって、狂気の自白を垂れ流している。
「あの方は……あの方は逃がしてくれないの……! 一真が生きている間も、私たちがどうなっていたか……! あの方が『一真を消せ』って……『そうしなければ、お前もそのお腹の子も壊す』って言ったのよ……っ!」
激しい嗚咽とともに吐き出されたその言葉。
(――黒幕からの脅迫……! 毒殺の実行指令……!)
脳裏で、冷たい稲妻が走った。
やはりそうだ。愛華は単なる強欲な悪女として自主的に俺を殺しただけではなかった。
あの「第4の男」――昨夜、深夜2時に侵入し、「ふっ……やはり俺にそっくりだ」と冷笑した真の実父であり黒幕の手によって、最初から絶望的な逃げ場のない脅迫と支配のもとに置かれていたのだ。
黒幕は愛華を肉体的・精神的に完全に掌握し、前世の俺を毒殺させ、その罪の証拠を握ることで彼女を永久に自分の奴隷へと変えた。神条、陣内、陸斗といった3人の男たちは、万が一警察や周囲の捜査の手が及んだ際に、真っ先に疑われて潰されるための「身代わりの毒餌」として配置されていたに過ぎない。
「あはっ……あはははは! だからね、これでいいのよ……! お金も手に入ったわ、あの方の言った通りになったの……! でも、どうして……どうしてこんなに寒いのよ一真……っ! 私を置いていかないで……!」
涙を流しながら笑い、笑いながら俺の顔を覗き込み、再び悲鳴を上げながら抱きしめる。
愛華の精神は、すでに正常な思考を維持できる限界を超えて破綻していた。罪悪感と、黒幕への絶対的な恐怖、そして全てを失った現実の狭間で、彼女の心は粉々に砕け散っていたのだ。
胸に押し付けられた俺の顔に、彼女の温かい涙と冷たい汗がねっとりと絡みつく。
(……哀れだな、愛華)
俺は抱きしめられたまま、冷ややかな瞳で彼女の狂気を見つめていた。
同情など微塵もない。お前が黒幕に脅されていようと、恐怖に怯えていようと、前世の俺の命を奪い、俺の人生を壊した罪が消えるわけではないのだから。
だが、この女の崩壊と涙こそが、真の黒幕である「第4の男」の冷酷さと残忍さを証明する何よりの動かぬ証拠だった。
愛華はしばらくの間、俺を抱きしめたまま「ごめんね……ごめんね……」とうわ言のように呟き続け、やがて精神的な疲弊が限界に達したのか、そのまま俺を抱えた姿勢のまま、フローリングの床の上に崩れ落ちるようにして意識を失った。
重い静寂が、再びリビングを支配する。
愛華の腕の中から慎重に身体を引き抜き、俺は床の上に這い出た。
涙で濡れた顔を腕で拭い、息を整える。
「ごめんね……でもあなたを守るにはこれしかなかったの」
彼女が狂気の中で漏らしたその言葉は、真の敵がどこにいるかを完全に告げていた。
(愛華を破滅させ、俺を殺し、全てを嘲笑っている本当の悪魔……お前だけは、絶対に逃がさない)
赤ん坊の小さな体の中で、復讐の意志はより深く、より狂暴なまでの漆黒の炎となって燃え上がっていた。
人狼ゲームの偽りの駒たちは全て排除された。
壊れた妻の涙の果てに現れた「真の黒幕」との、本当の死闘が始まろうとしていた。




