27 第6章:決着(疑惑のタワマン)
第2節:赤ん坊の自己防衛
朝の冷たい光が、タワーマンション最上階のワイドスパン窓からリビングへと斜めに差し込んでいた。昨夜、深夜2時に合鍵で侵入してきた「真の実父(黒幕)」の残影と、愛華のスマートフォンに残された不気味な「非通知着信」の嵐。それらは、この豪華な密室がすでに安全な避難所などではなく、狂気と死の危険が背後から迫る殺戮の檻へと変貌したことを告げていた。
(喋れない……動けない……! この無力な赤ん坊の肉体という枷が、これほどまでに恐ろしいとは……!)
ベビーベッドの冷たいマットレスの上で、俺――前世の記憶とITエンジニアとしての高度な思考力を宿したまま赤ん坊へと転生した佐藤一真は、前世の記憶が生み出す高度な思考と、現実の未熟な身体との圧倒的な乖離に、激しい焦躁と恐怖を覚えていた。
昨夜現れた「第4の男」は、俺の顔を冷ややかに覗き込み、「ふっ……やはり俺にそっくりだ」と言い放った。
奴は前世の俺を毒殺へと追いやり、妻・愛華を裏で完全に支配し、神条・陣内・陸斗という3人の男たちを「捨てるための盾」として踊らせていた真の悪魔だ。
もし――あの男が、あるいは追い詰められて精神を病みかけた愛華が、俺という存在の異質さに気づいたらどうなる?
もし、この赤ん坊が前世の佐藤一真の意志を継ぎ、自分たちの完璧な犯罪を脅かす「毒芽」だと察知されたら?
首もろくに据わらず、自力で立ち上がることすらできない今の俺など、大人の男の一握りの力で簡単に首を折られ、あるいは枕一つで窒息させられて終わる。
無力であること。声を出して「助けてくれ」と叫ぶことすらできないこと。言葉を喋れず、四肢を自由に動かせないという事実は、真犯人の正体を掴みかけた俺にとって、あまりにも生々しい「命の危機」となって重くのしかかっていた。
(死ぬわけにはいかない……。前世の命を不当に奪われ、こんな小さな肉体に閉じ込められてまで生き延びたんだ。真の黒幕の正体を暴き、奴らを地獄へと引きずり下ろす前に、不覚にも殺されることだけは絶対に阻止しなければならない……!)
恐怖を冷徹な意志へと変換する。
今の俺にできる最善の策――それは、与えられたわずかな環境とツールをフル活用し、この無力な身体を守り抜くための「絶対防衛権(要塞化)」を構築することだった。
「……うう……頭が痛い……」
リビングの反対側では、愛華が頭を抱えながら、鬱ろな目でソファに深く沈み込んでいた。
3人の男たち全員に見捨てられ、精神の均衡を完全に喪失した彼女は、現在、強烈な精神安定剤とアルコールに頼り切りになっている。意識が朦朧とし、部屋の状況や赤ん坊の微細な変化に気を配る余裕など微塵もない。
(絶好のチャンスだ。愛華の意識が薬で混濁している今のうちに、俺の生存領域を固める……!)
俺は意を決し、数日前から密かに鍛え上げていた体幹と四肢の筋肉に力を込めた。
ベビーベッドの柵を慎重にすり抜け、静かにフローリングの床へと這い下りる。膝と手のひらに伝わるフローリングの硬質な冷たさ。俺は音を立てないよう息を押し殺しながら、高速のハイハイでリビングの中央へと進んだ。
ターゲットは、部屋の隅に追いやられていた「電子式の大型ベビーサークル」と、その周辺に転がっている「音の出る知育玩具」の数々だった。
(まずは、物理的なアプローチ領域の制限と、侵入者の早期検知の構築だ……!)
俺は知育玩具の構造を脳内で分解した。
愛華が買い与えた知育玩具の中には、高感度の感圧センサーや、振動を感知して賑やかな効果音や光を放つ電子パーツが組み込まれているものが多い。
俺は小さな指先を器用に使い、プラスチック製の知育メリーや、ボタン式ピアノマットの配線部、電池ボックスの接触面を力任せに(しかし正確に)微調整した。
ボタンの接触部分に、細かく引き千切った紙クズやビニールの切れ端を噛ませることで、ほんのわずかな振動や踏み込み――例えば、誰かが足音を殺して近付いてきた際のフローリングの微細な歪み――だけで、内部の回路がショートして大音量の警報音が鳴り響く「簡易型感圧トラップ」へと仕立て上げたのだ。
(よし……! これで、リビングの床を踏み越えてベッドやサークルへ近づこうとする者がいれば、不審者の足音と同時に、知育玩具の爆音が部屋中に響き渡る)
次に着手したのは、ベビーサークル自体の構造補強(物理的要塞化)だった。
通常、プラスチック製の折りたたみ式ベビーサークルは、赤ん坊が外に逃げ出さないための軽量な囲いに過ぎない。大人が本気で力を加えれば、簡単に押し倒されてしまう代物だ。
だが、そのジョイント部分のロック機構を、赤ん坊の小さな手足で内側から複雑に固定し、さらにサークルのパネルの隙間に、重量のある図鑑や知育絵本、重い木製積み木のアタッチメントを楔のように叩き込むことで、強度は跳ね上がる。
俺は体重をかけ、小さな手足をフルに活用して、サークルのプラスチックジョイント部に木製ブロックを強固に噛ませていった。
ギチ……ギチッ……。
赤ん坊の小さな指先から、微かな血が滲む。
爪が剥がれそうなほどの痛みが走るが、俺は歯を食いしばり、声を一切漏らさなかった。この痛みが、死の恐怖から己を守るための唯一の盾となるのだから。
さらに、サークルの周囲には、表面が滑りやすいプラスチック製のシートや、踏むとカシャカシャと大きな摩擦音を立てる梱包用のエアクッション(プチプチ)を敷き詰めた。
大人が暗闇の中で忍び寄ろうとすれば、足を滑らせるか、あるいは乾いた破裂音を室内中に響かせることになる。
(物理的障壁の強化、および音響トラップの設置完了……! これで、暗闇に乗じた不意打ちの殺害は防げる)
だが、それだけでは足りない。
電子制御の要塞化だ。
俺はサークルの内側に、愛華が放置していた古いタブレット端末と、スマートスピーカーの音声マイクの受音部をハイハイで引きずり込んだ。
前世で培ったシステム構築の知識を駆使し、赤ん坊の不規則な画面タップを装いながら、アクセシビリティ機能を悪用して「常時環境音モニタリングモード」を起動。
部屋の中のデシベル値(音圧)が一定を超えた場合、あるいはドアの開閉に伴う気圧・音波の変化を検知した場合に、自動的にクラウドへ音声データを暗号化送信しつつ、愛華のスマートフォンの緊急アラームを強制的に鳴らすロジックを完成させた。
喋れないなら、システムに喋らせればいい。
動けないなら、部屋そのものを俺の四肢に変えればいい。
(見たか……! これが、大人の頭脳を持つ赤ん坊の『自己防衛』だ……!)
作業を終える頃には、東の空から差し込む光がリビング全体を白く染め上げていた。
全身は汗と埃に塗れ、小さな手足は疲労と擦り傷で赤く腫れ上がっていた。しかし、サークルの内側に身を置いた俺の胸中にあったのは、絶対的な防衛線を自らの手で作り上げたという、冷たく研ぎ澄まされた達成感だった。
サークルの内側から見上げるリビングの景色は、先ほどまでの「殺戮の檻」ではなく、敵を返り討ちにするための「要塞」へと変貌を遂げていた。
「……ん……あれ? このおもちゃ、なんでこんなところに出てるの……?」
薬の効き目が切れかけた愛華が、目を擦りながらリビングへとフラフラ歩いてきた。
彼女は床に複雑に配置された知育玩具や、重強固に補強されたベビーサークルの異様な光景に一瞬不審そうな表情を浮かべたが、朦朧とした頭では深い疑問にまで至らず、「……まったく、散らかして……」と呟いて再びソファへと倒れ込んだ。
愛華のその鈍感さに、俺はサークルの奥底で冷ややかな笑みを浮かべた。
(気づくまい。お前たちが「無力な赤ん坊」と高をくくっているこの存在が、すでにこの部屋の支配権を奪い取り、自らの命を守るための鉄壁の要塞を築き上げたことになど……)
喋れない、動けないという恐怖は、もはや俺を縛る鎖ではない。
完璧な自己防衛の陣形を敷いた俺の瞳は、要塞の隙間から、次に来たるべき「真の黒幕」との最終決戦の時を、静かに、そして牙を研ぎ澄ませながら待ち構えていたのだった。




