26 第6章:決着(疑惑のタワマン)
第1節:黒い影の正体追跡
静寂を取り戻したタワーマンションの最上階。
夜の闇がいくぶん薄らぎ、窓の外の地平線が仄暗い紫紺から薄橙色へと静かに移り変わろうとしていた。
ベビーベッドの中で、俺――前世の記憶を完全に保持したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、一睡もすることなく、天井を見つめ続けていた。
未熟な赤ん坊の肉体は、度重なる精神的負荷と神経の酷使によって、限界に近い疲労を告げていた。だが、胸の中で荒れ狂う復讐の炎と、直前に突きつけられた衝撃的な真実が、俺の意識を氷のように鋭く覚醒させ続けていた。
(真の実父……前世の俺を毒殺へと追いやり、愛華を陰で完全に支配していた『第4の男』……!)
弁護士の神条は、遺産をかすめ取るための法的ブレーンに過ぎなかった。
IT企業役員の陣内は、会社組織の権力と不妊治療の裏支援で囲い込んでいたつもりだったが、海外の極秘DNA鑑定で「父子確率0.0%」という無慈悲な現実に叩きのめされ、狂乱の末に姿を消した。
パーソナルトレーナーの陸斗は、若さと肉体美で愛華を骨抜きにしつつ「あいつ(前世の夫)が消えてスッキリしたろ」と本性を現したが、プロテインの事故を機に「最初から避妊していた」と言い放って去っていった。
世間の目、警察の捜査、そして死んでいった前世の俺の目を欺くための「3枚の不快な盾」。
そのすべてが剥ぎ取られた暗闇の奥底から、ついに本物の「人狼」が姿を現したのだ。
「……ふっ……。やはり、俺にそっくりだ」
深夜2時、インターホンも鳴らさずに合鍵で侵入し、ベビーベッドの上で囁いたあの男の低く冷徹な声。
その言葉は、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。
(忘れるものか。あの一瞬の光景、あの男のすべての特徴を、この赤ん坊の小さな脳のシワ一つ一つに完璧に刻み込んでやる……!)
俺は記憶の再生装置を限界まで稼働させ、暗闇の中で捉えた男の肉体的な特徴を精査した。
一つ目は、声の低さとその質感だ。
低く、絹を擦り合わせるような独特の響き。耳触りは柔らかく魅惑的でありながら、その奥底には一切の情を排した絶対的な冷酷さが潜んでいる。前世でIT企業の過酷な現場を渡り歩いてきた俺の耳は、声帯の振動や話し方の細かな癖を記憶していた。
二つ目は、全身から漂う匂い。
神条や陣内のような分かりやすい高級ブランドの香水ではなく、上質な葉巻の残り香と、鋭く冷ややかなミントの香り。それは単なる身嗜みではなく、己の存在感を消しつつも相手に絶対的な支配感を植え付けるための、洗練された男の匂いだった。
そして三つ目――暗闇の中で俺の頬を撫で上げた際、月光の微かな反射によってハッキリと捉えた、決定的な身体的特徴。
(右手のアナトミカル・スナッフボックス……親指と人差し指の付け根の背側。そこに、斜めに走る一筋の鋭い『傷跡(古傷)』があった……!)
親指の付け根に刻まれた、長さ3センチほどの古傷。
刃物かガラスの破片によってできたと思われるその白い線状の痕跡は、男が俺の頬を触れた際、月光を浴びて一瞬だけ妖しく浮き上がっていたのだ。
(声の低さ、ミントと葉巻の匂い、そして右手親指の付け根にある特徴的な古傷……。十分だ。この3つの特徴さえあれば、お前がどれほど社会的な仮面を被っていようとも、必ず引きずり出してみせる)
夜が明けていく。
リビングのガラス窓から白々と明かりが差し込み、部屋の惨状を容赦なく照らし出し始めた。
ガチャリ、と寝室のドアが開き、髪を乱し、目の下に濃い隈を作った愛華が這うようにして姿を現した。
昨夜、3人の男たち全員に見捨てられ、精神の均衡を崩して泣き叫んでいた彼女の顔には、もはや「港区のタワマンに住む美しい未亡人」の面影は微塵もなかった。
「……うう……ひぐっ……」
愛華は乾いた唇を震わせ、力なくガラステーブルの前に座り込んだ。
彼女の視線は定まらず、絶望と恐怖の狭間で精神が完全に磨り減っているのが見て取れた。
しかし、俺の目的は彼女を哀れむことではない。
(今だ。愛華の意識が散漫になり、警戒心が最も薄れている今こそ、奴の『通信の痕跡』を掴む!)
俺はベビーベッドの中で小さく不機嫌な声を上げ、足足を激しくバタつかせた。
「うぇーっ! ぶふっ、あーっ!」
「……何よ、うるさいわね……! もう、私を放っておいてよ……!」
愛華はイライラとした様子で立ち上がり、フラフラとベビーベッドの方へ歩み寄ってきた。
彼女はテーブルの上に置いていた自分のスマートフォンを掴み、画面の明かりで時刻を確認しようとした。
その瞬間、俺はあらかじめ計算していた「赤ん坊の突発的な動き」を実行に移した。
両手を思い切り伸ばし、愛華が手に持っていたスマートフォンの端を、小さな指先でパシッと弾いたのだ。
「あっ……!」
愛華の手から滑り落ちたスマートフォンは、床のラグの上に落ち、奇跡的(というより計算通り)にロックが解除された状態で画面が上を向いて転がった。
「ちょっと、何するのよ……! 本当に手のかかるガキね……!」
愛華が屈み込んでスマートフォンを拾い上げようとするそのわずか数秒間。
ベビーベッドの隙間から乗り出した俺の鋭敏な視界は、液晶画面に表示されていた「着信履歴」の最新リストを、カメラのレンズのように完璧に捉え、脳内に記録した。
画面の一番上にずらりと並んでいたのは、名前でも電話番号でもない、異様な文字列だった。
――【 非通知着信 】(昨日 02:14)
――【 非通知着信 】(昨日 01:45)
――【 非通知着信 】(一昨日 23:50)
――【 非通知着信 】(3日前 03:10)
(……非通知着信の頻発……!)
俺の脳裏で、冷たい計算機が弾き出された。
昨夜の午前2時14分。まさに、あの黒い影が合鍵を使ってこのタワーマンションに侵入してくる直前の時間帯だ。
男は侵入する前に、非通知で短く着信を入れ、愛華が熟睡しているか、あるいは室内に他の男(神条や陣内や陸斗)が残っていないかを厳重に確認していたのだ。
さらに履歴を遡ると、数日前、あるいはそれ以前から、深夜の丑三つ時に決まって「非通知着信」が頻発していた。
愛華は画面に表示された「非通知着信」の文字を見た瞬間、ビクリと全身を硬直させ、まるで毒蛇に触れたかのような手つきで慌てて画面を消し、スマートフォンを胸元に抱え込んだ。
その表情に浮かんでいたのは、単なる不倫相手からの連絡を隠そうとする焦りではない。
自らを支配し、逆らうことの許されない「絶対的な存在」に対する、底知れぬ恐怖と服従の色だった。
(間違いない……。あの『非通知着信』の主こそが、昨夜ここに来たあの男……そして前世の俺を毒殺した真の黒幕だ)
愛華は青ざめた顔でスマートフォンを握りしめたまま、逃げるようにキッチンへと立ち去っていった。
誰もいなくなったリビングで、俺は静かに、しかし確かな手応えを感じていた。
深夜の男の手の古傷、低く冷徹な声、葉巻とミントの匂い、そして携帯履歴に残された大量の「非通知着信」。
点と点が結びつき、姿なき悪魔の輪郭が、少しずつ、しかし確実に鮮明になりつつあった。
(待っていろよ、黒幕。お前がどれほど非通知の闇に隠れ、他人を捨て駒にして高みの見物を決め込もうとも……この赤ん坊の瞳は、すでにお前の喉元を捉えている)
疑惑のタワーマンションを舞台にした人狼ゲームは、真の黒幕への追跡という新たな、そして最も凄惨な決戦の火蓋を切ろうとしていた。




