↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/89

23 第5章:開いた開梱(第4の存在)

第3節:前世の自分の日記


廊下の向こうから微かに響いていた愛華の足音が、寝室の重いドアの向こうへと吸い込まれるように消えていった。


書斎の暗がり、デスクの足元にぽっかりと開いた床下隠し保管庫(シークレット・セーフ)の縁に這いつくばったまま、俺――前世の記憶を持つ赤ん坊・佐藤一真は、頬の裏側に押し込んでいた小さな銀の鍵をそっと取り出した。


(ふう……危なかった。あのまま見つかっていれば、今の無力な赤ん坊の体では言い訳のしようもなかったな)


冷や汗に濡れた小さな手でアンティーク調の銀の鍵を握りしめ、俺は目の前にある重厚な黒い金属製の小型キャビネット(手提げ金庫)へと向き直った。

愛華が正気を失い、自分の世界が崩壊していくパニックに囚われていたからこそ、この隠し場所の存在に気づき、鍵を奪い取る隙が生まれたのだ。これは偶然ではない。運命が俺に与えた、最初の、そして最大の反撃のチャンスだった。


俺は鍵穴に震える指先を合わせ、慎重に差し込んだ。


――カチリ。


静まり返った書斎に、心地よい重みのある金属音が響いた。

ダイヤル番号に手を触れる必要すらなかった。物理キーだけでもロックが解除されるように設定されていたのだ。それだけ愛華にとっても、あるいはこの金庫を管理する「あの男」にとっても、ここは絶対に他人が立ち入らない聖域であり、同時に最も厳重に隠すべき秘密の隠れ家だったということだ。


俺は金属製の蓋に両手をかけ、全身の力を込めてそれを押し上げた。


ギィ……と油の切れた蝶番が重い音を立て、金庫の蓋がゆっくりと開き、内部の暗闇が剥き出しになった。


(中には何が入っている……? 巨額の裏金か、それとも愛華と黒幕を繋ぐ生々しい愛人契約書か、あるいは俺を毒殺した薬物の薬品リストか……!)


胸の高鳴りを抑え込みながら、俺は小さな手を金庫の内部へと差し入れた。

だが、そこに詰められていたものは、俺が予想していたような札束や冷徹な犯罪の証拠書類の束ではなかった。


そこに静かに眠っていたのは、一冊の古びた黒い革表紙のノートだった。


(……ノート……? 手帳……か?)


俺はそのノートをつまみ上げ、引き抜いた。

表紙には何も書かれていないが、その手触りと、わずかにめくれた紙の質感に見覚えがあった。

ページを一枚、慎重にめくる。


その瞬間に飛び込んできた文字を見た瞬間、俺の全身の血液が、一気に沸騰したかと思えば次の瞬間に凍り付くような、激しいめまいに襲われた。


そこに記されていたのは、見間違いようのない、紛れもない「俺自身の筆跡」だった。


(なっ……!? これは……俺の……! 前世の俺の文字……っ!?)


そこにあったのは、生前、仕事の合間や自宅の机で、誰にも見せずにこっそりと書き溜めていたはずの――「未公開の日記」だった。


前世の記憶が、強烈なフラッシュバックとなって脳裏を駆け巡る。

そうだ、俺は確かにこの黒いノートに、日々の仕事のプレッシャーや、家庭内の違和感を書き留めていた。しかし、ある時期からその日記は忽然と姿を消し、「どこかに落としたのだろう」「会社に置き忘れて処分されたのだろう」と思い込んでいたのだ。

それがなぜ、愛華の手によって、しかもこの秘密の地下保管庫の奥深くに厳重に鍵をかけて隠されていたのか。


震える小さな手で、俺はそのページを夢中でめくり始めた。

日付は、俺が過労と原因不明の体調不良に倒れ、息を引き取るほんの数週間前から、死の直前の数日間にまで及んでいた。


そこに記されていた内容は、死の淵を彷徨っていた当時の俺自身の、生々しい悲鳴と恐怖の記録だった。


――『令和〇年〇月〇日。最近、どうも体の調子がおかしい。会社での激務のせいだと思っていたが、自宅に戻って愛華が淹れてくれるハーブティーやスープを口にした後、決まって激しい倦怠感と目眩に襲われる。気のせいだと思いたいが、台所のシンクの引き出しの奥で、見慣れない白い粉末の小瓶を見つけた。あれは一体何なのだろうか』


――『令和〇年〇月〇日。愛華の様子がおかしい。俺が眠っている間、彼女は暗いリビングで誰かと長電話をしている。相手の声は聞こえないが、どこか恐る恐る、それでいて従属的な、怯えたようなトーンだった。俺が声をかけようとすると、彼女は急に電話を切り、冷たい作り笑いを浮かべて「何でもないよ」と言った。彼女の首筋や衣服から、俺の知らない男性用の香水の匂いがする。神条か、あるいは会社の誰かか……? いや、それ以上に、もっと近くにいる誰かの気配がする』


ページをめくる指が止まらない。

死に向かって衰弱していく当時の自分が、何を考え、何に怯え、そして誰を疑っていたのか。その感情が、文字を通して痛いほどに伝わってくる。


そして、日記の終盤――俺が命を落とす、まさにその数日前のページに、信じられない記述が残されていた。


――『俺は気づいてしまったかもしれない。愛華が俺を毒殺しようとしているのは、彼女単独の意志ではない。彼女を裏で操り、この家庭を、そして俺の人生の全てを乗っ取ろうとしている「ある人物」の存在に。その男は、表向きは俺たちの良き理解者であり、仕事のパートナーであり、何よりも――俺が心から信頼し、敬愛していた「あの男」だ』


その先で、文字は激しく乱れていた。

まるで、毒に侵された手が震え、ペンをまともに握れぬまま、それでも絞り出すようにして書き殴ったような筆跡だった。


――『信じたくなかった。だが、証拠は揃っている。あの夜、俺が眠らされている間に、書斎のドアの隙間から見えた影……間違いなく、あの男がこの家に侵入し、愛華と密談を交わしていた。あの男こそが、全ての元凶であり、俺の命を奪う真の黒幕だ。名前は――』


そこで、日記のページはプツリと途切れていた。

その先にあるはずのページは、何者かによって綺麗に、カッターナイフのような鋭利な刃物で根元から切り取られていたのだ。


「……っ……! くそっ……! なぜだ……! なぜ肝心の名前のページが切り取られているんだ……っ!」


書斎の暗がりの中で、俺は声を押し殺しながら、切り取られた断面を小さな手で激しく叩いた。

前世の自分が残した最後のメッセージ。自分が何に気づき、誰に殺されたのかを告げようとしたその決定的瞬間。その名前だけが、憎たらしいほど完璧に隠滅されていた。


だが、そこまで読んだだけで、俺の脳裏には雷鳴のような稲妻が走り、全てのピースが暴力的なまでの勢いで噛み合っていた。


(妻の奇妙な行動……そして、前世の自分が抱いていた『ある人物』への疑念……!)


そうだ。

愛華がなぜ、あれほどまでに完璧に犯罪を隠蔽できたのか。

なぜ、弁護士の神条や、IT役員の陣内といったエリートたちが、それぞれ巧妙に裏で動いていながらも、最終的には全員「代用品」や「ダミー」にすぎなかったのか。


それは、愛華を操り、俺を毒殺し、そしてあの3人の男たちを手玉に取っていた「真の黒幕(第4の男)」が、愛華の単なる不倫相手などではなく――前世の俺の人生そのものを踏みにじり、俺の全てを知り尽くしていた「最も近しい存在」だったからに他ならない。


(俺が心から信頼し、敬愛していた「あの男」……。俺の仕事も、生活も、人間関係も、全てを把握していた立場にいる人間……!)


脳裏に、数人の顔がフラッシュバックのように浮かび上がる。

前世の会社のさらに上層部にいた人物か。それとも、身内や、昔からの友人か。あるいは……俺が想像もしなかった、すぐ足元に潜んでいた毒蛇か。


切り取られたページ。その空白の向こう側に隠されているはずの「名前」を暴くための手がかりが、必ずこの家の中、あるいはこの日記のどこかに残されているはずだ。


俺は荒い息をつきながら、手に持っていた黒い革のノートをしっかりと胸に抱きしめた。


「……見つけてやる。お前が誰であろうと、どんなに隠れようと……前世の俺が残したこの日記の続きを、今度はこの赤ん坊の手で完成させてやるからな……!」


その時、寝室のほうから、愛華のうわ言のようなすすり泣く声が再び聞こえてきた。

タイムリミットが近づいている。


俺は地下保管庫から這い出し、引き出しを元の状態にそっと戻すと、鍵を握りしめたまま、素早く書斎の暗がりから姿を消した。


前世の自分自身が遺した未公開の日記。

そこに記された「妻の奇妙な行動」と「ある人物への疑念」は、泥沼の人狼ゲームを終焉へと導く、最も鋭利な刃と変わろうとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。