22 第5章:開いた開梱(第4の存在)
第2節:隠された地下保管庫(鍵付き引き出し)
「あの方はね……あの3人みたいな小者とは違うの……。私に本当の絶望と、本当の快楽を教えてくれた……決して誰にも知られてはいけない、本当の悪魔なのよ……」
狂気に満ちた歪んだ笑みを残し、愛華はフラフラとした足取りでリビングを去り、寝室へと消えていった。重いドアが閉まる音が響き、再び静まり返ったタワーマンションの一室。
ベビーベッドの中で、俺――前世の記憶と大人と同等以上の知能を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、荒い息を整えながら、天井の一点を凝視していた。
(神条、陣内、陸斗……3人の男全員が『種馬』ではなかった。あいつらは愛華に利用され、あるいは愛華を利用していただけのダミーに過ぎなかったのだ。そして今、愛華の口から吐き出された『第4の男』……『本当の悪魔』の存在……!)
胸の中で、殺意と探求心が冷酷な炎となって渦巻いていた。
存在すら知られていない真の黒幕。前世の俺を過労と毒殺の二重の網で謀殺し、愛華を裏から完全に手懐け、この不気味な赤ん坊の体を創り出した張本人。
そいつが誰なのかを突き止めない限り、俺の復讐は決して終わらない。
(だが、どこにある……? 奴の正体を示す手がかりはどこに隠されている!?)
愛華が正気を失いかけている今こそ、絶好の機会だった。
これまでは神条や陣内、陸斗といった男たちが入れ替わり立ち替わりこの家を訪れ、愛華も警戒を怠らなかった。だが、3人の男たち全員に見捨てられ、精神的に追い詰められた今の愛華は、自らを守るための「鎧」を完全に失っている。
俺は思考を研ぎ澄ませた。
愛華が今までに見せた不自然な仕草、視線の動き、そしてこの広いタワーマンションの構造。
前世の俺が生きている頃から、この家には立ち入りを制限されていた場所や、愛華が妙に神経質になっていたエリアが存在した。
リビングの奥、以前は俺の書斎兼書庫として使われていた部屋――現在は愛華が「亡き夫の遺品整理部屋」として鍵をかけがちにしているあの空間だ。
先ほど、陣内が持ってきた書類や、神条が持ち込んだ生命保険証券のコピーなどを愛華が慌ててかき集め、どこへ運んでいったか。
彼女は間違いなく、リビングから廊下を抜けた先にある「あの書斎」へと向かっていた。
(あの書斎の奥に、何かがある……!)
問題は、今の俺の身体能力だった。
生後数ヶ月の赤ん坊の肉体。立つことも、歩くこともできない。
しかし――俺はこの数週間、ベビーベッドの中で手足の筋力を密かに鍛え上げていた。夜な夜な、愛華が眠りについた後に手足を動かし、体幹を意識し、少しでも自由に動ける肉体を作り出そうとトレーニングを重ねていたのだ。
(いくぞ……今しか、チャンスはない!)
俺は意を決し、ベビーベッドの柵の隙間から体を滑り込ませた。
マットレスの端に手をつき、慎重に体重を移す。着地に失敗して大きな音を立てれば、寝室の愛華に気づかれて終わりだ。俺は全身の筋肉を緊張させ、静かに、まるで猫が降り立つようにフローリングの床へと着地した。
ずしり、と膝に衝撃が走るが、声を押し殺す。
床に這いつくばった俺の視界は、大人のそれとはまるで異なっていた。
見上げる天井は遙かに高く、フローリングの木目が巨大な模様となって眼前に広がる。冷たい床の感触が、手のひらと膝に直接伝わってくる。
(行け……! 前へ進むんだ……!)
俺は両手を交互に前に出し、膝を擦りつけながら、必死に「ハイハイ」を開始した。
大人の頭脳を持つ男が、赤ん坊の姿で床を這い回る。傍から見れば滑稽で惨めな光景かもしれない。だが、俺の胸中にあったのは恥じらいなどではない。獲物を追う肉食獣のような、冷たく研ぎ澄まされた執念だけだった。
リビングを抜け、長い廊下を進む。
フローリングの冷たさが衣服を通して皮膚に刺さるが、気にしている暇はない。
廊下の突き当たり、右手に位置する書斎のドア。
幸いなことに、動揺しきっていた愛華はドアノブの鍵をかけ忘れていた。ドアがわずかに数ミリ、隙間を開けて解錠されている。
俺は小さな手でドアの底部を押した。
ギィ……と微かな摩擦音を立てて、ドアが内側へと開く。
書斎の中は、重苦しい静寂と、古い紙と金属の匂いが立ち込めていた。
前世の俺が使っていた書斎デスク、壁一面の書棚、そして部屋の隅に追いやられたダンボール箱の山。
俺は低い視線(赤ん坊のアイレベル)を部屋の隅々に走らせた。
大人の目線では見落としがちな場所――デスクの脚の陰、書棚の最下段、そして備え付けのキャビネットの底面。
(どこだ……。隠された『何か』はどこにある……!?)
部屋の中央まで這い進み、書斎デスクの足元に辿り着いた時だった。
デスクの最下部の引き出し――通常なら重い書類やPC機器のパーツを入れるための深い引き出しの奥側に、不自然な「歪み」があることに気づいた。
引き出しの側面と、壁面の間に、わずかな隙間が存在する。
普通の大人なら、上から見下ろすだけなので絶対に気づかない位置だ。しかし、床に這いつくばっている今の俺の視線からは、その引き出しの「裏側」に、暗い空洞が存在しているのがハッキリと見えた。
(……二重構造……!? いや、地下(床下)へ繋がる隠し保管庫か……!)
俺は必死に手を伸ばし、デスクの最下段の引き出しを引っ張ろうとした。
だが、赤ん坊の筋力では、重い木製の引き出しはビクともしない。
(クソッ……! 力が……足りない……!)
歯を食いしばり、全身の体重をかけて引き出しの取っ手を引っ張る。
腕の筋肉が悲鳴を上げ、爪が剥がれそうなほどの激痛が走る。だが、俺は諦めなかった。前世の俺を殺し、俺の人生を奪った奴らへの怒りが、小さな身体に限界を超えた力を呼び覚ます。
ズ、ズズ……!
重い音を立てて、引き出しが少しずつ手前に滑り出してきた。
引き出しが完全に引っ張り出されたその奥――デスクの底板が切り抜かれ、フローリングの一部が取り外せるようになった「床下隠し保管庫」が、ぽっかりと黒い口を開けていた。
そこはまさに、表の金庫すらダミーにするための、愛華と「第4の男」が築き上げた隠された地下保管庫だった。
(あった……! ここだ……!)
俺は興奮で震える手を伸ばし、床下の暗闇を覗き込んだ。
そこには、重厚な金属製の「鍵付き小型キャビネット(手提げ金庫)」が鎮座していた。
頑丈なダイヤル錠と、物理キーの二重ロックが施された、禍々しいほどの存在感を放つ黒い箱。
「……っ!」
しかし、すぐに壁が立ちはだかった。
その金属箱には、ガッチリと物理的な鍵がかかっており、ダイヤル番号も不明だった。これを力ずくで開けることなど、大人の男でも工具がなければ不可能だ。
(鍵だ……! ダイヤル番号はともかく、この物理キーがどこかにあるはずだ……!)
俺は思考を加速させた。
愛華はこの隠し保管庫の存在を知っており、頻繁にここへ書類を出し入れしていた。ならば、その鍵を遠く離れた場所に隠すはずがない。緊急時にすぐ取り出せる場所、かつ彼女が常身につけているか、部屋の特定の場所に隠しているはずだ。
(愛華の行動パターンを思い出せ……!)
彼女がこの部屋に入ってきた時、あるいは出ていく時、必ず手を伸ばす場所。
先ほどリビングで泣き崩れる前、彼女が胸元を何度も気にしていた仕草。
俺はハイハイを駆使して、書斎の壁際に設置されたドレッサー(化粧台)の足元へと移動した。
ドレッサーの鏡の裏、あるいは引き出しの奥。
俺は小さな手を伸ばし、ドレッサーの最下段の隙間に指を滑り込ませた。
埃っぽい隙間の奥に、カチリと硬質な金属の感触があった。
指先に全神経を集中させ、それを手前に引っ張り出す。
手の中に転がり出てきたのは――見覚えのない、アンティーク調の繊細な彫刻が施された「小さな銀の鍵」だった。
(見つけた……! これが、隠された地下保管庫の鍵だ……!)
鍵を小さな手で固く握りしめた瞬間、廊下のほうから、ギシッ……と小さな足音が響いた。
愛華が、寝室から目を覚まし、リビングの方へ歩いてくる気配。
俺は息を呑み、即座に鍵を口の中に(誤飲しないよう頬の裏に)隠し、猛スピードで書斎の陰へと身を潜めた。
黒い金属箱と、一鍵。
ついに「第4の存在」へと繋がる最初の扉の鍵を、俺はこの小さな手で掴み取ったのだ。
泥沼の復讐劇は、真の黒幕の正体を暴くための、最終決戦の火蓋を切ろうとしていた。




