21 第5章:開いた開梱(第4の存在)
第1節:全否定のパニック
重厚なオートロックのドアが、無機質で冷たい金属音を立てて閉まりきった。
パーソナルトレーナー・陸斗の足音が遠ざかり、タワーマンションの最上階に位置する広いリビングルームには、再び刺すような静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は穏やかなものでは断じてない。全ての虚飾と欺瞞が引き剥がされ、暴露された毒だけが澱みのように充満する、惨劇の跡地のような重苦しさだった。
フローリングの床に両手をつき、突っ伏したまま動かない妻・愛華。
彼女は肩を激しく上下させ、声にならない掠れた悲鳴を上げながら泣き崩れていた。
「どうして……どうして誰も彼も、私を捨てていくのよ……っ! 金……!? 結局、私じゃなくて一真の残したお金だけが目当てだったの……!?」
愛華の口から漏れ出るのは、自業自得の果てに自滅した毒婦の、醜く悲痛な泣き言だった。
彼女は自分が周囲の男たちを巧みに手玉に取り、夫の生命保険金と資産を山分けしながら優雅な未亡人生活を手に入れる「女王」だと信じ込んでいた。だが、蓋を開けてみればどうだ。
第一の男、エリート弁護士の神条。
法律の網をかいくぐるブレーンとして接近し、遺産の山分けを企んだが、スマート家電のトラップで証拠を握られ、「俺は種馬の代用品に過ぎない」と冷笑を残して去った。
第二の男、IT企業役員の陣内。
前世の俺の上司であり、会社組織の権力と不妊治療の裏支援で愛華を支配下に置いていたが、海外の極秘DNA鑑定で「父子確率0.0%」の現実を突きつけられ、狂乱の絶叫を上げて逃げ出した。
そして第三の男、肉体派トレーナーの陸斗。
圧倒的な若さと肉体の魅力で愛華の精神を依存させ、裏で「あいつが消えてスッキリしたろ」と嘲笑いながら資産を狙っていたが、アレルギー誘発のトラップで本性を暴かれ、「最初から完璧に避妊していた」と自ら告白して去っていった。
――三者全員の否定。
怪しいと思われていた3人の男たち全員が、愛華と肉体関係を持ち、前世の俺の死に歓喜し、遺産を狙っていた「愛人」でありながら、誰一人としてこの赤ん坊の「実の父親(種馬)」ではなかったのだ。
(全否定……!? 3人とも、父親じゃなかっただと……!?)
ベビーベッドの特等席で、俺――前世の記憶を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真の脳内は、未だかつてないほどの激しい混乱と狂乱の渦に叩き込まれていた。
赤ん坊の小さな体の中で、心臓が爆発しそうなほどの勢いで跳ね上がる。
視界が血の赤に染まるような感覚。頭脳が焼き切れんばかりのフル回転を始め、必死に思考のパズルを繋ぎ合わせようとするが、組み立てていた前提そのものが根底から覆されたせいで、論理が悲鳴を上げて崩壊していく。
(じゃあ……俺は誰の種なんだ……!?)
胸の中で、声にならない絶叫が激しく木霊した。
神条でもない、陣内でもない、陸斗でもない。
前世の俺・佐藤一真の妻であった愛華が腹を痛めて生み落とし、今、大人の知能と前世の記憶を持ったまま覚醒しているこの肉体――色素の薄い、ハーフのような顔立ちをしたこの赤ん坊は、一体誰の遺伝子を継いでこの世に生まれてきたというんだ!?
(あり得ない……! 愛華の周囲にいた『容疑者』は、あの3人で全てだったはずだ! 密会を重ね、俺の病死を画策し、この家に頻繁に出入りしていた男たちは、あの3人以外に存在しなかったはずなんだ……!)
恐怖と困惑が、背筋を氷の爪で駆け上がっていく。
前世の記憶をを手繰り寄せる。
俺が過労とストイックすぎる仕事への没頭で体を壊し、徐々に衰弱していったあの数年間。愛華の行動、彼女が残した言葉、家の中に漂っていた見知らぬ男の気配、スマートフォンに届いていた不自然な通知。
その全てを精査しても、浮かんできたのは神条、陣内、陸斗の3人だけだった。
だが、遺伝子の現実は残酷だ。
陣内の極秘DNA鑑定データは紛れもない本物であり、「父子確率0.0%」の数字は嘘をつかない。陸斗の「避妊していた」という冷酷な証言も、彼の打算的な性格を考えれば動かぬ真実だろう。
(俺は……誰なんだ? 俺を殺し、俺の妻を抱き、俺をこんな惨めな赤ん坊の体に生まれ変わらせた『本当の父親』は、一体どこに隠れているんだ……ッ!?)
最大のパニックが、俺の精神を泥沼の奥底へと引きずり込んでいく。
無力な赤ん坊の肉体という枷。
大人の知能を持っているからこそ、この「全否定」という異常事態の恐怖が、鋭利な刃となって俺の心を切り刻んだ。自分の存在理由そのものが、巨大な漆黒のミステリーの渦中に放り投げられたのだ。
その時だった。
床に伏して号泣していた愛華が、不意に泣き声をピタリと止めた。
「……ひっ、……ふぐっ、……あはっ……」
リビングに響いたのは、泣き声ではなく、乾いた、壊れたような狂気の嘲笑だった。
愛華は震える手で床を押し、フラフラとした覚束ない足取りで立ち上がった。
彼女の髪は乱れ、メイクは涙でドロドロに崩れ、かつて「港区の高級タワーマンションに住む完璧な美女」だった面影はどこにもない。そこにあるのは、全てを失い、正気を失いかけた一人の毒婦の破滅的な姿だけだった。
愛華は血走った瞳で、ゆらりと首を動かし、ベビーベッドの中にいる俺へと視線を向けた。
その瞳を見た瞬間、俺の全身の皮膚が粟立った。
今までの愛華が俺に向けていた視線――「不気味な赤ん坊」「邪魔な存在」「夫の死の遺物」といった感情とは、明らかに違うものがそこにはあった。
それは、底知れぬ「恐怖」と、決して誰にも触れさせてはならない「忌まわしい秘密」を直視した時の、狂気的な眼差しだった。
愛華はフラフラと足を引きずるようにして、ベビーベッドの傍らへと歩み寄ってきた。
「……あはは。みんな、消えちゃった……。神条さんも、陣内さんも、陸斗さんも……みーんな、私を置いて逃げていっちゃった……」
愛華の声は掠れ、乾いた風のようにカサついていた。
彼女はベビーベッドの柵にガタガタと震える手をかけ、中に寝かされている俺の顔を、至近距離からのぞき込んだ。
「ねえ……一真。ううん、一真の生まれ変わりみたいな、この不気味な赤ちゃん……。あいつらはみんな、自分の子どもじゃないって怒って出て行っちゃったわ……」
愛華の顔が、ニタリと歪んだ。
「でもね……当然なのよ。当たり前じゃない……。あのオッサンたちや、若いだけの男に、あなたの『本当の父親』が誰かなんて、わかるはずがないのよ……」
「……っ!?」
俺は息を呑んだ。
赤ん坊の小さな体が、恐怖と衝撃で硬直する。
愛華は、知っていたのだ。
神条でも、陣内でも、陸斗でもない。
あの3人の男たちが自らを「種馬」だと信じ込み、あるいは代用品として利用されている間、愛華自身は「本当の父親」が誰であるかを、最初から完全に理解していたのだ。
愛華は顔を極限まで俺に近づけ、その冷たい吐息が俺の頬をかすめた。
彼女の瞳の奥には、底知れぬ闇と、決して表に出してはならない「第4の男」の影が、はっきりと揺らめいていた。
「……あの方はね、あの3人みたいな小者とは違うの。私に本当の絶望と、本当の快楽を教えてくれた……決して誰にも知られてはいけない、本当の悪魔なのよ……」
愛華の口から漏れ出たのは、愛人たちへの未練でもなく、夫への免罪符でもない。
彼女が心の奥底、聖域のような暗闇にひた隠しにし続けてきた、第4の男への絶対的な畏怖と服従の言葉だった。
(第4の男……! 3人の影に隠れ、表舞台に一度も姿を現さず、愛華を裏から完全に支配していた『真の黒幕』が存在する……ッ!)
脳裏で、衝撃の雷鳴が轟いた。
神条は遺産を強奪するための法律の盾。
陣内は会社と情報を押さえるための不妊治療と権力の盾。
陸斗は若さと肉体で寂しさを埋めるための悦楽の盾。
愛華は3人の男たちを「盾」として配置し、世間の目、警察の目、そして死んでいった夫(前世の俺)の目を欺くためのダミーとして使い捨てていたのだ。
そして、その3枚の重厚な偽りの盾のさらに奥深く、誰も辿り着けない暗闇の玉座に、その「第4の存在」は静かに鎮座していたのだ。
「ふふふ……あはははは! 誰も知らない……警察も、あの男たちも、誰もあの方の存在には気づけないわ……! 一真、あなたを殺させたのも……あなたをこんな体に変えたのも……全てはあの方の計画通りなのよ……!」
狂気の手で顔を覆いながら、愛華は高らかに笑い声を上げた。
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の中で狂乱していたパニックの炎は、一瞬にして凍りつくような冷徹な殺意へと昇華した。
(そうか……。そうだったのか……!)
全てが繋がった。
なぜ、俺の病死がこれほどまでに完璧に偽装されたのか。なぜ、3人の男たちがそれぞれ異なる思惑で動きながらも、全員が「自分が騙されていた」ことに気づかなかったのか。
全ては、その「第4の男」が裏で糸を引いていたからなのだ。
(姿を現せ……『第4の黒幕』……!)
俺はベビーベッドの中で、血が出るほど強く小さな拳を握りしめた。
3人の父親候補が全員否定され、人狼ゲームの盤面は一度完全にリセットされた。だが、それは絶望の終わりではない。本当の「人狼」――俺の全てを奪い去った真犯人の喉元へ、この赤ん坊の姿をした復讐者が牙を立てるための、本当の狩りの始まりだったのだ。




