20 第4章:候補3・パーソナルトレーナー(肉体派イケメン)
第5節:三者全員の「否定」
港区の高級タワーマンションの一室。
リビングルームの空気は、先ほどまで漂っていた甘美で危険なフェロモンの匂いを完全に失い、冷え切ったガラスのように鋭く張り詰めていた。
ベビーベッドの特等席からその光景を見つめる俺――前世の記憶を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、冷徹なまでの冷静さを保ちながら、目の前で繰り広げられる人間劇の結末を見据えていた。
陸斗が持ち込んだプロテインシェイカーの不注意による液漏れ、そして子どもの安全すら顧みない彼の雑さと冷酷な物言い。その小さなトラブルをきっかけにして、愛華の心に巣食っていた「若い肉体への盲目的な依存」という名のヴェールが、音を立てて引き剥がされていた。
「……あなた、今なんて言ったの?」
愛華は震える声で、目の前に立つ若いトレーナーを見据えた。
その瞳に宿っていたのは、もはや恋人に向けられるような甘い光ではない。すべてを裏切られ、利用されていたことに気づいた女の、底知れぬ失望と怒りだった。
「だから、大騒ぎするなって言ってるんだよ、愛華さん。たかがプロテインがこぼれたくらいで、そんな青い顔してさ。……まったく、最近の女はこれだからめんどくさいんだよな」
陸斗はソファに深く腰掛けたまま、不機嫌そうに舌打ちをし、スニーカーを履いたままの足をガラステーブルの端に投げ出した。かつて愛華が「私のすべてを支えてくれる優しい癒やし」だと信じ込んでいた男の態度は、今やただの無神経で不遜な居候のそれだった。
「めんどくさい……? 私があなたにどれだけ尽くして、どれだけの時間と金を――」
「金? はっ、笑わせるなよ」
陸斗は冷ややかな笑みを浮かべ、愛華の言葉を遮った。その瞳には、若い男特有の残忍なまでの冷酷さが光っていた。
「お前が俺に貢いだり、いい思いをさせてくれたのは事実だろ? だがな、勘違いするなよ、愛華さん。俺がここまでお前に付き合ってやったのは、あくまでお前が持っている『あの旦那の遺産』と『莫大な生命保険金』に旨味があったからにすぎないんだからさ」
――ガツン、と頭を殴られたような衝撃が、愛華の全身を貫いた。
「なっ……! あなたも……神条や陣内と同じだったっていうの……? 私のことを、ただの金づるだと……!」
「当たり前だろ。あんな冴えないオッサンどもと一緒にすんなよ。俺はもっとスマートに、お前のその保険金をごっそりいただいて、若い連中と海外で遊ぶつもりだったのさ。……まあ、こんなヒステリックを起こす女だとは知らなかったがな」
陸斗は完全に本性を剥き出しにし、愛華の顔に泥を塗りつけるかのように冷酷な言葉を次々と浴びせた。
愛華はショックのあまり膝から崩れ落ち、フローリングの床に両手をついた。
弁護士である神条は法的ブレーンとして裏切り、IT役員の陣内はDNA不一致に絶狂して去り、そして最後に残ったはずの若いトレーナー・陸斗までが、最初から自分の遺産だけを狙った詐欺師だったという現実。
彼女が築き上げてきた「男たちを自分の手玉に取っている」という完璧な女王の幻想は、この瞬間、完全に音を立てて崩壊した。
だが、陸斗の口から飛び出した言葉は、それだけでは終わらなかった。
愛華の絶望をさらに深め、そしてベビーベッドの上で静観していた俺の脳裏を激しい電撃で貫く、決定的な「告白」がその後に続いたのだ。
「……まあ、いいさ。どうせ、このガキの面倒を最後まで押し付けられるのはごめんだしな。俺がこの家に通っていたのは、お前の肉体を抱くためと、保険金が下りるまでの暇つぶしだ。……だいたいだな、愛華さん」
陸斗は冷笑を浮かべ、ベビーベッドのほうへとちらりと視線を投げた。
「お前、まさか本気で……俺がこのガキの父親だとでも思っていたわけ?」
その言葉に、崩れ落ちていた愛華がビクリと顔を上げた。
「え……?」
「驚いた顔してんな。教えてやるよ。俺はな、お前と肌を重ねるときは、最初から最後まで避妊を完璧に徹底していたんだよ。俺の遺伝子がこの世のどこかに残るようなヘマは、一度たりとも犯しちゃいない」
陸斗は勝ち誇ったように鼻で笑い、トドメの一撃を叩きつけた。
「――だから、俺は種馬じゃない。このガキの父親は、俺なんかとは絶対にあり得ないのさ」
――陸斗もまた「自分は種馬ではない(避妊していた)」と告白。
その瞬間、リビングルームの空気が、凍り付いたように完全に静まり返った。
愛華は息を呑み、血の気の引いた顔で陸斗を見つめた。
「そ、そんな……嘘よ……! あなたはいつも、私と……!」
「嘘じゃねえよ。自分の身は自分で守る、それが俺のやり方だ。……じゃあな、愛華さん。夢から覚めた現実を一人でしっかり味わうんだな」
陸斗はソファから立ち上がり、自分の荷物を雑にバッグに詰め込むと、振り返ることもなく玄関へと歩き出した。そして、重厚なドアを盛大に音を立てて閉め、このタワーマンションから二度と戻らないかのように姿を消した。
ガチャリ、と遠ざかるオートロックの鍵の音。
静まり返ったリビングで、愛華は一人、床に突っ伏したまま声なき絶叫を上げて泣き崩れていた。
ベビーベッドの中から、俺はその姿を冷徹に、そしてどこか圧倒的な虚無感を抱きながら見下ろしていた。
頭の中で、これまでのすべてのデータが恐ろしいほどの精度で整理されていく。
第1の男・弁護士の神条。
――「俺は種馬の代用品に過ぎない」と告げて去った。彼は遺産強奪の法的ブレーンであり、父親ではない。
第2の男・IT企業役員の陣内。
――海外の極秘DNA鑑定により「父子確率0.0%(不一致)」が判明し、狂乱の末に去った。彼もまた、不妊に悩む愛華に医療支援を行って囲い込みながらも、父親ではなかった。
そして、第3の男・パーソナルトレーナーの陸斗。
――「自分は避妊していたから種馬ではない」と自ら告白し、金目当ての搾取目的だけで去っていった。
――3人の怪しい男全員が「愛人」ではあるが、「実の父親ではない」という異常事態へ。
(なんだこれは……! 神条も、陣内も、陸斗も――愛華と肌を重ね、このタワマンに出入りし、俺の死を企てたあの3人の男たち全員が、誰一人としてこの赤ん坊の『実の父親』ではなかったというのか……ッ!?)
背筋に、これまでにないほどの激しい悪寒が走った。
もし、あの3人の中に「父親」がいないのだとしたら。
いま、このベビーベッドの中で、前世の記憶を宿し、異様なまでの知能と復讐心を燃え上がらせているこの肉体――「佐藤一真の生まれ変わりである赤ん坊」の種を宿した真の男は、いったいどこにいるのだ?
愛華がひた隠しにし、この港区のタワーマンションの裏側、あるいはもっと深い闇の底に潜んでいるはずの、「第4の存在」。
かつて前世の俺を病死に見せかけて謀殺し、このすべての泥沼の人狼ゲームを裏で糸を引いて操っている、真の黒幕。
(まだいる……。俺たちの知らなかった、本当の化け物が、もう一人、どこかに確実に存在する……!)
愛華は床に這いつくばったまま、「どうして……どうして誰も私を本当の意味で愛してくれないのよ……!」と狂ったように泣き叫んでいた。その姿は自業自得の極みであり、憐れむ価値すらない。
だが、俺の心にあるのは同情などではない。
3人の候補男全員が「否定」されたというこの異常な事実こそが、真の黒幕を炙り出すための最大の証拠だった。
(震えて待てよ、すべての元凶よ。弁護士も、上司も、トレーナーも消えた。ここから先は、俺と――お前との、タイマンの勝負だ)
赤ん坊の小さな小さな拳が、怒りと決意の炎を纏い、ベビーベッドのマットをしっかりと掴み締めた。




