19 第4章:候補3・パーソナルトレーナー(肉体派イケメン)
第4節:アレルギー反応の誘発
ベビーモニターのネットワークを巧妙にハッキングし、パーソナルトレーナー・陸斗が愛華を口説き落としながら「あいつ(前世の夫)が消えてスッキリしたろ」と吐き捨てた決定的な自白の瞬間を、完璧な音声データとしてクラウドストレージへと刻み込んでから数日。
タワーマンションのリビングルームに漂う空気は、もはやかつての優雅な生活の面影を完全に失い、互いに疑心暗鬼と打算の毒を塗りたくった危険な密室と化していた。弁護士の神条は法的な隠蔽工作の失敗とともに去り、IT企業役員の陣内はDNA不一致の絶望と狂乱の末に姿を消した。そして残された最後の男――肉体派トレーナーの陸斗は、その圧倒的な若さと野性的な暴力性を武器に、愛華のすべてを奪い取ろうと虎視眈々と牙を研いでいた。
ベビーベッドの特等席からその動向を見据えていた俺――前世の記憶を宿したまま赤ん坊として転生した佐藤一真は、静かに次の罠の仕掛けを練っていた。
(神条、陣内……そしてこの陸斗。奴らはそれぞれ異なる武器で愛華を籠絡し、前世の俺の遺産と保険金を狙ってきた。だが、連中は互いに連携しているわけではない。むしろ、互いの存在に怯え、疑い、いつ足元をすくい合うか分からない泥沼の消耗戦に突入している。……ならば、最後の一人である陸斗に対しても、その底の浅い傲慢さと雑な本性を暴き出し、愛華との間に決定的な亀裂を走らせてやろう)
そのチャンスは、陸斗自身の油断と、あまりにも粗雑な性格によって、驚くほど自然な形で訪れた。
その日、陸斗は「今日もみっちりボディメイクのケアをしてあげるよ」という名目で、またもやこのタワーマンションにやってきていた。タイトなトレーニングウェアに身を包み、鍛え上げられた筋肉のラインを誇示するようにリビングのソファに腰掛ける陸斗の手には、いつも愛用している特製の金属製プロテインシェイカーが握られていた。
「いやあ、今日も外は暑いな。……おい愛華さん、ちょっと冷たい水もらえないか? シェイカーに混ぜるからさ」
陸斗はソファに深く腰掛けたまま、キッチンで作業をしている愛華に気だるげな声をかけた。
愛華は「ちょっと待ってね、今用意するから」と優しく微笑みながら、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出し、陸斗の元へと持っていった。
その際、陸斗は無造作に、そのプロテインシェイカーをリビングのガラステーブル――それも、赤ん坊である俺が寝かされているベビーベッドのすぐ間近の端に、ポンと乱暴に置いた。
(……ほう。あれは、ジムでよく使われている高タンパクのウエイトゲイン用プロテインか。しかも、ボトルのラベルには、香ばしい風味を出すための『ピーナッツバター風味・ナッツ成分含有』という文字がハッキリと印刷されている)
前世の記憶とアレルギーに関する知識が、俺の脳裏で素早く結びついた。
ピーナッツをはじめとするナッツ系の成分は、乳幼児にとって極めて強力で危険なアレルゲンとなり得る。もし微量であっても赤ん坊の口に入ったり、あるいはデリケートな肌に触れたりすれば、アナフィラキシーショックを引き起こしかねない猛毒にもなり得る代物だ。
それを、よりによって赤ん坊の眠るベビーベッドのすぐ脇に、蓋も完全に閉めきっていない状態で無造作に放置する。
――これが、この男の言う「産後ケア」であり、子供に対する認識の甘さと雑さの証明だった。
(いいだろう、陸斗。お前のその雑な油断と冷酷さを、そのままお前の首を絞めるブーメランに変えてやろう)
俺は赤ん坊の小さな体をわずかに動かし、ベビーベッドの柵に引っかかっていた小さなタオルケットの端を、手足の反射運動を装いながら巧妙に手元に引き寄せた。
そして、愛華がキッチンから戻ってくるまでのわずかな隙を狙い、全身の力を指先に集中させた。
ふんっ、と気合を入れるわけにもいかないが、赤ん坊ならではの不規則なキックと腕のバタつきを利用し、ベビーベッドの端から絶妙な軌道でタオルケットの端を伸ばした。それが、ガラステーブルの端に置かれていた陸斗のプロテインシェイカーの底へと、カチリと接触した。
――コテン。
乾いた軽い音を立てて、金属製のシェイカーがテーブルの上で傾いた。
完全に閉まっていなかったスクリューキャップの隙間から、ドロリとした茶褐色の液体――ピーナッツバター成分が濃厚に混ざり合ったプロテインが、少量だけテーブルの上、そしてベビーベッドのマットの縁へとこぼれ落ちた。
「あっ……!」
キッチンから戻ってきた愛華が、その光景を目撃して思わず声を上げた。
こぼれ落ちたプロテインからは、濃厚で香ばしい、しかし乳幼児にとっては不気味なほどのピーナッツ特有の甘い匂いがふわりと立ち込めた。しかも、その液体の一滴が、俺の寝かされているマットのすぐ脇を濡らしている。
「ちょっと、陸斗さん……! 何やってるのよ!」
愛華は慌ててウェットティッシュを掴み取り、駆け寄ってきた。
しかし、当の陸斗は、冷や汗を拭うどころか、面倒くさそうに片眉をひそめ、鼻でフンと笑ってみせただけだった。
「ん? ああ、なんだ、シェイカーが倒れたのか。……まったく、おっちょこちょいだな、愛華さん。ちゃんと言ってくれれば俺が自分で――」
「私のせいじゃないわよ! あなたがこんなところに無造作に置くから……! 第一、これ、ピーナッツ成分が入ったプロテインじゃない!」
愛華の声のトーンが、わずかに怒りと困惑の色を帯びた。
彼女は自分の子供――たとえその父親が誰であれ、目の前で無防備に寝かされている赤ん坊の安全を脅かすような行為に対して、母親としての本能的な危機感を刺激されたのだ。
「ピーナッツ? 別にいいだろ、そんなの。たかがプロテインが少しこぼれたぐらいで大騒ぎするなよ」
陸斗はソファに深くふんぞりかえったまま、足の爪先をポリポリとかきながら、冷ややかな、投げやりな口調で言い放った。
「大騒ぎって……! もしこの子がアレルギー反応でも起こしたらどうするのよ!? あなた、昨日だって『赤ん坊なんて勝手に育つさ』なんて言ってたけれど、少しは気をつけなさいよ!」
愛華の顔に、明らかな不信感の影が差し始めた。
これまでの陸斗の態度は、若さと肉体美に満ちた「頼もしい癒やし」として彼女の目に映っていた。しかし、こうして実際に子供の命や安全に関わるトラブルが起きた時、この男がどれほど無責任で、どれほど他人の痛みに無頓着であるかという「雑さと冷酷さ」が、あまりにも剥き出しの形で露呈したのだ。
「はあ? ガキなんて多少のバイ菌やアレルギーに耐えながら育つもんだろ。過保護すぎるんだよ、愛華さん。……そんなことより、早くそのベタベタしたの拭いてくれよ。俺のトレーニングウェアにつきそうだろ」
陸斗のその言葉は、決定的なトドメだった。
愛華の手が、ピタリと止まった。
彼女は驚愕と失望の入り混じった目で、ソファにふんぞりかえっている陸斗の顔を見つめた。
(――気づいたか、愛華。お前がすがりつこうとした最後の男も、結局は自分のことしか考えていない、中身の空っぽな野獣にすぎないということに)
ベビーベッドの中で、俺は汚れたマットの端を見つめながら、冷酷な笑みを心の中で浮かべた。
陸斗が持ち込んだプロテインシェイカーの成分(ピーナッツ等)を利用し、彼の不注意を完璧に演出し、視覚的にも心理的にもその粗雑さを叩き込む作戦は大成功だった。
愛華は陸斗のその雑さと冷酷さに、深い不信感を抱き始めた。
信頼関係の糸は、音を立てて完全にプツリと切れた。
弁護士も、上司も、そしてトレーナーも――すべての候補男たちが、自らの醜態と罪によって自滅していく。




