第9話 幼馴染という鎖を断ち切って
第9話 幼馴染という鎖を断ち切って
ミレイユの裁判が終わってから一月後、王都には初雪が降った。ローデンベルク伯爵邸の庭では、葉を落とした木々の枝に白い雪が積もり、厨房の煙突から上がる煙が低い空へ溶けている。朝食の卓には根菜のスープ、焼いた腸詰め肉、蜂蜜を塗った丸パンが並び、エレナは寝間着の上へ厚い毛織物の上着を羽織って座っていた。窓辺には昨夜洗った靴下が三足干されていたが、暖炉から遠いため、まだ爪先の辺りが湿っていた。
「エレナ、今日は何か予定があるのかね」
父は新聞を広げたまま、娘が朝から何度も窓を見ていることに気づいて尋ねた。新聞にはラングレー家の領地返還について大きく載っていたが、父は記事を読みながら腸詰め肉の皿へ手を伸ばし、何度も空の場所をつかんでいる。母が黙って皿を近くへ動かすと、父は最初からそこにあったような顔で肉を取った。エレナはスープの中の蕪を匙で半分に割り、午後にリュカが訪ねてくる予定だと答えた。
「何の用で来るのかな。騎士団の報告なら、玄関で受け取ればよいだろう」
「お父様、リュカ様は娘を散歩へ誘いにいらっしゃるのです」
母が教えると、父は新聞を畳み、雪の日に森へ行くのは危険だと言い始めた。馬車がぬかるみにはまる、凍った枝が落ちる、冬眠できなかった熊が出るかもしれないと、思いつくものを順番に並べる。エレナが行き先は侯爵領の入口にある森で、騎士団の護衛も近くにいると説明しても、今度は冷たいものを食べて腹を壊す心配をした。
「あなたも若い頃、雪の日に私を湖まで連れ出したでしょう。しかも毛布を忘れて、二人で震えながら帰ったではありませんか」
母が言うと、父はあの日は雪が降ると思わなかったのだと反論した。帰り道で馬が動かなくなり、近くの農家から借りた荷車へ二人で乗せてもらったことまで思い出し、耳を赤くする。エレナはその話を初めて聞き、父へ詳しく尋ねたかったが、母は昔のことだからと話を切り上げた。父は蜂蜜を塗りすぎた丸パンをかじりながら、せめて厚い外套を着るよう娘へ念を押した。
昼前になると、侍女のクララが外出用の衣装を寝台へ並べた。エレナは濃い緑色の毛織物のドレスを選び、その上へ狐毛の襟がついた灰色の外套を重ねた。足元には滑りにくい茶色の編み上げ靴を履き、母から借りた青い手袋をはめる。髪は風に乱れないよう一つにまとめたが、クララが髪留めの針を一本床へ落とし、二人で寝台の下を探すことになった。
「お嬢様、こちらにございません。飼い猫が持っていったのでしょうか」
クララは床へ頬がつくほど身をかがめ、寝台の奥をのぞいた。そこには髪留めではなく、片方だけの靴下、乾いて硬くなったパンの欠片、猫が隠したらしい毛糸玉が転がっていた。エレナは昨日から見つからなかった靴下を拾い、クララへ渡した。結局、髪留めはクララ自身の前掛けのポケットに入っており、見つけた本人は何も言わずにエレナの髪へ差した。
玄関の呼び鈴が鳴り、リュカが老執事のベルトランとともに現れた。彼は黒いズボンに濃紺の上着を合わせ、雪のついた長い外套を肩へ掛けている。左腕の傷はすでに塞がり、医師から剣の訓練へ戻る許可も下りていた。手には大きな革の鞄を持っていたが、中身を尋ねても昼食だとしか答えなかった。
「森へ行くのに、ずいぶん大きな荷物だな」
父が鞄を持ち上げようとすると、リュカは素早く自分の後ろへ隠した。中には二人分の昼食のほか、老執事が念のために入れた毛布、湯たんぽ、予備の靴下、小さな鍋まで入っている。さらにリュカが自分で用意した品もあったが、それだけは誰にも見られたくなかった。父が鞄の中を確認しようと一歩近づくと、ベルトランが間へ入った。
「伯爵様、ご心配には及びません。坊ちゃまが道に迷って一週間帰れなくなっても生きられるだけの食料を入れてあります」
「数時間で戻る予定だ。なぜ一週間分も必要なんだ」
リュカが問い返すと、ベルトランは幼い頃、森で木の実を拾うことに夢中になって夕方まで戻らなかった前例があると答えた。エレナもその日のことを覚えており、二人は捜しに来た大人たちから一時間ずつ説教された。リュカの母は途中で声を枯らし、最後には厨房から持ってきた梨を食べながら叱っていた。父はその話を聞くと、森の入口で日が暮れる前に必ず帰るよう、改めて約束させた。
二人を乗せた馬車は、雪の残る街道をゆっくり進んだ。車内には毛布と革の匂いがこもり、窓の外では農家の子供たちが木製の橇を引いている。エレナは獣人の感覚に慣れてきたものの、馬の汗や車輪が削る土の匂いまで分かることに、今でも時折戸惑っていた。リュカのそばにいると、外から流れ込む匂いの中に雨に濡れた森と焚き火の気配が混ざり、呼吸が自然に整った。
「耳や鼻の具合はどうだ。眠れるようになったか」
リュカが尋ねると、エレナは夜中に台所で鼠がパンをかじる音まで聞こえて困ったと答えた。翌朝、料理人へ伝えたところ、鼠ではなく父が夜食を探していたことが分かった。父は固くなったパンをスープへ入れて食べようとし、鍋を落としかけたらしい。リュカは声を上げて笑い、エレナも父には黙っていてほしいと言いながら口元を緩めた。
「俺は、君と共鳴してから朝まで眠れるようになった。頭痛も一度もない」
リュカは窓枠へ片腕を置き、遠ざかる王都を見た。以前は夜中に何度も目を覚まし、窓を開けて冷たい空気を吸わなければ胸の渇きを抑えられなかった。眠れないまま騎士団へ出勤し、昼食へ手をつけられない日も多かった。今は目覚ましの鐘に気づかず、ベルトランから寝台の毛布を剥がされる朝が増えている。
「老執事から、起こしても起きないと苦情が来ています。今朝、父へ手紙が届きました」
「なぜ君の父上へ報告するんだ」
「生活態度に問題があるため、将来の家族へ知らせておく必要があるそうです」
エレナが答えると、リュカは額へ手を当てた。ベルトランが自分の知らないところで婚姻準備を進めていることに気づき、帰ったら話をしなければならないと思う。しかし、エレナが「将来の家族」という言葉を否定せず口にしたことが胸へ残り、執事を強く叱る気にもなれなかった。リュカは外套の内側へ隠した小箱があることを確かめ、何度も指先で形をなぞった。
馬車は侯爵領の入口で止まり、二人は雪の積もった森へ入った。護衛の騎士二人は少し離れた場所を歩き、姿は見えるが会話は聞こえない距離を保っている。樫や楢の枝から雪が落ちるたびに、白い粉が外套の肩へ散った。林床には枯れ葉が厚く積もり、踏むと湿った音がして、土と朽ちた木の匂いが立ち上った。
「この道を覚えているか」
リュカは細い小道を指し、エレナの歩幅に合わせて進んだ。幼い頃は三人で走り回り、木の根へ足を取られて何度も転んだ道である。ミレイユは泥がつくとすぐに泣き、リュカは自分のハンカチを渡し、エレナは靴へ入った小石を取り除いた。あの頃の三人には、番も婚姻も侯爵家同士の利害も関係なく、日が暮れるまで遊べるかどうかだけが大切だった。
「覚えています。あの岩のところで、あなたが蜂の巣を棒でつついたのです」
「つついたのはミレイユだ。俺は止めようとした」
「棒を渡したのはリュカ様でした。三人で池へ飛び込んで、ずぶ濡れになったでしょう」
エレナが指摘すると、リュカは蜂の巣があると知らなかったと弁解した。池から上がったあと、三人の服を木の枝へ干し、下着姿で震えながら待ったことも思い出す。干していたリュカの靴下を烏が片方だけ持ち去り、帰宅後、母親から下着で帰ってきた理由より靴下をなくしたことを先に叱られた。エレナはその話を聞いて笑い、足元の木の根をまたいだ。
やがて二人は、森の奥に立つ大きな樫の木へたどり着いた。太い幹には子供の頃につけた傷がいくつも残り、低い枝には古びた縄の切れ端が巻きついている。三人で板を吊るして揺り椅子を作ろうとしたものの、結び方が悪く、乗ったリュカがすぐに落ちた縄だった。木の根元だけは枝葉に守られて雪が少なく、乾いた枯れ葉が茶色く広がっていた。
「ここで昼食にしよう。腹が減っているだろう」
リュカは革の鞄を下ろし、ベルトランが入れた厚い毛布を枯れ葉の上へ敷いた。鞄から鳥肉と根菜を挟んだパン、蜂蜜入りの焼き菓子、温かい豆のスープが入った金属容器を取り出す。予備の靴下と小鍋の下からは、小さな塩入れや折り畳んだ布巾まで出てきた。最後に湯たんぽを見つけたリュカは、これは必要だったのかと首を傾げた。
「手を温めるのに使いましょう。青い手袋をしていても、指先が冷たくなってきました」
エレナは湯たんぽを膝へ載せ、パンを一つ受け取った。鳥肉には芥子と蜂蜜が塗られ、根菜には塩が少し多く振られている。リュカは自分で作ったと言ったが、パンの形はそろい、肉の厚さも均等だった。エレナが本当に一人で作ったのか尋ねると、彼は料理人が横で指示し、肉を切り、パンを焼き、味つけをしたと白状した。
「それでは、リュカ様がしたのは何ですか」
「パンに肉を挟んだ。それと、容器の蓋を閉めた」
「十分に大切なお仕事ですね」
エレナが真面目な顔で答えると、リュカはからかわれていることに気づき、パンを大きくかじった。豆のスープには刻んだ燻製肉と人参が入り、湯気から胡椒の匂いが立ち上る。リュカは人参を残さず食べたが、エレナが見ていることに気づくと、最初から好きだったような顔をした。二人は焼き菓子を半分ずつ食べ、鳥の鳴き声と遠くで雪が枝から落ちる音を聞いた。
昼食を片づけると、リュカは樫の幹へ背を預けた。エレナも少し離れた場所へ座り、青い手袋についたパン屑を払う。二人の間には話さなければならないことがいくつもあったが、どこから始めればよいか分からなかった。リュカはしばらく樫の傷を眺めたあと、革の鞄から古い木箱を取り出した。
「君に見せたいものがある」
箱の表面は何度も拭かれ、角が丸くなっていた。金具を開けると、中には毛糸の手袋、白いハンカチ、小さな木彫りの狼、色の褪せた青いリボンが入っている。手袋は左右の大きさが違い、片方の親指はほかの指と同じほど長かった。ハンカチには洗っても消えなかった緑色の薬草の染みが残っていた。
「これは、私が十一歳のときに編んだ手袋ではありませんか」
エレナは手袋を持ち上げ、歪んだ編み目を確かめた。リュカが冬の訓練で手を傷めたと聞き、家庭教師に隠れて編んだものだった。完成したときには春になっており、渡した翌日から一度も使っている姿を見なかった。そのため、気に入らず捨てられたのだと思っていた。
「親指が長すぎて、剣を握ると先が余った。訓練には使えなかったが、遠征には毎回持っていった」
リュカは手袋の片方を取り、自分の手へはめた。成長した今では手首まで入らず、長すぎた親指だけがちょうどよく見える。エレナは笑いながらも、編み目を指で何度も撫でた。木箱に移った乾いた薬草の匂いと、古い毛糸の埃っぽさが鼻へ届いた。
「このハンカチは、訓練で膝を擦りむいた日に君が巻いてくれたものだ。洗ったら返すつもりだったが、そのまま持っていた」
「私の名前が刺繍されています。返すものだとは分かっていたのですね」
「返す理由を作れなかった。君に会う理由なら、ほかにもいくらでもあったのにな」
リュカはハンカチを箱へ戻し、木彫りの狼を取り出した。エレナが十三歳の誕生日に渡したもので、狼というより耳の長い犬に見える。父の木彫り道具を借りて作り、指を二度切ったことまで覚えていた。リュカは執務机の引き出しへ入れ、頭痛で眠れない夜に取り出して眺めていたという。
「ずっと君に惹かれていた。それを認めれば、三人で過ごした幼い日々を壊してしまうと思っていた」
リュカは木箱を膝へ置き、樫の根元に残る三人分の傷を見た。ミレイユを妹のように思い、彼女が怒ればなだめるのが自分の役目だと考えていた。エレナへの思いを認めれば、三人で築いてきた関係が崩れ、誰かが一人になると思い込んでいた。だが黙り続けた結果、昔の関係を守るどころか、ミレイユの要求を受け入れる習慣へ縛られていた。
「幼馴染という言葉を、断れない理由にしていた。俺がもっと早く境界を示していれば、ミレイユの行動を止められたかもしれない」
「すべてをリュカ様の責任にはできません。ミレイユが薬を使い、嘘を広めることを選んだのは、彼女自身です」
エレナは答え、自分もまた三人の関係を壊さないことを理由に黙っていたと話した。リュカが遠征へ出る前夜には、何度も窓から侯爵邸の方角を見ていた。帰還予定の日を帳面へ書き、雨で一日遅れれば食事の味が分からなくなった。それでも帰還の知らせを聞いた夜だけは、寝台へ入ると朝まで一度も目を覚まさなかった。
「なぜ、教えてくれなかったんだ。俺は遠征から戻るたび、君へ土産を渡す理由を考えていた」
「いつもご家族全員へのお土産でした。私だけへいただいたら、意味を考えてしまいます」
「君だけに選んだものを、家族全員への土産と言って渡していた」
リュカは、エレナの好きな青い硝子細工、薬草の本、香りの薄い石鹸を選びながら、父や母の分まで急いで買い足していたと白状した。エレナの父へ渡した派手な黄色の靴下も、その場で慌てて選んだ品だった。父は気に入って今でも冬になると履いているが、片方だけ縮み、左右で長さが違っている。エレナはその黄色い靴下を見るたびに、なぜリュカが選んだのか不思議だった。
「私も、運命を口実にあなたを縛るのが怖かったのです」
エレナは青い手袋を外し、掌を膝へ置いた。リュカの魂の匂いを感じるたび、もしかすると自分が番かもしれないと思っていた。しかし、そのことを告げて拒まれれば、幼馴染としてそばにいることさえできなくなる。彼の意思を尊重したいという考えと、自分が傷つかないための沈黙が混ざり、どちらが本当なのか分からなくなっていた。
「これからは、勝手に相手の答えを決めずに尋ねよう。嫌なことは嫌だと言い、分からないことは分からないと言う」
リュカは、自分も守るという言葉でエレナの意思を置き去りにしないと約束した。エレナも、彼の負担になると決めつけて一人で抱え込まないと答える。番の共鳴があっても、言葉にしなければ考えのすべてが分かるわけではない。むしろ運命があるからこそ、相手を分かったつもりにならず、何度でも確かめる必要があった。
「三人で過ごした時間を消すことはできません。でも、あの頃の形へ戻る必要もありませんね」
エレナは樫の幹へ残った三つの傷を見ながら言った。幼馴染だった記憶は、正しかったことも間違っていたことも含めて残り続ける。ミレイユとの関係を断つことは、幼い日々をすべて嘘にすることではない。ただし、過去に楽しく遊んだという理由で、今も同じ役割を引き受け続ける必要はなかった。
「俺たちは、これから新しい関係を作れるだろうか」
リュカが尋ねると、エレナは作れるかではなく、二人で作るのだと答えた。リュカは一度目を伏せ、外套の内側へ手を入れる。馬車の中から何度も形を確かめていた小箱を取り出し、雪のついていない毛布の上へ片膝をついた。エレナはようやく革の鞄が大きかった本当の理由に気づき、外していた青い手袋を握った。
「エレナ・ローデンベルク。番の本能でも、神具の命令でもなく、俺自身の意思で君を妻に望む」
リュカは小箱を開き、銀色の指輪を見せた。中央には淡い金色の石がはめられ、その両側に狼と樫の葉が細かく刻まれている。指輪の内側には、二人が初めて本物の共鳴を起こした日付が刻まれていた。宝石は大きすぎず、薬草を扱うときにも邪魔にならない形を、彼が何度も職人と相談して選んだものだった。
「よい日だけでなく、意見が合わない日も、病気の日も、朝食を食べ損ねた日も、君と話し合いながら生きていきたい。俺と結婚してくれるだろうか」
エレナはすぐに指輪へ手を伸ばさず、片膝をついたリュカの顔を見た。彼は神具の判定を受けたときよりも身体を硬くし、返事を待っている。番なら断られないと決めつけず、彼女が自分で答えるための時間を残していた。エレナは青い手袋を毛布へ置き、素手の右手を差し出した。
「はい。私自身の意思で、あなたと結婚したいです」
リュカは息を吐き、指輪をエレナの薬指へ通した。大きさはぴったりで、金色の石が雪明かりを受けて淡く輝く。二人の指が触れると、小さな黄金の光が掌の間に生まれた。大神殿を満たしたときのような大きな光ではなく、毛布と昼食の包みを照らすほどの穏やかなものだった。
「口づけてもよいだろうか」
リュカが尋ねると、エレナは周囲を見た。護衛の騎士二人は十分離れているはずだったが、一人は木の陰からこちらを見ており、目が合うと慌てて反対を向いた。もう一人は見ていないふりをしながら、耳だけを二人のほうへ向けている。エレナは頬へ雪の冷たさとは違う熱を感じ、リュカへ小さく頷いた。
リュカは立ち上がり、エレナの頬へ右手を添えた。雨に濡れた森と焚き火の魂の匂いが近づき、エレナは目を閉じる。唇が触れた時間は短かったが、二人の魔力が穏やかに重なり、樫の枝から雪がひとかたまり落ちた。雪はリュカの外套の襟から背中へ入り、彼は珍しく大きな声を上げた。
「冷たい。待ってくれ、背中に入った」
リュカが外套を振ると、エレナは口元を押さえたものの、やがて声を立てて笑った。護衛の騎士たちも木の陰で肩を震わせている。先ほどまでの整った求婚の雰囲気は消え、リュカは背中へ手を入れて雪を取り出すことに必死だった。エレナは毛布に置いた布巾を渡し、外套の襟元を拭いた。
「求婚の直後に雪で騒ぐとは、誰にも話さないでくれ」
「父と母には、森で何をしていたか聞かれると思います」
「指輪の話だけで十分だ。雪のことは必要ない」
二人は昼食の容器と毛布を鞄へ戻し、帰り支度を始めた。湯たんぽの湯はすでにぬるくなり、余った予備の靴下は一度も使わなかった。リュカは鞄の蓋を閉めながら、老執事が何を聞いても雪の件は黙っていてほしいと護衛へ頼んだ。騎士たちは承知したと答えたが、笑いをこらえた顔から、騎士団へ戻ればすぐに広まることが分かった。
帰り道、二人は樫の木を振り返った。幹には三人で過ごした幼い日の傷が残り、その下には今日二人で座った毛布の跡がついている。過去の傷を削って消すことはせず、その隣へ新しい時間を重ねていけばよい。エレナは指輪の金色の石を親指で確かめ、リュカの差し出した手を自分から握った。
馬車へ戻ると、座席にはベルトランが持たせた予備の焼き菓子が残っていた。仔狼の形だったが、揺れで耳が片方折れ、包み紙の中へ落ちている。エレナは耳の欠けたほうを自分で取り、もう一つをリュカへ渡した。二人は温かい飲み物もないまま固い菓子をかじり、どちらの仔狼が上手に焼けているかという、婚約とは何の関係もない話をしながら家路についた。




