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第8話 剥がれ落ちた栄光

第8話 剥がれ落ちた栄光


番判定の儀から十二日後、王都中央裁判所の大法廷には、朝早くから傍聴人が詰めかけていた。石造りの建物には夜の冷気が残り、濡れた外套や革靴、暖炉で燃える石炭の匂いが混じっている。入口の露店では、焼いた腸詰め肉を挟んだ黒パンと温かい林檎茶が売られ、裁判を見るために並んだ人々が朝食代わりに買っていた。傍聴人の一人が黒パンから腸詰め肉を落とし、拾おうとして隣の婦人のスカートへ頭をぶつけたため、法廷が開く前から小さな言い争いが起きていた。


エレナは両親とともに、被害関係者の席へ座っていた。濃い茶色のドレスには母が前夜までかかって縫った白い襟がつき、膝には薄い灰色の外套を畳んでいる。獣人の感覚が目覚めたばかりの彼女には、傍聴人の香水や食べ物の匂いが強すぎたため、薄荷を染み込ませた布を鼻元へ当てていた。母は何度も娘の顔をのぞき込み、つらくなったら途中で退席してよいと小声で繰り返した。


「大丈夫です。今日は最後まで聞いておきたいのです」


エレナは答え、隣に座ったリュカへ目を向けた。彼は騎士団の濃紺の礼装を着ており、裂かれた左腕の傷はまだ完全には塞がっていない。医師から腕を吊る必要はないと言われたものの、長時間動かすことは禁止されていた。ところが今朝も無意識に剣帯へ手を伸ばし、アルフレッドから裁判所に剣は持ち込めないと取り上げられていた。


「剣がないと、腰の左側が軽すぎる」


リュカが小声で言うと、エレナの父は、自分も帽子を預けると頭の上が落ち着かないと応じた。父は裁判所へ入る際、愛用の焦げ茶色の帽子を預かり所へ渡してから、何度も髪を撫でている。母は二人へ、今日くらい静かにしていられないのかと注意したが、自分も手袋の左右を間違えてはめていた。エレナがそっと教えると、母は誰にも見られていない顔で付け替えた。


法廷の中央には、被告人用の長椅子が置かれていた。ミレイユは飾りのない灰色のドレスを着て、両側を女性衛兵に挟まれて座っている。大神殿で乱れた髪は肩の辺りまで切られ、真珠も宝石も身につけていなかった。彼女は裁判官席ではなく、傍聴席のリュカを見つめ続けていた。


「リュカ様、今日は迎えに来てくださったのですね」


ミレイユが声をかけると、法廷書記官が私語を慎むよう注意した。彼女は聞こえなかったように、自分の隣にはリュカの席を用意すべきだと衛兵へ訴える。番である二人を離して座らせるのは王国法に反するというが、そのような法律は存在しなかった。衛兵は返事をせず、持参した水差しから木の杯へ水を注いだ。


ラングレー侯爵夫妻は、娘から離れた被告関係者席に座っていた。侯爵は以前より一回り小さく見え、深緑の礼服の肩がわずかに余っている。夫人は黒いドレスを着ていたが、喪服と誤解されないよう胸元へ紫色の布花をつけていた。その花は馬車を降りる際に扉へ挟んだらしく、花弁の一枚が潰れて横を向いている。


「ラングレー侯爵、娘に余計なことを話させるなと伝えたはずだ」


侯爵が弁護人へ囁くと、男は何度も伝えていると答えた。だがミレイユは、判定の神具が壊れていたことを裁判官へ説明すれば、今日中に無罪となると考えていた。自分は被告人ではなく、エレナの魔術による被害者だと主張する書面を毎日何十枚も書き、留置施設の机には紙が積み上がっていた。食事のスープをこぼして文字が滲んだ紙まで証拠として提出するよう求め、書記官を困らせている。


午前九時の鐘が鳴ると、三人の裁判官が法廷へ入ってきた。中央に座った長官は熊系獣人の女性で、黒い法衣の襟に金色の司法章を留めている。彼女が木槌を一度打つと、傍聴席の話し声が止まり、腸詰め肉を食べきれなかった男も慌てて包み紙を懐へ押し込んだ。書記官が立ち上がり、ミレイユとラングレー侯爵家に対する訴追内容を読み始めた。


「被告ミレイユ・ラングレーには、禁制魔導薬の所持、購入、継続使用、他者への無断投与、大神殿における偽証、エレナ・ローデンベルク嬢に対する名誉毀損、リュカ・ヴァルフェン騎士隊長へ魔力障害を負わせた傷害の各容疑がある」


読み上げが進むにつれ、傍聴席では羽ペンが紙をこする音が増えた。新聞記者たちは一語も逃すまいと身を乗り出し、隣同士でインク壺を取り合っている。書記官はさらに、ラングレー侯爵家が薬商と服飾商へ圧力をかけ、帳簿の廃棄や証言の撤回を求めた容疑を告げた。侯爵は膝の上で両手を組み、夫人は潰れた布花を何度も指で直した。


「ミレイユ・ラングレー。今読み上げられた容疑について、申し開きはあるか」


裁判長に尋ねられると、ミレイユは立ち上がった。灰色のドレスの裾には留置施設でついた小さな油染みがあり、袖口からは何度も洗った石鹸の匂いがした。彼女はリュカへ一度微笑んでから、すべてエレナの企みによるものだと答えた。月惑いの香油も知らず、侍女と商人が自分を陥れるために証拠を作ったのだという。


「わたくしは、リュカ様の番です。番であるわたくしが、あの方へ害を与えるはずがないでしょう?」


「あなたが番であるかどうかは、本件の犯罪成立とは関係がない。番であっても、本人の同意なく薬を使用すれば罪となる」


裁判長は明確に答え、書記官へ次の証拠を示すよう命じた。アルフレッドが証言台へ立ち、押収した裏帳簿、空の香油瓶、ミレイユの筆跡が残る指示書を提出する。彼は昨夜も資料の最終確認をしていたらしく、黒い騎士服の袖へ乾いたインクが一筋ついていた。完璧に見える副官の汚れを発見した若い騎士は、あとで本人へ教えるべきか迷い、傍聴席から何度も袖を見ていた。


「香油の購入は三年前から月に一度、直近の半年は月に三度へ増えています。リュカ隊長の医療記録では、それに合わせるように頭痛、吐き気、不眠の回数が増加しています」


アルフレッドは日付を記した一覧表を広げ、裁判官へ見せた。リュカが遠征で王都を離れていた期間には症状が軽くなり、帰還後、ミレイユと面会した日に再発している。騎士団食堂に残された焼き菓子からも、月惑いの香油と同じ成分が検出された。ミレイユは自分が用意した菓子ではないと否定したが、菓子を焼いた料理人と運んだ侍女の証言が続けて読み上げられた。


「隊長の昼食が、何度も無駄になったことも記録へ入れてください」


証言を終えかけたアルフレッドへ、食堂の料理人が傍聴席から声を上げた。裁判長に勝手な発言を注意されたものの、男は毎朝煮込んだ豆料理を一口も食べてもらえなかったと訴えた。騎士たちは笑いをこらえ、リュカは額へ右手を当てる。裁判長は食事の損失も魔力障害の影響を示す補足資料として受理すると告げ、料理人は満足そうに座った。


次に、ミレイユへ仕えていた侍女が証言台へ立った。大神殿で証言したときより顔色はよく、灰色のワンピースの上へ新しい茶色のカーディガンを羽織っている。保護施設で温かい食事と寝床を与えられ、昨夜は久しぶりに朝まで眠れたという。それでもミレイユと目が合うと、両手でカーディガンの裾を強く握った。


「香油を購入するよう命じたのは、誰か」


「ミレイユ様です。最初は一度だけだとおっしゃいました。でも、リュカ様が番の反応を示されなかったため、量を増やすよう命じられました」


侍女は、薬に害があると伝えた際、黙らなければ家族を領地から追放すると脅されたことも話した。ラングレー侯爵へ相談しようとしたが、家令から家の名誉を汚す話を持ち込むなと追い返された。侯爵本人がどこまで把握していたかは分からなかったものの、少なくとも屋敷の管理者たちは、ミレイユが危険な薬を使っている可能性を知っていた。侍女は証言を終えると、用意された椅子へ座り、水を一杯飲んだ。


服飾商と薬商の証言も続いた。ラングレー侯爵家の家令は、帳簿を燃やせばこれまでどおり王宮の衣装を任せると服飾商へ持ちかけ、断られると取引を打ち切ると脅していた。薬商へは国外へ逃げるための馬車を用意したが、その代わりに侯爵家の名を出さないという誓約書へ署名させている。家令はすでに拘束され、侯爵の印章が押された命令書も押収されていた。


「私は、娘を守ろうとしただけだ」


ラングレー侯爵は証言台へ立つと、掠れた声で答えた。騒ぎが表へ出れば娘の将来も家の名誉も失われると考え、家令へ処理を任せたという。危険な香油だとは知らなかったと主張したが、医師から届いた警告書には侯爵自身が確認した印が押されていた。その警告書は、彼の執務机の奥から、未払いの酒代の請求書や領地の収穫報告と一緒に発見されていた。


「知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ」


裁判長が言うと、侯爵は返事をしなかった。娘が番を名乗れば家に利益があるため、都合の悪い報告を机の奥へ押し込んだ。妻もミレイユが香油を重ねていることに気づきながら、美容のための品だと自分へ言い聞かせていた。夫妻は直接薬を買っていなくても、不正を隠し、被害が続くことを許した責任を免れなかった。


午後の休廷に入り、エレナたちは裁判所の小さな控え室へ移った。卓には堅い黒パン、鶏肉と根菜のスープ、薄く切った梨が用意されていた。スープは運ばれてから時間がたち、表面へ黄色い脂が浮いている。リュカが人参を皿の端へよけようとすると、エレナは何も言わずに彼の匙を見た。


「食べる。今はもう、人参も食べられる」


リュカは先回りして言い、大きな人参を一口で食べた。まだ熱いと思っていたらしく、すぐに水を飲んだが、平気な顔を崩さなかった。エレナの父は、無理をしなくても人参くらい残してよいと助け船を出す。すると母が、娘の前で格好をつけたいのだから黙っていなさいと夫の皿へ黒パンを一切れ追加した。


「裁判が終われば、本当にすべて終わるのでしょうか」


エレナは梨を小さく切りながら尋ねた。リュカはすぐに「終わる」とは言わず、名誉を回復するための手続きや、取引を断った商人への説明には時間がかかると答えた。中傷の手紙を送った者たちの調査も続いている。けれどもエレナと家族だけへ負担を負わせず、ヴァルフェン家と騎士団が最後まで対応すると約束した。


「ミレイユについても、罰を受けさせるだけでは足りません。自分の記憶まで書き換えている状態なら、治療が必要です」


エレナが言うと、リュカは匙を置いて頷いた。治療を受けることと罪を償うことは別であり、どちらか一方で済ませてはならない。彼女の認識が現実から離れていることは、他者へ薬を使い、嘘を広め、脅した行為がなかったことにはならない。反対に、処罰だけを与えて状態を放置すれば、同じことを繰り返す可能性があった。


休廷が終わり、全員が法廷へ戻った。ミレイユの前には昼食として出されたパンと野菜のスープが置かれていたが、ほとんど手をつけていない。パンは一口だけちぎられ、スープには薄い膜が張っていた。彼女は食事より、紙ナプキンへ何度もリュカの名を書くことに時間を使っていたらしい。


「リュカ様、ここから出たら、結婚式の準備を急がなくてはいけませんわ。わたくしの純白のドレスは汚されてしまいましたから、新しいものを作りましょう」


ミレイユが話しかけても、リュカは答えなかった。彼女は返事がない理由を、エレナがそばにいるためだと考え、二人を離すよう裁判長へ要求した。裁判長は木槌を打ち、これ以上審理と無関係な発言をすれば退廷させると警告する。ミレイユは自分の婚姻こそ最も重要な審理だと言い返したが、弁護人に肩を押され、ようやく椅子へ座った。


夕刻、すべての証拠と証言を確認した裁判官たちは、判決を言い渡すため法廷へ戻った。窓の外はすでに薄暗く、書記官が燭台へ一本ずつ火をつけている。傍聴人の衣服には長時間座っていた汗と石炭の匂いが染みつき、子供を預けてきた婦人は迎えの時間を気にして何度も置時計を見た。それでも、判決を聞く前に帰る者はいなかった。


「被告ミレイユ・ラングレーについて、禁制薬の所持および継続使用、無断投与、偽証、名誉毀損、傷害の各罪を認定する」


裁判長は一つずつ罪名を読み上げた。ミレイユには財産の没収と被害者への賠償に加え、王領の聖ブリギッテ修道院で監視下に置かれることが命じられた。修道院では専門の治療師による診察を受け、生活と労働を通じて罪を償う。外出や手紙の送付には許可が必要となり、治療師と司法官が安全と判断するまで王都へ戻ることはできない。


「裁判所が罰するのは、被告の心が均衡を失っていることではない。自らの望みをかなえるため、薬と嘘を使い、他者の身体、名誉、生活を傷つけ続けた行為である」


裁判長は法廷全体を見渡し、治療を必要とする状態それ自体を罪としてはならないと告げた。しかし、助けを求める機会がありながら他者を脅し、証拠を隠し、被害を拡大させた行為には責任が伴う。ミレイユには治療を受ける権利があると同時に、被害者から離れ、罪を償う義務がある。その言葉を聞き、エレナは膝の上で握っていた薄荷の布をゆっくり緩めた。


「ラングレー侯爵家については、不正の隠蔽、証人への圧力、証拠隠滅の企てを認定する。侯爵位を伯爵位へ降格し、王宮における役職をすべて解任する」


領地の三分の一は王家へ返還され、残る領地の収入から被害を受けた家々と商人へ賠償金が支払われることになった。ローデンベルク家が失った取引の損害、リュカの治療費、騎士団の調査費用も賠償の対象となる。ラングレー家が所有していた王都の別邸と宝飾品の大半は売却され、使用人には未払いの賃金と退職金を先に支払うよう命じられた。家の名誉より、そこで働いてきた者の生活が優先された。


「そのような判決は無効ですわ。わたくしは未来のヴァルフェン侯爵夫人なのよ」


ミレイユは立ち上がり、机の上の冷めたスープを袖で倒した。黄褐色の汁が床へ流れ、灰色のドレスの裾を濡らす。衛兵が腕を取ると、彼女はリュカへ助けを求めた。リュカは椅子から立ったが、彼女へ近づかず、裁判長へ判決を受け入れると告げた。


「リュカ様、あなたは何も分かっていないわ。あの女の魔術が解ければ、わたくしのところへ戻ってくるのでしょう?」


「俺はどこからも戻らない。最初から、君のものだったことはない」


リュカはそれだけ答え、エレナの前へ立った。ミレイユの叫び声は続いたが、衛兵たちによって法廷の外へ連れ出される。扉が閉じる直前、彼女は自分が番だともう一度叫んだ。傍聴人たちは誰も拍手も歓声も上げず、裁判長が閉廷を告げる木槌の音を黙って聞いた。


判決から三日後、ラングレー侯爵邸では財産の目録作りが始まった。かつて夜ごとに客を迎えた大広間には、値札をつけられた絵画、銀食器、絨毯、燭台が並べられている。壁から大きな肖像画を外した跡だけが白く残り、使用人たちは持ち主の決まった家具へ布を掛けていた。厨房では最後の食事として豆と塩漬け肉の煮込みが作られたが、残った使用人は半分にも満たず、大鍋には何人分もの料理が余った。


「この皿は、奥様が王妃殿下からいただいたものです。売却の対象から外せませんか」


老家政婦が尋ねたものの、王家からの贈答品であることを証明する書面は見つからなかった。ラングレー伯爵となった父は、空になりかけた執務室で目録へ署名し続けている。机の引き出しからは、娘が幼い頃に描いた家族の絵や、妻から贈られた古いカフスボタンも出てきた。彼はそれらだけを小さな木箱へ入れ、売却品とは別にした。


夫人はミレイユの衣装部屋で、純白のドレスを見つめていた。大神殿で破れた箇所はそのままで、黒い香油の染みも落ちていない。真珠を縫いつけていた糸が何本も垂れ、長い裾には石床の灰が残っている。夫人は染みを濡れた布でこすったが、黒い色は薄くなるどころか周囲へ広がった。


「奥様、それは売り物にはなりません。処分いたしましょう」


家政婦が言うと、夫人はすぐに返事をしなかった。娘がこのドレスを選んだ日、花嫁のようだと笑い、止めなかったことを思い出していた。結果が出る前から祝宴の献立を料理人へ相談し、娘の話へ疑問を向けた者を屋敷から遠ざけた。夫人はやがて布を置き、ドレスを焼却する前に、薬の残滓がないか司法官へ調べてもらうよう頼んだ。


同じ日の早朝、ミレイユを乗せた護送馬車が王都の北門を出た。空は白く曇り、街道沿いの畑には薄い霜が降りている。馬車は装飾のない黒い箱型で、窓には細い鉄格子がはめられていた。中にはミレイユ、女性衛兵二人、修道院から迎えに来た年配の治療師が向かい合って座っていた。


ミレイユは修道院から支給された紺色のワンピースと灰色の外套を着ていた。足元の鞄には、着替え二組、木の櫛、石鹸、裁縫道具だけが入っている。宝石も香油も持ち込めず、手首からは何年も染みついていた百合の匂いが消えていた。代わりに粗い羊毛、馬車の革、治療師が持つ薬草袋の苦い匂いが鼻へ届いた。


「修道院では、朝六時に起床します。朝食のあと、診察を受け、体調に応じて洗濯や菜園の仕事をしていただきます」


治療師が説明すると、ミレイユは窓の外を見たまま返事をしなかった。昼食は豆のスープと黒パン、夕食は野菜の煮込みが中心で、週に二度は卵か魚が出るという。自分で衣服を洗い、寝台を整え、食器も片づけなければならない。これまで侍女が行っていた仕事を自分で行う生活を、ミレイユは想像できないようだった。


「リュカ様がお見舞いに来る日のために、白いドレスを用意しておいて。食事も、あの方は人参をお嫌いだから抜くよう料理人へ伝えてちょうだい」


ミレイユが言うと、治療師は記録帳へ何かを書き込んだ。帳面の端には、今朝こぼした麦茶の丸い染みがついている。治療師は否定も同意もせず、修道院では訪問者を司法官が決めること、リュカの訪問予定はないことを伝えた。ミレイユは、婚約者の訪問を拒む権利など誰にもないと答えた。


「あなたはこれから、現実と自分の記憶を一つずつ確かめることになります。すぐには受け入れられなくても、話を聞く者はいます」


治療師は穏やかに告げ、水筒と小さな包みを差し出した。包みの中には固いチーズと、干した杏が二つ入っている。ミレイユは手をつけず、こんな粗末なものは食べられないと膝へ置いた。しばらくすると馬車が大きく揺れ、干し杏が一つ床へ転がったが、彼女は拾おうとしなかった。


街道にはほかの馬車も通らず、荷を運ぶ農夫の姿もなかった。落葉した木々が続き、車輪が小石を踏む音だけが規則正しく響いている。ミレイユは鉄格子へ指を掛け、後方へ遠ざかっていく王都の塔を見た。以前なら自分の名を呼んだ貴族も商人も、見送りには一人も来ていなかった。


「わたくしが番なのよ。いつかリュカ様も思い出すわ」


ミレイユは誰もいない街道へ向かって語りかけた。声は鉄格子を抜け、霜の残る畑へ流れていったが、返事はない。衛兵は前を向き、治療師は麦茶の染みがついた帳面へ時刻を書き込んでいる。床へ落ちた干し杏だけが馬車の揺れに合わせて転がり、彼女の靴へ触れては離れていった。


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