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第7話 運命より先に、君を選ぶ

第7話 運命より先に、君を選ぶ


エレナは濃い青色のドレスの裾を持ち上げ、祭壇へ続く三段の階段を一段ずつ上った。磨かれた白い石には、ミレイユの冠から外れた真珠が一粒だけ残っている。踏めば転ぶかもしれないと思い、エレナが身をかがめて拾うと、掌の上の真珠から干し林檎に似た甘い匂いがした。先ほど若い司祭が拾ったものとは別の粒らしく、表面には黒い香油の染みが細くついていた。


「それは浄化してから保管する。こちらへ渡しなさい」


最高司祭オルランドが手を差し出し、エレナから真珠を受け取った。白い法衣の袖には、神具を浄化したときの水が飛び、濃い灰色の染みを作っている。儀式が始まってから二刻近くたち、香炉の火も弱くなっていた。若い司祭が新しい浄化草を足すと、乾いた松と薄荷の匂いが再び大聖堂へ広がった。


エレナは透明に戻った水晶球の前へ立った。神具の内部では銀色の粒がゆっくりと回り、時折小さな光を放っている。向かい側に立つリュカは、濃紺の礼装の左袖を黒い布で吊り、右手を水晶の近くへ置いていた。先ほどミレイユに強くつかまれた手の甲には赤い指の跡が残り、包帯の下から滲んだ血が袖口を暗く染めていた。


「リュカ様、お傷が開いています」


エレナが指摘すると、リュカは大したことではないと答えた。物置部屋で同じことを言って治療を先延ばしにした彼を思い出し、エレナは眉を寄せる。リュカはすぐに、儀式のあとで必ず治療を受けると言い直した。参列席のアルフレッドも、聞き逃していないと示すように大きく頷いた。


「これより、リュカ・ヴァルフェンとエレナ・ローデンベルクの番判定を行う」


最高司祭の宣言が大聖堂へ響き、参列者たちが椅子の上で姿勢を整えた。エレナの父は膝へ置いた帽子の縁を握り、母は夫の袖をそっとつまんでいる。ヴァルフェン侯爵夫人は胸元へ両手を重ね、息子とエレナを交互に見つめていた。記録官は新しい羊皮紙を広げたが、先ほど袖へ飛ばしたインクを机にも移してしまい、布で拭き取る間だけ筆記を止めた。


そのとき、閉じられた大聖堂の扉の向こうから、ミレイユの声が聞こえた。分厚い扉に遮られて言葉のすべては聞き取れなかったが、自分が番だと叫んでいることだけは分かる。何かが倒れる音が続き、衛兵が落ち着くよう呼びかけていた。参列者の何人かが扉を振り返ったが、最高司祭は判定を中断しなかった。


「エレナ、神具へ右手を置きなさい。合図のあと、リュカ殿と同時に魔力を注ぐのだ」


エレナは水晶へ手を伸ばしかけたが、指先が表面へ触れる前に止めた。胸の内側で鼓動が速くなり、着慣れたはずのドレスの襟が首へ触れる感覚まで気になってくる。母から、番であることがエレナの全部ではないと言われた言葉を思い出した。ここで神具が何も示さなければ、リュカはどのような顔をするのだろうと考えた。


「お待ちください。判定を始める前に、リュカ様へ伺いたいことがあります」


エレナの声は広い堂内へ思った以上に大きく響いた。最高司祭は杖を下ろし、問いかけることを許した。リュカも水晶から手を離し、彼女の言葉を待つ。エレナは参列者ではなく、目の前にいる彼だけを見ることにした。


「もし私があなたの番でなくても、私のそばにいたいと思ってくださいますか」


問いかけたあと、エレナは両手をドレスの前で重ねた。右手の手袋には、拾った真珠の黒い染みが少し移っている。番でなければ自分には価値がないと思われるのが怖くて、これまで何も言えずにいた。リュカの意思を尊重したかったことも本当だが、拒まれたときに幼馴染へ戻ることさえできなくなるのを避けていたことも、今なら認められた。


リュカはすぐに答えず、祭壇を回ってエレナの前まで歩いた。最高司祭から、まだ神具へ触れてはならないと注意されると、水晶には触れずに彼女の前で止まる。右手を差し出したものの、勝手に握らず、エレナが自分から手を載せるまで待った。エレナが手袋を外して掌を重ねると、彼は指をゆっくりと閉じた。


「俺が生涯を共にしたいのは君だ。番だから愛するのではない。愛した君が、俺の番であってほしいと願っている」


リュカの声は静かだったが、大聖堂の一番後ろまで届いた。神具がどのような結果を示しても、彼はエレナを選ぶと続ける。幼い頃から彼女のそばにいると呼吸が楽になり、遠征から帰れば最初に姿を捜していた。自分が何年も求めていたものを、番という言葉を知らなくても、すでに選んでいたのだと語った。


「でも、私はずっと黙っていました。あなたが苦しんでいると分かっていたのに、番かもしれないと伝えられませんでした」


エレナはリュカの手を見ながら言った。自分の感覚が間違っていたらと思い、ミレイユと同じように運命を押しつけることも避けたかった。けれども、その裏には、リュカから違うと言われることを恐れていた自分もいた。言わないことを相手への配慮だけだと思い込もうとしていたのだと打ち明けた。


「君だけの責任ではない。俺も、自分の身体が示していたものを見ようとしなかった」


リュカは、ミレイユに触れられるたびに具合が悪くなり、エレナのそばにいると安らいでいたことを話した。それでも幼馴染を疑うのは薄情だと思い、目の前の違和感を何年も飲み込んできた。自分が曖昧な態度を続けたことでミレイユの嘘を育て、エレナまで傷つけたと認めた。エレナが首を横へ振ろうとすると、彼は言葉を続けた。


「だから今度は、運命にも、過去にも、周囲の期待にも決めさせない。エレナ、君自身の意思で答えてほしい。俺と生きていきたいと思ってくれるだろうか」


エレナは彼の銀灰色の瞳を見つめた。幼い頃、二人で台所へ忍び込み、焼き上がったばかりの菓子を盗み食いして料理人に追いかけられたことを思い出す。訓練で手を擦りむいたリュカへ布を巻いた日も、遠征から帰った彼の外套から雨と革の匂いがした日も、特別な運命を証明する神具はなかった。それでも自分は、ずっと彼を見つめていた。


「はい。私も、あなたと生きていきたいです。番だからではなく、あなたがリュカ様だからです」


答えを聞いたリュカの指へ力が入り、二人の間に淡い金色の光が生まれた。まだ神具へ触れていないにもかかわらず、水晶の内部にある銀色の粒が一斉にエレナのほうへ流れる。参列席から声が上がり、最高司祭も白い眉を持ち上げた。リュカとエレナは手をつないだまま、祭壇の左右へ戻った。


「もう判定の必要もなさそうだが、公的な記録を残さねばならぬ。今度こそ、二人とも神具へ手を置きなさい」


最高司祭の言葉に、大聖堂の空気が少し緩んだ。若い司祭は香炉を持ち直したが、法衣のポケットに入れた干し林檎が燻され、浄化草とは違う甘い匂いを漂わせている。隣の司祭が何の匂いだと小声で尋ねると、若い司祭は黙って首を横へ振った。最高司祭は気づいていたものの、儀式の進行を優先して何も言わなかった。


エレナは右手を水晶の表面へ置いた。反対側ではリュカも手を重ね、透明な神具を挟んで二人の掌が向かい合う。水晶は冷たいはずなのに、触れた場所から温かな感触が広がった。エレナの鼻には、雨に濡れた森と焚き火を合わせたような、幼い頃から知っているリュカの魂の匂いが届いた。


「始めなさい」


最高司祭が杖で床を打つと、二人は同時に魔力を注いだ。エレナの淡い金色の魔力と、リュカの銀色の魔力が水晶の中央へ流れ込む。二つの光は触れた瞬間に混ざり合い、どちらの色とも違う濃い黄金色へ変わった。神具の内部で光が渦を巻き、次の瞬間、水晶球から天井へ向けて大きな光の柱が立ち上った。


黄金の光は大聖堂の天井へ届き、梁や壁を伝って一気に広がった。色硝子の窓が内側から照らされ、床の青と白の紋様も金色へ染まる。閉じていた大聖堂の扉が風もないのに開き、外で待っていた人々の上にも光が降り注いだ。神殿の鐘は誰も触れていないのに鳴り始め、王都の広場まで低く澄んだ音を響かせた。


「これほどの共鳴は、わしも初めて見る」


最高司祭は風圧で揺れる法衣を押さえながら、神具を見上げた。ヴァルフェン侯爵夫人の頬には光が映り、ローデンベルク伯爵は握っていた帽子を床へ落としている。母は拾おうとしたが、自分のドレスの裾で椅子の脚を巻き込み、夫婦そろって慌てることになった。アルフレッドは二人を助けながらも、祭壇の様子から目を離さなかった。


リュカの身体では、何年も乾いてひび割れていた魔力の流れが、一つずつ満たされていった。頭の奥に残っていた重さが消え、夜になるたび胸を締めつけていた渇きもなくなる。エレナの魔力が彼の内側へ流れ込んでも、異物のような違和感はなかった。足りなかった場所へ、最初からそこに入る形で作られたものが戻ってきたようだった。


エレナの中でも、眠っていた獣人の力が動き始めていた。これまで人族と変わらなかった耳に、大聖堂の外を走る馬車の車輪や、屋根へ落ちる雨粒の音まで届く。鼻には浄化草、石床、古い木の椅子、参列者の香水、若い司祭が隠し持つ干し林檎の匂いが一度に流れ込んだ。情報の多さに身体が傾くと、リュカが祭壇を回り、彼女の腰を右腕で支えた。


「大丈夫か。どこか苦しいところはないか」


リュカが尋ねると、エレナは、若い司祭が干し林檎を持っていることまで分かると答えた。指摘された司祭は顔を赤くし、法衣のポケットを両手で押さえる。参列席から小さな笑いが起こり、最高司祭は、獣人の感覚が突然目覚めると最初は匂いや音を強く拾いすぎるのだと説明した。数日で調整できるようになるが、それまでは人の多い場所や香りの強い部屋を避けたほうがよいという。


「では、今日は早く家へ帰して休ませます」


リュカが言うと、エレナの父がすぐに立ち上がった。家へ帰すのは当然だが、リュカまで一緒に来るような言い方は困ると口を挟む。母は、まず傷の治療を受けてからなら夕食へ招いてもよいと提案した。父は妻を振り返り、まだ婚約もしていない男を夕食へ呼ぶのかと小声で訴えたが、母は幼い頃から何度も食べに来ているでしょうと返した。


「今夜は豆と鶏肉の煮込みです。リュカ様がお嫌いでなければ、ご一緒にいかがですか」


エレナが尋ねると、リュカは幼い頃から好物だと答えた。ローデンベルク家の料理人は人参を大きく切るため、子供の頃のリュカが皿の端へよけていたことを、エレナはよく覚えている。その話をすると、今は人参も食べられるとリュカは言い張った。アルフレッドは後ろから、先月の騎士団食堂でも二切れ残していたと余計な証言を加えた。


その間も黄金の光は二人の周囲を穏やかに流れていた。リュカはエレナの腰へ回していた腕を離そうとしたが、彼女の足元がまだ安定していないことに気づく。人々の視線が集まっているにもかかわらず、彼は迷った末にエレナを胸へ抱き寄せた。濃紺の礼装と青いドレスが触れ合い、リュカの胸元にある銀狼の紋章が黄金の光を受けて輝いた。


「見つけるのが遅くなって、すまない」


リュカはエレナの髪へ顔を寄せ、低い声で告げた。エレナの髪からは、朝使ったラベンダーの石鹸と、馬車の中で食べたチーズパンの匂いがした。高価な香油でも作れない、彼女が今朝から過ごしてきた時間の匂いだった。リュカは深く息を吸い込み、頭痛も吐き気も起こらないことを確かめた。


「私も、もっと早くお伝えすればよかったのです。でも、運命を口実にして拒まれることから逃げていました」


エレナはリュカの胸へ頬を寄せた。厚い礼装の下から規則正しい鼓動が聞こえ、傷口を押さないよう右側へ身体をずらす。幼い頃から感じていた魂の匂いが、今は自分の魔力と重なり、どちらのものか分からないほど馴染んでいた。それでも、自分たちは神具が光ったから抱き合っているのではなく、光る前に互いを選んだのだと思えた。


開いた扉の向こうでは、控え室にいたミレイユにも黄金の光が届いていた。彼女は衛兵の間で立ち止まり、大聖堂からあふれる光を見つめている。先ほどまで自分が番だと繰り返していた口は動かず、黒く汚れた白いドレスの裾だけが床を引きずっていた。やがて彼女は顔を背けたが、光は廊下の壁にも床にも反射し、目を閉じても消えなかった。


「判定を終了する。神具は、リュカ・ヴァルフェンとエレナ・ローデンベルクの完全な魂の共鳴を示した」


最高司祭の宣言を受け、記録官が羊皮紙へ結果を書き込んだ。王弟は国王の名において判定を公的なものと認め、参列者へ異議がないか確認する。誰も声を上げず、代わりに拍手が一つ、また一つと大聖堂へ広がった。エレナの父は最後まで帽子を握り直していたが、母に肘で促され、やがて両手を打ち合わせた。


拍手が収まったころ、若い司祭の腹が再び大きく鳴った。今度は大聖堂中に聞こえ、本人は法衣の襟へ顔を埋める。エレナの父は待っていたように、馬車から持ってきたチーズパンの残りを差し出した。最高司祭は儀式の場で食べることは許さなかったものの、終了後なら構わないと言い、若い司祭は何度も頭を下げて受け取った。


「神殿を出たら、栗のスープも買いましょう。お父様が、刻んだ燻製肉を入れてくれる店を見つけたそうです」


エレナがリュカへ伝えると、彼はぜひ食べたいと答えた。番として認められた直後の会話が夕食と露店のスープの話になり、ヴァルフェン侯爵夫人は扇の陰で笑った。リュカはエレナの手を取り直したが、今度は神具へ触れるためではなかった。二人は黄金の光が薄れていく祭壇を並んで下り、自分たちで選んだ最初の一歩を、同じ速さで踏み出した。


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