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第4話 崩れ始めた美しい仮面

第4話 崩れ始めた美しい仮面


ヴァルフェン侯爵邸の応接室には、朝から磨かれた銀の茶器が並べられていた。窓の外では庭師が冬を迎える薔薇の枝を切り、湿った土と青い葉の匂いが開いた窓から流れ込んでいる。卓上には焼きたての林檎菓子と薄く切った燻製肉のサンドイッチが用意されていたが、誰も手をつけていなかった。女主人である侯爵夫人は、客を迎える礼儀だからと料理を出させたものの、今日の話し合いが穏やかな茶会で終わらないことを分かっていた。


リュカは濃い灰色の上着を着て、応接室の中央に立っていた。左腕の傷には新しい包帯が巻かれ、袖を通せないため、上着は右肩に掛けるだけになっている。縫合した傷は少し動かすだけでも熱を持ったが、長年続いていた頭痛は、エレナと共鳴してから一度も起きていなかった。眠れない夜を何年も過ごしてきた身体が急に静かになり、今朝は目覚ましの鐘が鳴るまで深く眠ってしまったほどだった。


「坊ちゃまが朝食の時間に起きてこないので、わたくしは息が止まるかと思いましたよ。扉を三度も叩いたのに、返事がないんですから」


老執事のベルトランは、蜂蜜入りの温かいミルクを卓へ置きながら小言を言った。リュカが幼い頃から仕えてきた男で、今日は黒い礼服の袖口へ朝食の卵を少しつけている。本人は気づいておらず、侯爵夫人が何度も視線で知らせようとしたが、ベルトランは銀の匙の向きばかり直していた。リュカはようやく眠れたのだと答え、ミルクへ手を伸ばした。


「それなら、毎晩エレナ様に来ていただけばよろしいのではありませんか」


ベルトランが平然と言うと、リュカは飲みかけたミルクでむせた。侯爵夫人は口元を扇で隠し、向かいに座ったアルフレッドは聞こえなかったふりをして調査書へ目を落とす。彼の前には禁制薬の鑑定結果、裏帳簿の写し、服飾商から得た証言が順番に並べられていた。どれもまだミレイユ本人の指示を直接証明するものではなかったが、彼女の侍女とラングレー侯爵家が薬の購入に関与した可能性は高かった。


「アルフレッド、今日の話し合いでは薬の件をどこまで伝える」


リュカが尋ねると、アルフレッドは裏帳簿の頁を指で押さえた。ミレイユが証拠を隠す可能性を考え、購入経路まで判明していることは伏せるべきだという。まず番を名乗ることと接触を禁じ、彼女がどのような反応を示すか確かめる。アルフレッドはそう説明したあと、昨夜の物置部屋で見た金色の光についても神殿へ報告したと付け加えた。


「正式な判定を受けるまで、エレナ様が本物の番であることも公表すべきではありません。ミレイユ嬢が何をするか分かりませんから」


「分かっている。エレナを争いへ巻き込みたくはない」


リュカは答えたものの、その言葉が本当にエレナのためになっているのか、胸の内で引っかかった。彼女は守られるだけの令嬢ではなく、自分の考えを持っている。それでも危険から遠ざけたいという思いが先に立ち、彼女へ相談することなく決めようとしていた。昨夜、傷の手当てを終えたエレナが「今度はご自分だけで決めないでください」と言ったことを思い出し、リュカはカップの中で揺れるミルクを見つめた。


やがて玄関から馬車の到着を告げる鐘が鳴り、ミレイユが応接室へ案内された。彼女は淡い水色のドレスをまとい、襟元には小粒の真珠を何重にも飾っている。目元は薄く赤くなっていたが、化粧は丁寧に施され、髪にも乱れはなかった。ただし、いつも肌へ染みついていた百合の香りはほとんどせず、代わりに薔薇水の青い匂いがした。


「リュカ様、お怪我をなさったと聞きました。なぜ、すぐに知らせてくださらなかったのですか」


ミレイユは侯爵夫妻への挨拶もそこそこに、リュカへ駆け寄ろうとした。アルフレッドが一歩前へ出て道を塞ぐと、彼女の靴が絨毯の上で止まる。ミレイユは彼を無礼者と呼び、番が傷ついた相手へ近づくのを邪魔する権利はないと言い放った。リュカは彼女との間に卓を置いたまま、座るよう命じた。


「今日は見舞いのために呼んだのではない。君との関係を明らかにするためだ」


リュカの声を聞き、ミレイユはようやく向かいの長椅子へ腰を下ろした。ドレスの裾を広げ、侍女に小箱を持ってこさせる。中には淡い青色のリボンで結ばれた焼き菓子が入っており、仔狼の形に焼かれていた。幼い頃、三人で泥まみれになって遊んだあと、侯爵家の料理人がよく作ってくれた菓子だった。


「昔、お好きだったでしょう。昨日、料理人に作らせましたの」


ミレイユは仔狼の菓子を一つ取り、リュカの前へ差し出した。昔と同じものを用意すれば、昔のように許されると思っているらしい。だが、菓子の表面には甘い糖蜜のほかに、鼻へ残る微かな百合の匂いがついていた。リュカは受け取らず、アルフレッドもすぐに気づいて小箱ごと侍従へ預けた。


「それも調べてもらう。君がこれまで使っていた香油と一緒にな」


「何のお話ですの?」


ミレイユは目を丸くしたが、膝の上へ置いた指は真珠の飾りを強くつかんでいた。リュカは彼女の表情を見ながら、禁制の幻惑香油が検出されたことだけを告げる。ミレイユはすぐに、自分は何も知らない、侍女が勝手に使ったのかもしれないと答えた。薬の名も入手経路も伝えていないのに、彼女は香油を使ったこと自体を否定しなかった。


「では、あなたの肌から検出された魔導薬について、侍女へ尋ねても構わないのだな」


アルフレッドが問いかけると、ミレイユは彼をにらみつけた。侍女は顔を伏せ、手にしていた外套を震える指で握っている。応接室の暖炉では薪が崩れ、小さな火の粉が鉄柵へ当たった。ベルトランが火掻き棒で薪を戻しながら、「今年の薪は湿っておりますな」と誰にともなくつぶやいたが、答える者はいなかった。


「わたくしがどんな香油を使おうと、リュカ様の番であることは変わりませんわ」


ミレイユは背筋を伸ばし、涙を溜めた瞳でリュカを見た。彼女は幼い頃から彼の隣におり、侯爵家の者たちも二人の結婚を望んでいたはずだと訴える。仔狼の焼き菓子、三人で登った樫の木、雨の日に遊んだ盤上遊戯の話まで並べ、過去の思い出を一つずつ婚姻の証拠へ変えていった。そこにはいつも一緒にいたエレナの名だけが抜け落ちていた。


「幼馴染だったことと、番であることは別だ。俺は、君を妹のように思っていた時期もあった。だからこそ、君が泣いたり怒ったりすると、俺が折れれば済むと考えてきた」


リュカは子供の頃、ミレイユが欲しがった木彫りの馬を譲ったことを思い出した。その後も菓子や本を譲り、舞踏会では最初の曲を踊り、彼女がほかの令嬢を追い払っても強く注意しなかった。幼い頃からの情を優しさだと思い込み、拒むべき場面で拒まなかった。その積み重ねが、ミレイユに自分は何をしても選ばれると思わせたのだと、今なら分かった。


「俺の曖昧な態度にも責任がある。だから、今ここではっきり告げる。君が番を名乗ることを許さない。俺の許可なく、騎士団やこの屋敷へ入ることも禁じる」


ミレイユの唇から色が失われ、頬を涙が一筋伝った。侯爵夫人は膝の上で扇を閉じたまま、口を挟まずに息子を見守っている。リュカは目をそらさなかった。これまでのように、涙を見た途端に言葉を引っ込めれば、同じことが繰り返されるからである。


「どうして、そんなひどいことをおっしゃるのですか。わたくしは、あなたを愛しているのに」


「愛している相手へ、害のある薬を使うのか。俺が触れられるたびに苦しんでいたことに、本当に気づかなかったのか」


リュカが尋ねると、ミレイユは濡れた頬を手袋で拭った。彼の不調を心配する言葉は出てこず、自分がどれほど傷つけられたかだけを繰り返す。やがて彼女は立ち上がり、応接室の扉の近くへ視線を向けた。そこには、侯爵夫人から頼まれた薬草茶を届けるため、母とともに来ていたエレナが立っていた。


「あの女が魔術であなたを狂わせたのよ。わたくしたちは、幼い頃から結ばれる運命だったでしょう?」


ミレイユはエレナを指差し、金色の光も偽りに決まっていると声を上げた。エレナは黄褐色の外出着に濃緑の外套を重ね、両手で薬草の入った紙包みを抱えている。突然名前を出されても逃げず、ミレイユの指先を静かに見返した。紙包みからは乾かした薄荷と柳の皮の匂いが漂い、百合の残り香を少しずつ薄めていた。


「エレナは俺に、自分が番だと一度も主張していない。君を拒絶するよう求めたこともない」


「それがあの女のやり方なのですわ。弱々しい顔で黙っていれば、殿方が守ってくれると思っているのよ」


ミレイユは声を震わせながら、エレナが幼い頃から自分とリュカの間へ入り込んでいたと言い始めた。三人で遊んでいた記憶さえ、エレナが二人の仲を邪魔した話へ塗り替えられていく。エレナは反論しようとしたが、リュカが先にミレイユとの間へ立った。包帯の巻かれた腕をかばいながらも、その背中には迷いがなかった。


「今日の話は終わりだ。今後、エレナや彼女の家族へ何かすれば、幼馴染としてではなく、騎士団の隊長として対処する」


ミレイユはリュカの言葉を聞いても、エレナが彼を操っていると叫び続けた。侍女へ外套を投げるように命じ、用意された茶にも焼き菓子にも触れずに応接室を出ていく。玄関の扉が閉まったあと、侯爵夫人は冷えた紅茶を一口飲み、顔をしかめた。ベルトランはようやく袖口の卵へ気づき、誰にも見られていないと思いながら布でこすったが、全員に見られていた。


翌日から、王都の社交界には新しい噂が広がり始めた。エレナが人族の母から教わった幻惑魔術でリュカを惑わせた、負傷した彼へ薬を塗るふりをして番の印を刻んだ、夜中に騎士団へ忍び込んで誘惑したという話まで作られた。話す者によって内容は違ったが、どの噂でもエレナは幼馴染の番を奪う女になっていた。事実を知らない者たちは、茶菓子をつまむ片手間にその話を広めた。


ローデンベルク伯爵家の玄関には、毎朝のように差出人のない手紙が届いた。白い封筒には泥が塗られ、ある手紙には枯れた百合が押し込まれている。玄関係の老人は、最初の二通だけは主人へ渡したが、それ以降は台所の竈で燃やすようになった。ところが料理人が薪と一緒に手紙を入れたせいで、昼食の魚のパイに紙の焦げた臭いがつき、使用人たちは窓を開けたまま食べることになった。


「お嬢様、こちらは読まないほうがよろしいです。今朝は鼠の死骸まで入っていました」


侍女のクララは、汚れた封筒を火鋏でつまみながら言った。エレナは白い部屋着の上へ厚手のカーディガンを羽織り、食堂の長机で父の帳簿を整理していた。窓辺には洗ったハンカチが何枚も干され、湿った布と石鹸の匂いが漂っている。父は朝早くから取引先を回り、突然取り消された契約について説明を求めていた。


「北部の織物商からも、返事がありません。毎年この時期には、冬物の注文が届いていたのに」


エレナが帳面をめくると、父の癖で頁の端に小さな犬の絵が描かれていた。計算中に考え込むと、無意識に犬を描くのである。今月に入ってから犬の数が増えており、父が何も言わずに状況を処理しようとしていることが分かった。エレナは帳面の染みを布で拭きながら、自分が黙っていれば家族まで巻き込まれ続けると考えた。


昼過ぎに帰宅した父の外套には、雨と馬車の泥がついていた。取引先の三家から契約の延期を告げられ、そのうち一人はラングレー侯爵家との関係を悪くしたくないと正直に話したという。父は何でもない顔で、今年は家族だけで冬を越せる程度の蓄えがあると笑った。しかし、食卓へ出された魚のパイを一口食べたあと、塩を二度も振りかけ、結局半分を皿へ残した。


「お父様、私のために取引まで失う必要はありません。私が皆の前で話します」


エレナが告げると、父はすぐに首を横へ振った。娘を噂好きな者たちの前へ立たせるくらいなら、織物商との契約など失っても構わないという。母も隣で頷き、冷めた豆のスープを温め直すよう侍女へ頼んだ。けれどもエレナは、家族が自分を守るために生活を変え、使用人たちまで仕事を失う可能性を考えると、もう沈黙を続けられなかった。


「逃げたくないのです。リュカ様にも、ご自分の意思を口にするようお願いしました。私だけが黙って隠れているわけにはまいりません」


エレナは両親へ頭を下げ、翌日の王立孤児院支援市へ参加すると伝えた。そこには王族や高位貴族が集まり、ミレイユも寄付品を持って現れる予定だった。父はしばらく娘の顔を見つめたあと、帳面に描いた犬を指で隠し、必ず自分たちも同行すると答えた。母は黙ってエレナの手を包み、冷めた指先を両手で温めた。


翌日、王宮前広場には色とりどりの天幕が張られ、孤児院の子供たちが作った刺繍布や木工品が並べられていた。焼いた栗、蜂蜜入りの温かい葡萄酒、肉と野菜の串焼きの匂いが風に乗り、人々の笑い声と商人の呼び声が重なる。エレナは深緑のドレスに母から借りた狐毛の襟巻きをつけ、孤児たちが作った布袋を売る天幕を手伝っていた。刺繍の鳥には翼が三枚あるものや、足が一本しかないものもあったが、どれも子供たちが何日もかけて縫った品だった。


「この鳥は、どうして翼が三枚あるの?」


エレナが尋ねると、八歳ほどの少年は、二枚では速く飛べないから一枚増やしたのだと胸を張った。隣にいた少女は、自分が縫った猫の髭が左右で違う本数になったことを気にしている。エレナは本物の猫も左右の髭が同じとは限らないと話し、その布袋を自分で買った。少女は銅貨を受け取ると、今度は尻尾を二本にして縫うと張り切った。


そこへ白い毛皮の外套をまとったミレイユが姿を現した。彼女の後ろには親しい令嬢たちが並び、籠いっぱいの絹布を寄付品として運ばせている。ミレイユはエレナの天幕を見ると足を止め、周囲へ聞こえるように大きく息を吐いた。百合の香油はつけていなかったが、薔薇水の匂いを何度も重ねたらしく、冷たい風の中でも濃く漂っていた。


「よく人前へ出てこられましたわね。リュカ様を惑わせておきながら、善良な令嬢のふりをなさるなんて」


ミレイユの声を聞き、近くにいた人々が足を止めた。令嬢たちは扇を開き、商人たちも品物を並べる手を休める。孤児院の子供たちは何が始まるのか分からず、エレナの後ろへ集まった。翼が三枚ある鳥を縫った少年だけは、売上げを入れた箱を抱えて守っていた。


「ミレイユ様、ここは孤児院の支援市です。言い争うために開かれた場所ではありません」


エレナが答えると、ミレイユは自分こそ被害を受けているのだと声を張り上げた。リュカへ魔術を使ったことを認め、彼を返せば騒ぎを収めてやるという。その言い方は、人から借りた宝石を返せと求めるものと変わらなかった。エレナは胸元の襟巻きを握り、これまで飲み込んできた言葉を一つずつ確かめた。


「リュカ様は、あなたの持ち物ではありません。ですから、私が返すことも、あなたが取り戻すこともできません」


集まった人々の間で小さなどよめきが起こった。ミレイユの頬が赤くなり、エレナを番泥棒と呼ぶ声が鋭くなる。そのとき、騎士団の制服姿のリュカがアルフレッドとともに広場へ入ってきた。左腕を吊ったままではあったが歩みは速く、人々が道を開ける前にエレナの天幕まで進んだ。


「リュカ様、ちょうどよかったですわ。この女に、ご自分が誰のものか教えて差し上げてください」


ミレイユが駆け寄ろうとすると、リュカは片手を上げて止まるよう命じた。彼はエレナへ視線を向け、無事であることを確かめてから、その隣へ立った。金色の共鳴は起こらなかったものの、エレナの近くに来た彼の呼吸はすぐに穏やかになった。周囲にいた獣人たちも、その変化には気づいたらしい。


「私はリュカ様を所有したいのではありません。リュカ様ご自身に選んでいただきたいのです」


エレナは人々の前で、初めて自分の意思をはっきり口にした。声は途中で少しかすれたが、目を伏せずにリュカを見た。番であることが証明されても、彼が自分を望まなければ、その選択を受け入れるつもりだった。ミレイユのように運命を鎖として使うことだけはしたくなかった。


リュカはその言葉を聞き、昨夜から自分が口にしていた「エレナを守る」という言葉を思い返した。彼女を危険から遠ざけることばかり考え、彼女自身が何を望んでいるのか尋ねていない。番を名乗って自分を所有しようとするミレイユを拒みながら、自分も別の形でエレナの意思を置き去りにしかけていた。リュカは吊っていない右手を差し出したが、触れる前に問いかけた。


「エレナ。俺のそばに立つことを、君自身が望んでくれるだろうか」


エレナは差し出された手と、リュカの顔を交互に見た。広場には焼き栗の皮がはじける音が響き、子供たちの天幕からは布袋を売る声が聞こえる。誰もが答えを待っていたが、リュカは急かさなかった。エレナはやがて手袋を外し、自分の意思で彼の手を取った。


「はい。私もあなたのそばにいたいと思っています」


二人の指が重なると、淡い金色の光が手のひらから広がった。先日のように部屋を満たすほど強くはなかったが、集まった人々には十分見える光だった。ミレイユは白い毛皮の外套を握り、作り物だと叫んだ。しかし彼女の声へ同意する者は、もうほとんど残っていなかった。


リュカは人々の前で、ミレイユを自分の番とは認めないこと、エレナへ魔術を使われた事実もないことを明言した。さらに、根拠のない噂によってローデンベルク家へ損害を与えた者は、身分を問わず調査すると告げる。アルフレッドが背後で調査書を広げると、先ほどまでミレイユの周囲にいた令嬢たちは、互いに距離を取り始めた。自分が噂を広めた証拠を持たれているのではないかと考えたらしい。


「皆、騙されているだけよ。わたくしがリュカ様の番なの。わたくしだけが、あの方の隣にふさわしいのよ」


ミレイユは繰り返しながら、リュカとエレナの重なった手を見つめた。涙で化粧が崩れ、頬へ黒い筋が伸びていることにも気づいていない。彼女の父であるラングレー侯爵が人垣をかき分けて現れ、娘の腕をつかんだ。侯爵は周囲へ頭を下げることもなく、用意していた寄付品を置いたまま、ミレイユを馬車へ連れていった。


騒ぎが収まると、翼が三枚ある鳥を縫った少年が、リュカの制服の裾を引いた。彼は二人の手から出た光をもう一度見せてほしいと言い、妹らしい少女も隣で何度も頷いている。リュカは困った顔でエレナを見たが、光は見世物ではないと説明した。少年は少し考えたあと、それなら金色の糸で光る手を刺繍すると言い、売上げ箱を抱えて天幕へ戻った。


「今度は指を七本にするかもしれませんね」


エレナが小声で言うと、リュカはようやく口元を緩めた。彼女の手を握ったままだと気づき、離すべきか迷うように指を動かす。エレナは先に離さず、冷えた彼の手を包むように握り直した。焼き栗と蜂蜜酒の匂いが漂う広場で、リュカは運命の答えを知るだけでは足りず、これから何度でも彼女の意思を聞かなければならないと胸に刻んだ。


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