第3話 偽りの香りと、本物の共鳴
第3話 偽りの香りと、本物の共鳴
翌朝、アルフレッドは誰もいない騎士団本部の廊下に片膝をつき、床板の隙間へ鼻を近づけていた。夜明け前まで降っていた雨のせいで建物全体が湿り、濡れた外套と古い木材の匂いが残っている。厨房では朝食の玉葱スープが煮込まれ、焦がした黒パンと一緒に香ばしい湯気を立てていたが、廊下の一角だけには、それらを覆い隠すほど濃い百合の香りが染みついていた。昨日ミレイユが立っていた場所であり、床には彼女が踏んだインクの黒い跡も薄く残っていた。
「副官殿、そこで何をなさっているのですか。昨夜、銀貨でも落としましたか?」
空の洗濯籠を抱えた年配の掃除婦が、不思議そうにアルフレッドを見下ろした。彼女の茶色い前掛けには石鹸の白い粉がつき、両腕の袖は肘までまくり上げられている。アルフレッドは銀貨ではないと答えたものの、この姿を若い騎士たちに見つかれば、廊下の匂いを嗅ぐのが副官の日課だという妙な噂が広まりかねないと思った。騎士団では先月も、団長が裏庭で鶏を追いかけたという話に尾ひれがつき、王宮の舞踏会へ鶏を連れていったことにされていた。
「昨日ここへ来たラングレー侯爵令嬢の香りが残っています。床を拭いてから、どなたか通りましたか?」
アルフレッドが尋ねると、掃除婦は籠を床へ置き、腰を叩きながら昨日の作業を思い返した。ミレイユが帰ったあと、灰汁を混ぜた湯で床を二度拭き、窓も一刻ほど開けていたという。それでも香りが消えないため、若い掃除係が香水の瓶でも割れたのではないかと床下まで確かめたらしい。掃除婦は「おかげで昨日は昼のじゃが芋を食べ損ねましたよ」と眉間へ皺を寄せた。
「床下には何もありませんでした。でも、これが落ちていましたよ。宝石ではなさそうでしたから、掃除道具の棚へ入れておきました」
掃除婦が前掛けのポケットから取り出したのは、爪の先ほどの青い硝子片だった。表面には油が乾いたような曇りがあり、近づけると百合の甘さの奥から、焦げた薬草と鉄錆を混ぜた臭気が立ち上る。アルフレッドの耳がぴくりと動き、豹獣人の瞳が細くなった。自然の香油なら数時間で薄れるはずなのに、この硝子片からは微弱な魔力まで漏れ続けていた。
「これは私が預かります。昨日の雑巾は、まだ洗わずに残っていますか?」
掃除婦は洗濯場の桶に入っていると答え、朝食の鐘が鳴った方向へ顔を向けた。玉葱スープが冷める前に飲みたいらしく、足元の籠を持ち上げて何度も厨房を気にしている。アルフレッドは彼女を引き止めず、あとで厨房へ自分の名前を伝えれば黒パンを一つ多くもらえるよう手配すると約束した。掃除婦は急に機嫌を直し、「それなら干し肉も一枚つけてください」と言い残して歩いていった。
アルフレッドは青い硝子片を布へ包み、魔術研究室へ持ち込んだ。研究室には薬瓶と古い本が天井近くまで積まれ、机の端には昨日の夕食だった魚の骨が皿に載ったまま残っている。研究官のヨハンは灰色の髪を後ろで束ね、袖口に薬草の染みがついた白衣を着ていた。片方の靴下が赤で、もう片方が青だったが、本人は気づいていないらしい。
「朝から侯爵令嬢の香水を調べろとは、騎士団も暇になったものだな」
ヨハンは欠伸をしながら言い、硝子片を小さな銀盆へ載せた。アルフレッドがリュカの頭痛と吐き気について説明すると、研究官の手が止まる。ヨハンは眠そうだった目を開き、棚の奥から紫色の試薬を取り出した。硝子片へ一滴落とした途端、甘い百合の匂いが消え、代わりに腐った果実のような臭気が部屋へ広がった。
「窓を開けてください。昨日の魚よりひどい臭いです」
アルフレッドが鼻を覆うと、ヨハンは自分の夕食を悪く言うなと文句を言いながら窓を押し上げた。冷たい風が入り込み、机の上に散らばっていた紙を床へ落とす。そのうちの一枚には、薬草の分量ではなく、研究官が月末までに返さなければならない酒場の借金が細かく書かれていた。ヨハンは素早く紙を拾って白衣の内側へ隠すと、銀盆に浮かんだ黒い泡を見つめた。
「幻惑系の魔導薬だ。しかも、ずいぶん古い処方だな。銀葉草、夢見草、雌の月狼から採った分泌液が入っている」
「獣人の番の匂いを作れる薬ですか?」
「作るのではない。嗅いだ者の記憶にある、心地よい匂いを引き出して重ねるんだ。番の気配を知らない者なら騙されるかもしれんが、本物とは魔力の質が違う」
ヨハンは分厚い薬物事典を開き、黄ばんだ頁を何枚もめくった。やがて「月惑いの香油」と書かれた項目で手を止め、アルフレッドへ本を向ける。少量を肌につければ獣人を引きつける甘い匂いを発するが、使い続ければ嗅いだ者の魔力経路を傷つけ、頭痛、吐き気、不眠、食欲不振を引き起こすと記されていた。王国では二十年前に使用も売買も禁止され、所持だけでも処罰の対象になる薬だった。
「隊長は数年前から原因不明の頭痛に苦しんでいます。ミレイユ嬢が近くにいると、症状が強くなる」
アルフレッドは本の文字を指でなぞり、これまでの出来事を思い返した。ミレイユが騎士団の式典へ来るたび、リュカは夜まで食事を取れなくなっていた。遠征で王都を離れている間だけは眠れていたのに、帰還すると再び頭痛が始まっている。幼馴染だからと誰も疑わなかったが、症状が現れ始めた時期と、ミレイユが番を匂わせ始めた時期は重なっていた。
「これをどこで手に入れられるか調べたい。正規の薬舗では扱っていないはずです」
ヨハンは王都の裏通りに、禁制品をひそかに売る魔導薬商がいると教えた。ただし貴族令嬢本人が店へ出向くとは考えにくく、侍女か商人を通して買っている可能性が高い。アルフレッドは硝子片と事典の写しを受け取り、研究室を出ようとした。その背中へヨハンが、朝食が残っていたら玉葱スープを持ってきてほしいと声をかけた。
その日の午後、アルフレッドは部下二人を連れ、王都南区の狭い路地を歩いていた。洗濯物が建物の間へ何本も渡され、白い下着や子供用の靴下から落ちる水が石畳へ黒い染みを作っている。通りでは魚屋が鯖をさばき、隣の露店では油を吸った揚げ芋が紙袋に山盛りにされていた。朝食を黒パンだけで済ませた部下が何度も揚げ芋を振り返るため、アルフレッドは調査が終わったら買うと約束した。
「副官殿、二袋でもよろしいですか。朝から何も食べていないんです」
「お前は食堂で腸詰め肉を三本食べていただろう」
「数えるほど俺のことを気にかけてくださっていたとは知りませんでした」
部下が勝手に感激し、もう一人が笑いをこらえて咳払いした。アルフレッドは返事をせず、古道具店の看板を掲げた店へ入った。店内には欠けた食器や錆びた燭台が積まれ、棚の奥では痩せた老人が干し葡萄を一粒ずつ食べている。アルフレッドが青い硝子片を見せると、老人の指が止まった。
「この瓶を売った記録を見せてもらいたい。拒むなら、騎士団本部で話を聞くことになる」
老人は知らないと言い張ったが、アルフレッドが禁制薬の名を口にすると、額へ汗を浮かべた。裏帳簿は床下の箱へ隠されており、表紙には油と鼠の足跡がついていた。三年前から同じ人物が月惑いの香油を購入し、代金はラングレー侯爵家と取引のある服飾商を通して支払われている。注文者の名は「マリー・ランゲ」と記されていたが、受け取り人の特徴には、栗色の髪と右頬に小さなほくろを持つ若い侍女と書かれていた。
「ミレイユ嬢の侍女に、同じ特徴の女がいます。昨日も騎士団へ同行していました」
部下の一人が帳簿を見ながら言った。アルフレッドは必要な頁を押収し、老人を禁制品売買の容疑で連行するよう命じる。店を出たときには揚げ芋の露店が片づけを始めており、腹を空かせた部下は力なく肩を落とした。アルフレッドは逃げるわけではないから急いで買ってこいと銀貨を渡し、自分も一つ受け取ったが、芋はすでに冷たく、塩だけが底に固まっていた。
一方、王都の北門外では、討伐を終えた騎士たちが傷だらけの姿で帰還していた。農地へ入り込んだ牙熊は二頭と報告されていたが、現地には親熊一頭と成長した子熊三頭がおり、戦闘は予定より長引いた。リュカの濃紺の騎士服は泥と血で黒く汚れ、左袖は肩から肘まで大きく裂けている。馬から降りるときにも左腕を動かせず、部下が手綱を受け取った。
「隊長、その腕はすぐに縫わないといけません。牙が骨まで届いていたらどうするんです」
若い騎士が青い顔で訴えたが、リュカは先に重傷者を医務室へ運ぶよう命じた。彼の腕から落ちた血が石畳へ赤い点を作り、湿った土には獣の生臭さが残っている。討伐へ持っていった昼食の固いチーズと黒パンは袋の中で潰れ、誰も食べる時間がなかった。腹を空かせた騎士たちは、厨房から漂ってくる肉の煮込みの匂いへ顔を向けながら、負傷者の肩を支えた。
「俺は自分で歩ける。先にディーノを診てやってくれ。あいつは脇腹をやられている」
リュカは医務室の扉まで負傷者を運んだものの、中には簡易寝台が並び、治療師たちは手を血で染めながら走り回っていた。床には切り取られた包帯が散らかり、湯を沸かす鍋から薬草と血の混じった臭気が立ち上る。リュカは壁へ背を預け、裂けた袖を押さえた。傷の痛みに加えて、数日前から続く頭痛が戻り、視界の端が暗くなっていた。
そのとき、医務室の奥から白い前掛けをつけたエレナが現れた。彼女は負傷者が多いと聞き、薬草を届けるため母とともに騎士団を訪れていた。薄茶色の普段着の上へ生成りの前掛けを重ね、邪魔にならないよう髪を低い位置で結んでいる。前掛けのポケットには包帯を切る小さな鋏と、乾燥させた止血草が入っていた。
「リュカ様、その腕を見せてください」
エレナは彼の血に濡れた袖を見て、薬草の籠を床へ置いた。リュカは浅い傷だから大丈夫だと答えたが、エレナは裂け目から見える傷を確かめ、眉を寄せた。幼い頃にも、リュカは木から落ちて腕を擦りむいたとき、血が止まっているから怪我ではないと言い張ったことがある。そのときはエレナが母を呼びに走り、結局三針も縫うことになった。
「浅い傷から、こんなに血は出ません。昔から、怪我を隠すところは変わりませんね」
エレナが言うと、リュカは反論できずに視線をそらした。医務室には空いている寝台がないため、二人は隣の物置部屋へ移った。そこには予備の毛布、松葉杖、洗って乾かしている途中の包帯が積まれ、窓辺には治療師が食べ損ねた豆のスープが置かれていた。スープは冷え、表面に張った脂の膜へ小さな蠅が止まりかけている。
「上着を脱げますか。それとも袖を切りましょうか」
エレナが尋ねると、リュカは右手だけで上着の留め具を外そうとした。だが、血で濡れた布が傷へ張りつき、少し動かすだけで息が詰まる。エレナは鋏で袖を縦に切り、ぬるま湯を含ませた布で固まった血を少しずつ洗い落とした。牙熊の爪は肘の上から前腕まで走り、皮膚を深く裂いていた。
「痛みますか」
「牙熊に引っかかれたのだから、まったく痛くないと言えば嘘になるな」
「では、我慢できるかではなく、どのくらい痛むかを教えてください。治療する人へ正しく伝えるのも、隊長のお仕事です」
エレナは子供へ言い聞かせるように話し、傷の周囲を指で慎重に確かめた。リュカは彼女の真剣な顔を見ているうちに、討伐地で張りつめていた肩の力が緩むのを感じた。血と薬草の匂いの中でも、エレナからは雨上がりの土と温めたミルクに似た気配が漂っている。彼女がそばにいるだけで頭痛が弱まる理由を、今度こそ確かめなければならないと思った。
「エレナ。先日の夜、君は何か言いかけなかったか」
リュカが尋ねると、エレナは止血草をすり潰す手を止めた。小さな乳鉢の中で、青い葉から苦い匂いが立ち上る。彼女は何でもないと答えようとしたが、リュカの銀灰色の瞳がまっすぐ自分を見ていることに気づき、唇を閉じた。嘘をつけば、ミレイユの行いを疑いながら自分も同じことをすることになる。
「私は幼い頃から、リュカ様の魔力をほかの方とは違う匂いとして感じていました。でも、それが何を意味するか、確信を持てなかったのです」
「夜会では、何を感じた?」
「あなたの魔力が苦しんでいました。ミレイユを拒み、別の場所へ行きたがっているように感じました」
エレナは「私のところへ」と続けられず、止血草を清潔な布へ広げた。自分が番だと主張すれば、彼の答えを奪ってしまうという考えは今も変わっていない。リュカは黙って彼女の横顔を見つめた。触れられてもいないのに、数年間続いていた魂の渇きが、彼女の声を聞くだけで少しずつ鎮まっていた。
「傷に薬を載せます。少し沁みますから、右手を握っていてください」
エレナはそう告げ、リュカの左手を支えようと指を伸ばした。血を拭き取った彼の手のひらへ、彼女の素手が触れる。次の瞬間、熱いものが重なった指先から腕を駆け上がり、二人の胸の中心へ流れ込んだ。物置部屋の空気が震え、積み上げられていた包帯が床へ落ち、冷めた豆のスープの表面に細かな波紋が広がった。
「リュカ様、これは……」
エレナが手を離そうとすると、リュカは反射的に指を握り返した。二人の魔力が触れ合い、金色の光となって指の間からあふれ出す。光は壁や天井を走り、古びた毛布も松葉杖も、床へ転がった空の薬瓶も明るく照らした。廊下を歩いていた治療師たちが何事かと扉の前へ集まったが、誰も中へ踏み込めなかった。
リュカの頭を締めつけていた痛みが、一息ごとに消えていった。吐き気も指先の冷たさもなくなり、胸の奥に開いていた穴へ温かなものが流れ込んでくる。幼い頃、訓練に失敗した日にエレナが分けてくれた焼き栗の匂い、雪の日に彼女と一枚の毛布へくるまった感触、遠征から帰るたびに無意識に彼女の姿を捜していた理由が、一つにつながった。身体はずっと答えを知っていたのに、彼だけがそれを見ようとしていなかった。
エレナの胸にも、同じ温もりが広がっていた。幼い頃から感じてきた魂の匂いが初めて自分の魔力と重なり、呼吸をするたびに身体の隅々まで行き渡る。彼女は膝の上に置いた包帯を握り、夢ではないことを確かめようとリュカの手へもう一度指を重ねた。金色の光はさらに強くなったが、不思議と目を刺す眩しさはなかった。
「エレナ……君だったのか」
リュカの声はかすれていた。エレナは何と答えればよいか分からず、濡れた布を握ったまま彼を見つめ返す。二人の間には、百合の香油も、誰かが語った運命の言葉も必要なかった。触れ合った魂そのものが、長い間捜していた相手をようやく見つけたと伝えていた。
そのとき、物置部屋の扉が開き、帳簿と青い硝子片を持ったアルフレッドが立っていた。床を走る金色の光、手を重ねた二人、リュカの腕から落ちる血を順番に見て、彼は珍しく目を見開いた。だが、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻ると、手にしていた帳簿を脇へ挟んだ。重要な報告を持ってきたものの、まず治療を終えなければならないと判断したらしい。
「隊長、本物を見つけられたところ申し訳ありませんが、その腕は光っていても治ってはいません。先に縫ってもらってください」
アルフレッドの言葉で、エレナは止血の途中だったことを思い出した。リュカも傷へ目を落とし、先ほどより血が流れているのを見て眉を寄せる。廊下の治療師が慌てて糸と針を取りに走り、別の者は床へ落ちた包帯を拾い集めた。金色の光が穏やかに薄れていく中でも、リュカはエレナの手だけは離さなかった。
「アルフレッド、その帳簿は何だ」
リュカが尋ねると、アルフレッドは青い硝子片を布の上へ置いた。甘い百合の匂いが微かに漂い、エレナの鼻に焦げた薬草の臭気が触れる。リュカの身体が一瞬こわばったため、エレナは彼の手を握る力を少し強めた。すると頭痛は戻らず、呼吸も乱れなかった。
「ミレイユ嬢がまとっていたのは、番の香りではありません。禁制の魔導薬、月惑いの香油です。三年前から偽名で購入され、あなたの嗅覚と魔力を少しずつ傷つけていました」
物置部屋から誰の声も聞こえなくなった。隣の医務室では負傷した騎士が薬の苦さに文句を言い、治療師が黙って飲めと叱っている。厨房からは夕食の鐘が鳴り、肉の煮込みを待っていた者たちの足音が廊下を走っていった。そんな普段どおりの音の中で、リュカは青い硝子片を見つめ、自分が何年もの間、偽りの香りに苦しめられてきた事実を受け止めた。
「すべて調べてくれ。誰が薬を買い、誰が使い、誰がそれを知っていたのか、一つも残さず明らかにする」
リュカの声から、これまでミレイユへ向けていた幼馴染としての甘さが消えていた。アルフレッドは承知したと答え、押収した帳簿を抱え直す。エレナは隣に座ったまま、リュカの手に自分の体温を伝え続けた。リュカは彼女へ顔を向けると、確かめるようにその名をもう一度呼んだ。
「エレナ。俺が捜していたのは、ずっと君だった」
エレナはすぐに喜びの言葉を返さず、まず傷の治療を終えましょうと答えた。けれども止血草を塗る彼女の指はわずかに震え、伏せた頬には金色の光とは違う赤みが広がっている。リュカは痛みに耐えながらも、その手を見て初めて穏やかに笑った。冷めた豆のスープの横では、追い払われた蠅が再び皿の縁へ止まり、集まった治療師の一人が布巾を振って外へ追い出した。




