第2話 触れるほど遠ざかる心
第2話 触れるほど遠ざかる心
夜会から三日後、騎士団本部の食堂には、焼いた腸詰め肉と豆の煮込みの匂いが充満していた。昼の鐘が鳴ってから半刻も過ぎているのに、リュカの前に置かれた木皿には手をつけた跡がなく、煮汁の表面には白い脂が固まり始めている。訓練を終えた騎士たちは汗を吸った灰色の上着を椅子の背へ掛け、黒パンを豆の煮込みへ浸しながら、昨夜の賭け事や厩舎で生まれた仔馬の話をしていた。普段なら部下の食事が終わるまで席を立たないリュカだったが、この日は額へ片手を当てたまま、ぬるくなった水を一口飲むだけだった。
「隊長、その豆が嫌いなら俺が食べてもいいですか。今朝、寝坊して朝飯を抜いたんです」
向かいに座った若い騎士が、リュカの皿を指差して尋ねた。隣の男が「お前は朝飯を三回食っても足りないだろう」と笑い、食堂のあちこちから同意する声が上がる。いつもならリュカも苦笑するところだったが、目の奥で脈打つ痛みが強く、口角を持ち上げることもできなかった。皿を若い騎士のほうへ押し出そうとしたとき、食堂の扉が勢いよく開いた。
「まあ、リュカ様。やはり何も召し上がっていないのですね」
ミレイユは騎士団本部には不釣り合いな薄桃色のドレスをまとい、侍女二人に大きな籠を運ばせて入ってきた。金糸の縁取りが施された袖からは白い手袋がのぞき、髪には真珠の櫛が差してある。籠の中には蜂蜜を塗った焼き菓子、鳥肉の香草焼き、林檎の砂糖煮が詰められており、甘い香りが豆と腸詰め肉の匂いを押し流した。騎士たちは侯爵令嬢の来訪に慌てて立ち上がり、口いっぱいに黒パンを入れていた若い騎士は、飲み込めずに頬を膨らませたまま敬礼した。
「ここは騎士団の施設だ。許可なく入ってはいけないと、門番から聞かなかったのか」
リュカは立ち上がったものの、床がわずかに傾いたように感じて机へ手をついた。ミレイユの肌から漂う百合の香油が鼻へ届いた途端、喉の奥が狭くなり、胃の中のものが逆流しかける。夜会のときより香りが濃くなっており、その下に焦げた薬草のような苦い臭気が潜んでいた。番の香りなら安らぐはずだと自分へ言い聞かせても、身体は言葉に従わなかった。
「もちろん聞きましたわ。でも、わたくしはリュカ様の番ですもの。番の体調を整えるのは、わたくしの役目でしょう?」
ミレイユは悪びれる様子もなく答え、リュカの隣に椅子を置かせた。先ほどまで座っていた騎士は、食べかけの腸詰め肉を皿ごと抱えて別の卓へ移動する。ミレイユは籠から白い陶器の皿を取り出すと、鳥肉を一切れ載せ、銀の小さなナイフで食べやすい大きさに切った。鳥肉にはローズマリーが多く振られており、油と香草の匂いが湯気とともに立ち上った。
「はい、リュカ様。わたくしが食べさせて差し上げます」
ミレイユが肉を刺したフォークを口元へ差し出すと、リュカは顔を背けた。騎士たちは見てはいけないものを見たように皿へ目を落とし、匙と木皿が触れる音だけが続く。リュカは彼女の手首を押し戻そうとしたが、手袋に触れた瞬間、こめかみから後頭部へ鋭い痛みが走った。指先まで冷たくなり、喉の奥へ酸っぱいものが込み上げてくる。
「やめてくれ。食欲がない」
「だからこそ、食べなければなりませんわ。わたくしが来なければ、あなたはご自分の身体も大切になさらないのですから」
ミレイユは困った子供をたしなめるように言い、空いている手でリュカの肩へ触れた。リュカは反射的にその手を振り払い、椅子の脚が床をこすって大きな音を立てる。銀のフォークから鳥肉が落ち、磨かれた革靴の爪先へ油の染みがついた。ミレイユは自分の手を胸元へ引き寄せ、食堂中の視線が集まっていることを確かめてから、潤んだ目でリュカを見上げた。
「ひどいですわ。わたくしは、あなたのためを思っているだけなのに」
「俺のためだと言うなら、今は帰ってくれ。勤務中に私的な訪問を受けるつもりはない」
リュカは乱れた呼吸を整えながら言い、食堂の出口を示した。ミレイユは唇を震わせたが、侍女に籠を片づけさせようとはしない。それどころか、焼き菓子は皆で食べてほしいと騎士たちへ微笑み、理解のある番を演じた。騎士たちは断ることもできずに頭を下げたが、彼女が出ていったあとも、蜂蜜菓子へ手を伸ばす者はいなかった。
その日の夕方、エレナは母とともに、王都の西区にある伯爵夫人の茶会へ出席した。小さな応接室には黄色い薔薇が飾られ、丸机の上には胡桃の焼き菓子と薄く切った胡瓜のパンが並んでいる。エレナは若草色のドレスに生成りのショールを合わせ、銀の茶匙で紅茶を二度かき混ぜたものの、一口も飲んでいなかった。茶の表面へ浮いた薄い膜を見つめていると、向かいの令嬢たちが扇の陰で声を潜めた。
「ヴァルフェン様は、あまりお具合がよくないそうですわ。ミレイユ様が毎日お世話をしていらっしゃるとか」
紫色のドレスを着た令嬢が言うと、隣の婦人は砂糖を三つも紅茶へ落としながら頷いた。匙をかき回すたびに陶器へ硬い音が当たり、夫人の膝に乗っていた白い小型犬が耳を動かす。エレナはリュカが体調を崩していると聞いて指を止めた。夜会で見た汗ばんだ顔が浮かび、せめて見舞いの手紙だけでも送るべきかと考えた。
「それなのに、別の方がリュカ様へ近づこうとしているそうですわよ。幼馴染だからといって、番の間に入るなんて困ったものですわね」
夫人の視線がエレナへ向き、ほかの令嬢たちも一斉に口を閉じた。部屋の隅では、伯爵夫人の小型犬が落ちた胡瓜を前脚で押さえ、パンから器用に引き抜いている。エレナは膝の上でハンカチを折り直し、母が横から心配そうに見ていることに気づいた。ここで俯けば噂を認めたことになると思い、背筋を伸ばして夫人を見返した。
「私のことでしたら、リュカ様へ近づこうとした覚えはございません。体調を崩されていることも、今初めて伺いました」
「でも、夜会ではずいぶん意味ありげに見つめ合っていらしたでしょう?」
紫色の令嬢が身を乗り出し、エレナの返答を待った。紅茶と焼き菓子の甘い匂いが重なり、締め切った部屋の空気が重くなる。エレナは、リュカの魔力が自分を求めていたことを説明できなかった。自分こそ番かもしれないと言えば、ミレイユと同じように運命を掲げて彼を奪おうとしていると受け取られる。
「目が合っただけです。それ以上の意味はございません」
エレナが答えたとき、応接室の扉が開き、遅れて到着したミレイユが姿を現した。今日は葡萄色のドレスを着ており、胸元には銀狼をかたどったブローチを留めている。伯爵夫人は席を用意させたが、ミレイユは座らず、まっすぐエレナの前まで歩いてきた。百合の香油が近づき、エレナの敏感な鼻には、その中に混ざる薬臭さがはっきりと感じられた。
「ずいぶん白々しいことをおっしゃるのね。リュカ様へ見舞いの招待状を送ったでしょう?」
「招待状ではありません。父が毎年開いている収穫祭の案内状です。ヴァルフェン侯爵家にも、例年どおりお送りしました」
エレナは椅子から立ち上がり、ミレイユと向き合った。案内状には父が育てた林檎を使った菓子を用意すると書き、封蝋には家紋を丁寧に押した。ところが、返事はまだ届いていない。ミレイユの右手に赤い蝋の欠片がついていることへ気づき、エレナは彼女が案内状を見た理由を理解した。
「リュカ様宛てのものは、わたくしが処分しましたわ。番であるわたくしを通さず、男性へ直接招待状を送るなんて非常識ですもの」
「侯爵家へ送った正式な書状を、なぜあなたが処分できたのですか」
エレナの声は低くなり、茶会にいた婦人たちが互いの顔を見合わせた。ミレイユは一瞬だけ言葉を止めたが、すぐに顎を上げる。エレナの母は椅子から立ち、娘のそばへ寄った。机の下では、小型犬が胡瓜を食べ終え、今度は主人のドレスの裾で口を拭いていた。
「わたくしはリュカ様の番です。あの方に届く手紙を確かめるのは当然でしょう。番の間へ割り込むなんて、恥を知るべきだわ」
ミレイユの声が応接室へ響き、誰も焼き菓子へ手を伸ばさなくなった。エレナは、胸元へ刺さった針を抜くようにゆっくり息を吐いた。自分が番だと言い返せば簡単かもしれないが、それではリュカを争いの賞品にしてしまう。彼が何を感じ、誰と生きたいのかを聞かないまま、自分だけの感覚を真実として押しつけることはできなかった。
「私は、リュカ様のお気持ちを無視してまで近づくつもりはありません。ですが、あなたにもあの方の手紙を勝手に捨てる権利はないはずです」
ミレイユの頬が強く引きつり、銀狼のブローチを握る指へ力が入った。伯爵夫人はようやく空気の悪さに耐えられなくなったらしく、冷めてしまった紅茶を取り替えさせようと侍女を呼ぶ。ミレイユはエレナへ顔を近づけると、ほかの者には聞こえにくい声で、リュカのそばから消えるよう告げた。エレナは返事をせず、母の手を取って茶会を辞した。
同じ時刻、騎士団本部の執務室では、アルフレッドが机の上へ三日分の報告書を積み上げていた。雨漏りで端が波打った帳面、干し肉の脂がついた巡回表、誰かが裏へ居酒屋の勘定を書いた訓練記録まであり、几帳面な彼は一枚ずつ種類を分けている。リュカは窓際の椅子に座り、昼から続く頭痛に耐えながら、冷えた薬草茶を飲んでいた。茶には鎮痛作用のある柳の皮が入っていたが、舌に苦味が残るだけで、痛みはほとんど変わらなかった。
「今日だけで、食堂の立入規則を三つ破っています。隊長が許可したという話になっていますが、事実ですか」
アルフレッドは報告書を示し、返答を待った。リュカが首を横へ振ると、彼は無言で一枚目へ赤い印をつけた。豹系獣人であるアルフレッドの鼻は鋭く、食堂に残った百合の香りにも違和感を抱いていた。だが、証拠のない段階で主人の幼馴染を疑うことはせず、まず規則違反だけを確かめようとしていた。
「門番には、次から通すなと命じてくれ。侯爵家にも同じことを伝える」
リュカが言い終えるより先に、廊下から靴音が近づいた。扉が開き、帰ったはずのミレイユが侍女を連れて入ってくる。昼よりも香油の匂いが強く、執務室の乾いた紙とインクの臭いが一瞬で消えた。リュカは椅子の肘掛けを握り、目の奥に走った痛みをこらえた。
「聞きましたわ。エレナが、わたくしを皆の前で侮辱したのです」
ミレイユは椅子へ座るよう勧められる前に、リュカの机まで歩いてきた。紫色のドレスの裾が書類へ触れ、床に置いてあった巡回表が一枚めくれる。リュカは彼女の訴えより、侯爵家へ送られた書状を勝手に処分したという話に眉を寄せた。アルフレッドも作業する手を止め、ミレイユの顔を静かに見た。
「エレナから俺への招待状を捨てたのか」
「招待状など必要ありませんわ。あの女はあなたを誘惑しようとしているのですもの」
ミレイユは当然のことのように答え、机を回り込んでリュカの肩へ手を置いた。触れられた場所から冷たい痺れが広がり、リュカの胃が強く縮む。彼は立ち上がってその手から逃れたが、急な動きに身体が追いつかず、机の端へ腰をぶつけた。インク壺が倒れ、処理済みの報告書へ黒い染みが広がっていく。
「俺に触れるな。そして、正式な判定を受けるまで番を名乗ることもやめろ」
リュカの声に、ミレイユだけでなく侍女たちも肩を震わせた。アルフレッドは倒れたインク壺を起こし、汚れていない書類を素早く避難させる。ミレイユは目を見開き、やがて机の上へ黒く広がった染みを見下ろした。その表情には、自分が拒まれたことを理解するより先に、拒絶したリュカのほうが間違っていると決めつける色が浮かんでいた。
「エレナに何か吹き込まれたのですね。あの女があなたの心を惑わせたから、わたくしを疑うのでしょう?」
「エレナは関係ない。俺は、お前に触れられると具合が悪くなる。番であるなら、なぜ俺の身体はお前を拒むんだ」
リュカが正面から尋ねると、ミレイユの唇から笑みが消えた。彼女は一歩後ろへ下がり、胸元のブローチを指で何度もこする。答えを探す間、部屋には雨が窓を打つ音と、インクを吸わせるためにアルフレッドが砂をまく音だけが響いた。ミレイユはやがて、リュカの不調までエレナの魔術のせいだと言い残し、侍女たちを連れて部屋を出ていった。
深夜になっても、リュカの頭痛は治まらなかった。寝台へ入って目を閉じると吐き気が強くなるため、彼は白いシャツと黒いズボンのまま外套を羽織り、騎士団本部の中庭へ出た。雨はすでに上がっていたが、石畳には水たまりが残り、厨房の裏には洗ったばかりの布巾が縄へ何枚も干されている。夜風が吹くたびに濡れた布が揺れ、石鹸と炭火の匂いが漂った。
「リュカ様?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、回廊の向こうにエレナが立っていた。彼女は茶会で着ていた若草色のドレスの上に灰色の外套を重ね、両手で小さな包みを抱えている。帰宅途中、母の馬車の車輪がぬかるみにはまり、修理のため騎士団の馬車置き場を借りているのだという。包みの中には、茶会で出されたものの食べきれずに持たされた胡桃の焼き菓子が二つ入っていた。
「こんな時間にどうなさったのですか。お顔の色がよくありません」
エレナが数歩近づくと、リュカは反射的に身構えた。ミレイユに触れられたときの痛みがよみがえり、また吐き気に襲われると思ったからである。しかしエレナから届いたのは、雨上がりの土と温めたミルクを合わせたような淡い匂いだった。彼女との距離が縮まるにつれて、こめかみの奥で暴れていた脈がゆっくり静まっていく。
「少し眠れなくて、風に当たっていた。君こそ、茶会はどうだった」
「胡桃の焼き菓子はおいしかったです。でも、白い犬が胡瓜をパンから抜いて食べていました。お行儀が悪いのに、誰も叱れなくて」
エレナが小さく笑うと、リュカの肩から力が抜けた。頭痛は完全には消えていなかったが、先ほどまで目を開けているのもつらかった痛みが、遠くへ引いている。彼女は包みを開き、少し崩れた焼き菓子を一つ差し出した。リュカは昼から何も食べていなかったことを思い出し、それを受け取った。
「冷めていますけれど、よろしければ召し上がりますか」
「いただこう。今日は豆の煮込みも鳥肉も食べ損ねたからな」
焼き菓子は端が欠け、包み紙には胡桃の油が染みていた。それでも口へ入れると、焦がした砂糖の甘さと胡桃の香ばしさが広がり、空だった胃がようやく動き始める。エレナは彼が食べ終えるまで急かさず、厨房の縄で揺れる布巾を眺めていた。その横顔を見ながら、リュカは自分の呼吸がいつの間にか整っていることへ気づいた。
「エレナ。君のそばにいると、頭の痛みが和らぐ」
リュカが口にすると、エレナの指が包み紙の上で止まった。彼女は何かを知っているように目を伏せたが、すぐには答えなかった。夜会で自分を見つめていた瞳と、今夜のためらいがつながり、リュカの胸に新しい疑問が生まれる。番だと名乗るミレイユに触れられるほど苦しくなり、何も求めないエレナのそばでは身体が安らぐ。その事実を認めた瞬間、これまで正しいと思い込もうとしていたものが、足元から静かに崩れ始めた。




