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第1話 言い張る幼馴染と、沈黙する令嬢

第1話 言い張る幼馴染と、沈黙する令嬢


王宮の大広間には、蜜蝋の燭台が三十本も並び、磨き上げられた床へ黄色い光を落としていた。楽団が奏でるワルツに合わせて絹のドレスが波打ち、給仕たちは銀盆に載せた葡萄酒や仔牛肉のパイを運んでいる。焼きたてのパイから漂う胡椒とバターの匂いに気づいたエレナは、夕食をほとんど口にしてこなかったことを思い出したが、細い腰を締めつける胴衣のせいで食欲は起こらなかった。淡い青色のドレスは母が若い頃に着たものを仕立て直した品であり、袖口の内側には針仕事をした侍女が残した白い糸が一本だけ出ていた。エレナは人目を避けるようにその糸を指先で丸めながら、広間の中央に立つリュカを見つめた。


リュカは騎士団の正装である濃紺の上着を着て、左胸に銀狼の紋章を留めていた。襟元まできちんと留められた銀の飾り釦には一つの曇りもなく、日頃から剣帯の金具まで自分で磨く彼らしい装いだった。しかし、彼は先ほどから葡萄酒に一度も口をつけず、杯の脚を長い指で何度もなぞっている。幼い頃、苦手な薬湯を飲まされたときにも同じ癖を見せていたことを思い出し、エレナはドレスの胸元へ手を添えた。十三年前の冬、リュカは薬湯を暖炉の灰へ捨てようとして母親に見つかり、三人そろって廊下へ立たされたことがあった。


「エレナ、壁とお話ししているの?」


赤い髪を肩へ流したミレイユが、リュカの腕を取ったまま声をかけてきた。彼女は真珠を縫いつけた白いドレスをまとい、腰には銀糸で狼と薔薇の刺繍を施していた。まだ婚約もしていない令嬢がヴァルフェン侯爵家の銀狼を身につけるのは不自然だったが、周囲の婦人たちは気づかないふりをして扇を動かしている。ミレイユの肌からは百合に似た甘い香油の匂いが立ち上り、その奥には舌の付け根が痺れるような薬草の臭気が混じっていた。


「壁の金細工を見ていただけよ。去年より、ずいぶんきれいになったと思って」


エレナは壁に刻まれた葡萄の装飾へ視線を移し、嘘ではないことを確かめてから答えた。春の改修で金箔を張り直したらしく、葉の一枚一枚まで明るく輝いている。ところが、その下に並ぶ長椅子の脚には小さな傷が残っており、何年か前に幼い王子が木馬をぶつけて乳母に叱られた話を、エレナは父から聞いていた。立派な王宮にも直しきれない傷があるのだと思うと、胸を締めつけていた息が少しだけ外へ出た。


「そう。あなたは昔から、誰も気にしないものばかり見ているのね」


ミレイユは唇を持ち上げると、リュカの腕へさらに体を寄せた。その瞬間、リュカの肩が硬くなり、手にしていた杯の中で赤い葡萄酒が大きく揺れた。エレナには、彼を包む銀色の魔力が細い棘のように逆立つのが分かった。それなのにミレイユは気づかず、リュカの袖へ頬を近づけて満足そうに目を細めた。


「ミレイユ、離れてくれ。今夜は少し頭が痛む」


リュカは声を抑えて告げたものの、ミレイユは腕を解かなかった。むしろ自分こそ彼を支えられるのだと示すように、白い手袋をはめた指で彼の手首を包んだ。百合の香りが強くなり、リュカはこめかみへ片手を当てる。昼食を取る時間もなかった彼のために、アルフレッドが騎士団の厨房から持たせた固い黒パンが、まだ上着の内ポケットに入っていることをエレナは知らなかった。


「頭が痛むのなら、なおさらわたくしのそばにいなければなりませんわ。番の香りは、疲れた獣人を癒やすのでしょう?」


ミレイユの声が聞こえると、近くにいた貴族たちが会話をやめた。扇の動きが止まり、楽団の演奏と食器の触れ合う音だけが大広間に残る。リュカは何かを言おうとしたが、ミレイユは彼の言葉を待たずに中央の階段へ進んだ。白いドレスの裾が床を滑り、縫いつけられた真珠が燭台の光を受けてきらきらと輝いた。


「皆様、今夜、この場をお借りしてお知らせしたいことがございます」


ミレイユは階段を二段上がり、集まった人々を見渡した。王太后の誕生日を祝う夜会で、主催者の許しも得ずに私的な発表を始めるのは無作法だったが、彼女の父であるラングレー侯爵は止めようとしない。それどころか髭の端を整えながら、ヴァルフェン侯爵へ意味ありげな笑みを向けていた。娘の発言をきっかけに両家の婚姻を既成事実にするつもりなのだと、エレナにも分かった。


「ミレイユ、やめるんだ。まだ何も確認されていない」


リュカが低い声で制したが、彼女は聞こえなかったように微笑んだ。手袋越しに彼の腕を強くつかみ、胸を張って顎を上げる。リュカの顔から血の気が引き、銀灰色の瞳が険しく細められた。侯爵夫人の一人が期待に満ちた声で「まあ、もしや」と口にすると、ミレイユは待っていたように大きく息を吸った。


「リュカ様の運命の番は、わたくしです。幼い頃から、わたくしたちの魂は固く結ばれていたのです」


大広間に歓声が広がり、楽団の指揮者まで演奏を止めて拍手を送った。ヴァルフェン家とラングレー家が結ばれれば、王国北部の軍事力と穀倉地帯が一つになるため、貴族たちにとって都合のよい縁談だった。祝いの葡萄酒を用意しろと誰かが叫び、給仕が慌てて銀盆の向きを変えた。その拍子に小さな肉詰めパンが床へ落ち、誰にも拾われないまま、華やかな靴の間で潰された。


「おめでとうございます、ミレイユ様。やはり、お二人はお似合いだと思っておりましたわ」


桃色のドレスを着た令嬢が声を弾ませると、周囲の者たちも次々に祝福を口にした。ミレイユは頬を染め、すでにリュカの妻になったかのような顔で礼を述べる。しかしリュカは笑っておらず、彼女につかまれた腕をゆっくり引き抜こうとしていた。彼のこめかみに薄く汗が浮かび、右の奥歯を噛み締めているのが、離れた場所にいるエレナにも見えた。


エレナの鼻先へ、雨に濡れた森と焚き火を合わせたような匂いが届いた。それは香油でも花でもなく、幼い頃からリュカのそばで感じてきた魂の気配だった。普段は冬の毛布に残る日差しほど穏やかなのに、今夜は行き場を失った獣のように大広間をさまよい、まっすぐエレナへ流れ込んでくる。胸の奥が熱くなり、指先には細かな震えが走ったが、彼女は両手を重ねて押さえ込んだ。


「エレナ様も、祝福して差し上げないのですか?」


先ほどの桃色の令嬢が振り返り、周囲の視線も一緒にエレナへ集まった。ミレイユはリュカの隣から、答えを知っている者のような笑みを向けている。ここで自分こそ番だと訴えれば、夜会はさらに混乱し、リュカは二人の令嬢から所有物のように奪い合われることになる。エレナは唇の内側を噛み、口の中に広がった鉄の味を確かめてから顔を上げた。


「大切なことですから、神殿で確かめていただくのがよいと思います。リュカ様ご自身のお考えも、まだ伺っておりませんもの」


祝いの空気に細い亀裂が入り、何人かの貴族が気まずそうに杯へ口をつけた。ミレイユは眉をわずかに動かしたが、すぐに笑顔を取り戻す。リュカは初めて息をつき、エレナのほうへ一歩踏み出そうとした。しかしミレイユがその腕をつかみ直し、二人の間へ白い肩を割り込ませた。


「確認など必要ありませんわ。わたくしには分かるのです。ねえ、リュカ様?」


ミレイユは甘えるように問いかけたが、リュカは答えなかった。彼の銀灰色の瞳は、祝福する人々の肩越しにエレナだけを見ていた。エレナはその視線を受け止めながら、自分から名乗り出ることはできなくても、彼が助けを求めたときには背を向けまいと決めた。楽団が再び明るい曲を奏で始める中、床に落ちた肉詰めパンを年若い給仕が布巾で拾い、誰にも見られないように小さくため息をついた。


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