第10話 記憶を持つ俺と、記録を持つ俺
《第一権限層》
《記憶認証完了まで残り五十八秒》
白い空間に、二人の灰原レンが向かい合っている。
一人は俺。
記憶の三二%を失い、姉さんの顔も、父さんの声も、黒瀬ジンへの憎しみも欠けている。
もう一人は。
俺が能力を使うたびに削除してきた記憶の集合体。
失った過去。
消えた感情。
捨てられた人格。
それらをすべて持っている、もう一人の俺。
『返せ』
もう一人の俺が言う。
『俺の人生を』
「俺が奪ったわけじゃない」
『同じだ』
その声には、確かな怒りがあった。
俺にはもう残っていない、黒瀬ジンへの憎しみ。
姉さんを忘れた自分への嫌悪。
母さんの声を失った絶望。
すべてが、あいつの中にある。
『お前は俺を切り捨てて生き残った』
「切り捨てたかったわけじゃない」
『でも、使った』
言い返せない。
能力を使えば記憶が消えると知っていた。
それでも使った。
生きるため。
誰かを守るため。
世界を止めるため。
理由はあった。
だが、消された側にとっては関係ない。
『痛みも』
もう一人の俺が一歩近づく。
『後悔も』
さらに一歩。
『全部、俺に押しつけて』
目の前まで来る。
『お前だけが英雄になった』
《残り四十九秒》
胸ポケットの紙から、さらに文字が消えていく。
――あなたの名前は、灰原レン。
その一行は、もう半分以上読めない。
「九条さん」
俺は隣を見る。
九条は二人の俺を見比べていた。
「どちらが本物に見えますか」
「判断材料が不足しています」
即答。
今の九条は、俺を覚えていない。
だから感情で選ばない。
「記憶の連続性だけを基準にするなら、彼の方が正規人格に近い」
もう一人の俺が笑う。
『聞いたか』
九条は続ける。
「ですが、人格の正当性を記憶量だけで決めるのは不合理です」
笑みが止まる。
「人間は常に忘れます。記憶が欠落したからといって、別人になるわけではない」
『こいつは普通の忘却じゃない』
「理解しています」
九条は俺を見る。
「問題は、欠けたことではありません」
「では、何ですか」
「欠けた後に何を選んだかです」
その言葉で、白い空間に細いひびが入った。
認証システムが反応している。
《判定基準の変更を検出》
《記憶量以外の要素は認証対象外です》
空間全体に機械音声が響く。
『ほらな』
もう一人の俺が腕を広げる。
『ここでは、俺の方が正しい』
「また、与えられた基準か」
俺はつぶやく。
記憶を多く持つ方が本物。
その一つの基準だけで、人格を選ばせる。
第零階層は、最初から俺たちを競わせるつもりだ。
一人だけ残すために。
「正規人格を選ぶ必要はない」
『負けるのが怖いのか』
「違う」
俺はもう一人の俺を見る。
「お前も俺だ」
『ふざけるな』
「ふざけてない」
『俺を切り捨てたくせに!』
あいつの拳が俺の顔面を打ち抜いた。
衝撃で床へ転がる。
口の中に血の味が広がった。
九条が銃を構える。
「攻撃をやめなさい!」
『黙れ!』
もう一人の俺が手を振る。
九条の足元にタイムラインが現れる。
《削除対象:発砲動作》
まずい。
「九条さん、撃たないで!」
俺が叫ぶ。
九条の指が止まる。
次の瞬間、銃を構えた動作だけが消えた。
彼女の腕が、不自然に下がっている。
「能力を使えるのか」
『当たり前だ』
もう一人の俺の視界にも、編集画面が浮かんでいる。
『お前が失った能力の感覚も、全部俺の中にある』
同じ能力。
いや、俺より精密だ。
俺が使うたびに失った経験まで持っている。
『今のお前より、俺の方がうまく使える』
《残り三十五秒》
「だから、俺を消すのか」
『そうだ』
あいつは迷わなかった。
『お前が残れば、また記憶を切り捨てる』
その言葉には怒りだけではない。
恐怖があった。
また消されることへの恐怖。
存在しても、代償として使われるだけ。
それなら、今の俺を消して主導権を奪う。
合理的だ。
「お前は生きたいんだな」
『当たり前だ!』
「なら、同じだ」
『何が』
「俺も生きたい」
もう一人の俺の顔が歪む。
「姉さんのことを思い出せなくても」
胸ポケットの紙を握る。
「父さんの顔が分からなくても」
配信視聴者のコメントが頭の中を流れる。
《灰原レン》
《忘れるな》
《帰ってこい》
「それでも、俺はここまで来た」
『記録に言われたからだろ』
「最初はそうかもしれない」
俺は立ち上がる。
「でも今、父さんを助けたいと思ってるのは俺だ」
『それは俺の感情だ!』
「だったら返してくれ」
『何?』
「奪い返すんじゃない」
俺は手を差し出す。
「共有する」
白い空間が大きく揺れた。
《未定義の認証形式を検出》
《人格統合は許可されていません》
「統合じゃない」
俺はシステムへ向かって言う。
「接続だ」
削除された記憶を俺へ戻せば、あいつが消える可能性がある。
全部を統合すれば、どちらかの人格が上書きされるかもしれない。
だから、完全には戻さない。
あいつを別人格として残したまま、必要な記憶だけを共有する。
二つの編集プロジェクトが、同じ素材フォルダを参照するように。
「お前は消えなくていい」
俺はもう一人の俺を見る。
「俺の中に戻らなくてもいい」
『騙されると思うか』
「思わない」
俺は胸を指す。
「だから、俺の記憶も見せる」
『何を』
「お前が消えたあと、俺が何を選んだか」
姉さんに自分の記録を書いてもらった。
配信で存在を拡散した。
九条を同行者に選んだ。
父さんを救うために、世界か家族かという二択を拒んだ。
失った後の俺が作った記憶。
それは、あいつの中にはない。
「お互いに足りない」
俺は言った。
「お前は過去を持ってる。でも、その後を知らない」
もう一人の俺の目が揺れる。
「俺はその後を生きてる。でも、過去がない」
《残り二十二秒》
「どっちか一人が本物なんじゃない」
俺は手を伸ばし続ける。
「二人で灰原レンだ」
『きれいごとだ』
「そうかもな」
『接続した瞬間、俺を消す気だろ』
「なら、先にお前が編集しろ」
『何?』
「接続条件を、お前が決めろ」
俺の視界に新しいタイムラインが現れる。
《人格間接続》
《共有範囲:未設定》
《主導権:未設定》
《切断権限:未設定》
俺は操作せず、あいつへ渡した。
「主導権を半分ずつにする」
『そんな設定はない』
「作れ」
『簡単に言うな』
「お前の方が編集はうまいんだろ」
もう一人の俺が睨む。
《残り十五秒》
時間がない。
胸ポケットの紙は、ほとんど真っ白になっている。
俺の名前も消えかけていた。
『失敗したら』
あいつが言う。
『二人とも消える』
「一人だけ残るよりはましだ」
『俺はそう思わない』
「嘘だ」
あいつの目を見る。
「本当に俺を消したいなら、もうやってる」
能力差は明らかだった。
最初の一撃で、俺の発声や呼吸を消すこともできたはずだ。
それをしなかった。
殴っただけ。
話し続けた。
こいつは、俺に理解してほしかった。
『……お前は』
もう一人の俺が小さく言う。
『昔から、そうやって勝手に決める』
「それも、お前の記憶か」
『ああ』
「じゃあ、今回は一緒に決めよう」
《残り九秒》
もう一人の俺が俺の手を見る。
八。
七。
六。
ゆっくりと手が伸びる。
五。
四。
指先が触れる。
三。
《人格間接続を開始》
《共有範囲:感情記憶》
《主導権:双方》
《切断権限:双方の同意》
二。
《新規人格形式を検出》
一。
《認証エラー》
白い光が爆発した。
大量の感情が流れ込んでくる。
姉さんへの安心。
父さんへの憧れ。
母さんを失った悲しみ。
ジンへの怒り。
見捨てられた恐怖。
全部。
映像ではない。
出来事の細部は戻らない。
だが、誰を大切にしていたのか。
何を憎んでいたのか。
なぜ苦しかったのか。
感情だけが、俺へ接続される。
同時に、俺の記憶もあいつへ流れる。
白との対話。
九条の選択。
配信者たちの声。
第三の選択肢を作った瞬間。
俺たちは、互いの人生を見た。
『……姉さん、泣いてたな』
頭の中に声が響く。
目の前にいたもう一人の俺の姿は消えていた。
だが、存在は消えていない。
俺の内側。
少し離れた場所にいる。
「聞こえるか」
『聞こえる』
「消えてないな」
『今のところは』
視界に新しい表示が浮かぶ。
《第一権限層認証結果》
《人格数:二》
《正規人格:判定不能》
《例外処理を実行》
白い空間が激しく揺れ始める。
《認証対象を一名に限定できません》
《第一権限層を強制終了します》
床が崩れる。
九条が俺の腕をつかんだ。
「何をしたのですか!」
「選ばなかった」
「説明になっていません」
「二人とも残した」
九条が言葉を失う。
俺たちは白い空間の下へ落下した。
無数の映像が周囲を流れていく。
俺が失った記憶。
知らない人間の記録。
消された街。
存在しなかったことにされた事件。
第零階層は、削除された情報の保管庫。
ジンの言葉は本当だった。
その中心。
巨大な黒い塔が見える。
塔の周囲には、無数の人影が浮かんでいた。
全員、顔がない。
《第二権限層》
《編集履歴監査領域》
《灰原レンが削除した記憶から、敵対人格を生成します》
九条が銃を構える。
「来ます」
人影に顔が浮かび始める。
最初の一人。
母さん。
写真で見た顔。
だが、その表情は優しくない。
『どうして私を忘れたの』
次に、幼い姉さん。
『レンは私を捨てた』
そして。
数十人のブラッククラウンの仲間たち。
『お前だけ生き残った』
その後ろから、巨大な影が現れる。
ケルベロス。
俺が削除した攻撃。
消した音。
奪った結果。
そのすべてが形を持っている。
《監査対象:灰原レン》
《削除総数:百四十七件》
《監査方法:戦闘》
「百四十七……」
俺がつぶやく。
頭の中のもう一人の俺が笑った。
『安心しろ』
「何が」
『百四十七件のうち、八十三件は俺が覚えてる』
俺の右目に、赤い編集画面が浮かぶ。
左目には、これまでと違う青いタイムライン。
二つの視界。
二人分の編集権限。
《共同編集モードを起動しますか?》
俺は母さんの姿をした敵を見つめた。
胸が痛い。
顔を覚えていないのに。
感情だけは、はっきり戻っている。
「起動する」
『今度は勝手に決めるな』
「じゃあ、どうする」
短い沈黙。
『一緒にやる』
二つのタイムラインが重なった。
《共同編集モード:開始》
その瞬間。
百四十七体の敵が、一斉に俺たちへ襲いかかった。




