第9話 俺を忘れた人を選ぶ
《第零階層への個人招待を発行します》
《同行可能人数:一名》
白い扉の上に、三人の名前が表示されている。
《九条シオン》
《黒瀬ジン》
《識別不能》
最後の一人は、仮面をつけた人物だ。
九条は俺を忘れている。
ジンは俺を利用した。
仮面の人物は、九条の記憶を消した。
誰を選んでも危険だった。
「灰原レン」
ジンが先に口を開く。
「俺を連れていけ」
その声には、命令ではなく焦りがにじんでいた。
「第零階層のことを知っている」
「どこまで」
「少なくとも、その女よりは」
ジンが九条を見る。
九条は銃口を俺へ向けたまま動かない。
「会話をやめてください」
彼女の視線は冷たい。
「全員、その扉から離れなさい」
俺を保護していた頃の面影はない。
俺を危険な能力者として警戒している。
知識として分かっていても、胸が痛んだ。
少し前まで、この人は俺と一緒に門を止めた。
それなのに、今は俺を知らない。
「九条さん」
「その呼び方を許可した覚えはありません」
「俺のことを本当に何も覚えていないんですか」
「記録上、あなたが保護対象だった可能性は確認しました」
九条は床へ落ちた紙を見る。
そこには、彼女自身の署名もある。
――灰原レンという人物の存在を確認する。
「ですが、自分で書いた記憶がない」
九条の指が引き金へかかる。
「記録が改ざんされている可能性もあります」
当然の判断だ。
記憶がないのに、自分の署名だけが残っている。
今の九条にとって、俺は自分の過去を捏造したかもしれない存在だ。
「連れていくなら俺だ」
ジンが一歩前へ出た。
「第零階層には、お前一人ではたどり着けない」
「個人招待だ」
「入り口へ行けるだけだ。その先には権限層がある」
「権限層?」
「記憶を持たない人間は通過できない」
胸の奥が冷える。
俺の記憶残存率は六八%。
しかも、自己同一性に重大な欠損がある。
「どうして知ってる」
「行ったことがあるからだ」
広場が静まった。
九条の視線がジンへ移る。
「黒瀬ジン」
「なんだ」
「第零階層は存在しないと、先ほどまで証言していたはずです」
「正式にはな」
「今の発言は、未申告の立ち入りを認めたと判断します」
「好きにしろ」
ジンは俺から目を離さない。
「ただし、今ここで俺を拘束したら、誠一さんは助からない」
父さんの名前。
記憶は薄い。
顔も思い出せない。
それでも、守ると決めたことは残っている。
俺はジンを見た。
「父さんと何があった」
ジンの表情がわずかに揺れた。
「昔、助けられた」
「だから俺を利用したのか」
「それは別の話だ」
「別じゃない」
怒りはない。
三年間の記憶を失ったせいで、憎しみが育つ土台がない。
だが、事実だけでも十分だった。
こいつは俺を餌にした。
俺が死ぬ可能性を理解した上で。
「俺を覚醒させるために、深層へ置き去りにした」
「そうだ」
ジンは否定しなかった。
九条が驚いた顔をする。
「認めるのですか」
「今さら隠しても意味がない」
「動機は」
「世界を守るためだ」
あまりにも使い古された言葉だった。
「俺一人を犠牲にして?」
「一人で済むなら安い」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥に、短い映像が走った。
暗い編集室。
疲れ切った俺。
背後に立つジン。
――レン、お前しか頼めない。
記憶ではない。
配信視聴者から流れ込んだ外部記録の断片。
俺は何度も、その言葉で働かされていた。
お前しかいない。
皆を救える。
必要とされている。
その言葉を信じて。
「俺は、あんたを信じてたんだな」
「そうだ」
「それを利用した」
ジンは答えない。
沈黙が肯定だった。
白い扉の表示が点滅する。
《招待有効時間:三分》
迷っている時間はない。
九条。
ジン。
仮面の人物。
俺は三人目を見る。
仮面の人物は、いつの間にか逃げるのをやめていた。
こちらを静かに観察している。
「仮面を外せ」
反応はない。
「九条さんの記憶を消したのは、あんただろ」
「……」
「白と同じ側の人間か」
その名前を出した瞬間、仮面の人物の肩が動いた。
白髪の少女。
投稿者名《白》。
何者かに編集されている存在。
仮面の人物は、ゆっくりと顔へ手をかけた。
仮面が外れる。
現れたのは、少年の顔だった。
年齢は十五歳ほど。
髪は黒い。
右目は茶色。
左目だけが、白と同じ赤色をしている。
「俺の名前は、ナギ」
少年が初めて声を出した。
「たぶん」
「たぶん?」
「本当の名前は消された」
白と同じだ。
ナギは自分の左目へ触れる。
「これは編集端末。俺自身の能力じゃない」
「誰に埋め込まれた」
「管理者」
黒い巨人に表示されていた偽の名称。
だが、本物の管理者が別にいる可能性はある。
「白を知ってるのか」
「妹だ」
ナギの答えに、ジンが目を見開いた。
「そんなはずはない」
「お前は黙れ」
少年の赤い左目が光る。
ジンの前に、細いタイムラインが現れた。
俺にも見える。
《対象:黒瀬ジン》
《削除項目:発声》
「やめろ」
俺が言うと、ナギの手が止まる。
「どうして」
「今、必要な情報を持ってる」
「こいつは何人も殺した」
「知ってる」
「お前も殺されかけた」
「それも知ってる」
ナギが俺を見る。
「それでも守るのか」
「守るんじゃない。利用する」
ジンの眉が動く。
俺はまだこいつを許していない。
そもそも、許せるほどの記憶すらない。
だから感情ではなく、必要性で判断する。
第零階層の情報を持っているなら、使う。
それだけだ。
「灰原レン」
九条の声が響く。
「扉を使用することは認められません」
「止めますか」
「正体不明の領域へ、危険な能力者を侵入させるわけにはいかない」
「父さんがいる」
「その情報の真偽を確認できません」
「時間がない」
「だからこそ、組織的に調査すべきです」
正しい。
今の九条は、徹底して正しい。
けれど、正しい手順を踏んでいる間に、父さんの記憶は消される。
生命維持もいつまで続くか分からない。
「九条さんを連れていきます」
俺が言うと、全員の動きが止まった。
九条自身が、最も驚いた顔をした。
「何を言っているのですか」
「同行者に選びます」
「拒否します」
「どうして九条なんだ!」
ジンが声を荒らげる。
「第零階層を知らない。お前のことすら覚えていないんだぞ」
「だからです」
俺は九条を見る。
この人は俺を忘れている。
つまり、今の九条は過去の情や責任感で俺を守らない。
危険だと思えば撃つ。
間違っていると思えば止める。
「俺を信用していない人が必要です」
九条の目が細くなる。
「どういう意味ですか」
「俺は記憶が欠けています」
自分が誰だったのか。
本当は何を望んでいたのか。
能力を使うたび、それがさらに曖昧になる。
第零階層で何かを見せられたとき。
偽の選択肢を提示されたとき。
一人なら、自分が正しいか判断できない。
「あなたなら、俺が変わったときに止められる」
「私があなたを撃つ可能性もあります」
「そのために選びます」
九条はしばらく何も言わなかった。
銃口は俺へ向いたまま。
だが、引き金から指が離れる。
「理解できません」
「俺もです」
「あなたは、私を信用しているのですか」
「覚えていた頃のあなたを、記録が信用しています」
俺は胸ポケットの紙を取り出した。
九条の署名。
配信の記録。
管理局の職員たちが残した証言。
記憶は消えても、行動は残っている。
過去の九条は、俺と共に門を止めた。
それは事実だ。
「記録は記憶より弱い」
白はそう言った。
だが、本当にそうだろうか。
記憶は消される。
感情も薄れる。
それでも、記録があれば選び直せる。
「俺は、あなたの記憶じゃなくて、あなたが残した行動を信じます」
九条は紙へ視線を落とした。
自分の署名を、他人のものを見るように見つめる。
《招待有効時間:一分二十秒》
「拒否したら?」
「一人で行きます」
「同行者を選ぶ必要はないのですか」
「可能人数が一人と書いてあるだけです」
九条がわずかに目を見開く。
また二択に見せられていた。
誰かを一人選ぶ。
一人で行く。
選択肢は最初から四つあった。
「あなたは毎回、表示の抜け道を探すのですね」
「動画編集者なので」
自分で言ってから、少しだけ笑った。
この職業を選んだ理由は思い出せない。
それでも、技術と考え方は残っている。
九条は銃を下ろした。
「同行します」
「課長!」
部下たちが叫ぶ。
「これは命令です」
九条は自分の身分証を外し、部下へ投げた。
「私が帰還しない場合、第二深層門を再封鎖。灰原レンに関する記録を最優先で保全してください」
「しかし」
「彼を信用したわけではありません」
九条は俺を見る。
「監視するためです」
「十分です」
《同行者:九条シオン》
白い扉に名前が刻まれる。
ジンが俺の腕をつかんだ。
「待て。俺がいなければ、権限層を越えられない」
「情報を話せ」
「今ここで?」
「全部」
「時間がない」
「なら、要点だけ」
ジンは歯を食いしばる。
扉が開き始めている。
白い光の向こうに、無数の映像が浮かんでいた。
「第零階層には三つの権限層がある」
ジンが早口で言う。
「第一層は記憶認証。自分が何者か証明できなければ消される」
胸ポケットの紙を握る。
「第二層は編集履歴。能力で奪った記憶の数だけ、敵が生まれる」
九条が表情を険しくする。
「第三層は?」
ジンの顔から血の気が引く。
「誠一さんがいる」
「それだけか」
「違う」
ジンは白い扉を見た。
「あそこには、もう一人の灰原レンがいる」
空気が凍りつく。
「何を言ってる」
「お前が能力を使うたび、消えた記憶はどこへ行くと思う」
俺は答えられない。
消えたものはなくなる。
そう思っていた。
「第零階層は、削除された情報の保管庫だ」
ジンの声が震える。
「お前が失った記憶も、感情も、人格も、全部そこに残ってる」
白い光の中で、人影が立っている。
俺と同じ身長。
同じ髪。
同じ顔。
だが、その目には、俺が失ったはずの激しい憎しみが宿っていた。
『遅かったな』
光の向こうの俺が笑う。
『偽物』
胸の奥に鋭い痛みが走る。
「どっちが偽物だ」
俺が問うと、もう一人の俺は即答した。
『姉さんとの思い出も』
一歩近づく。
『父さんの顔も』
さらに一歩。
『黒瀬ジンへの憎しみも持っていないお前が』
扉の境界まで来る。
『どうして灰原レンを名乗ってる?』
《第一権限層》
《記憶認証を開始します》
《認証対象:灰原レン》
俺と、もう一人の俺。
二人の名前が並ぶ。
《正規人格を一名選択してください》
九条が俺の隣へ立つ。
「また選択肢ですか」
「ああ」
白い光の向こうで、もう一人の俺が手を伸ばす。
『返せ』
「何を」
『俺の人生を』
次の瞬間、胸ポケットの紙から文字が消え始めた。
――あなたの名前は、灰原レン。
最初の一行が白く薄れていく。
《記憶認証完了まで残り六十秒》
《認証に失敗した人格は削除されます》
俺は、自分と同じ顔をした男を見つめた。
記憶を持つ俺。
記録を持つ俺。
正しい灰原レンは一人しか存在できない。
白い扉が背後で閉じる。
逃げ道は消えた。




