第6話 消える記憶のバックアップ
《深層門・第零階層》
《開門まで残り七十一時間五十二分》
救護室の時計の横に、見覚えのないカウントダウンが浮かんでいる。
視界を動かしても消えない。
白髪の少女が設定した、父さんを救うまでの期限。
「第零階層へ行く前に、やるべきことがあります」
九条シオンは、俺の前に分厚いファイルを置いた。
表紙には赤い文字で《特別保護対象者・灰原レン》と書かれている。
ほんの数分前まで、管理局の端末には俺の名前すら存在しなかった。
今は九条の指示で、すべて紙に記録されている。
「何ですか、これ」
「あなたの存在証明です」
ファイルを開く。
名前。
年齢。
顔写真。
指紋。
血液型。
家族構成。
管理局職員たちの署名。
さらに、先ほどの配信を保存した視聴者から送られてきた記録の一覧まで挟まれていた。
「現在、灰原レンという名前を記録した画像や文章は、推定で三百六十万件を超えています」
「そんなに」
「配信の切り抜きも拡散されています。今のあなたを完全に消すには、世界中の記録へ同時に干渉する必要がある」
九条はファイルを閉じた。
「少なくとも、先ほどと同じ方法では消されないでしょう」
守られた。
そう思う一方で、奇妙な感覚もある。
自分が存在することを、何百万人もの他人に証明してもらわなければならない。
昨日までの俺なら、耐えられなかったかもしれない。
だが今は、恥ずかしがっている余裕はなかった。
「次は、記憶の保護です」
九条が机の上へ小型カメラを置いた。
黒く、飾り気のない機体。
「能力を使うたび、あなたの記憶は失われる。第零階層へ向かえば、さらに使用することになるでしょう」
「使わずに済むとは思っていません」
「だから、消える前に保存します」
姉さんが隣の椅子へ座った。
膝の上には、何冊もの古いアルバムが積まれている。
「家から持ってきたの」
「こんなに早く?」
「管理局の人が取ってきてくれた」
姉さんは一冊目を開いた。
赤ん坊の俺を抱く母さん。
隣には若い父さん。
姉さんはまだ小学生くらいで、得意そうに俺の頬をつついている。
写真の中の家族は幸せそうだった。
「覚えてる?」
「写真として見た覚えはない」
「これはレンが生まれた日」
姉さんは一枚ずつ説明する。
俺はカメラの前に座り、自分の記憶を記録していく。
名前は灰原レン。
二十一歳。
父は灰原誠一。
母は灰原美咲。
姉は灰原アキ。
母さんは三年前に亡くなった。
父さんは十二年前にダンジョン事故で死亡したとされていた。
だが、本当は第零階層にいる可能性がある。
「好きな食べ物はカレー」
姉さんが言う。
「ただし、辛口は食べられない」
「それ、配信で話す必要ある?」
「ある。あなたの記憶なんだから」
「もっと重要なことを優先した方が」
「何が重要かを決めるのは、能力じゃない」
姉さんの声が強くなる。
「レンが忘れたあと、大事件しか残ってなかったら、それはもうレンの人生じゃない」
俺は黙った。
確かにそうだ。
母さんの葬儀を失った。
卒業式を失った。
ダンジョンでの戦いは覚えているのに、日常が消えていく。
家族と食べた夕飯。
姉さんとのくだらない会話。
何も起きなかった一日。
そういう記憶ほど、失ってから取り戻せない。
「続けて」
俺はカメラへ向き直った。
「俺は辛口カレーが苦手です」
「福神漬けは多め」
「それも?」
「大事」
姉さんは少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に懐かしさが広がった。
映像は思い出せない。
だが、こうして姉さんにからかわれたことが何度もあった気がする。
記憶ではなく、感覚だけが残っている。
「感情は消えにくいのかもしれません」
九条が言った。
彼女は壁際で、俺たちの会話を記録していた。
「どういう意味ですか」
「あなたは姉に関する記憶を失った直後も、彼女に対して安心感を持っていた」
「はい」
「能力が削除しているのは、出来事に関する情報だけなのかもしれない。感情まで完全に消すには、別の処理が必要なのでしょう」
俺は白髪の少女を思い出す。
あいつは、記憶を編集している。
なら、ジンやブラッククラウンの仲間たちが俺を知らないと言ったのも、出来事だけを消されたからなのか。
「黒瀬ジンたちを調べたい」
俺が言うと、九条は首を横に振った。
「先に自分の状態を確認します」
「時間がありません」
《残り七十一時間二十六分》
「急いで第零階層へ行っても、入り口すら分からないでしょう」
反論できない。
第零階層という名前と座標らしき表示は見た。
しかし、それが地図上のどこを示しているのか分からない。
「さらに、今のあなたは能力の使用条件を理解していません」
九条は三枚の紙を並べた。
一枚目には《削除》。
二枚目には《復元》。
三枚目には《接続》。
「確認されている機能は三つです」
「削除は、現象を最大三秒まで消す」
「復元は、対象の過去状態を現在へ適用する」
「接続は?」
「黒瀬ジンの記憶へ入った時に使われた処理です」
俺は三枚目の紙を見る。
「自分で使ったわけじゃありません」
「だからこそ危険です。あなたの能力には、あなた自身が操作していない機能が存在する」
白髪の少女が遠隔で動かした。
あるいは、《編集》という能力そのものが意思を持っている。
どちらにしても、不気味だった。
「簡単な実験を行います」
九条は机へ陶器のカップを置いた。
「割ってください」
「俺が?」
姉さんが嫌そうな顔をする。
「能力を使わせるの?」
「記憶を消費しない範囲を調べなければ、実戦で使用できません」
九条の言うことは正しい。
俺はカップを床へ落とした。
硬い音とともに、白い破片が散らばる。
視界に短いタイムラインが現れた。
カップが落ちる。
床へ衝突する。
割れる。
「復元を試します」
割れる直前の状態を選択する。
《対象:陶器製カップ》
《復元可能時間:四秒》
《必要容量:記憶一件》
「待って」
姉さんが止める。
「たかがカップで記憶を失うの?」
「表示では一件です」
「なら、やめて」
俺もそう思った。
物を直すだけで記憶一件。
あまりに割に合わない。
「削除ならどうですか」
九条が聞く。
俺はもう一度、カップが割れる瞬間を確認する。
《衝突音》
《破片の飛散》
《形状の崩壊》
複数の現象が分かれて表示された。
衝突音だけなら、消費量の表示はない。
破片の飛散も同じ。
形状の崩壊を消そうとすると、記憶一件。
「対象の規模じゃない」
俺は気づいた。
「何ですか」
「結果を変える大きさで、代償が変わる」
音を消しても、カップは割れる。
破片の飛び方を変えても、割れた結果は同じ。
だが、割れたという事実を消せば、結果そのものが変化する。
「世界への影響度ですか」
「たぶん」
俺は破片の一つを拾った。
「同じ一秒でも、重要な結果を変えるほど代償が大きい」
ケルベロスの攻撃を消したとき。
爆発の命令音を消したとき。
俺自身の存在を守ったとき。
すべて、誰かの生死に関わる編集だった。
だから大切な記憶が使われた。
九条は紙へ書き込む。
「仮説として記録します」
「代償を減らす方法があるかもしれない」
俺は割れたカップを見る。
形状の崩壊を消すのではなく。
床へ落ちる原因を変える。
落とした俺の指の動きを削除する。
しかし、それも過去の出来事だ。
すでに割れているカップには使えない。
なら。
「接続を使う」
「何と何をですか」
俺は破片を元の形へ並べた。
完全には合わない。
隙間ができる。
「割れる前の形と、今の時間をつなぐ」
《接続対象を検出》
《過去状態:完全》
《現在状態:破損》
《接続可能》
《必要容量:感情記憶 0.1件》
初めて見る表示だった。
「0.1 件?」
「記憶一つより少ない消費です」
「実行しないで」
姉さんが言う。
「でも、これなら代償を抑えられるかもしれない」
「0.1 が十回集まったら、一つ消えるんでしょ」
「たぶん」
「何が消えるか分からないことに変わりない」
俺は迷った。
だが、第零階層で能力を使わなければ父さんを救えない。
今ここで仕組みを理解する必要がある。
「実行します」
二つの状態を選択する。
割れる前のカップ。
割れた現在。
映像編集で、離れた場面をつなぐように。
「接続」
破片の輪郭が淡く光る。
一つずつ浮かび上がり、机の上で組み合わさった。
亀裂が消える。
数秒後、カップは元の形へ戻っていた。
姉さんが驚いて持ち上げる。
「本当に直った」
《接続完了》
《消費:感情記憶 0.1 件》
頭の中から、ほんのわずかに何かが抜けた。
だが、何を失ったのか分からない。
「確認してください」
九条に言われ、自分の記憶をたどる。
名前。
家族。
父さん。
母さん。
姉さん。
すべて覚えている。
「分かりません」
「小さすぎて自覚できない可能性があります」
姉さんがカップを置いた。
「それが一番怖い」
その通りだった。
大きな記憶なら、失ったことに気づける。
小さな感情が少しずつ削られたら。
いつか、大切な人を見ても何も感じなくなるかもしれない。
その瞬間。
救護室の扉が開いた。
九条の部下が息を切らして入ってくる。
「課長、黒瀬ジンの居場所が判明しました」
「どこですか」
「第二深層門です」
九条の表情が変わる。
「封鎖されているはずです」
「内部から開門操作が行われています」
部下が紙の地図を広げる。
第二深層門。
その地下には、公式地図に記載されていない空間があるという。
「黒瀬は単独ですか」
「いいえ。同行者が一名」
端末に監視映像が表示された。
黒瀬ジンが、巨大な鋼鉄の扉の前に立っている。
隣にいるのは白髪の少女ではない。
黒い外套を着た、小柄な人物。
顔は仮面で隠されている。
その人物がこちらを向いた。
監視カメラ越しに、俺と目が合った気がした。
次の瞬間、俺の視界にタイムラインが現れる。
《遠隔接続要求》
《接続元:灰原誠一》
父さんの名前。
「父さん?」
俺がつぶやくと、九条が振り返る。
視界に父さんの姿が映る。
白い部屋。
機械につながれたまま、目を閉じている。
唇だけがわずかに動いた。
『レン』
今度は声が聞こえた。
弱く、途切れそうな声。
『第二深層門を開けるな』
「どうして」
『そこは、第零階層への入り口じゃない』
父さんの背後で、赤い警告灯が回り始める。
『出口だ』
映像が乱れる。
『中にいるものを、外へ出すための――』
激しいノイズ。
接続が切れる直前、父さんが叫んだ。
『ジンを止めろ!』
視界が元へ戻る。
監視映像の中で、黒瀬ジンが扉の制御装置へ手を置いた。
開門率が表示される。
《第二深層門》
《開門率:87%》
九条が部下へ命じた。
「全戦闘班を第二深層門へ」
「間に合いません。完全開門まで三分です」
三分。
俺の能力が編集できる時間と同じ。
偶然ではない気がした。
九条が俺を見る。
「あなたはここに残ってください」
「父さんが、ジンを止めろと言いました」
「治療も終わっていない」
「三分後には、何かが出てくる」
俺は立ち上がった。
折れた右腕が痛む。
足も震えている。
それでも、ベッドへ戻るつもりはなかった。
「第二深層門まで、どのくらいですか」
「通常なら十五分です」
「間に合わない」
「転送設備を使えば二分。ただし、現在は封鎖中です」
俺の視界に、管理局内の転送装置が表示された。
《状態:使用停止》
その隣に、少し前の状態が重なる。
《状態:稼働》
停止した現在と、稼働していた過去。
接続できる。
《必要容量:記憶二件》
姉さんが俺の腕をつかんだ。
「駄目」
「行かなきゃ」
「また忘れる」
「行かなかったら、もっと多くの人が消えるかもしれない」
姉さんは何も言えない。
俺は胸ポケットの紙を取り出した。
姉さんが書いてくれた、俺の記憶。
「忘れても、ここにある」
「紙に書けないことだってある」
「それでも」
俺は姉さんを見る。
「今度は、何を失ったか必ず記録する」
視界の先で、第二深層門の開門率が上がる。
《91%》
九条が俺の前へ立った。
「単独行動は認めません」
「止めるんですか」
「同行します」
彼女は腰の武器を確認した。
「あなたを保護するためではありません。中から出てくるものを止めるためです」
「十分です」
俺は停止中の転送装置へ手を向けた。
過去と現在を選択する。
二つの時間をつなぐ。
「接続」
頭の中から、二つの記憶が抜け落ちた。
何を失ったのか確認する暇はない。
救護室の床に、青い転送陣が広がる。
《転送先:第二深層門》
《開門率:95%》
光が俺と九条を包む。
姉さんの声が聞こえた。
「絶対に帰ってきて!」
その言葉だけは忘れないよう、心の中で何度も繰り返す。
だが、転送が始まった瞬間。
俺は気づいた。
今消えた二つの記憶。
一つは、母さんの声。
そしてもう一つは――。
姉さんと初めて出会った日の記憶だった。
視界が青く染まる。
《第二深層門》
《開門率:99%》
転送先で、巨大な扉がゆっくりと開き始めていた。
その隙間から、人間のものではない巨大な目が、こちらをのぞいていた。




