第5話 消される前に、俺を記録しろ
《編集対象:灰原レン》
《削除まで残り四分五十八秒》
俺の名前が、タイムラインの上で赤く点滅している。
一秒。
また一秒。
数字が減るたび、周囲の空気が変わっていく。
「患者登録に存在しない?」
九条が若い職員の端末を奪った。
画面を素早く操作する。
「さっきまで記録されていたはずです。負傷者搬送記録、治療申請、事情聴取対象者一覧を確認してください」
「ですが、本当に何も……」
職員は俺を見た。
その目に、見覚えのない人間を見る戸惑いが浮かんでいる。
数分前まで、この人は俺の鎖を証拠として運んでいたはずだ。
それなのに、もう覚えていない。
「姉さん」
俺は隣を見る。
アキ姉さんは俺の手を握ったままだった。
「俺が誰か分かる?」
「当たり前でしょ」
即答だった。
「灰原レン。私の弟」
その言葉に、少しだけ息をつく。
まだ完全には消えていない。
だが、安心はできない。
管理局の職員。
患者記録。
ブラッククラウンの所属情報。
俺と関わるものが、外側から順番に消されている。
《削除まで残り四分三十二秒》
「何が起きていますか」
九条が俺に問う。
「俺自身が編集対象になっています」
「具体的に」
「名前が表示されています。削除まで、あと四分半です」
「削除された場合、どうなる」
「分かりません」
死ぬのか。
存在を忘れられるのか。
それとも、最初から生まれていなかったことになるのか。
どれもあり得る。
これまで《編集》は現象を消してきた。
攻撃が命中する瞬間。
魔物の吸気。
命令を伝える音。
同じことが、人間一人に対して行われようとしている。
「止められますか」
九条が聞く。
「編集を編集し返せれば」
「可能なのですか」
「やったことはありません」
俺は自分の名前が表示されたタイムラインを見つめた。
対象は《灰原レン》。
範囲は、俺が生まれてから現在まで。
二十年以上の映像が、細い一本の線として圧縮されている。
これをカットされたら終わりだ。
なら、削除処理そのものを選択して消せばいい。
俺は赤く点滅する部分へ意識を集中させた。
《外部編集を検出》
《編集者権限が不足しています》
予想していた警告とは違った。
「権限不足……?」
俺は世界を編集できる能力を持っている。
だが、今俺を消そうとしている相手は、俺より上位の権限を持っている。
白髪の少女。
あいつが本当の編集者なのか。
《削除まで残り三分五十九秒》
「九条さん」
「何ですか」
「紙を用意してください」
「紙?」
「俺について知っていることを、全員に書かせてください」
九条は一瞬だけ考え、すぐに部下へ指示した。
「救護室内にある紙と筆記具を集めてください。電子端末は使わないで」
職員たちが動く。
姉さんが俺を見た。
「紙なら消されないと思うの?」
「分からない。でも、電子記録よりは残る可能性がある」
第4話で印刷した写真は、まだ俺の手元にある。
裏に不気味な文字は浮かんだが、写真自体は消えていない。
データより、物として存在する記録の方が編集しにくいのかもしれない。
九条が白い用紙を机へ広げた。
「何を書けばいい」
「俺の名前。顔。今日起きたこと。あなたが俺を見た事実」
九条は迷わずペンを走らせた。
――灰原レン。
――二十一歳。
――ブラッククラウン元補助員。
――深層ダンジョンより単独生還。
――固有能力《編集》を保有。
ほかの職員たちも続く。
だが、若い職員の手は止まっていた。
「私は、この人を知りません」
「今、見ているでしょう」
九条の声が鋭くなる。
「見てはいます。でも、なぜ記録を残す必要があるのか……」
すでに認識が薄れている。
俺という人間を見ても、それが重要だと思えなくなっている。
存在を削除するというのは、単に忘れさせることではない。
俺へ向けられる関心そのものを消している。
「姉さんも書いて」
「もう書いてる」
姉さんは紙いっぱいに文字を書いていた。
灰原レン。
弟。
好きな食べ物はカレー。
辛い物は苦手。
小学生の頃、猫を拾って家へ連れてきた。
母さんに怒られて、一晩中泣いた。
俺が知らない俺の記録。
「そんなことがあったんだ」
「思い出した?」
「いや」
「じゃあ、今から覚えなさい」
姉さんは泣きそうな顔で笑った。
「あなたが忘れても、私が何度でも教えるから」
胸の奥が熱くなる。
覚えていない。
けれど、この人を失いたくないと思う。
《削除まで残り三分十秒》
紙は増えている。
それでも、タイマーは止まらない。
記録を残すだけでは不十分なのか。
俺は周囲を見る。
誰かに覚えていてもらう。
紙へ書く。
写真を残す。
それらはすべて、俺の存在を外側へ保存する行為だ。
白髪の少女は言った。
《記録は記憶より弱い》
なら、逆だ。
一つの場所に記録するから弱い。
消せないほど多くの場所へ複製すればいい。
「配信を使います」
俺が言うと、九条が眉をひそめた。
「先ほど停止したはずです」
「もう一度始めます」
「方法が分かるのですか」
「分かりません。でも、俺の能力は映像から始まった」
俺は壊れた配信用端末を手に取った。
電源は入らない。
カメラも割れている。
通常なら使い物にならない。
それでも、俺の視界には端末のタイムラインが見えた。
《破損》
《配信終了》
二つの状態が並んでいる。
映像編集では、削除した部分を元へ戻す機能がある。
取り消し。
元に戻す。
これまで俺は、何かを消すことしか考えていなかった。
だが、編集には切る以外の操作もある。
「配信終了を取り消す」
《新規機能を検出》
《復元》
《対象の過去状態を現在へ適用します》
「できる」
ただし、警告も続いた。
《復元対象:配信用端末》
《必要容量:記憶三件》
記憶三件。
何が消えるか分からない。
姉さんの記憶かもしれない。
父さんかもしれない。
それでも、残り時間は二分半。
ほかに方法はない。
「レン」
姉さんが俺の腕をつかむ。
「また能力を使うつもり?」
「ああ」
「駄目」
「このままなら、俺が消える」
「だからって、また何かを忘れたら――」
「忘れても、記録を残す」
俺は姉さんが書いた紙を見る。
「姉さんが教えてくれるんだろ」
姉さんは何も言えなくなった。
俺は《配信終了》の状態を選択した。
時間を三分前へ戻す。
端末そのものを直す必要はない。
配信が続いていたという結果だけを、現在へつなげる。
「復元」
頭に激痛が走った。
何かが三つ、音もなく抜け落ちる。
端末の画面が白く光った。
割れたレンズの奥で、赤いランプが点灯する。
救護室の大型モニターが起動した。
《配信を再開しました》
視聴者数はゼロ。
次の瞬間、一気に増えた。
百人。
一万人。
十万人。
前回の配信を見ていた人々へ通知が飛んでいる。
《レン!?》
《配信戻った》
《今どこだ?》
《管理局?》
《何が起きてる》
「俺の名前は灰原レンです」
俺はカメラを見た。
声が震えないように、ゆっくり話す。
「二十一歳。動画編集者で、ブラッククラウンの補助員でした」
コメントが流れる。
「今日、ダンジョンで仲間に置き去りにされました。そこで《編集》という能力が覚醒した」
九条が止めようとはしなかった。
配信を続ける危険性より、俺の存在が消える危険性を優先したらしい。
「今、何者かに俺の存在そのものを消されようとしています」
《どういうこと?》
《存在を消す?》
《また能力か》
「管理局の記録から、俺の名前が消えました。職員の中には、俺を忘れ始めている人もいます」
俺は姉さんが書いた紙をカメラへ向けた。
「これを保存してください」
《灰原レン》
《二十一歳》
《姉は灰原アキ》
《ブラッククラウンに三年間所属》
「スクリーンショットでも、手書きでもいい。俺の名前を残してください」
視聴者数が五十万人を超える。
コメント欄に同じ言葉が増えていく。
《灰原レン》
《忘れない》
《記録した》
《レンは存在する》
《灰原レンを消させるな》
一人。
百人。
一万人。
数十万人が、俺の名前を打ち込んでいる。
視界のタイムラインが揺れた。
《外部保存領域が急速に増加しています》
《編集対象の複製を検出》
《削除処理に遅延が発生》
タイマーの減少が止まった。
《残り一分四十二秒》
数字が点滅する。
白髪の少女が、俺という一つの存在を消そうとしている。
だが、俺の名前は今、数十万台の端末へ複製されている。
コメント。
画像。
録画。
手書きのメモ。
完全に消すには、それらすべてを編集しなければならない。
「効いてる」
俺はさらに続けた。
「俺の顔を覚えてください。名前と一緒に保存してください」
姉さんが俺の隣へ立つ。
「私は灰原アキ。この子の姉です」
九条もカメラの前へ出た。
「ダンジョン探索者管理局、特殊能力対策課の九条シオンです」
彼女は真正面からカメラを見る。
「管理局は、灰原レンという人物の存在を公式に確認します」
それは証言だった。
国家機関に所属する人間からの、重い記録。
コメント欄がさらに加速する。
《公式確認》
《灰原レンは実在する》
《九条課長も証言した》
《記録を拡散しろ》
視聴者数が百万人を超えた。
タイマーにノイズが走る。
《削除処理を継続できません》
《対象が分散しています》
赤い文字が崩れる。
《編集失敗》
タイムラインから、俺の名前が消えた。
いや。
削除対象としての表示だけが消えた。
俺自身の名前は、まだ頭に残っている。
灰原レン。
俺はここにいる。
「止めた……」
姉さんが俺へ抱きついた。
「よかった」
腕の温かさを感じる。
それなのに、胸に違和感があった。
何かを忘れた。
端末を復元した代償。
三件の記憶。
《復元完了》
《消費された記憶を表示します》
《小学校の卒業式》
《母親の葬儀》
《灰原アキと最後に交わした会話》
俺は姉さんの顔を見る。
誰なのかは分かる。
姉だ。
名前も覚えている。
しかし、今日ダンジョンへ向かう前に何を話したのか思い出せない。
帰ったら一緒に夕飯を食べる。
第2話で姉さんから聞いた事実としては覚えている。
だが、そのときの声も、表情も消えている。
「どうしたの?」
姉さんが聞く。
「また、記憶が消えた」
姉さんの腕に力が入る。
「何を忘れたの」
俺は正直に答えた。
姉さんは目を伏せたが、すぐに俺を見た。
「大丈夫」
「大丈夫じゃない」
「大丈夫にするの」
姉さんは配信へ顔を向ける。
「今から、レンが忘れたことを話します。誰か保存してください」
「姉さん?」
「あなた一人の記憶に置いておくから、消されるのよ」
姉さんは涙を拭った。
「大切なことは、全部外へ残す」
それは俺が思いつかなかった方法だった。
忘れないようにするのではない。
忘れても戻れるように、記録する。
動画編集者だった俺に、一番合っている戦い方。
俺はカメラを見た。
「これから、自分の記録を作ります」
《記録?》
《日記みたいなもの?》
「俺が誰で、誰を大切にして、何を知ったのか。能力を使って何を失ったのか」
俺は息を吸った。
「全部、映像に残す」
コメント欄に大量の賛同が流れる。
その中に、一つだけ異質な文章があった。
投稿者名はない。
《いい方法だね》
背筋が冷たくなる。
《でも、記録には編集者が必要だよ》
次の瞬間、配信映像が勝手に切り替わった。
救護室ではない。
暗い部屋。
無数の画面。
中央の椅子に、父さんが座っている。
腕には機械がつながれ、目は閉じられていた。
白髪の少女が、その隣に立っている。
「灰原レン」
少女がカメラ越しに俺の名前を呼ぶ。
「存在の削除を防いだことは褒めてあげる」
笑顔のまま、父さんの頭へ手を置く。
「次は、お父さんの記憶を編集するね」
画面に新しいタイムラインが表示された。
《編集対象:灰原誠一》
《削除項目:息子・灰原レン》
少女が赤い削除ボタンへ指を伸ばす。
「お父さんに忘れられる前に、ここまで来て」
映像が消える。
代わりに、黒い画面へ座標が表示された。
《深層門・第零階層》
《開門まで残り七十二時間》
配信は自動的に終了した。
救護室に静寂が戻る。
俺は暗くなった画面を見つめた。
三日。
父さんを救うまでに残された時間。
九条が俺の隣へ立つ。
「第零階層は、公式には存在しません」
「でも、父さんはそこにいる」
「罠の可能性があります」
「分かっています」
俺は姉さんが書いた紙を折り、胸ポケットへ入れた。
自分の名前。
家族。
失った記憶。
全部持っていく。
「それでも行きます」
今度は、見捨てられたから戦うのではない。
忘れたくない人を守るために。
「父さんが俺を忘れる前に、連れ戻す」




