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見捨てられた動画編集者、現実をカットする  作者: 黒猫


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第2話 五分後の死を編集する

《灰原レン死亡》

《確定まで、残り四分五十七秒》

赤い数字が、一秒ずつ減っていく。

俺が息をするたび。

ケルベロスがうなり声を上げるたび。

未来が確定へ近づいていた。

「死亡までの時間まで見えるのかよ……」

冗談みたいな表示だった。

だが、笑えない。

右足には外れた鎖が巻き付いたまま。

手にあるのは刃の欠けた作業用ナイフ一本。

転送門の再起動には、最低でも三分かかる。

その前にケルベロスを止めなければならない。

倒す必要はない。

三分間、生き残ればいい。

《残り四分四十六秒》

ケルベロスの中央の頭が俺をにらむ。

さっき喉の中で炎が破裂したせいで、口元から黒い煙が漏れていた。

炎はしばらく使えない。

右前脚には古い傷。

体重をかける直前に、一瞬だけ動きが止まる。

俺が勝てる要素を探すなら、そこしかない。

「考えろ」

何千本もの戦闘映像を編集してきた。

探索者たちは派手な技を見せる。

魔物は巨大な牙や爪を振るう。

だが、映像をつないでいた俺は知っている。

どんな動きにも、必ず始まりと終わりがある。

攻撃と攻撃の間には、わずかな隙間が生まれる。

俺の《編集》は、その隙間を広げる能力だ。

ケルベロスが床を蹴った。

「来る!」

三つの頭が別々の方向から迫る。

左の頭が噛みつき、右の頭が逃げ道をふさぐ。

中央の頭は少し遅れて、俺の胴体を狙っていた。

一つを避けても、次が当たる連続攻撃。

視界に三本のタイムラインが表示された。

《編集可能時間:三秒》

《同時編集可能数:一》

全部は消せない。

だったら、どれを切る。

左の噛みつきは速いが、しゃがめば避けられる。

中央は遅い。

問題は右だ。

俺が左を避けた先へ、回り込むように動いている。

未来を予測しているわけじゃない。

何度も人間を狩って覚えた動きだ。

「なら、お前の予定を狂わせる」

俺は右の頭が進路を変える瞬間を選んだ。

〇・一秒。

「カット!」

世界が飛ぶ。

右の頭が曲がるために踏み込んだ瞬間だけが消えた。

巨体の勢いを殺せず、右の頭が中央の頭へぶつかる。

鈍い音が響いた。

俺は床へ滑り込み、左の牙を避ける。

頭上で空気が裂けた。

「ぐっ!」

右足の鎖が岩に引っかかり、体が止まる。

まずい。

中央の頭が体勢を立て直していた。

大口が開く。

逃げられない。

俺はとっさに鎖をつかみ、ケルベロスへ向けて投げた。

金属の輪が中央の頭の牙に引っかかる。

「引け!」

自分の体ごと後ろへ倒れる。

鎖が張り、中央の頭がわずかに下を向いた。

牙は俺の髪をかすめ、背後の壁へ突き刺さる。

岩が砕けた。

《うおおおお!》

《鎖を武器にした!》

《こいつ本当に荷物持ちか?》

《レン、死亡表示は何なんだ!?》

コメント欄は見えている。

だが、答えている暇はない。

視界の端で数字が減り続ける。

《残り三分五十九秒》

一分が経過した。

転送門はまだ起動していない。

というより、俺自身が起動操作をしていない。

「このままじゃ駄目だ」

ケルベロスから逃げながら転送門を操作する必要がある。

制御装置は魔物の向こう側。

通路の端を走って抜けるしかない。

ケルベロスが三つの頭を振り、牙に絡んだ鎖を外した。

自由になった鎖が床を跳ねる。

右足に巻かれたままだから、完全には捨てられない。

だが、使い道はある。

俺は走った。

ケルベロスの左側。

傷のある右前脚とは逆だ。

魔物は俺を追おうとして、体をひねる。

巨体の向きを変えるには、右前脚を軸にしなければならない。

その瞬間、古傷が痛む。

動きが止まった。

予想通り。

俺はケルベロスの横を抜け、転送門へ飛びついた。

制御装置に手を当てる。

《転送門を再起動します》

《完了まで三分》

「長すぎるだろ!」

機械に怒鳴っても意味はない。

背後でうなり声が響く。

ケルベロスが向きを変え終えていた。

俺は制御装置の横にある緊急用レバーを引く。

床から三本の魔力杭が飛び出した。

本来は転送門を守るための簡易障壁だ。

だが、一分も持たない。

《残り三分三十二秒》

転送門の起動まで三分。

俺の死亡まで三分半。

計算上は、三十秒の余裕がある。

そんな都合よくいくはずがなかった。

ケルベロスが障壁へ体当たりする。

透明な壁が大きく揺れた。

一度。

二度。

三度目で、魔力杭の一本に亀裂が入る。

《障壁残存率:六十二%》

「一分も持たないじゃないか」

俺は周囲を見回した。

使えそうな物はない。

壊れた装備。

空の薬瓶。

ジンたちが捨てていった荷物。

荷物。

その中に、俺が管理していた予備装備がある。

俺は床に落ちた黒い箱へ走った。

中身を確認する。

煙幕弾が二つ。

照明弾が一つ。

傷薬。

予備バッテリー。

そして、小型撮影ドローン。

戦闘用ではない。

普段はパーティーの格好いい姿を撮影するために使っていた。

「使える」

俺はドローンを起動した。

小さな機体が浮かび上がる。

コメント欄がざわついた。

《撮影してる場合か!》

《何するつもりだ?》

《囮にするのか?》

「違う」

無意識に答えていた。

「編集するには、視界に入れる必要がある」

今までの表示には、そう書かれていた。

対象は視界内で発生した現象。

では、カメラ越しの映像は視界に含まれるのか。

俺はドローンをケルベロスの背後へ飛ばした。

手元の端末に、魔物の背中が映る。

そこで煙幕弾を一つ転がす。

白い煙が広がり、俺の肉眼からケルベロスが消えた。

だが、ドローンの映像には映っている。

「来い」

ケルベロスが煙の中を突っ切った。

障壁へ向けて前脚を振り上げる。

俺は端末越しに、その動きを見つめた。

タイムラインが現れる。

《遠隔映像を検出》

《編集精度:三十八%》

「できる!」

精度は低い。

それでも、編集対象にはなる。

ケルベロスが障壁を殴る直前、俺は踏み込みの瞬間を選択した。

〇・二秒。

《低精度編集》

《失敗時、現象が不規則に変化します》

失敗すれば、攻撃が別方向へ飛ぶかもしれない。

最悪の場合、転送門が壊れる。

それでも、障壁はもう持たない。

「カット!」

頭の奥に針を刺されたような痛みが走る。

映像が乱れた。

ケルベロスの右前脚が消えたように見え、次の瞬間には別の位置へ移動していた。

踏み込む動作だけが不自然につながり、魔物の体勢が大きく崩れる。

前脚が空を切る。

勢いのまま、ケルベロスは床へ倒れ込んだ。

巨体が滑り、壁へ激突する。

洞窟が揺れた。

《成功した!》

《カメラ越しでも使えるのか》

《これ、相当やばい能力じゃないか?》

俺は喜べなかった。

頭の中から何かが消えていく感覚があった。

《編集完了》

《消費された記憶:初めて動画編集を褒められた日の記憶》

「え……」

誰に褒められた?

いつだった?

嬉しかったはずだ。

編集を続けようと思った、大切な出来事だったはずなのに。

思い出そうとすると、胸に穴が開いたような感覚だけが残る。

「くそ……」

強い編集ほど、大切な記憶が消えるのか。

それとも、失われる記憶は完全にランダムなのか。

分からない。

分かりたくもない。

障壁の向こうでケルベロスが起き上がる。

右前脚を引きずっていた。

壁への激突で古傷が悪化したらしい。

今なら、時間を稼げる。

《転送門起動まで一分五十二秒》

《死亡まで残り二分十一秒》

差は十九秒。

さっきより縮まっている。

死亡時刻そのものが早まった?

俺の行動によって未来が変化している。

そう考えた瞬間、赤い数字が一気に減った。

《死亡まで残り一分三十二秒》

「は?」

四十秒近く消えた。

何が変わった。

俺は周囲を見る。

ケルベロスは障壁の向こう。

転送門は起動中。

危険が増えたようには見えない。

そのとき、撮影ドローンの映像に赤い光が映った。

ケルベロスの三つの喉。

炎ではない。

魔力が三つの頭から胸の中心へ集まっている。

今までとは違う攻撃。

俺はブラッククラウンの過去映像を思い出す。

深層級魔物が瀕死になったときだけ使う、自爆に近い広範囲攻撃。

周囲百メートルを吹き飛ばす魔力爆発。

障壁など意味がない。

転送門も俺も、一瞬で消し飛ぶ。

《残り一分二十一秒》

爆発までの時間と一致している。

「死亡タイマーじゃない」

これは、確定した未来そのものを示している。

原因を変えれば時間が動く。

逆に悪化すれば、死は早まる。

ケルベロスの胸が赤く脈打つ。

俺は煙幕の中へ飛び込んだ。

《レン、何してる!》

《戻れ!》

《爆発するぞ!》

逃げても間に合わない。

攻撃をカットするには規模が大きすぎる。

爆発した瞬間を消そうとすれば、どれほどの記憶を失うか分からない。

なら、爆発そのものではなく、原因を止める。

三つの頭から胸へ魔力が集まっている。

映像で言えば、三本の素材を一つに結合している状態。

どれか一本を切れば、完成しない。

俺はケルベロスの右側へ回る。

傷ついた前脚のせいで、魔物はすぐに向きを変えられない。

右の頭が俺を追い、牙をむく。

胸へ流れる魔力が一瞬だけ細くなった。

「お前も同時にはできないんだな」

攻撃と魔力供給。

二つの動作を完全には両立できない。

右の頭が噛みつく。

俺は鎖を振り回し、牙へ絡めた。

両手で鎖を引く。

力で勝てるわけがない。

それでも、頭の向きを数秒ずらせればいい。

「こっちを見ろ!」

魔力の流れがさらに細くなる。

だが、止まらない。

ケルベロスが首を振り、俺の体が宙へ浮く。

そのまま岩壁へ投げ飛ばされた。

背中から激突する。

肺の空気がすべて押し出された。

「がっ……!」

視界が白く染まる。

右腕が動かない。

折れたかもしれない。

《残り四十三秒》

《転送門起動まで五十一秒》

八秒足りない。

ケルベロスの胸の光が膨らむ。

もう一度、現実を編集するしかない。

だが、何を切る。

魔力の供給は三方向。

一つ切っても、残り二つで爆発する可能性がある。

生物本体は削除できない。

魔力全部を消せば、記憶がどれだけ必要になるか分からない。

俺は歯を食いしばり、タイムラインを拡大した。

三本の魔力。

そのすべてに共通する瞬間。

ケルベロスが爆発を決めた、最初の合図。

中央の頭が短く鳴き、左右の頭が呼応している。

命令。

三つの頭は完全に一つの意識ではない。

中央が指示を出している。

なら、消すべきは魔力ではない。

命令が伝わる音だ。

「音も、現象だろ」

視界に新しい項目が現れた。

《音声トラックを検出》

中央の頭が発した低いうなり。

長さは〇・七秒。

左右の頭へ、自爆攻撃を開始させた合図。

「これを消す」

《音声編集を実行します》

《新規機能の初回使用》

《必要容量:不明》

不明。

一番見たくない表示だった。

だが、残り時間は二十秒。

選んでいる余裕はない。

「音声カット!」

世界から音が消えた。

完全な静寂。

ケルベロスの口は動いている。

瓦礫も落ちている。

コメント欄も流れている。

それなのに、何も聞こえない。

中央の頭の命令を失った左右の頭が、困惑したように動きを止める。

胸へ集まっていた魔力が乱れた。

赤い光が点滅する。

次の瞬間、魔力はケルベロスの体内で小さく破裂した。

巨体が激しく震え、三つの口から煙を吐く。

胸の光が消える。

《灰原レン死亡》

赤い表示にノイズが走った。

《予測不能》

文字が崩れ、タイムラインから消える。

「変えた……」

未来を。

自分が死ぬ結末を。

《転送門起動まで五秒》

俺は立ち上がろうとした。

足に力が入らない。

ケルベロスも倒れている。

だが、死んではいない。

中央の頭がゆっくり持ち上がった。

黄色い目が俺を捉える。

転送門が青い光を放ち始める。

あと三メートル。

這えば届く。

俺は左手で床をつかんだ。

一歩。

ケルベロスの前脚が動く。

二歩。

巨大な爪が床を引っかく。

三歩。

転送門の光が強くなる。

俺は最後の力で腕を伸ばした。

指先が光へ触れる。

同時に、背後からケルベロスが飛びかかった。

「間に合え!」

視界が青く染まった。

体が宙に浮く。

ケルベロスの牙が、俺の左足へ届く寸前。

転送が開始された。

暗い洞窟が崩れ、光の粒へ変わる。

助かった。

そう思った。

頭の中に、最後の通知が響く。

《音声編集完了》

《消費された記憶を確認できません》

「確認できない?」

何を失った。

母親の顔。

自分の名前。

ここへ来た目的。

必死に思い浮かべる。

どれも覚えている。

なら、何が消えた。

転送の光が薄くなる。

地上の救護室らしき白い天井が見えた。

複数の人影が駆け寄ってくる。

「負傷者だ!」

「すぐに治療を!」

「ブラッククラウンが見捨てた探索者だ!」

声が聞こえる。

音は戻っている。

俺は安心して目を閉じかけた。

そのとき、一人の女性が俺の顔をのぞき込んだ。

黒い髪。

目元にある小さなほくろ。

泣きそうな表情。

「レン!」

女性が俺の名前を呼ぶ。

「よかった……本当に、生きてた……!」

俺の手を強く握る。

その手は温かい。

声も、どこかで聞いたことがある。

けれど。

「……誰ですか?」

女性の表情が止まった。

周囲の声も遠ざかる。

俺は本気で分からなかった。

目の前で泣いているこの人を、俺は知らない。

女性の唇が震える。

「何を言ってるの、レン」

彼女は俺の手を握ったまま、かすれた声で言った。

「私よ。あなたの姉の――」

その名前を聞く直前。

俺の視界に、見覚えのないコメントが一つだけ表示された。

配信は、もう終了しているはずなのに。

《大切な人から順番に消える》

投稿者名はなかった。

《大切な人から順番に消える》

投稿者名のないコメントは、視界の中央に数秒だけ浮かび、音もなく消えた。

配信は終わっている。

端末も壊れかけている。

それなのに、なぜコメントが見える。

考えようとした瞬間、目の前の女性が俺の手を強く握った。

「私よ。あなたの姉の、灰原アキ」

姉。

その言葉を頭の中で繰り返す。

姉。

家族。

灰原アキ。

名前の意味は分かる。

だが、その名前に結びつく記憶が一つも出てこない。

「……すみません」

俺は握られた手を見た。

細い指。

手首に巻かれた古い赤色のミサンガ。

大切な物のように見える。

それでも、何も思い出せなかった。

「本当に、分からないんです」

「そんな……」

アキと名乗った女性の顔から血の気が引いた。

俺より四、五歳ほど年上だろうか。

似ていると言われれば、目元は似ている気もする。

だが、それだけだ。

通りすがりの誰かと変わらない。

「一時的な混乱かもしれません」

白衣を着た男性が、アキの肩へ手を置いた。

「転送直後です。まずは治療を優先しましょう」

「でも、この子が私を……」

「アキさん」

男性は静かな声で遮った。

「今は刺激しないでください」

周囲には、治療用の機械を持った職員が集まっていた。

俺が運び込まれたのは、ダンジョン管理局の救護区画らしい。

白い天井。

消毒液の匂い。

遠くで鳴る警報。

日常へ戻ったはずなのに、洞窟の中より落ち着かなかった。

「右腕に骨折の疑い。背部に強い打撲があります」

女性職員が俺の体を確認する。

「足首にも拘束具が残っています。切断器を」

「待ってください」

俺は反射的に言った。

右足に巻かれた鎖。

ジンが俺を置き去りにした証拠だ。

「これ、外す前に撮影してください」

「撮影?」

「鎖の内側に、ブラッククラウンの管理番号があります」

職員が目を見開いた。

鎖はダンジョンで拾った物ではない。

ブラッククラウンが装備品を管理するため、すべての道具に刻印していた番号が残っている。

俺が毎月、一覧表を更新していた。

その記憶は消えていない。

「俺が自分で鎖につながれたと言われるかもしれません」

「配信に全部映っていたでしょう」

アキが声を震わせる。

俺は首を横に振った。

「ジンさんは、俺が自分から残ったと言っていました。配信映像も、都合の悪い部分が消される可能性があります」

「そんなこと……」

「できます」

俺は断言した。

誰よりも知っている。

なぜなら、ブラッククラウンの動画を編集してきたのは俺だからだ。

生配信の記録であっても、保存版は差し替えられる。

音声の一部だけを消すこともできる。

運営会社と交渉すれば、映像そのものを非公開にすることも可能だ。

ジンには金と知名度がある。

そして、俺には何もない。

少なくとも、これまでは。

「鎖の撮影と保管をお願いします。それから、俺の端末も証拠品として管理してください」

「分かりました」

白衣の男性がうなずいた。

「私は管理局所属の医師、榊です。あなたの要望を記録します」

「ありがとうございます」

「ただし、端末を渡す前に確認したいことがあります」

榊医師の視線が、俺の胸元に向いた。

壊れかけた配信用端末。

画面は暗く、電源ランプも消えている。

「灰原さん。現在も配信を続けていますか?」

「いえ」

俺は端末を持ち上げた。

「転送時に切れたはずです。電源も落ちています」

「では、これは何でしょう」

榊医師が壁を指した。

救護室の大型モニター。

そこには、担架に乗せられた俺の姿が映っていた。

映像の右上に表示されている同時視聴者数は――。

《同時視聴者数:一八六万二千四百十一人》

「百八十六万……?」

俺の声が裏返った。

数字は今も増えている。

映像は俺の胸元にあるカメラから撮影されているように見えた。

だが、カメラの電源は切れている。

試しに端末を裏返す。

モニター上の映像も同じように動いた。

《レン生きてた!》

《よかった》

《姉を忘れたってどういうこと?》

《記憶が代償なのか》

《ブラッククラウン説明しろ》

大量のコメントが流れていく。

洞窟内での《編集》も。

記憶が消えたことも。

姉を覚えていないことも。

すべて配信されている。

「止めてください」

アキが管理局の職員へ詰め寄った。

「弟は治療が必要なんです! 今すぐ配信を止めて!」

「こちらでは止められません」

職員が端末を操作する。

「配信元が特定できないんです。登録されているチャンネルはブラッククラウン公式ですが、管理権限を受け付けません」

「じゃあ、ジンが配信を続けてるんじゃないの?」

「違います」

別の職員が首を振る。

「ブラッククラウン側からも、停止要請が来ています」

その言葉を聞いた瞬間、救護室の扉が勢いよく開いた。

黒い制服を着た男たちが入ってくる。

先頭にいるのは、背の高い女性だった。

長い黒髪を後ろで束ね、左目の下に小さな傷がある。

胸元には、ダンジョン探索者管理局の銀色の徽章。

「全員、その端末から離れてください」

低く、よく通る声だった。

「特殊能力対策課、九条シオンです」

救護室の空気が変わった。

特殊能力対策課。

危険度の高いスキル保持者を調査し、必要に応じて拘束する部署だ。

探索者なら誰でも知っている。

だが、実際に関わりたいと思う者はいない。

九条は俺を見下ろした。

「灰原レン。あなたには、ダンジョン内で未登録能力を使用した疑いがあります」

「未登録……」

「登録されている《編集》スキルは、映像データへの干渉能力です」

九条の目が細くなる。

「魔物の攻撃を消す能力ではありません」

周囲の職員が緊張する。

アキが俺と九条の間に入った。

「弟は殺されかけたんです。事情聴取なら治療が終わってからにしてください」

「治療を妨げるつもりはありません」

九条は表情を変えない。

「ですが、現在も正体不明の配信が継続しています。この施設の内部映像まで、許可なく世界中へ送信されている」

大型モニターの数字は二百万人を超えた。

管理局の職員。

医療設備。

特殊能力対策課の顔。

すべてが映っている。

「灰原レン」

九条が俺の目を見る。

「この配信を止めてください」

「俺にも止め方が分かりません」

「あなたの能力ではないと?」

「少なくとも、自分で配信しているわけじゃない」

九条は数秒、黙って俺を観察した。

嘘を見抜こうとしている。

「では、能力の詳細を説明してください」

「先に治療を」

アキが再び口を挟む。

九条は彼女を無視した。

「魔物の攻撃をどのように無効化したのですか」

俺は答えるべきか迷った。

管理局に能力を隠せば、さらに疑われる。

だが、世界を編集できる力だと知られれば、自由に帰してもらえるとは思えない。

そのとき、視界に細い横線が現れた。

動画編集用のタイムライン。

何も操作していないのに、九条の発言が一つの音声データとして表示されている。

『魔物の攻撃をどのように無効化したのですか』

選択可能。

削除可能。

今ここで彼女の質問をカットすれば、聞かれなかったことにできるのか。

あるいは、俺が答えた部分だけを削除すればいい。

そう考えた瞬間、警告が出た。

《編集対象を検出》

《必要容量:姉に関する記憶一件》

息が止まる。

姉に関する記憶。

俺はすでに、目の前のアキを忘れている。

それでも、まだ何か残っているのか。

幼い頃の出来事。

一緒に食事をした記憶。

声。

癖。

それらも能力を使うたびに、一つずつ失われる。

「使わない」

俺は小さくつぶやいた。

九条の眉がわずかに動く。

「何を使わないのですか」

「……能力です」

ここで編集すれば、簡単に逃げられるかもしれない。

だが、その代わりに、俺は姉との記憶をさらに失う。

今は覚えていなくても、消えた物が大切だったことだけは分かる。

これ以上、軽々しく切り捨てるわけにはいかない。

「視界に入った現象を、最大三秒まで削除できます」

救護室が静かになった。

九条だけが冷静に問い返す。

「現象とは?」

「動き、音、攻撃。正確な範囲は俺にも分かりません。今日初めて使いました」

「代償は?」

俺は隣にいるアキを見た。

彼女は不安そうに俺を見つめている。

知らない人のはずなのに、胸の奥が痛んだ。

「記憶です」

「記憶?」

「能力を使うと、俺の記憶が消えます」

大型モニターのコメントが止まったように見えた。

次の瞬間、爆発的な速さで流れ始める。

《やっぱり代償あったのか》

《姉を忘れたのもそれ?》

《これ以上使うな》

《世界を変える能力ってこと?》

《管理局はレンを守れ》

九条はモニターを一度だけ確認し、部下へ命じた。

「通信遮断区画を準備してください」

「しかし、この配信は通常回線ではありません」

「施設全体を遮断します」

「救助要請にも影響します」

「構いません」

アキが九条をにらんだ。

「構うでしょう。まだダンジョンには救助を待っている人がいるかもしれない」

「この配信が敵対者によるものであれば、管理局全体の位置情報と設備情報が漏えいしています」

「弟を敵扱いするんですか?」

「判断するために調査します」

九条は冷たく答えた。

理屈は通っている。

だが、このままでは俺は治療後、そのまま拘束される。

逃げるべきか。

《編集》を使えば、九条たちの動きを止められるかもしれない。

しかし何度使える。

次は誰を忘れる。

母親か。

父親か。

それとも、自分自身か。

「レン」

アキが俺へ顔を寄せた。

「大丈夫。私がそばにいるから」

俺は何も答えられなかった。

覚えていない人にそう言われても、信じ方が分からない。

けれど、その言葉を聞いたとき。

自分でも理由の分からない安心感が、胸の奥に広がった。

記憶は消えている。

それでも、感情までは完全に消えていないのかもしれない。

「姉さん」

試しに呼んでみた。

アキの目に涙が浮かぶ。

「うん」

「俺たち、本当に仲が良かったんですか」

「何よ、それ」

アキは泣きながら笑った。

「悪かったわよ。毎日のようにケンカしてた」

「そうなんだ」

「でも、あなたがダンジョンに潜る日は、必ず連絡をくれた。今日も帰ったら一緒に夕飯を食べる約束だった」

夕飯。

何を食べる予定だった。

思い出せない。

ただ、その約束を破りたくないと思った。

「じゃあ、帰らないと」

「そうよ」

アキがうなずく。

「絶対に帰ってきなさい」

その瞬間、救護室の照明がすべて消えた。

闇。

機械の作動音も止まる。

数秒遅れて、赤い非常灯が点灯した。

「通信遮断を開始したのか?」

九条が部下を見る。

「まだです!」

「施設の電源が外部から切断されています!」

警報が鳴り響く。

大型モニターだけは消えていなかった。

配信映像が乱れ、画面いっぱいに黒いノイズが走る。

同時視聴者数は表示されなくなった。

代わりに、白い文字が一文字ずつ浮かび上がる。

《編集者を確認》

九条が腰の武器へ手を伸ばした。

「全員、警戒してください」

《記憶容量の不足を確認》

「何だ、これは」

《外部保存領域を接続します》

俺の頭の奥に、冷たい何かが入り込んだ。

「ぐっ……!」

激痛が走る。

視界が反転する。

知らない映像が、次々と頭の中へ流れ込んできた。

白い部屋。

大量のモニター。

椅子に座らされた男。

男の顔は、俺によく似ていた。

年齢は四十歳ほど。

腕には無数の管がつながれている。

男がこちらを見る。

映像の向こうから、俺を見ている。

『レン』

唇が動いた。

声は聞こえない。

だが、その人が誰なのか、なぜか分かった。

父親。

十二年前、ダンジョン事故で死んだと聞かされていた父。

『《編集》を使うな』

父の背後。

暗闇の中から、小さな白い手が伸びる。

十歳ほどの少女が、父の肩越しに顔を出した。

白い髪。

赤い瞳。

少女は俺を見て、嬉しそうに笑った。

『やっと見つけた』

第1話で表示された、投稿者不明のコメント。

同じ言葉だった。

映像が途切れる。

俺は救護室のベッドへ戻っていた。

数秒しか経っていない。

アキが俺の肩をつかむ。

「レン! どうしたの?」

「父さんが……」

「え?」

「父さんが生きてる」

自分でも信じられなかった。

アキの顔が固まる。

九条の目つきが変わった。

「今、誰を見たのですか」

俺が答える前に、大型モニターの文字が更新された。

《保存領域への接続完了》

《失われた記憶の復元を開始します》

頭の中に、知らない記憶が流れ込む。

赤いミサンガを俺の手首に結ぶ姉。

誕生日の食卓。

母親から渡された、黒い編集用キーボード。

そして、父親が失踪する前夜。

父は幼い俺へ、一枚の古いメモリーカードを渡していた。

『レン。いつか《編集》という言葉が見えるようになったら、これを再生しろ』

思い出した。

メモリーカードを隠した場所も。

俺はアキの手首にある赤いミサンガを見た。

あれは、俺が小学生の頃に贈った物だ。

「姉さん」

今度は、自然に呼べた。

アキの目が大きく開く。

「思い出したの?」

「ああ。少しだけ」

安心したのも束の間だった。

大型モニターに最後の文章が表示される。

《復元には同量の記憶が必要です》

《代替記憶を選択してください》

視界に、複数の候補が並ぶ。

母との思い出。

姉との思い出。

父との思い出。

ブラッククラウンで過ごした三年間。

そして――。

《灰原レンという自己認識》

「ふざけるな」

復元した記憶の代わりに、別の記憶を失う。

戻ったわけではない。

借金の支払先を選ばされているだけだ。

《選択まで残り十秒》

数字が減り始める。

九条が何かを叫んでいる。

アキが俺の名前を呼んでいる。

だが、音が遠い。

俺は選択肢を見つめた。

家族を忘れたくない。

自分自身も失いたくない。

なら、切り捨てられる記憶は一つしかなかった。

ブラッククラウンで過ごした三年間。

ジンを信じた時間。

仲間のために動画を作った日々。

俺の努力。

悔しさ。

今日の裏切りにつながった、すべての記憶。

それを消せば、ジンを告発するための証言まで失う可能性がある。

「レン、何が見えてるの!」

アキの声が聞こえる。

《残り三秒》

証拠は鎖と配信に残っている。

なら、俺が覚えている必要はない。

《残り二秒》

俺はブラッククラウンの三年間を選んだ。

《残り一秒》

「削除する」

画面が白く染まる。

頭の中から、大量の映像が抜け落ちていく。

ジンと出会った日。

初めて編集を任された夜。

仲間と笑った記憶。

見下された言葉。

置き去りにされた洞窟。

すべてが遠ざかる。

最後に残ったのは、鎖を足につけられた冷たい感触だけだった。

《代替処理完了》

《記憶復元率:二%》

たった二%。

三年間を失って戻ったのは、家族とのわずかな記憶だけ。

割に合わない。

それでも。

俺は隣にいる女性を見た。

「姉さん」

今度は、はっきり分かる。

この人は俺の家族だ。

アキは泣きながら、俺の手を握った。

「よかった……」

九条が静かに問いかける。

「黒瀬ジンに何をされたか、説明できますか」

俺は答えようとした。

だが、黒瀬ジンという名前に、何の感情も浮かばなかった。

顔も思い出せない。

「すみません」

自分の右足に残る鎖を見下ろす。

「それをした人のことを、俺はもう覚えていません」

大型モニターが暗転する。

配信が終了した。

最後に一行だけ表示される。

《次の編集地点を設定しました》

《深層門:第零階層》

そして画面の奥で、白髪の少女がこちらへ手を伸ばした。

「待ってるよ、レン」

モニターが割れた。


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