第12話 誤字として消される
《編集監査官:校正》
《権限:文章編集》
《戦闘開始》
赤いペン先が、俺へ向けられる。
「君という存在は、文章として不自然です」
校正は穏やかに言った。
黒いスーツ。
白い手袋。
落ち着いた口調。
戦場ではなく、原稿を確認する編集者のような態度だった。
「死んだはずの人間が生き残る」
校正が一歩近づく。
「失った記憶が人格として独立する」
さらに一歩。
「用意された選択肢を拒否し、新しい結末を作る」
赤いペンが空中をなぞった。
「物語の整合性を乱している」
俺の視界に、白い文章が現れる。
――灰原レンは第二権限層に到達した。
その文の中で、俺の名前だけに赤い波線が引かれていた。
《誤字を検出》
《修正候補:削除》
「避けろ!」
頭の中のもう一人の俺が叫ぶ。
俺は横へ飛んだ。
直後。
さっきまで立っていた床から、文字が消えた。
石畳ではない。
床を表す情報そのものが抜け落ち、真っ白な穴になる。
「触れた場所を消したのか」
『違う』
もう一人の俺が答える。
『文章から存在を削除してる』
校正が赤いペンを振る。
新しい文章。
――九条シオンは灰原レンを守るため、前へ出た。
今度は《守るため》に波線が引かれる。
《表現の不一致》
《修正候補:殺すため》
「九条さん!」
俺が叫ぶ。
九条の腕が勝手に動いた。
銃口が俺の胸へ向く。
彼女の表情が歪む。
「体が……命令を!」
引き金が引かれる。
俺はタイムラインを開いた。
《発砲》
《命中》
《死亡》
いつもの編集なら、発砲を消す。
だが、校正が書き換えた文章の方が先だ。
九条の行動を止めても、《殺すため》という前提が残る限り、別の方法で俺を攻撃する。
「原因は文章だ」
『見えてる』
赤と青。
二つのタイムラインを重ねる。
文章のレイヤー。
行動のレイヤー。
感情のレイヤー。
九条の本心は、俺を殺そうとしていない。
外部から文章だけを書き換えられている。
「接続を切る!」
俺は九条と文章をつなぐ赤い線へ手を伸ばした。
《文章命令接続》
《切断コスト:記憶一件》
「実行!」
頭の中から小さな記憶が抜ける。
何を失ったか確認する暇はない。
接続が切れた。
九条の銃弾が俺の肩をかすめ、背後の壁へ突き刺さる。
「制御が戻りました」
九条はすぐに銃を下ろす。
「すみません」
「謝らなくていいです」
校正は小さく首を振った。
「接続を切りましたか。ですが、修正は終わっていません」
赤いペンが再び動く。
――灰原レンは銃弾を避けた。
《冗長表現》
《修正候補:灰原レンは死亡した》
「させるか!」
文章が確定する前に、俺は文字へ手を伸ばす。
《死亡した》
その単語を選択。
削除ではない。
書き換える。
《生存した》
《文字列編集》
《権限不足》
赤い警告。
校正の権限は、俺より上だ。
単純な上書きでは負ける。
「君は文章を理解していない」
校正は静かに言った。
「単語だけを変えても、前後が矛盾すれば修正される」
文章が確定する。
心臓に激痛。
見えない何かが胸を貫いた。
呼吸が止まる。
膝から力が抜けた。
「レン!」
九条が俺を支える。
《状態:死亡》
視界が暗くなる。
心臓は動いていない。
それでも意識だけが残っている。
『おい、起きろ!』
頭の中のもう一人の俺が叫んでいる。
『俺まで巻き込む気か!』
「死んでる……」
『文章の上ではな』
「どういう意味だ」
『今の俺たちは人格が二つある』
もう一人の俺の声が近づく。
『文章には、灰原レンが死亡したとしか書かれてない』
俺は気づく。
校正は俺たちを一人として処理している。
だが、今の灰原レンには二つの人格がある。
一つが死亡しても。
もう一つは文章の対象に含まれていない可能性がある。
「主導権を替える」
『やっと気づいたか』
《共同編集モード》
《主導人格変更》
視界が反転した。
止まっていた心臓が強く脈打つ。
肺へ空気が流れ込む。
俺は九条の腕の中で目を開けた。
「生き返った?」
九条が驚く。
「少し違います」
口から出た声は、自分のものなのに少し低かった。
身体の主導権を握っているのは、もう一人の俺。
失った記憶を持つ人格だ。
『身体、借りるぞ』
頭の中で俺が答える。
「任せる」
校正の表情が初めて変わった。
「人格交代」
赤いペンが止まる。
「一つの主語に、二つの主体。文法違反です」
「勝手に一人だと決めたのは、そっちだ」
もう一人の俺が俺の口で言う。
赤いタイムラインが広がる。
左目の青い画面には、過去の戦闘記憶。
右目には、現在の校正の動き。
情報量が一気に増える。
「九条、三秒稼げ」
「命令しないでください」
そう言いながら、九条は前へ出た。
銃を連射する。
校正は赤いペンで文章を書く。
――弾丸は校正に命中する。
波線。
《事実誤認》
《弾丸は校正を避ける》
銃弾が不自然に軌道を変えた。
すべて校正の左右へ逸れる。
「物理法則まで文章で変えるのか」
九条が後退する。
「物理法則ではありません」
校正が答える。
「記述された結果を正しているだけです」
「なら、記述されてないことは直せない」
もう一人の俺が笑った。
「九条、撃ち続けろ」
「当たらないと言っているでしょう」
「当てなくていい」
銃声が続く。
弾丸はすべて逸れる。
だが、床や壁に命中して粉塵を巻き上げる。
視界が白く濁った。
校正の姿が隠れる。
文章が現れる。
――校正は灰原レンを視認した。
「そこだ」
俺たちは同時に気づく。
校正の能力は、文章を修正する。
だが、文章を作るには状況を認識しなければならない。
見えていない事実は書けない。
「視認した」を削除するのではない。
視認できない状態を維持する。
粉塵。
銃声。
足音。
複数の情報を同時に流す。
「映像を編集するぞ」
『どの部分だ』
「全部だ」
俺は周囲の音と映像へ接続する。
九条の足音を右から左へ。
俺の影を三つへ複製。
呼吸音を天井へ移動。
粉塵の中に偽の輪郭を作る。
《多重素材接続》
《消費:感情記憶〇・四件》
小さな感情が削れる。
何を失ったかは分からない。
それでも続ける。
校正の周囲に、四人の灰原レンが現れた。
「映像的には不自然です」
赤いペンが動く。
――灰原レンは一人である。
《重複表現を削除》
三つの偽物が消える。
残った一人へ、校正がペンを向けた。
だが。
それは俺ではない。
九条の影を、俺の輪郭へ編集したものだ。
「間違えたな」
校正の背後へ回り込む。
『今だ』
俺は赤いペンをつかんだ。
触れた瞬間。
膨大な文章が流れ込んでくる。
消された事件。
修正された人物。
存在しなかったことにされた死者。
校正はこの場所で、何千年も情報の矛盾を消してきた。
「離れなさい」
校正の声に初めて焦りが混じる。
俺はペンのタイムラインを開く。
《校正権限端末》
《所有者:編集監査官》
《機能:矛盾修正》
《制限:原文を超える創作不可》
「原文を超える創作はできない」
九条が気づく。
「つまり、この男は存在しない結末を作れない」
「そうだ」
校正は修正するだけ。
何もないところから新しい事実を生み出すことはできない。
俺を死亡させた文章にも、元になる原文があったはずだ。
俺が撃たれた。
心臓を傷つけられる可能性があった。
だから死亡へ修正できた。
なら。
原文そのものを、矛盾のない状態にすればいい。
「九条さん、俺を撃ってください」
「正気ですか」
「致命傷にならない場所を」
「理由を説明してください」
「原文を作ります」
九条は一瞬だけ迷い、俺の左脚へ銃を向けた。
発砲。
弾丸が太ももを貫く。
激痛。
血が流れる。
校正の前に文章が現れる。
――九条シオンの弾丸が灰原レンの左脚へ命中した。
赤い波線は出ない。
事実。
明確。
矛盾なし。
「傷を編集する」
俺は傷口のタイムラインを見る。
《貫通》
《出血》
《組織損傷》
いつもなら復元する。
だが今回は、文章を追加する。
――弾丸は左脚を貫通した。
その後へ。
《灰原レンは立ち続けた》
《追加編集》
《成功》
脚の痛みは消えない。
傷も残っている。
それでも、身体は倒れない。
校正の赤いペンが動く。
波線を引こうとして止まる。
事実として成立している。
傷ついても立つ人間はいる。
矛盾ではない。
「修正できない」
校正の顔から余裕が消えた。
「校正は、正しい文章を消せない」
俺は一歩踏み出す。
血が床へ落ちる。
「俺は記憶を失った」
もう一歩。
「一度、存在を消されかけた」
もう一歩。
「人格が二つになった」
校正が後退する。
「それでも、全部事実だ」
俺ともう一人の俺が同時に言う。
「俺という存在は、誤字じゃない」
視界に文章が現れる。
――灰原レンは編集監査官・校正の前へ立った。
波線はない。
――灰原レンは赤いペンを握った。
波線はない。
――灰原レンは校正の権限を奪った。
そこで初めて、赤い波線が現れる。
《権限上、不可能》
「まだ奪ってないからな」
俺はペンを握る力を強める。
「今から事実にする」
《共同編集》
赤い画面。
青い画面。
二つのタイムラインで、校正の右手を選ぶ。
過去の所有状態。
現在の接触状態。
未来の所有者。
接続する。
《所有権接続》
《対象:校正権限端末》
《接続先:灰原レン》
《必要容量:記憶五件》
五件。
また失う。
だが、ここで止まれば先へ進めない。
『やるか』
「一緒に決めるんだろ」
『俺は賛成だ』
「俺もだ」
「接続!」
頭の中から五つの記憶が抜け落ちる。
高校時代の友人。
初めて買った編集ソフト。
母さんの誕生日。
姉さんと喧嘩した理由。
そして。
自分が動画編集者を目指したきっかけ。
大切なものが消えた。
それでも、赤いペンは校正の手を離れた。
俺の右手へ移る。
文章が確定する。
――灰原レンは校正の権限を奪った。
赤い波線が消えた。
《事実として承認》
校正の体が固まる。
スーツの輪郭が文字へ崩れていく。
「あり得ない」
「今、あり得ることになった」
校正の胸に文章が浮かぶ。
――編集監査官・校正は敗北した。
赤いペンが自動的に波線を引こうとする。
俺はその手を止めた。
敗北した。
事実だ。
修正する必要はない。
校正は静かに俺を見つめた。
怒りはなかった。
むしろ、長い仕事から解放されたような表情だった。
「あなたは、正しくない」
「知ってる」
「矛盾している」
「ああ」
「それでも残るのですか」
俺は答える。
「人間は、だいたいそういうものだろ」
校正の口元がわずかに上がった。
「なるほど」
体が白い文字へ変わる。
「それなら、私は役目を終えます」
完全に消える直前。
校正は塔の上を見た。
「気をつけなさい」
「何に」
「第三権限層にいる灰原誠一は」
校正の声が途切れる。
「あなたの父親ではありません」
白い文字が散った。
《特別監査官を撃破》
《監査対象:百三十八→百三十七》
《校正権限を取得》
《新規機能:文章編集》
俺の手の中で、赤いペンが小さく縮む。
光となって右目へ吸い込まれた。
視界に新しい編集欄が追加される。
《削除》
《復元》
《接続》
《文章編集》
九条が俺を見る。
「最後の言葉をどう思いますか」
父さんは父さんではない。
また、認識を揺さぶる情報。
だが、今度はすぐに信じない。
すぐに否定もしない。
「確認します」
俺は答えた。
「自分の目で」
頭の中のもう一人の俺が黙っている。
「どうした」
『今、消えた記憶のことだ』
「何を失った」
『動画編集者を目指した理由』
胸の奥が空白になる。
職業は覚えている。
技術も残っている。
だが、なぜ編集を始めたのか分からない。
『俺は覚えてる』
もう一人の俺が言った。
「本当か」
『ああ』
「教えてくれ」
短い沈黙。
『姉さんだ』
「姉さん?」
『子どもの頃、姉さんの誕生日に撮った映像を編集した』
頭の中に、ぼんやりとした感情が流れ込む。
うれしさ。
緊張。
完成した映像を姉さんが何度も見た。
笑って。
泣いて。
ありがとうと言った。
『誰かの大切な時間を、残せる仕事だと思った』
俺は目を閉じる。
映像は見えない。
だが、感情だけは伝わる。
「そうか」
『今度は、俺が覚えておく』
初めて。
失った記憶を、もう一人の俺が守ってくれた。
一人なら消えていた。
二人だから残った。
「ありがとう」
『気持ち悪いからやめろ』
少しだけ笑う。
そのとき。
塔の頂上から、低い振動が響いた。
《第二権限層に外部侵入を検出》
空間の中央に映像が開く。
第二深層門の前。
黒瀬ジン。
そして、仮面を外したナギ。
二人が白い扉の前に立っている。
「招待は一人だけだったはずです」
九条が言う。
ナギの赤い左目が光る。
白い扉の文章が書き換えられていく。
――同行可能人数:一名。
《一名》に赤い線。
その上から新しい文字。
――同行可能人数:制限なし。
「文章編集」
俺はつぶやく。
ナギも、同じ権限を持っている。
扉が開く。
ジンとナギが第零階層へ入ってくる。
だが、二人だけではなかった。
その背後。
数十人の管理局隊員。
ブラッククラウンの残存メンバー。
さらに。
白髪の少女。
白が立っている。
「迎えに来たよ、レン」
白は笑った。
その右手には、校正が持っていたものと同じ赤いペン。
左手には。
血だらけの父さんの首が握られていた。
「お父さんなら、ここにいる」
白が首を持ち上げる。
父さんの目が開いた。
俺を見て、口だけが動く。
『信じるな』
次の瞬間。
塔全体に新しい文章が表示された。
――灰原誠一は、十二年前に死亡した。
赤い波線はない。
《事実として承認済み》
俺の呼吸が止まる。
では。
今まで俺と話していた父さんは。
誰だったのか。
白は首を床へ落とす。
「第三権限層で、答え合わせをしよう」
塔の頂上へ続く扉が開いた。
その奥から。
父さんと同じ声が響く。
『待っていたよ、レン』
《第二権限層:強制終了》
《第三権限層へ移行します》
足元の床が消えた。
俺たちは、塔のさらに奥へ落下した。




