【月白】魔力の身体性
北大陸の小さな村。
外では雪が降り積もっているが、家の中はとても暖かくて快適だ。
シルリネアは炉の熱を十分に送り込まれた火炕に座り、身重の体を持て余しながら、たっぷりの蜂蜜を入れた生姜湯を飲んでいる。薄荷色の瞳は、一点を見つめていた。
メイランはその傍らで炉の様子を見つつ、愛する妻と同じものを見ていた。
視線の先では、ふたりの人物が向かい合っている。
紅嵐とザフィル。
紅嵐は真剣な様子でザフィルを見つめているが、ザフィルの表情に変化はない。
ややあって、ザフィルが口を開いた。
「ヴェンツェルに頼んだ方がいいと思うけど」
平板な声で、そう言った。
紅嵐は眉を歪め、悲鳴とも困惑ともつかない声をあげる。
「頼んで教えてもらったの。もらったんだけど、さっぱりわからない!」
「じゃあ、諦めたら。向いてない」
「それも嫌!」
炉に薪をくべながら、メイランは苦笑した。さっきからずっと、堂々巡りをしている。
「ザフィルはどうして、紅妹に魔法を教えるのが嫌なんだ?」
メイランは、紅嵐に助け舟を出すつもりで、ザフィルに尋ねてみた。
「僕は、人間の魔法理論で魔法を使っていないから」
「人間の魔法理論ってのは、知らねぇの?」
「知ってる」
メイランが不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、教えられるんじゃねぇの? 俺、別流派の剣術も教えられるけど」
「剣術とは違うと思うけど……」
ザフィルも首を傾げた。彼は剣術に明るくないので、魔法との比較ができない。
「人間の魔法理論は迂遠だけど安全だし、理解すれば応用が利く。だから、人間の魔法理論をちゃんと知ってる人に習った方がいい。基礎なら特にね」
「へぇ。じゃあお前のは?」
兄に尋ねられ、ザフィルはもう一度考えをまとめ直した。
「僕のは、理論というより身体性。シルリネアも僕に近いと思うけど」
突然話題を振られて、シルリネアは目を丸く見開いた。生姜湯の入ったカップを置き、少し考える。
「そうね。理屈で魔法を考えたことはないかも」
ザフィルは肩をすくめ、紅嵐と視線を合わせた。
「紅嵐、ここに理論を教えられる人はいない。諦めて」
「えぇー」
紅嵐は未練たっぷりにぼやいた。
シルリネアは生姜湯を飲もうとカップを手に取り——胎動を2箇所で感じて、そっと微笑む。
「ねえザフィル」
シルリネアが声をかけた。ザフィルの目が彼女を捉える。
「なに」
「この子たちにも、魔法教えてくれるんでしょ?」
ザフィルは眉をひそめた。
「……いいけど……」
シルリネアはニッコリと微笑んだ。
「じゃあ、この子たちの前に、紅嵐に教えてみてほしいんだけど。練習だと思って」
紅嵐の表情がぱっと明るくなった。
「そうだよ。ね、練習台になるから教えてよ」
シルリネアと紅嵐を見て、メイランも笑った。
「俺からも頼むよ。紅妹に魔法を教えてやってくれねぇ? 1回だけでいいからさ」
ザフィルはため息をついた。どうも兄に頼まれると、断りにくい。
「わかった。1回だけだよ」
******
外に出ると、雪はだいぶ弱まっていた。
とはいえ足場は悪い。ザフィルは一帯の雪を魔法で吹き飛ばし、地面を露出させた。
「相変わらず便利だなぁ」
メイランが感心した様子で笑う。
「雪かきも雪おろしもいらないものね」
シルリネアも、分厚い外套をかきあわせつつ、外に出てきた。
「紅嵐」
ザフィルが呼ぶと、紅嵐は小走りで寄ってきた。
「きみの魔力を見る。いいね」
紅嵐の頷きを確認してから、ザフィルは彼女の内に流れる魔力を見る。彼女が魔法を使えない理由が、すぐにわかった。
10歩ほど離れた場所に、雪柱をひとつ作る。
「ここから動かずに、あれを壊す」
ザフィルは片腕を出し、指先で雪柱に狙いを定めた状態で体を固定した。
「腕や指を延長させる感覚……あるいは、指先から矢を射るような。それを雪柱まで伸ばす」
言った瞬間、雪柱が砕けた。強烈な投石を受けたような壊れ方に、紅嵐は呆然と立ち尽くす。
ザフィルは紅嵐を一瞥し、腕をしまった。雪柱を作り直す。
「やって」
「私が!?」
「他に誰がいるの。補助はしてあげるよ」
紅嵐はおずおずと片腕をあげて、先程のザフィルと同じ姿勢を取った。
「集中して。そう」
ザフィルは紅嵐の姿勢を決めさせてから、彼女の魔力の流れを調整した。絡まり、淀んで出口を見つけられていない魔力を、指先に向けて導く。
「え、うわ、なにこれ」
紅嵐が慌てた声を出す。体の中で、得体の知れない何かが走るような感覚があった。
「集中」
ザフィルの声に紅嵐は気を取り直し、どうにか意識を雪柱に向けた。
「そのまま、壊す意思を雪柱にぶつけて」
紅嵐の指先に、力が集まってくる。思わず彼女は叫んだ。
「壊れろ!」
途端に雪柱が弾けた。体内の力も収まった。
「これが僕の魔法の基礎」
ザフィルが静かに言った。
「『壊れろ』って、言ったでしょう。それが詠唱。言葉の意味に価値はないけれど、意識を集中させるための技術。指を標的に向けたのも、同じ理由。だから——」
一瞬で、雪柱が無数に立ち並んだ。次の瞬間には、それらがすべて破壊された。詠唱も動作もなく、視線さえ動かさずに。
「慣れればこういうこともできる。紅嵐」
「え、あ、はい!」
圧倒され、動けずにいた紅嵐が、反射的に返事をした。
「10日以内に、さっきのを自分だけで再現できるようになったら、次を教えてあげる」
「10日!?」
とても無理だ。そう感じた紅嵐は、悲鳴のような声を出した。
「魔力がどう流れたかは、さっき感じたでしょう。あれを再現すればいいだけだよ」
「どうすれば再現できるのかわからない!」
ザフィルは嘆息し、メイランと、その傍らにいるシルリネアを見た。
「これが身体性。再現が難しいんだよ。だから、面倒でも理論を学んだ方がいい」
******
すっかり落ち込んでしまった紅嵐をなだめて安洛城に送ると、いつもの静かな空間が戻ってきた。
雪はふたたび強くなりつつある。
「紅妹は相変わらずだなぁ」
メイランが笑う。彼にとって、紅嵐はかわいい妹であり、武術の弟子でもあった。
「10日で、いけると思ってんだろ?」
尋ねると、ザフィルは頷いた。
「ちゃんと向き合えばね。それもできないなら、本格的に諦めるべきだ」
「なるほど」
納得するメイランの横で、シルリネアが口を開いた。
「ねえザフィル、私もやってみていい?」
「いいよ。あなたに補助は要らないね」
ザフィルが雪柱を作る。
「どうかなぁ。魔力を壊す方向で使ったことないから」
言いながら、シルリネアは数歩進んで片腕をあげた。
「あの速度で魔法を使える人が、何を言うんだか」
ザフィルが言い終えるのと同時に、雪柱が砕け散った。
「できた!」
シルリネアは輝く笑顔でメイランを振り返り、彼を呼ぶように両腕を掲げる。メイランもまた、嬉しそうに笑ってシルリネアを軽く抱きしめた。
ザフィルは、楽しそうな兄夫婦を眩しげに見守った。彼らが一通り喜びを共有したあたりを見計らって、声をかける。
「寒いから、家に戻った方がいい。興味があるなら、家の中で続きを教えてあげる」
「本当? これなら体を動かさずにできるから、気晴らしにいいかも」
「疲れるだろうし、程々にね」
言いながら、ザフィルはシルリネアを室内に促した。メイランはその様子を嬉しそうに眺め、一番最後に家の中に入って、厳重に扉を閉じた。
このままだと、夜は吹雪くだろう。シルリネアの体が冷えないよう、後で各所を点検しようと心に決めた。
******
ぴったり10日後、よく晴れた日の昼前に、紅嵐がやってきた。
「できた! できたから、次、教えて!」
息を切らせて飛び込んできた紅嵐を、ザフィルは見やる。
シルリネアとメイランは、今はいない。雪がやんだので、シルリネアは薬草を採りに森へ向かい、メイランはその付き添いをしている。
「そう」
ザフィルは呟いて書き物を止め、腰を上げた。ひとりきりの室内に熱はなく、冷え切っている。
「あれ、家寒くない?」
「僕だけなら必要ないからね。外で見てあげる」
屋外で前回と同様の環境を整え、ザフィルは紅嵐を見た。
「やってみて」
「うん……!」
紅嵐が緊張しながら片腕をあげる。
ザフィルは彼女の魔力の流れを観察する。悪くない。
「壊れろ!」
紅嵐が叫ぶと、雪柱が弾け飛んだ。
「ほら、できたでしょ!」
嬉しそうな紅嵐に対して、ザフィルは至極冷静だ。
「おめでとう。じゃあ、次」
淡々と、雪柱を3つ作り出した。それぞれが、大人が両腕を広げたぐらいの距離を置いている。
「これを同時に壊せるようになって。5日で」
紅嵐が、寒気を覚えたようにぶるりと震えた。
「え、これずっと続くの……?」
ザフィルは肩をすくめる。
「基礎中の基礎を覚えただけだよ。きみたちの剣術や槍術にたとえるなら、持ち方を覚えただけ。まだ何も始まっていない」
「そんなぁ」
「これが現実。じゃあ、がんばって」
ザフィルはそう言って、瞬間転移の魔法で紅嵐を安洛城に送り返した。
賑やかな声が消え、静寂が戻る。
ザフィルは小さく嘆息し、家の中に戻るべく足を進めた。
口元に、小さな笑みを残して。




