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【月白/19年】影嵐の結婚騒動

「お付き合いを前提に結婚してください!」


 目抜き通りで突然の出来事に襲われた影嵐(エイラン)は、呆然と立ち尽くしてしまった。

 影嵐は武術の達人であり、ここ一帯で負けなしの存在だ。誰も彼には勝てないし、足の裏以外を地面につかせることさえ難しい。10年以上、その状態が続いている。

 さらに安洛通運の筆頭格であり、雇人たちを取りまとめる立場でもある。縁談は多数あるはずだが、彼はすべて固辞していた。

 そんな彼が、すっかり固まっている。

 影嵐の目の前には、土下座せんばかりの勢いで頭を下げる女性がいる。彼女もまた、姿勢を崩さない。

 道行く人々も、突然の出来事に思わず立ち止まり、様子を見ている。近隣の店や民家からも、人が顔を出しはじめた。

「……ちょっと待て」

 影嵐はどうにか声を絞り出し、目の前の女性を見た。

 彼女のことはよく知っている。看板娘だ。ここ1年ぐらいで新しくできた、安洛通運からすぐのところにある茶屋の。

 注文の提供が早く味も悪くないので、影嵐もたまに使っている。安洛通運の中では憚られる話題の時も、利用していた。

 木像のように動かない看板娘を見て、影嵐は嘆息した。

「人目を集めすぎだ。とりあえず来い、霞花(シアファ)」

 手首を掴んで引っ張ると、操り人形のようなぎこちなさで動いた。影嵐はもう一度嘆息して、安洛通運に連れて行くことにした。


 ******


 安洛通運の中。

 通路で黒嵐(ヘイラン)とすれ違った。

「あ、影兄お帰——どうしたの」

 黒嵐は、影嵐と彼に引っ張られて歩く霞花を交互に見て、目を丸くしている。

「俺に用があるんだと」

 影嵐がぶっきらぼうに言うと、霞花も俯きがちに頷いた。

 ふたりの様子を見た黒嵐が、眉をひそめる。

「それにしたって。影兄、手を離してあげれば。跡ついちゃうよ」

 影嵐は気まずそうに顔をしかめ、霞花の様子を見た。

 彼女はすっかり大人しくなっていて、さっきのように突拍子もないことはしそうにない。だが、あんなことをしでかした後だと、あまり信用ならない。

 とはいえ、黒嵐の言うことはもっともだった。

「おい、離すぞ。ちゃんと話を聞いてやるから、騒ぐなよ」

 霞花が首を縦に振ったので、影嵐は手を離した。黒嵐の言う通り、彼女の手首には影嵐の手の跡が赤くついていた。

「あーあ」

 茶化す黒嵐の背を、影嵐は軽くはたく。

「いいから仕事しろ」

「はいはい」

 黒嵐の後ろ姿を見送り、改めて霞花を見る。

 彼女は影嵐の手の跡がついてしまった手首を、妙に嬉しそうな様子でさすっていた。

 その様子に若干の悪寒を覚えた影嵐は、さっさとこの話を終わらせてしまおうと心に誓った。


 ******


「で?」

 安洛通運の商談用の個室を確保し、霞花を座らせた影嵐は、卓を挟んだ向かい側に自身も座った。

 足を組み、片肘をつく。彼の癖だ。

「どこぞの奴らと賭けでもして、負けた罰か何かか?」

 それぐらいしか思いつかなかった。霞花は黒嵐と同年代のはずで、つまり、影嵐とは10歳ぐらい離れている。

 霞花は、元気で物事の好き嫌いが明瞭な娘だ。好ましいとは思う。妹の紅嵐(ホンラン)と気が合うようなので、妹分ぐらいの気持ちもある。

 彼女の茶屋で、愚痴を聞いてやったこともあるにはある。

 逆に言えば、その程度の関係だ。

 そんな彼女が、しかも茶屋の看板娘が、付き合うだの結婚だのと言い出したのは、誰かに強いられたからに違いない。

「あ、あの」

 霞花が意を決したように口を開いた。思い詰めたような声。

「困らせてしまってごめんなさい!」

 思い切り頭を下げた。思い切りすぎて、ごん、と卓が鈍い音を立てる。霞花が顔をあげると、額が赤くなっていた。

 影嵐は辛うじて舌打ちを我慢し、渋面を作る。

「落ち着け」

「すすすすみません!」

 霞花はふたたび勢いよく頭を下げようとしたが、今度は影嵐に止められた。霞花の額を影嵐の手が押さえる。

「お ち つ け」

 一音ずつ区切り、影嵐は霞花と目を合わせた。鮮やかな碧眼が霞花を間近に捉える。

 霞花はごくりと生唾を飲んだ。緊張しているのか、脂汗がにじんでいる。

「あ、あの」

 霞花の口から、少し落ち着いた声が出てきた。影嵐はほっと一息ついて、彼女の額から手を離す。

 その瞬間、堰を切ったような早口が飛び出してきた。

「お付き合いしたいの、本当なんです。賭けに負けたとかじゃなくて、あの、その、ずっと好きで、だって、話聞いてくれるし優しいし強いしかっこいいし」

 確かに話は聞いてやっている。紅嵐の雑談を聞くような気分で。

 優しいつもりはないが、邪険にする理由もないので、そういう意味では優しいと解釈できるかもしれない。

 強い。客観的に事実だ。弟の梅嵐(メイラン)以外に、負けなくなって久しい。あいつとも勝率五分は維持し続けている。

 かっこいい。これはよくわからない。ふと、梅嵐が幼い頃に「影兄かっこいい」を連呼していたことを思い出し、顔をしかめた。

 影嵐の内心に思いをはせる余裕さえない霞花は、懸命にまくしたて続けた。

「渋いお茶を選ぶのがまた、かっこよくて。お茶菓子も通好みですよね。どんなのなら気に入ってくれるんだろうって、いつも考えてて。もう少ししたら告白しようと思ってたんですけど、影嵐さんに好きな人がいるって噂を聞いたら、我慢できなくて、当たって砕けろの心意気でですね」

「——は?」

 身に覚えがなさすぎて、影嵐は絶句した。

「誰が誰を好きだって?」

 問いかけると、霞花は身を乗り出し、噛み付くような勢いで口を開いた。

「だだだだって影嵐さん、最近、ものすっっごい美人と一緒にいること多いじゃないですか! いつも楽しそうだし、あんな美人とじゃ、私、とても張り合えないじゃないですか! あんな異国の美女! いや影嵐さんも異国風ですけども! その碧眼、最高です!」

「あー……」

 読めた。読めてしまった。影嵐は頭を抱えたい気分になる。

「いいか霞花。落ち着いて、よく聞け」

 興奮する霞花をなだめながら、影嵐は慎重に言葉を探した。

 本来は探すまでもないのだが……今の彼女にうかつなことを言ってしまうと、おかしなことになりかねない。

「あいつは弟の妻だ。義妹、わかるな。義妹は俺に武術を習いに来ている。それだけだ」

「え、弟さんの、奥さん……? じゃあ、照嵐(ショウラン)さんの?」

「もういっこ上がいんだよ。あまり帰ってこねぇ弟がな」

 その噂を流した奴をぶん殴りたい気持ちに駆られながら、影嵐は苦々しくため息を吐き出した。

 霞花の茶屋が商いを始めた頃、ちょうど弟の妻(シルリネア)は安洛城(ここ)に来ていなかった。

 臨月から出産、初めての育児とぴったり重なっていたからだ。

 だから霞花が、彼女のことを知らないのも無理はなかった。婚礼を見ていれば、勘違いもなかっただろうに。


 返事を遅らせるのは、彼女に対して不誠実だろう。

 大騒ぎをしすぎたとはいえ、霞花の気持ち自体は本気だったのだから。

 影嵐は霞花をまっすぐに見て、口を開いた。

「悪ぃが、付き合うのも結婚も考えられねぇな」

「あ、そ、そう、ですよね、ははははは……」

 霞花はしょんぼりとうなだれてしまった。雨に打たれた子猫よりも悲しげだ。

 見かねて、影嵐は言葉を継ぎ足してしまった。

「今は、な」

 霞花の目に輝きが戻った。

「今は……? ということは……」

 しまったと思った時には、後の祭りだ。諦めた影嵐は、言葉を放り投げた。

「未来のことなんざ、わかんねぇだろ」

「あ、あああああ、そ、そうです! もちろん、明日のことだってわからないのが人生ですよね! よーしがんばります!」

 霞花はいきなり立ち上がり、天井を仰いで気合を入れた。

 影嵐は、やはり紅嵐のようだと呆れながら眺めていた。


 ******


「あはははははははは!」

 数日後の安洛通運、休憩室。大笑いしているのは、転移門で安洛城に通いつめる美人の義妹こと、シルリネアだ。

 朱色の髪紐でまとめられた黄金色の髪、薄荷色の瞳、はっきりした目鼻立ち、すらりと伸びた背。

 紛うことなき美人の前で、影嵐は憮然と黙り込んだ。

 近くには紅嵐と黒嵐もいて、ニヤニヤしながらお茶を飲んでいる。

「このお茶も、霞花のお茶屋さんから買ってきたやつだよ。影兄がいつも頼むのこれだよね」

「うるせぇ」

 紅嵐のおしゃべりに、影嵐はぼやく。黒嵐がさらに畳み掛けた。

「まさか霞花が影兄を好きだったなんてね。影兄を売ったら、何かお礼くれるかな」

 影嵐は無言のまま、黒嵐の後頭部をはたいた。紅嵐がけらけら笑う。

「影兄もまんざらじゃないよね。だって、まだ霞花のお茶屋、行ってるもんね」

「え、そうなんですか」

 シルリネアまで乗ってきた。影嵐は舌打ちをする。

「あそこは近ぇんだよ。俺のことより、そっちはどうなんだ」

 影嵐は強引に話題を変えた。シルリネアもそれと察したようで、苦笑しつつ話題を合わせる。

「みんな元気ですよ。メイランも、シルランとメイネアも」

 シルランとメイネアは、シルリネアと梅嵐の間に生まれた、双子の子供たちだ。近頃やっと乳離れができたので、シルリネアは武術を再開したところだった。

 子供たちは、父親である梅嵐が世話をしていることだろう。

「ねえ、また子供たち連れてきてね。ふたりともかわいくてさぁ。お乳いらないなら、何日か預かってもいいぐらい」

 紅嵐が笑い、シルリネアも微笑んだ。

「そうね、また」

「確かにかわいいからなぁ。ふたりを何日か預けてもらって、梅兄と水入らずしてもいいんじゃない」

 黒嵐も子供を預かることに前向きなようだ。

 すっかり話題が変わったことに、影嵐は安堵のため息を漏らした。


 霞花と付き合うなど、今は想像もつかないし、結婚となるとさらに霞の向こう側だ。

 だが、奇縁というものもある。青嵐(せいらん)の兄弟姉妹たちのように。

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