第二十一節 見ていたものの違い
同じ場所に立っていても、同じものを見ているとは限らない。
人は、自分の目の前にあるものを現実だと思う。毎日触れている仕事、毎日運んでいる荷物、毎日顔を合わせる人間。その積み重ねが経験になり、経験は判断の土台になる。だから、経験を重ねた人間ほど、自分が見てきたものには確かな根拠があると考える。
それ自体は間違いではない。経験がなければ気づけないことはある。数字だけでは拾えない段取りも、現場に立たなければ分からない負担もある。仕事を知るということは、記録に表れない細部を知ることでもある。
ただし、経験には境界がある。自分が日々見ている便や作業だけで、別の時間帯の荷物まで把握できるわけではない。目の前の現場を知っていることと、現場全体を知っていることは、同じではなかった。
夜勤の人間が見る荷物と、日勤の人間が見る荷物は、同じ構内を通っていても同じではなかった。到着する時間が違えば、扱う便の流れも違う。夜勤帯には夜勤帯の集中があり、日勤帯には日勤帯の集中がある。片方の時間帯で目立つ荷物が、もう片方でも同じように目立つとは限らない。
自分の時間帯で忙しさを実感している人間は、その実感を基準に全体を考えやすい。自分の目の前で荷物が少なければ、全体の荷物も少ないように感じる。自分の時間帯に大きな波がなければ、別の時間帯の集中も想像しにくい。
そこで数字が示される。二〇二六年三月から五月までの分析では、個数ベースで夜勤帯が約六割、日勤帯が約四割だった。少なくとも、夜勤の荷物が全体の中で小さな割合にすぎないという見方とは一致しない数字だった。
この数字だけで、現場のすべてが説明できるわけではない。個数と重量は同じではないし、荷物の大きさ、形状、仕分けの難しさ、付帯作業の有無も負担を左右する。集計の条件を確認し、現場の実態と照らし合わせる必要はある。
だが、数字に限界があることと、数字を確かめなくてよいことは別だった。数字だけでは分からないものがあるなら、数字と現場を突き合わせればよい。違いが見つかったなら、その違いを調べればよい。数字の不完全さは、検証を始める理由にはなっても、検証をやめる理由にはならない。
それでも、人は自分の経験と異なる数字に出会うと、数字の側に問題があると考えることがある。経験が長いほど、その経験を疑うことは難しくなる。これまで大きな問題なく仕事が回ってきたという事実が、今のやり方も正しいという根拠に見えるからだ。
しかし、仕事が回っていることと、負担が適切に配分されていることは同じではない。現場の誰かが工夫し、無理をし、予定外の作業を引き受けることで、表面上は問題なく回っている場合もある。その工夫が常態化すると、運用の中に埋め込まれた負担は見えにくくなる。
たとえば、名簿上は二人が配置されていても、そのうち一人が付帯作業を担当していれば、荷物を処理する手は一人になる。人数だけを見れば足りているように見える。実際に荷物を流している人間だけを見れば、別の景色が見える。
どちらか一方の見方が、最初から嘘だったわけではない。二人が配置されているという記録も、一人しか荷物処理に専念できないという現場の状況も、同時に成立する。問題は、片方の事実をもって、もう片方をなかったことにしてしまうことだった。
私は、現場を知らない人間に数字だけで決められたくないと思っていた。仕事には、数字に出ない事情がある。そのことを知っているつもりだった。
だが、自分が知っている事情だけを現場の全体像として扱えば、私もまた、見えていないものを見落とす。現場を知っているという自負が、別の現場を知らないことへの自覚を弱めることもある。
経験は、判断を支える。けれど、経験を判断の終点にしてしまえば、経験の外側にある事実は入り込めなくなる。
三月に提案された早朝の重複時間帯は、その時点では必要ないと判断された。その後、三月から五月までの実績が整理され、六月には数字を伴う報告が提出された。さらに七月には、夜勤帯のタイミー配置を見直し、日勤帯へ振り向けることが話題になった。
判断が変わること自体を責める必要はない。現場の状況が変われば、適切な配置も変わる。以前の判断が当時の条件に照らして妥当だった可能性もある。大切なのは、何が変わったのか、どの情報を根拠に判断が変わったのかを確かめることだった。
三月と七月の判断を並べたとき、私が確かめるべきだったのは、どちらの判断が誰の面目を守るかではない。三月には何が見えていて、何が見えていなかったのか。六月の資料は何を示し、七月の運用検討は何を前提にしていたのか。その違いだった。
けれども、相手が何度も資料を出してくることに意識を奪われると、問いは別の方向へ流れていく。なぜ、そこまで言うのか。なぜ、判断を変えさせようとするのか。そうした疑問は、相手を理解するための問いにもなり得るが、資料を検証しないための壁にもなり得る。
相手の動機を確かめることと、相手が示した事実を確かめることは、別々に行わなければならない。動機が分からなくても、数字は検証できる。相手に不満があったとしても、荷物の量や配置の実態が変わるわけではない。
見ていたものが違ったのなら、まず、その違いを言葉にする必要があった。夜勤側が見ていた流れ、日勤側が見ていた流れ。記録に表れた個数、現場で感じられた負担。配置表に記された人数、実際に荷物を処理できた人数。それぞれを並べ、どこが一致し、どこが異なるのかを確かめる。
違いを認めることは、相手の言い分をすべて受け入れることではない。自分の見方を捨てることでもない。自分の見方が、全体のどこを捉え、どこを捉えていなかったのかを知ることだった。
私は、相手が見ていた景色を理解しようとしていた。だが、そのためには、相手の景色を想像するだけでは足りなかった。自分が見ていた景色を、全体だと思い込んでいた可能性を認めなければならなかった。
同じ場所に立っているからといって、同じものが見えるわけではない。
だからこそ、判断を下すときには、自分の目に映ったものだけで全体を決めないことが必要だった。




