判断の基準は、変わっていたのか
六月二十二日に最終報告書を提出した。
俺たちは、これまで集めてきたデータを整理し、夜勤の実態を示した。人員配置の見直しも進んだ。
これで、少なくとも数字を出す前と後では、状況が変わったはずだった。
だが、話はそこで終わらなかった。
七月に入ると、夜勤に配置していたタイミーの勤務時間をめぐって、再び調整の話が出てきた。
夜勤のタイミーをゼロにするよう求められ、俺たちは所長と相談して、日勤帯へずれ込む時間の配置をなくす形で調整した。
その後、今度は日勤側にもタイミーを配置する必要があるという話になった。
そこで、夜勤側の勤務時間を短縮し、その時間を日勤帯へ振り分ける方向で検討が進んだ。
……あれ?
俺たちは、何のためにデータを集めてきたんだろう。
もちろん、業務の状況は変わる。
三月に必要なかったものが、七月には必要になることだってある。人員の状況も、荷物量も、作業の分担も、ずっと同じではない。
だから、判断が変わること自体を問題にしたかったわけじゃない。
問題は、何が変わったから、判断が変わったのかということだった。
三月には、午前五時三十分から午前六時三十分まで、夜勤と日勤が重なる一時間を設ける案を出した。
当時は、その重なりを設ける必要はないと判断された。
ところが、七月になると、日勤側にもタイミーが必要だという話になった。
ならば、三月から七月までの間に、何が変わったのかを確認すればいい。
荷物量が変わったのか。
人員の状況が変わったのか。
作業の分担が変わったのか。
それとも、判断するときの基準が変わったのか。
そこを確かめれば、当時の判断と現在の判断を比較できる。
三月の判断が間違っていたと、最初から決めつける必要はない。
七月の判断が正しいと、無条件に受け入れる必要もない。
実際の状況を確認し、その違いを説明できればいい。
俺たちが求めていたのは、そういう判断だった。
ところが、分析結果や検証の経緯が十分に反映されないまま、夜勤側の勤務時間を短縮する方向で話が進んでいく。
俺たちからすれば、これまで積み重ねてきた数字が、判断の基準として十分に使われていないように見えた。
夜勤の実態を調べ、数字にまとめ、資料にして提出した。
それでも、人員配置の話になると、また同じ説明が必要になる。
……これ、いつまで続くんだろうな。
七月二十一日、俺たちはコンプライアンス室へ経過報告を送った。
経過報告では、配置をめぐる経緯に加え、分析結果が人員配置の判断に十分反映されていないのではないかという懸念も伝えた。
俺たちは、夜勤のほうが日勤より大変だと認めさせたかったわけじゃない。
日勤の仕事を軽く見ていたわけでもない。
日勤には日勤の負担がある。
夜勤には夜勤の負担がある。
その違いを、印象だけで比べても答えは出ない。
だから、実績を集めた。
荷物の個数だけでなく、重量や到着時刻も確認した。曜日による違いや、時間帯ごとの集中も調べた。
さらに、人員配置を比較するなら、それぞれの勤務帯で実際に誰が作業に加わっているのかも考える必要があった。
同じ二人でも、二人が同じように荷物を処理しているとは限らない。
点呼や付随業務を担当する人がいれば、その分、仕分けに回れる人数は変わる。
人数だけを並べても、実際の負担までは分からない。
だからこそ、条件をそろえて比較する必要があった。
それは夜勤に有利な数字を作るためではない。
日勤を不利にするためでもない。
実態を正しく把握し、配置を判断するためだった。
俺たちが欲しかったのは、夜勤の主張を通すための特別扱いではなかった。
夜勤にも日勤にも、同じように実態を確認する基準があること。
そして、判断を変えるなら、その理由を説明できることだった。
数字を出せば、すべてが解決するわけではない。
数字を見て、どう判断するかは人間が決める。
だが、その判断が数字と食い違うなら、なぜ食い違うのかを確認することはできる。
状況が変わったのなら、その変化を示せばいい。
以前の判断を見直すのなら、新しい根拠を示せばいい。
そうすれば、少なくとも、同じ話を最初から繰り返す必要はなくなるはずだった。
俺たちは、数字を出すところまではやった。
次に必要だったのは、その数字を判断の基準として使い続けることだった。




