廃神社にて煙を呑む
娘を殴った。高校になったばかりの娘を。
ボール玉みたいに壁へ吹き飛んだ娘の衝撃で、落ちた家族写真が割れた。
駅前、花壇ブロックへ腰掛け煙草を黙然と吸う。禁煙所がはびこるこのご時世、褒められたことではない。
おれのすぐとなりには壊れた小鳥居が佇んでいる。まるで踏み抜かれたように笠木と貫が真っ二つになっており、倒壊していないのが不思議なくらいだ。おおかた酔っ払いかクソガキのいたずらだろう。
すぐそばの花時計が22時を告げた。田舎の駅前には酔っ払いと、家庭にも職場にも居場所がないおれのようなおっさんしかいない。
2ヶ月前、娘を殴った日から、家にはラップフィルムのように張り付く緊張と嫌悪の気配が漂うようになった。妻も娘の肩を持ち、娘も部屋に引きこもって学校へ行っていない。
ため息と共に煙を吐き出す。ぺたりぺたと這い寄る湿気が煩わしかった。
1ヶ月と少し前、家に帰る気になれず、権利とハラスメントに過敏な当世風の部下と飲む気にもなれず、ひとり車を置いて駅前をふらふら歩いていた。学生ばかりでかしましい居酒屋に入る気も起きず、歩き疲れた時、この小鳥居が目に止まる。
気がつけばおれは浮浪者みたいにブロックに腰掛け、煙を飲んだ。悪くない気分だった。
以来ほぼ毎夜、走行距離20万キロ越えのアクアに乗って駅に向かい、小鳥居のかたわらで一服するようになった。
太ももに右手を擦る。あの日から、気がつけば癖になった仕草。
ズキズキと痛む、娘を殴った拳。腫れ上がった娘の頬。激情に任せたおれの行動と罵声に、小さくなって隠れていた妻。
寝る前、惰性で見ていたショート動画を想う。
『廃神社』
寂れた神社へ行ってはいけない。信仰を失った神が災厄をもたらす荒御魂と化し、訪れた者を祟るからだ。
壊れた小鳥居を見やる。
これも、廃神社か。
ショート動画を見たあとも小鳥居へ詣でた。そりゃ家が荒れたら暴れたくもなるだろうさ。気の毒に。
おれは目を閉じ、時間をかけて背中をそらしてゆく。
地下通路から吐き出された酔っ払いの酒気に身を委ねる。生ぬるい空気に自分の輪郭が溶けていく様子をイメージする。現実の出来事が少しでも遠くなるように祈る。そして心内でちっぽけな鳥居へ囁きかける。
小鳥居の神よ、我が身をあなた様に捧げます。
どうぞご随意に、喰らいつくし給え。
耳鳴り。不自然に風が止まる。むせるような緑の匂い。おれはただ、カタストロフを待ち続ける。
癖のある足音が聞こえてきた途端、ふたたび現実へ引き戻されてしまう。
今日も祟ってもらえない。
おれが目を開くと、花時計の前を通り過ぎようとしている若い娘と目があった。風景から露骨に浮いた存在をつぶさに観察していると、彼女は目を慌ただしく泳がせる。
「……あの、私服警官さんだったり……?」
質問の意図を測りかね黙していると、補導だけはご勘弁を! と賄賂わいろとキットカットを押し付けてきた。そしておれのとなりに座り、なぜか自分の分のキットカットを食べ始めた。
変な娘だ。ほんの少しだけ、おれの娘と雰囲気が似ていた。
思うことがあったので、問う。
「あの、君、歳は?」
「今年で16です警官様」
おれは警官ではないが、否定するのも面倒だったので質問を重ねる。
「……未成年が、深夜になにを?」
「深夜徘徊って言葉、あるじゃないっすか」
「うん?」
「字面が大変好ましいと思いませんか」
おれは絶句する。
おれの娘含め、今の子は会話が成立しないのか?
保護者としての老婆心が芽生え、つい質問を重ねてしまう。
「ご両親は、知っているのか?」
「親と相談しました。父が駅のロータリーで待機していますどうかお目こぼしを警官殿」
「……そうか」
聞けば聞くほど理解が遠ざかる。
夜歩きの雑な動機と妙に几帳面な事前準備のチグハグさに頭が痛くなる。同時に、この変な娘に真剣に向き合う御両親の真摯な姿勢がまぶしかった。
おれは妻の口元を思い出し、娘の眼について考える。排気ガス混じりの風が冷ややかに吹いた。
変な娘が携帯をポケットから取り出した。「やっべきーくんキレてる」とぼやき液晶画面に照らされる変な娘の顔に、心臓が嫌な音を立てた。その姿がおれの娘とダブって見えた。
生唾を飲み込む。
「ちょっと、弟から連絡来てるんで……」
震え続ける携帯、無表情で文字を打ち込むその姿。「SNSのDMにまで送ってきてるなぁ」との一言。
個人間DM。数ヶ月分の記憶が蘇る。
頭が冷え冷えとし、それに反して視界がどんどん赤く染まっていく。気分が悪くなって、体をくの字に曲げる。
「警察さん?」
おれの娘は誹謗中傷で開示請求を受けた。訴えられた投稿は、読むだけで胃が縮む内容だった。
和解金で新車の貯金、学資保険、妻の婚前貯金が消えた。それでも足りず、消費者金融へ走った。
娘は二度とSNSをやらないと言った。
「クソが……」
娘が二度目の開示請求を受けた。
娘に問いただすと、半笑いで「あー。払っといて」と返された。
次の瞬間には拳が振り抜かれていた。おれは「何が死ね、だ! お前が死ね!」と叫ぶ。
20万した娘のスマホをハンマーで破壊していたら、妻が娘を抱きしめていた。ふたりのすすり泣きがひたひたと家にあふれた。
「死ねよ……」
言葉を嘔吐し、ようやく我に返る。
人様の娘に、なんてことを。
無関係な相手に捲し立てるその姿はまさに、顔も知らぬ相手に殺害予告をする娘と全く同じではないか。
おれはずっと、娘の被害者でいたかった。娘の尻拭いに奔走する哀れな親でありたかった。
眼前に立ち尽くす彼女を盗み見る。彼女はおれの罵声に対して怒りを向けるでも怯えるでもなく、キョトンとしながら、どこか心配そうにおれを観察していた。
この子の父親は、今も車内で帰りを待っている。この子には帰るべき場所がある。
「大丈夫っすか?」
柔らかな彼女の声のせいで、喉に胃の内容物がせり上がってくる。
おれさえ消えれば。
おれは体をひねって鳥居へと手を伸ばす。
頼むからどうか、ここではないどこかへかどわかしてくれ。もうこの現実に耐えきれないんだ。祟ってくれて構わないから。
鳥居の柱を力任せに鷲掴む。
もう朝日を拝みたくないんだ。頼むから……。
ぽきり、と軽い音を立てて鳥居の柱が根本から折れた。手の中には、驚くほど軽い木片だけが残った。
おれは頭を抱える。
「ちくしょう……」
ここまで読んでくださりありがとうございます!
また再来週の火曜日の、おんなじくらいの時間に投稿できたらなぁと思っています。
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