私のいない水曜日
ハローハロー読者諸兄。絶賛失恋中の私だ。
黒い着物の美丈夫にフラれてからというもの、どこか捨て鉢な生活を送っている。ふへへ。授業に身が入らないのは当然として、学校の人間関係まで軽視するようになっていた。
夏と秋の狭間で、季節はふらりふらふら不安定。私の心も、ふらりふらふら不安定。
倦んだ日常が枯葉のように重なり、私を生き埋めにする。
失恋ってよくないね。
叶わぬ恋慕に引きずられ、何をやってもうまくいかない。
*
ちょっとした記憶違いが増えた。
母に夕飯の献立を聞く。また同じことを聞いて、と呆れられた。私にはそんな記憶はなかったが、そんなものかと思って流す。
些細な変化に気がつかなくなっていた。
携帯のバッテリーの持ちが良くなった。ピアノ練習アプリの使用時間が激減している。データ上は、美丈夫にフラれた前後くらいから、このような挙動になっているらしかった。
紆余曲折あって、私の携帯は何者かがピアノ練習アプリを勝手に起動操作する、摩訶不思議スマホとなっていた。その「何者」はどこかに行ってしまったらしい。
そういえば、男と再会した時も携帯から『ノミのワルツ』が流れてこなかった。
「お別れくらい言ってくれればいいのに」
ごく自然なことであるが、携帯は私のひとりごとに反応しなかった。
微かな息苦しさがあった。
退院後から、学友との間に壁を感じる。
我らの仲だ、そんなものすぐ取り払われるさと高をくくっていた。
おしゃべりが絶えがちになる。移動教室も早く教室へ辿り着きたいと願い、学友と席が離れるとホッとする自分がいる。
喧嘩など明確な原因はない。ゆえに、解決の糸口が掴めない。
会話に齟齬が生まれた。
ギャゥ子(愛称)に挨拶すればさっき昇降口で挨拶したと笑われ、弟に週末サティへ遊びに行こうと誘えばくどい、返事しただろと怒られる。
私には昇降口の記憶がない。弟の答えも聞いていない。
私がおかしくなってしまったのだろうか。
人に物事をたずねるのがおっくうになった。口数は減っていく。
人の、私を見る目が変わり始めた。
廊下で教員に挨拶するとギョッとされる。聞けば、今しがた屋上で私の姿を見たと言う。
私は入学以来、屋上へ登ったことは一度もない。
この手の話が一度や二度ではきかない。
私を他所で見たという人の、訝しむ顔のしわが、私の心を音もなく削る。
身に覚えのない出来事が起こる。
予習をした記憶がないのに、びっしりと書き込みのなされたノートが机に広がっていた。来週までの課題もこなした跡がある。
学友が私を置いて行動することが増えた。置いていくなと注文をつければ、きょとんとした表情を見せた。
「移動中、茶渡泰虎の話を散々聞かせてきたではありませんか」
授業のプリントが私に配られない。確認しても教員は人数通り印刷したと言い、前の席のクラスメイトも渡したと主張している。家に帰ってからノートを開けば、例のプリントが挟まっている。
体育で二人組を作る時、余るようになった。クラスの女子は18人、欠席はなし、綺麗な偶数。
どうして私はひとり、あぶれているのだ?
教員も、クラスメイトも、誰も私を気に留めない。
昼休みトイレから戻ると、学友が誰かと楽しげに食事を摂っていた。
私以外にもそんな笑顔見せるんだ。
その日はトイレで昼食を摂る。
説明ができない事柄が続く。
夕食の時間にリビングへ降りるとすでに、食卓は片付けられていた。何も食べていないと訴えると、母は不思議そうな顔をする。台所の水切りラックには、私の茶碗と箸が水滴を垂らして並べられていた。
目が覚める。いつも7時前に弟が私を叩き起こしにくるのだが、とっくに10時を過ぎていた。
携帯の液晶画面に映った時刻が、水滴で歪む。水滴は我が両目からこぼれたものだ。
一体なにがどうなっている?
拭えども拭えども涙があふれて仕方ない。私は掛け布団に顔を押し付ける。
私がおかしくなっているのか?
それとも世界がおかしくなっているのか?
まるで私がもうひとり存在しているかのよう。
なにもかも上手くいかなくて、説明がつかないことが多過ぎて、現実逃避の言い訳妄想世迷言が止まらない。
腹立たしいのは、もうひとりの私の方が上手く生活を回している点だ。授業の予習復習を丹念に行い、学友ともそつなく交友関係を結んでいるらしい。
私の完全上位互換。
「私いらないじゃん」
漏らすまいとしていた嗚咽が口端からこぼれ、涙は激しさを増していく。
「愛して……」
私の世界はふたつで構成されている。
学校の友達と、家族。
世界から爪弾きにされた私は、呼吸のやり方すら危うくなる。
誰からも愛されない私に、存在する価値などあるのだろうか?
「愛して!」
どうしてうまく振る舞えないのだろう。
他の人は上手く人間関係をこなしているのに。
生きていることがただ恥ずかしかった。
そこに天啓が舞い降りる。
じゃあ死ねばいいんじゃない?
ベッド右手にある窓へ手を伸ばす。震える手で鍵を解除し、窓から顔を突き出してみた。
私の部屋は2階で、窓の外は狭い玄関アプローチになっている。あの石畳の道に頭を思い切り叩きつければ、この高さからでも死ねるだろうか。
死を意識した途端、指先が冷え、ぶるりと身震いしてしまう。
結局、私は頭を引っ込めた。
怖いのだ、死が。
私はベッドの上にうずくまり、ぐちゃぐちゃになった掛け布団を殴り続けた。
死を望むことは、それこそ何度もあった。瑣末な言葉の交通事故を起こすたび、彼岸へ焦がれ続けた。
その死の境界を飛び越えなかったのは、私に勇気がなかったからだ。
愛してという懇願は嗚咽に溶けた。もし、愛してくれないのならば、私を、不出来な私を、
「殺して」
尻切れトンボな願望は平日の昼間に濾過され溶けたかのように思われた。
からころ、からころ。
窓の外、玄関の方から響く不吉な高下駄の音。
呼吸が止まる。しとどに垂れた涙が止まる。
からころり。
私は跳ね起き玄関へ目を向けた。視界の端に黒き着物の大男の姿を捉えた。目を走らせ男の姿を追うも彼の姿はすでになし。
遅ればせて気がつく。
男は学校の方角へと消えていった。
ひゅっ、と空気の塊を飲み込んでしまい、上手く呼吸できなくなる。痛いほどに心臓が高鳴る。
私は何か、致命的な間違いを犯した。
私の記憶は間違いが多いが、私の確信的な思い込みは外れたためしがない。
襟ぐりが伸びたTシャツのまま家を飛び出し、鍵が差しっぱなしの弟の黒いチャリに飛び乗った。
息も絶え絶えで校門前に立ち、校舎を見上げる。市立らしくありふれた風体の我らが母校。正面の本校舎、裏手に伸びる部室棟。空から見ればちょうどL字になっている。
通い始めて一年弱。見慣れた校舎が、音まで吸い込んでしまいそうなまでの静謐に包まれていた。数百人の若者が収容されているとはにわかに信じ難い。
学校の素っ気なさに、私はしばし立ち尽くす。
「だ、誰? あっ、あなた」
気がつけば私の傍に人が立っていた。少し丸々とした、背の低い女の子。くせのある縮れ髪が印象深い。彼女は私の首元へ携帯を、まるで凶器みたいに突きつけていた。
私は彼女の顔を不躾に見つめる。
「なっ、なぜお前、はっ、胎の匂いを垂らしているの?」
「はじめまして、か?」
スマホを操作しようとした彼女に、私は言葉を続けた。
「君とは、はじめて会った気がしないんだ」
彼女の瞳が輝きを増した。
「……まさか、お前が、胎? ならば、燃え滓狐の行動は、す、筋が通る。
……じゃあ、学校の、胎は、何?」
彼女はだらりとスマホを垂らす。
「囚われの鳥居、手駒の『驚異』は除外。鏡の神? ……ううん、あれは虚像。本質は映せない。
他に……。……あっ、ピアノ……!」
彼女の一重が私を射抜く。
「ね、携帯! 『驚異』、い、いるんでしょ? ピアノの! ピアノアプリ、見せて、あなたの携帯!」
「あっうん」
プリチィな彼女の勢いに押され、私はしどろもどろになりながら携帯を貸し渡す。
「……よく分からないけど、多分、君の探してる子もうはいないよ」
彼女は真っ暗な私の携帯画面を注視していた。
なぜピアノアプリの件を知っているんだろう。その話は学友にしかしていない。
「……ピアノがいない。
何が、起こってる? ……ううん、考察はあと」
彼女は目を細め私に携帯を返却した。
「旧校舎の、部室棟へ急ぎなさい。止められるのは、おそらく、あなただけ」
次の言葉を聞いた途端、私はチャリを投げ捨て校舎へ駆けることになる。
「いっ、急がないと、信夫の狐が……暗い着物の、大男が、部室棟ごと、あなたの大切な『学友』を、燃やし尽くす、よっ」
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