君のいる木曜日
部室棟2階、文化部支配区域。
屋内階段から屋外階段へ続く一本の廊下に、扉が左右等間隔でずらりと並ぶ。採光の問題さえ無視すれば、古式ゆかしい木造校舎である。
廊下中央、囲碁将棋部の部室前で深海魚がぬらぬらと燃えていた。
屋内階段から火炎が噴き上がり、深海魚と炎上する階段に学友は挟まれていた。誰かを守るように深海魚と対峙する学友が、燃える紺のカーディガンを脱ぎ捨て怒声を上げる。
「畜生風情めが!」
私が非常階段から駆けつけたのは、まさにその時であった。
「着物の!」
私の声に深海魚はぎくりと動きを止めた。塩をかけられたナメクジよろしく、みるみる縮んでゆく。火炎は鳴りを潜め、美丈夫へと姿を変えた。炎の痕跡は天井の焦げ跡ばかり。
大男はしずしずと私の方へ歩いてくる。背中を丸め、上目遣いで私をうかがう姿は、いたずらを見咎められた犬を思わせた。
なんなんだこの男。
男の背後からどすりと嫌な音がする。
男の胸から細いものが飛び出ていた。目を凝らして、金属製の定規と知る。
霜を踏みしだくような音が大男の体から響き、彼は膝を折った。
「失せなさい。あなたはあまりにも醜い」
男の背後に立つは学友。血混じりの唾を吐き捨てながらもお上品な仕草は、まさに学友然としている。
学友は私を見て、目を見張る。
「どうして……」
学友の背後から木造廊下を軋む音がする。学友の肩口から見知った顔が現れた。
いついかなる時も、私に張り付き、私を縛るもの。
「あたしの王子様!」
背格好、体つき、顔形まで私と同一の、もうひとりの私がいた。ダル着姿の私より、合服を着たもうひとりの方が、より正しく私らしい。
もうひとりが学友を押しのけ、男に足をひっかけた。勢いそのまま、おろおろとするばかりの私に飛びつき、貝殻つなぎを強いる。
「会いたかった! 王子様、わかる? 一緒にピアノを弾いたでしょう?」
私はその一言で記憶が蘇る。
ピアノの前に座す、小学生にも上がっていないような女の子。質素な白ワンピースで身を固め、一本おさげが犬のリードのようだった。
私はもうひとりの瞳に映る私を見つめて言う。
「……どうして、君が私になってるんだ」
「王子様があたしを助けてくれたんだもの。
おかあさんがね、怒るの。ピアノを上手く弾きなさいって。そうじゃないとうんだいみないって。
かいだんを、14段を降りきって、譜面であたしを叩くの。
王子様はね、ピアノのろうやからあたしを連れ出してくれたの。あたしとピアノ弾くの楽しいって言ってくれたの。あなたはあたしだけの王子様。大好きよ。
だから今度はあたしがあなたを助けるの」
もうひとりは私の頬へ頬を寄せた。不出来だと嫌悪する自分の顔が近づいてきてゾッとする。
「人の身に余る『驚異の胎』のごうも、王子様が抱える生きづらさも、失恋の痛みも、あなたが毛嫌いするその容姿まで、全部全部私が引き受けてあげる。
書きかけのラブレターを人前で読み上げられた挙句、好きな人から避けられた過去もあたしがもらう!」
「おい……やめろよ……」
もうひとりは心底楽しげに私を開陳する。暗記した鉄道駅名を親の前で開陳する子どものようだった。
パパママ見て! こんなにこんなに覚えたよ!
「王子様のその変な口調、高校デビューなんでしょ? 自己紹介でウケちゃって、調子に乗って続けて、けど辞め時が分からなくて、自分でもうんざりしてて。
昇降口で『あいつの口調キモくてウザい』って悪口聞いちゃって、やめたくてやめたくて仕方ないんでしょう?」
「やめて……」
「面白がってもらえるけど、『誰かの一番』には絶対選ばれなくて、最後はいつも余り者! ようやく『一番』に選んでくれそうな子が見つかったのに、最近気まずいね? 苦しいね?」
もうひとりは指折り私の人生を笑う。
「でも一番他人に押し付けたい記憶はこれだね? うっかり恥ずかしい言動をして、『死にたい』って口にしたら母親に『じゃあ死ねよ』って言われた、」
「黙ってったら!」
私はもうひとりの手を振り払い突き飛ばす。
幸福そうに微笑むもうひとりの頬、その頬に凄まじい勢いが突き刺さる。
それは何の変哲もない黒ボールペン。
ペンは頬肉を貫通し、舌を刺す。
学友はもうひとりの背後を取り、後頭部を鷲掴みにした。ペンをギリギリと、さらに深く深く口内を抉る。
「手を差し伸べた者すら貴様は……!」
私は学友の所業に腰を抜かし、へたり込む。痛みを想像して震えるばかり。
もうひとりは血とよだれを撒き散らし、学友を退けんとでたらめに両手を振り回す。
「あたしだって気づかなかったくせに!」
その言葉に学友の動きが止まった。次の瞬間、青ボールペンがもうひとりの左目を貫く。
間髪入れず学友はもうひとりの顔面を蹴り飛ばす。もうひとりは男の方へ横倒し。
学友が私を抱き抱え、戸が半開きのビバーク部室内へ転がり込んだ。
「おやりなさい、狐の!」
直後、耳をつんざく爆音が部室棟を揺らした。
学友が上に覆い被さっているため廊下で何が起こっているか見えない、見えないが、視界の片隅で『おもひでぽろぽろ』の上映ポスターが赤々と照らされ、廊下の惨状を知る。
「だめだ、やめさせないと!」
「大人しくなさい!」
学友は体格に優れている。手首まで押さえつけられた私は、身じろぎひとつさえできない。
「アレはあなたの全てを奪おうとしたグズです、助けたとて、またあなたを害す。救う価値のない存在だ!」
「君が勝手に価値を決めるなよ! 火は痛いんだ! 何人たりともあの火に燃やされてはいけない、たとえ悪人であってもだ!」
「死んでいいんですか、あなたは!」
「死にたいんだよ、私は!
悪くなるばっかりで、生きてていいことなんてあったか?」
私は叫ぶ。
「君に嫌われた私に、生きてる価値があるとは思えない」
突然顔が左を向いた。遅れて走る右頬の痛み。体を起こして肩で息をする学友。
学友に頬を張られたと気がつく。
「私は、私は……」
わなわなと震える学友の口から言葉がこぼれた。廊下の爆炎は部室を夕焼け色に染め、逆光で学友だけが黒々浮かび上がる。
「あなたに生きて欲しい」
言葉と共に、学友の目から涙が落ちた。
いつもスマートで、嘘くさい笑みを口端にためた学友が、顔をしわくちゃにして嗚咽をあげている。
気がつけば、私は学友を抱きしめていた。
「悪かった、悪かったよ。もう二度と死にたいなんて言わないから」
学友の肩越しに見える廊下はぐずぐずに焼け落ち、太い柱ばかり。高下駄の音が聞こえた気もしたが、目を凝らしても男の姿は捉えられなかった。
「君が生きて欲しいっていうんなら、しわくちゃのおばあちゃんになっても、その先も生きるよ。
そのかわり、私のそばにずっといてくれ」
学友はいっそう激しく涙を流した。私は学友の鼓動を聞きながら、背中を撫でてやることしかできない。
*
『ね、わかってる? 記憶いぢるのって、相当、かなり、大変なんだよ?』
「承知しております」
『こんな短期間で、何度も記憶変えてたら、どうやったって、齟齬が生まれる、よ?』
「お手数をおかけしてしまい、誠に申し訳ございません」
『なんのため、あなたは胎の、「親友」枠になったのかな? こういう事態を、避けるためだよ、ね?』
「はい。おっしゃる通りです」
『あなたは、一体、何ならできる、の?
結局、ピアノの驚異がどうして、成り変わりの能力を得たのか、謎のまま。
なんて、上に報告すればいい?』
「ピアノの怪異に関して、私なりの推測が」
『……ふぅん? つづけ、て?』
「ピアノの驚異として登録されていますが、アレな根本は親の教育虐待……虐待が元になった驚異です。
虐待を受ける子供が、優しい両親の下で育てられた他所の子を見たら、」
『ぶち殺す?』
「……他所の家の子になりたい、他所の子に成り変わりたいと願う。この理屈であれば、ピアノが所謂ドッペルゲンガーに深化した機序は説明できます。
ピアノは驚異の胎のためとうそぶいていましたが」
『ふぅん。
で、驚異が、そこまで深化したのは、胎の影響、と。強硬派が勢いづきそうな、結論、ね』
「……」
『はっきり、はっきり言う、ね。此度の「驚異の胎抹消任務」、あなたが遂行できるとは、とても、思えない』
「……」
『あなた、ね、あなた。胎を殺せと言われたら、その手で、胎を殺せる?』
「……私は胎を、もちろん、彼女をころっ、殺………」
『殺すと、考えなしに、即答しなかったこと、褒めてあげる。即答していたら、それこそ、任務から外すよう、申し送りしていた』
「……」
『次の指令まで、待機。
もはや、あなたには何も、期待していないけど』
「……かしこまりました。失礼いたします」
背筋の伸びた学生がこめかみに掌底を当てる。密かなため息が漏れた。学生はブレザーの肩口をはらい、襟を正し、校門から少し離れた電柱前で、端正に佇む。学生の前を、おびただしい数の学生が通り過ぎる。
その一群、目立つ、ばたばたとした騒がしい足音。直後、腰に衝撃。柔らかな温もり。
「待たせたな、学友よ!」
芝居がかった口調の女学生が学生の腰に飛びついていた。彼女が身にまとうのは首周りが伸びたキャラクターTシャツだ。
「こら。歩きにくいですから、手を絡ませるのは腰ではなく腕にしてください」
「仕方ないやつだなぁ」
腕にしがみついた女学生は、量の多い黒髪をもそもそ揺らす。ふたりは駅に向かって歩き出した。
「びっくりだよな! 部室棟に変質者が侵入して放火だなんて。全焼だってなぁ。
おかげで我々は午前授業だし、イカれた格好で来た私へのお咎めもなし。変質者様サマだ」
そういうことになったのですね、という言葉を飲み込み学生は微笑んだ。
「変質者が出るのは虫と同じ春、と相場が決まっているものですがね。季節外れの変質者もいたものです」
「何にせよ人死にが出なくてよかったよ。流石に笑えない」
「ところで、宙ぶらりんの午後は何をなさるご予定で?」
「放火した変質者を捕まえる冒険に出る!」
「正気の有無をたずねるのはもはや野暮ですね」
「ほら、我々地元民だろう? なんか地元民ならではの地の利や人脈で無双してさぁ」
「警察も地元民ですよ」
会話の切れ目で携帯を操作する女学生が、眉根を寄せた。
「なんだこのアプリ。怖。
友よ、見て怖いの。なんか知らんピアノの練習アプリ入ってる」
「……手違いでインストールしていたのでは?」
「私ならやりかねないな。……消すか。容量のムダだ」
「そう、そうですね。
それが一番いいですよ」
女学生はピアノ練習アプリを起動する。電子の鍵盤で奏でるは無器用な『ノミのワルツ』。仕損じる箇所までそのまま一緒。
「なんか弾けたわ。私は絶対音感か?」
「……消さないんですか?」
「……とりあえず保留。あれだな、ピアノって難しいけど楽しいな」
「おばかですね。ほんとうに」
「ほんとうにおばか……」
学生の声は震えていた。
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