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第九話 噴火

 八月十八日、午後十時十分。


 富士山は、夜の中に沈んでいた。


 その輪郭は、黒かった。月明かりを受けた稜線は、普段なら美しいと表現されたかもしれない。だが、この夜、富士山を見上げる者の胸には、美しさよりも先に、説明しがたい圧迫感があった。


 南海トラフ巨大地震。相模トラフ・首都直下地震。そして今、富士山。

 日本列島は、海から山へ追い込まれていた。

 富士山周辺では、午後九時五十三分に山体膨張を示すデータが入って以降、気象庁、内閣府、自治体、自衛隊、警察、消防、国土交通省、道路管理者、電力会社、通信会社が一斉に動き始めていた。噴火はまだ始まっていない。だが、山体の内部で何かが上がってきている可能性を、誰も否定できなかった。


 静岡県側の山麓では、防災無線が流れていた。


『こちらは防災静岡です。富士山周辺で火山活動の高まりが観測されています。現在、噴火は確認されていません。住民の皆様は、今後の情報に注意し、避難に備えてください』


 山梨県側でも、同じような放送が繰り返されていた。

 だが、住民の耳に届く言葉は、途中で別のものへ変わる。


 火山活動。


 噴火は確認されていない。

 避難に備えて。

 つまり、噴火するかもしれない。

 SNSには、恐怖が文字となって流れ出していた。



   《富士山、山体膨張って何?》


   《噴火ではないって言ってるけど、もう避難した方がいいの?》


   《南海、相模、次は富士山とか、本当に日本終わるんじゃないか》


   《公式を見て。まだ噴火ではない。でも備えは必要》


   《宝永噴火の再来?》


   《宝永って言葉だけで煽るな。気象庁を見ろ》


   《富士演習場の近くです。自衛隊車両が動いてる》


   《山が鳴ってる気がする。気のせいだと思いたい》



 東京湾岸では、相模トラフ地震の余震と津波の後片づけが続いていた。横浜港、川崎、品川、江東、浦安、千葉。火災、液状化、停電、帰宅困難者、地下空間の浸水。首都はすでに傷だらけだった。

 西日本では、南海トラフ巨大地震の救助が続いていた。高知、宮崎、和歌山、徳島、静岡。七十二時間を越えてなお、瓦礫の下の音を探している。

 そこへ、富士山が息を始めた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時二十五分。


 T大学地震火山研究センター。


 青見怜一(あおみれいいち)は、富士山の観測データを凝視していた。画面には、山体膨張を示す傾斜計の変化、浅部で増加する火山性地震、微動らしき連続波形、全球測位衛星システム(GNSS)の微小な変位が並んでいる。

 藤崎は、顔を青くしていた。


「先生、南東側の傾斜、さらに出ています」


「北東側は」


「こちらも同調しています」


「火山性微動」


「連続成分が強くなっています。まだ大きくはありませんが、明瞭になりつつあります」


 青見は、黙って頷いた。

 地震は、断層が破壊する。

 火山は、もっと複雑だった。マグマ、ガス、地下水、割れ目、圧力、山体構造。噴く場所も、噴き方も、時間も、単純ではない。富士山は山頂からだけ噴くとは限らない。山腹割れ目噴火もあり得る。溶岩、火山灰、噴石、火砕流、融雪型火山泥流。しかも今、周辺は巨大地震で傷んでいる。


 藤崎が、かすれた声で言った。


「先生、これ、噴火しますか」


 青見は、すぐには答えなかった。


 噴火します。


 その言葉は、今の段階では言えない。


 だが、噴火しないとは、もっと言えない。


「噴火切迫の可能性が高まっている。そう表現する」


「官邸へ」


「もう上げた。追加を送る」


 青見は、短い所見を打った。



   >富士山の山体膨張が継続。火山性地震の浅部集中と連続微動成分の増加を確認。

   >山腹割れ目噴火、火山灰、噴石、火砕流、溶岩流、降灰による首都圏機能停止を想定した即時対応が必要。

   >噴火開始を確認した場合、周辺住民、登山者、演習場周辺部隊、道路利用者への即時避難指示が必要。



 送信。


 青見は、画面の富士山モデルを見つめた。

 何十万年もの火山の時間の中で、人間の都市と国家は、ほんの薄い膜にすぎない。

 だが、その薄い膜の上に、今、何千万もの命が乗っている。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時四十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(あかみねさえ)首相は、富士山に関する緊急会議に臨んでいた。壁面の大型画面には、三つの地図が並ぶ。


 南海トラフ被災地。

 相模トラフ・首都直下地震被災地。

 そして、富士山周辺の火山防災地図。


 日本列島の危機が、三枚の地図になっていた。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が報告する。


「富士山の山体膨張が継続。火山性地震は浅部へ集中傾向。連続微動成分が増加。気象庁は噴火警戒レベル引き上げの最終検討に入っています」


 緒方慎吾(おがたしんご)地震火山部長が、気象庁から回線で言った。


『現時点で噴火は確認していません。ただし、火山活動は明らかに高まっています。富士山周辺の自治体へ避難準備を強く促す段階です』


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が続けた。


『富士山周辺部隊、富士演習場、東富士、北富士、関連施設へ警戒強化を指示。首都圏地震対応、南海トラフ対応に加え、富士山噴火対応の準備を進めています。ただし、部隊は極限まで分散しています。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官の任務再配分が必要です』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣は、資料を見ずに言った。


『降灰が東京、神奈川、静岡、山梨、千葉へ及べば、交通、電力、通信、金融、水道、医療がさらに落ちます。既に首都圏は相模トラフで損傷しています。火山灰が加われば、復旧計画を根本から組み替える必要があります』


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が、会見案を手にしていた。


「総理、今すぐ火山活動に関する声明を出せます。ただ、噴火前に強い避難表現を出すと、山梨・静岡側の道路が混乱します」


 高嶺は、富士山の地図を見た。赤、橙、黄。噴石、溶岩流、火砕流、降灰。色分けされた危険区域が、首都圏地震の地図と重なっていく。


 どれか一つなら、まだ国家はそこへ集中できた。


 だが、今は違う。


 西日本に救助がある。

 首都圏に救助がある。

 富士山に避難がある。


 高嶺は、深く息を吸った。


「出します。噴火していないことは明確に。だが、避難準備と公式情報確認を強く。登山者、観光客、山麓住民、演習場周辺、道路利用者へ具体的に」


 羽鳥が頷いた。


「文面を修正します」


 高嶺は続けた。


「そして、関係自治体へ。避難所開設、要支援者移送、道路規制、火山灰対策。待たずに始めてください」


「はい」


 小森が言った。


『自衛隊は、噴火時には火砕流・噴石区域へ無理に進入できません。部隊の安全を守りながら、住民避難、交通規制、物資搬送、降灰対応に当たります』


 高嶺は頷いた。


「隊員を火山に突っ込ませないでください。救助者を失えば、救助が止まります」


『承知しました』


 その言葉の数十分後、火山は人間の判断を待たずに動くことになる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時五十五分。


 富士山南麓。


 自衛隊富士演習場周辺では、車両の移動が進んでいた。現職自衛官と即応予備自衛官の混成班が、装備品、燃料、通信機材、救急資材を確認している。

 夜の富士山は、巨大な影だった。

 即応予備自衛官の一人、柳沢陸士長は、車両の荷台に火山灰対策用マスクを積みながら、山を見上げた。


「本当に噴くんですかね」


 現職の二曹が言った。


「分からん」


「分からないことばかりですね」


「災害派遣はだいたいそうだ」


 柳沢は、少しだけ笑った。


「会社なら、分からないまま動くと怒られます」


「ここでは、分からないから動く。分かってからだと遅い」


 その時、地面が小さく揺れた。

 車両のサイドミラーが震える。



 午後十時五十八分

 震源地 富士山周辺 暫定マグニチュード4・2 最大震度3



 柳沢は、山を見た。

 山のどこかから、低い音が聞こえた気がした。


「今の、地震の音ですか」


 二曹は答えなかった。


 無線が鳴る。


『富士山周辺各隊、警戒を強化。山体南東側、北東側の観測値変化。火山性微動増加。不要な山体側接近を避け、退避経路を確保せよ』


 二曹が言った。


「全員、ヘルメット、ゴーグル、マスク確認。車両は山側に頭を向けるな。退避方向を確保しろ」


「了解!」


 演習場の夜が、訓練ではない緊張へ変わった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時十分。


 富士山周辺の複数観測点で、火山性微動が明瞭になった。

 気象庁火山監視室では、誰も椅子に深く座っていなかった。全員が画面へ前のめりになっている。


「微動、増大」


「傾斜、さらに変化」


「南東山腹、浅部地震集中」


「熱異常は」


「衛星データ待ち」


 緒方が言った。


「噴火警戒レベル引き上げ準備。自治体へ避難指示判断を促す。官邸へ、噴火切迫の可能性あり」


 火山担当官が、慎重に言った。


「噴火開始確認ではありません」


「分かっている」


 緒方は答えた。


「だが、もう準備段階ではない。避難判断の段階だ」


 同じ頃、富士山南麓の一部住民は、すでに避難を始めていた。車で逃げようとする者、徒歩で高い場所ではなく指定避難所へ向かう者、何を持てばよいか分からず玄関で立ち尽くす者。

 高齢の女性が、仏壇の位牌を抱えようとして、息子に止められた。


「母さん、今は行くよ」


「でも」


「命が先」


「またそれかい」


 女性は泣きながら位牌へ手を合わせた。


「ごめんなさい」


 息子は母の肩を抱き、外へ出た。

 道路には、すでに車の列ができ始めていた。

 誰も、あと十三分後に何が起こるかを知らなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時二十三分。


 富士山が噴いた。

 最初に見えたのは、山腹の闇の中に裂けた赤い線だった。

 南東側の山体斜面、樹海の一部、そして自衛隊富士演習場に近い山体底部の複数箇所から、黒い煙と赤い火が噴き上がった。地面が割れ、火柱が立ち、噴石が夜空へ撃ち上げられる。

 数秒遅れて、爆発音が山麓へ落ちてきた。


 それは雷ではなかった。


 砲声でもなかった。


 山そのものが腹の底から叫んだような音だった。



  ――――

  噴火速報

  富士山で噴火発生

  噴石・火砕流・降灰に厳重警戒

  ただちに避難

  ――――



 富士山南麓では、人々が一斉に空を見上げた。


 黒い噴煙が、夜空を押し上げていた。噴煙の内側で稲妻のような火山雷が走り、赤黒い火口から噴石が弧を描いて落ちてくる。山腹の樹海には、火が点いた。乾いた枝葉だけではない。火山噴出物の熱、落下した噴石、火砕物が、森を焼き始めた。


 富士樹海の一部が、赤く燃えた。


 自衛隊富士演習場の一角でも、落下した噴石と火山弾が地面を叩き、乾いた草地に火が走った。夜間待機していた隊員たちが、怒号の中で退避を開始した。


『噴火! 噴火確認! 南東側山腹、複数火口!』


『噴石落下! 車両退避! 人員確認!』


『火災発生! 演習場北側、火災!』


 柳沢即応予備陸士長は、爆風のような音に身体をすくませた。空から小さな石が降り始める。ヘルメットに乾いた音が当たった。


「乗れ! 乗れ!」


 現職の二曹が叫ぶ。


「山側を見るな! 車両へ! 早く!」


 柳沢は荷台へ飛び乗りかけ、足を滑らせた。別の隊員が腕を掴む。


「立て!」


「すみません!」


「謝るな、乗れ!」


 車両が動き出す。背後の山腹では、赤い筋が増えていた。溶岩なのか、火砕物なのか、夜の中では判別できない。ただ、山が燃えていた。

 火砕流が、山体斜面を下り始めた。

 それは水のようで、水ではなかった。

 黒い雲と灰色の塊が、地面を這うように、しかし信じられない速さで斜面を流れた。内部に赤い光が混じり、木々を呑み、土を巻き上げ、空気そのものを焼くように進んでいく。


「火砕流! 火砕流確認!」


 無線の声が割れた。


『全隊、火砕流方向から離脱! 演習場東側区域、即時退避!』


 富士山は、観光の山でも、信仰の山でもなかった。

 この瞬間、巨大な火山だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時二十五分。


 官邸危機管理センター。


 噴火速報が入った瞬間、誰も言葉を発しなかった。

 画面には、夜の富士山が映っていた。山腹から赤い火が噴き上がり、黒い噴煙が広がっている。樹海が燃えている。演習場周辺に火点が見える。噴石が落ち、火山雷が走る。

 日本の象徴が、地獄の入口のように燃えていた。


 羽鳥真紀が、かろうじて報告する。


「富士山、噴火確認。午後十一時二十三分。山腹複数箇所から噴火。火砕流らしき流下、噴石、火山灰、山麓火災。気象庁、噴火速報発表」


 小森進一防衛大臣の画面が切り替わった。


『富士演習場周辺で噴石落下、火災発生。現地部隊は退避行動中。人員確認中です。火砕流方向への進入は禁止。周辺住民避難支援に切り替えます』


 片倉皐月財務大臣は、画面を見たまま言葉を失っていた。

 橘官房長官も、会見資料を持つ手を下ろした。

 内閣府、気象庁、防衛省、国交省、消防庁、警察庁、厚労省、総務省。画面の中の関係者たちも、同じように沈黙していた。


 南海トラフ。

 相模トラフ。

 富士山。


 これ以上、何を背負えばいいのか。

 その問いが、言葉にならないまま、部屋の中に落ちた。


 高嶺紗枝は、画面を見つめていた。


 山が燃えている。

 樹海が燃えている。

 自衛隊演習場が炎に照らされている。

 火砕流が流れている。


 火山灰が、首都圏へ向かう風に乗るかもしれない。


 彼女の中で、何かが一瞬だけ折れかけた。


 もう無理だ。


 そういう声が、胸の底から上がってきた。


 南海で人が死んだ。相模で人が死んだ。首都が壊れた。今、富士山が噴いている。自衛官も、消防も、警察も、自治体職員も、医療者も、限界を越えている。国民は疲れ、怒り、怯えている。


 もう、何をしても足りない。


 何を決めても、救えない命が出る。


 その瞬間、高嶺は唇を噛んだ。


 強く。


 痛みが走った。

 鉄の味がした。

 唇の端から、血が滲んだ。


 羽鳥が気づいた。


「総理」


 高嶺は、手で制した。


 血を拭かなかった。


 その痛みで、自分を現実へ引き戻した。


 折れている場合ではない。

 総理大臣が折れることを、国は許していない。

 許していないというより、折れれば、その瞬間に現場の誰かが見捨てられる。

 彼女は、血の滲む唇のまま、顔を上げた。


「指示します」


 声は低かった。


 だが、部屋全体がその声に戻された。


「気象庁。噴火速報、噴火警戒レベル引き上げ、火砕流・噴石・降灰予測を即時発表。分からないことは分からないと明記。ただし、避難方向は具体的に」


 緒方が、画面の向こうで背筋を伸ばした。


『はい。直ちに』


「防衛省。富士山周辺部隊の人員確認。火砕流・噴石危険区域への進入禁止。住民避難、交通規制、救助可能区域の支援へ切り替え。南海トラフ、首都圏の救助は継続。部隊配分を再構成」


 小森は、目に強い光を戻した。


『承知しました。火山対応統合セルを設けます』


「警察庁、消防庁。山梨、静岡、神奈川、東京の広域避難支援。道路規制、危険区域封鎖、火災対応。噴石区域に住民を戻さないでください」


『了解』


「国交省。東名、新東名、中央道、国道、鉄道、空港、港湾、火山灰影響を即時評価。航空路は火山灰雲を避ける。道路は避難と救援の優先順位を分ける」


『はい』


「厚労省。火山灰による呼吸器疾患、避難所医療、透析、酸素、病院非常電源。相模と南海の医療支援を削らず、富士山周辺へ追加配置」


『承知しました』


「総務省。通信。基地局保護、衛星通信、自治体回線。火山灰で通信が落ちる前に、代替回線を出してください」


『はい』


「財務省」


 片倉皐月は、はっと顔を上げた。

 高嶺は言った。


「財源は」


 片倉の目が変わった。


『出します。南海、相模、富士山を一体の国家非常災害として扱います。予備費では足りません。非常財政措置、災害国債、自治体直接交付、民間協力即時払い、全て組みます』


「お願いします」


 片倉は、わずかに唇を噛んだ。


『総理、金は止めません。命を止めないために』


 高嶺は頷いた。

 血が、唇から顎へ一筋流れた。

 誰も、それを指摘しなかった。

 それは、彼女がまだ立っている証拠のようだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時三十五分。


 富士山周辺では、避難が混乱していた。

 山腹からの噴煙は厚くなり、風下側へ火山灰が流れ始めていた。大きな噴石は火口周辺と山腹に落ち、小さな噴石と火山礫が広い範囲に降り始める。

 車の屋根に、乾いた音が次々に当たった。


 カン、カン、カン。


 それは雨ではない。

 石だった。

 山麓の道路では、車列が詰まり始めた。火山灰がヘッドライトを白く濁らせ、視界を奪う。逃げる方向を間違えた車が戻ろうとして、さらに渋滞を作る。警察官と自衛官が、暗い道路で誘導棒を振っていた。


「右へ! 山側へ戻らないで!」


「車間を開けて! 灰で滑ります!」


「窓を閉めてください! 外へ出ないで!」


 子どもが車内で泣いている。


「石が降ってる!」


 母親は、子どもの頭に毛布をかぶせた。


「大丈夫、大丈夫」


 大丈夫ではない。

 だが、親はそう言うしかない。

 富士樹海の一部では、火が広がっていた。火山灰と煙が混じり、夜の森が赤黒く染まる。木々の間を、火砕流が通った場所では、生命の気配が消えていた。熱と灰とガスが、全てを覆った。


 自衛隊富士演習場では、退避中の部隊が人員確認を続けていた。


『第一班、全員確認!』


『第二班、一名負傷、噴石による打撲。搬送可能!』


『第三班、通信不安定、再確認中!』


 柳沢は、車両の中で無線を聞いていた。窓の外は灰で白くなり始めている。赤い火柱が、遠くの山腹に見えた。


「これ、現実ですか」


 誰かが呟いた。

 現職の二曹が言った。


「現実だ。だから動け」


 その声は震えていなかった。

 震えていないように聞こえた。

 だが、ハンドルを握る手には、力が入りすぎていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月十九日、午前零時。


 噴火開始から三十七分。


 噴煙はさらに高くなっていた。火山灰は風に乗り、静岡、山梨、神奈川方面へ広がり始めた。気象庁は降灰予測を更新し続けたが、気象条件、噴煙高度、噴出量が刻々と変わり、予測は揺れた。



  ――――

  火山情報

  富士山で噴火継続

  火砕流・大きな噴石に警戒

  風下側では降灰に注意

  ――――



 首都圏では、相模トラフ地震の被害対応中に、富士山噴火の速報が流れた。

 東京の避難所で、帰宅困難者がテレビを見上げていた。


「富士山……」


「嘘だろ」


「灰、東京にも来るのか」


「電車も止まってるのに」


「もう、どうすればいいんだよ」


 自治体職員が、疲れた声で呼びかけた。


「マスクのある方は着用してください。窓は閉めてください。外出は控えてください。落ち着いてください」


 落ち着いてください。


 その言葉を言う職員自身が、落ち着いているわけではない。

 だが、言葉がなければ、人はもっと崩れる。

 横浜港の神崎二佐の部隊にも、富士山噴火の情報が入った。


 若い隊員が言った。


「二佐、富士山が」


「聞いた」


「こっちは」


「任務継続」


「でも、灰が」


「降れば対応する。今はここを掘る」


 神崎は、倒壊倉庫を見た。


「中に人がいる」


 富士山が噴いても、瓦礫の下の人にとっては、今いる闇が全てだった。

 神崎は言った。


「目の前の命だ」


 その言葉は、南海トラフの現場でも、首都圏の現場でも、同じように繰り返されていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前零時三十分。


 官邸では、火山灰対策の即時調整が始まっていた。

 高嶺紗枝は、唇からの血をようやくハンカチで押さえた。だが、拭ききらないうちに、次の報告が来る。


 羽鳥が言った。


「降灰予測、静岡、山梨、神奈川方面へ拡大。風向き次第で東京、千葉、埼玉にも影響の可能性」


 国交省担当者が続けた。


「東名、新東名、中央道、一部区間で降灰・視界不良による通行規制検討。鉄道各社、火山灰による架線・ポイント・車両影響を確認。羽田、成田、横田、静岡、松本、小牧、各空港で航空路と滑走路対応を調整中」


 厚労省担当者。


「降灰による呼吸器疾患、避難所でのマスク不足が懸念されます。医療機関は相模トラフ地震で既に逼迫。酸素、吸入薬、透析患者搬送が課題です」


 農水省。


「農業被害は今後拡大の可能性。水源、畜産、飼料、ビニールハウス、農道への降灰影響」


 総務省。


「通信設備への降灰対策、非常電源の吸気フィルター、基地局保守員の安全確保が必要です」


 高嶺は、全てを聞いた。

 聞いた上で、決める。


「マスク、ゴーグル、飲料水、携帯トイレ、ブルーシート、発電機フィルター、浄水設備、除灰資材を優先物資へ追加。南海、相模の被災地支援物資とは競合しないよう、用途別に分ける。物流経路は日本海側、東北側、内陸経路も使う」


 片倉が言った。


『民間在庫を政府買い上げします。価格高騰を抑えるため、上限価格と補償を同時に出します』


「お願いします」


 橘が会見文を読み上げる。


「国民向けには、降灰時は外出を控える、マスクや布で口鼻を覆う、コンタクトレンズを避ける、車の運転を控える、雨どい詰まりに注意、火山灰を水で流さない、という具体策を出します」


「出してください」


 高嶺は、画面の火山灰予測を見た。

 灰は、静かに都市を殺す。

 火や水のように一瞬で奪うのではない。吸気を詰まらせ、車を止め、電車を止め、飛行機を落とし、水を濁らせ、屋根を重くし、呼吸器を痛める。

 首都圏は、すでに地震で傷ついている。


 そこへ灰が降る。


 高嶺は、再び唇を噛みそうになり、止めた。

 痛みではなく、判断で立たなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時十五分。


 富士山南麓の避難路。


 火山灰が本格的に降り始めた。最初は細かい砂のようだった。やがて、車のフロントガラスを曇らせ、ワイパーを動かすたびに灰が泥のように伸びた。

 道路脇で、自衛官と警察官が車両誘導を続けている。ヘッドライトは灰に散乱し、視界は数十メートルに落ちていた。

 柳沢は、マスク越しに息をした。喉がざらつく。目が痛い。ゴーグルの内側に汗が溜まる。


「次の車、避難所へ誘導!」


 現職の二曹が叫ぶ。


「高齢者あり! 医療班へ!」


 車から降りた老人が咳き込んだ。即応予備自衛官の一人が肩を貸す。


「ゆっくりでいいです。こちらへ」


「山は」


「見ないでください。足元を見てください」


 老人は振り返ろうとした。

 柳沢が、思わず言った。


「見ない方がいいです」


 老人は、柳沢の顔を見た。


「そんなにか」


 柳沢は答えられなかった。

 背後の山は、赤く燃えていた。黒い噴煙が広がり、火山雷が走り、樹海の一部が炎の帯になっている。

 見れば、心が折れる。

 だから、彼はもう一度言った。


「前を見てください」


 老人は頷いた。

 前を見ること。

 それがこの夜の避難だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 駐屯地警衛の現場にも、火山灰の情報が届いた。

 関東地方の駐屯地では、予備自衛官たちが正門と車両出入口に火山灰対策を追加していた。吸気フィルター、車両点検、マスク配布、照明の保護、通行車両の確認。

 坂井予備陸曹長は、若い隊員に言った。


「灰が降り始めたら、車両確認に時間がかかる。ライトを直接見るな。足元も滑る。門前で転倒者を出すな」


「はい」


「それから、家族対応は増える。富士山で不安になる人も来る。怒鳴られても、こっちが怒鳴るな」


「はい」


 正門には、また家族が来ていた。


「夫が富士の方にいるんです。噴火って、本当ですか」


 若い予備自衛官は、訓練どおりに答えようとして、声が詰まった。


 本当です。


 その一言が、どれだけ残酷か分かったからだ。

 坂井が隣に立つ。


「富士山で噴火が確認されています。部隊は人員確認を行っています。個別の安否は、専用窓口へ記録を上げます」


「無事なんですか」


「現時点で、ここでは確認できません」


「そんな」


 女性は泣き崩れた。

 若い予備自衛官は、門を開けたくなった。中へ入れてあげたくなった。何かしてあげたかった。

 だが、坂井は首を横に振った。


「椅子を。水を。窓口へ連絡。門は開けない」


「はい」


 警衛とは、拒むことだけではない。

 門の外で崩れそうな人を、次の場所へつなぐことでもある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時。


 火山灰は、風下側へ広がり続けていた。


 静岡県東部、山梨県南部、神奈川県西部の一部で降灰が確認され、首都圏でも空気にざらつきが混じり始めた。東京では、まだ本格的な降灰ではない地域も多かったが、すでに人々は窓を閉め、換気を止め、マスクを探していた。

 相模トラフ地震の避難所では、配布物にマスクが加わった。


「一人一枚です。足りないので、必要な方を優先します」


「子どもにください」


「喘息があります」


「高齢者はこちらへ」


 避難所の職員は、疲労で声が枯れていた。そこへ即応予備自衛官の支援班が入り、列を整理した。


「呼吸器疾患のある方、乳幼児、高齢者を優先します。落ち着いて並んでください」


「落ち着けるかよ!」


 男性が怒鳴った。


「地震で家壊れて、津波で逃げて、今度は富士山だぞ!」


 即応予備自衛官は、一瞬だけ黙った。

 それから、静かに言った。


「その通りです。落ち着ける状況ではありません。だから、順番を作ります」


 男性は言葉を失った。


「順番がないと、弱い人から倒れます」


 列が、少しだけ静かになった。

 正しい言葉より、現実を認める言葉が人を止めることがある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時四十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝は、四度目の深夜会議に臨んでいた。

 噴火は継続している。火砕流は一部山腹で確認され、樹海と演習場周辺に火災。噴石被害、山麓避難、降灰拡大。相模トラフ被災地は夜間救助継続。南海トラフ被災地は七十二時間超救助継続。海外支援は受け入れ拠点変更に追われている。


 高嶺は、各報告を短く区切って聞いた。


「火砕流範囲」


「火山灰予測」


「演習場人員確認」


「避難者数」


「首都圏降灰見込み」


「空港」


「鉄道」


「医療」


「通信」


 そのたびに、担当者が答える。

 誰も完璧な答えを持っていない。

 それでも、答える。


 小森進一が報告した。


『富士演習場周辺の部隊、人員確認を継続。一部負傷者あり。現時点で大規模な隊員行方不明情報は確認中です。即応予備自衛官は避難誘導、物資搬送、車両整理に投入。予備自衛官は駐屯地警衛、後方拠点維持、物資集積所警備を継続しています』


 高嶺は頷いた。


「隊員の安全を最優先に。火砕流区域へは入らない」


『徹底します』


 片倉が言った。


『総理、財政措置の名称を決める必要があります。南海、相模、富士山を個別災害として扱うと、手続きが分裂します。一体の国家複合災害として、特別会計的な枠を作るべきです』


「作ってください」


『閣議決定が必要です』


「準備してください。夜明け後、臨時閣議を開きます」


 橘が言った。


「国会への説明は」


「準備します。ただし、今夜は救命です」


 羽鳥が、静かに言った。


「総理、唇の傷を処置してください」


 高嶺は、一瞬だけ羽鳥を見た。

 忘れていた。

 唇はまだ痛んでいた。血は固まりかけている。


「後で」


 羽鳥は、珍しく強い声で言った。


「今です。三十秒で済みます」


 会議室が静かになった。

 高嶺は、少しだけ目を伏せた。


「分かりました」


 医務担当が消毒と小さなガーゼを持ってきた。高嶺は処置を受けながら、画面から目を離さなかった。

 痛みは、まだ必要だった。

 だが、倒れるわけにはいかなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時三十分。


 富士山の噴煙は、夜明け前の空に巨大な黒い柱となって立っていた。

 樹海の火災は一部で延焼を続けていたが、火砕流と噴石の危険がある区域には近づけない。消防も自衛隊も、届く場所と届かない場所を分けざるを得なかった。

 富士山南麓の避難所に、次々と住民が入ってきた。灰をかぶった人、咳き込む人、泣き続ける子ども、犬を抱いた女性、車を捨てて歩いてきた男性。

 柳沢たち即応予備自衛官は、避難者の誘導に当たっていた。


「マスクを持っていない方、こちらです!」


「目をこすらないでください!」


「水は一人一本です!」


 小さな男の子が、柳沢の袖を掴んだ。


「富士山、壊れちゃうの」


 柳沢は、答えに詰まった。


 富士山は壊れない。


 そう言いたかった。

 だが、外では山が噴いている。樹海が燃えている。空から灰が降っている。

 彼は、膝をついて子どもと目線を合わせた。


「富士山は、とても大きい山です。今、怒っているみたいに見えるけど、君はここで大人の言うことを聞いていれば大丈夫です」


「おうち帰れる?」


 柳沢は、数秒黙った。


「今すぐは帰れない。でも、帰れるようにするために、みんなで動いています」


 子どもは泣きそうな顔で頷いた。

 その背後で、母親が頭を下げた。


「ありがとうございます」


 柳沢は立ち上がった。

 自分は噴火を止められない。

 家を守れない。

 だが、この子を今、避難所の中へ入れることはできる。

 それが、任務だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時三十分。


 夜明けが近づくにつれ、富士山の噴火は新しい姿を見せ始めた。


 暗闇では赤と黒だけだったものが、明るみの中で灰色と褐色と白を帯び始める。噴煙は空へ立ち上がり、上空の風に流され、火山灰の帯が東へ広がっていた。山腹の火口列は、赤い傷のように見えた。樹海の一部は煙を上げ、演習場の一角では焦げた草地と黒い灰が広がっていた。

 火砕流が流下した場所は、地形の色が変わっていた。


 そこには、入れない。


 入れば死ぬ。


 現場の自衛官たちは、その線を見つめていた。向こう側に何かがあるかもしれない。車両が残っているかもしれない。人がいたかもしれない。


 だが、行けない。


 小森防衛大臣の指示は徹底されていた。


 火砕流区域へ入るな。

 噴石危険区域へ入るな。

 救助者を失うな。


 現場の二曹は、若い隊員に言った。


「行きたい顔をするな」


「してますか」


「してる」


「向こうに、誰か」


「分からん」


「なら」


「分からん場所に、死にに行くな」


 若い隊員は、歯を食いしばった。


「悔しいです」


「悔しいまま、ここで避難者を運べ」


 それは、南海トラフでも、相模トラフでも、何度も繰り返された言葉だった。


 行けない場所がある。

 救えない瞬間がある。

 それでも、手の届く場所へ向かう。


 災害派遣とは、その繰り返しだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 官邸は、朝を迎えた。


 だが、それは夜が終わったという意味ではなかった。南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火。三つの災害が、同じ朝の画面に並んでいた。

 高嶺紗枝は、臨時声明のため会見室に立った。唇には小さなガーゼが当てられていた。記者たちは、その傷に気づいたが、誰も最初には聞かなかった。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  富士山噴火継続

  南海・相模の救助継続

  火山灰と余震に警戒

  ――――



『昨夜午後十一時二十三分、富士山で噴火が発生しました。山腹の複数箇所で噴火が確認され、噴石、火砕流、火山灰、山麓火災が発生しています。富士山周辺の皆様は、自治体、警察、消防、自衛隊の指示に従い、危険区域へ戻らないでください』


 高嶺は、息を吸った。


『南海トラフ巨大地震の被災地、相模トラフ・首都直下地震の被災地での救助は継続しています。富士山噴火への対応が加わっても、政府は救助を止めません。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官、警察、消防、海上保安庁、自治体職員、医療関係者、民間事業者、海外支援部隊が、それぞれの場所で命をつないでいます』


 記者席は、静かだった。


『国民の皆様にお願いします。火山灰が降る地域では、不要な外出を控え、マスクや布で口と鼻を覆い、目を保護してください。車の運転は控えてください。火山灰を水で流さないでください。屋根や雨どいの灰は、自治体の指示に従ってください。呼吸器に不安のある方、高齢者、乳幼児は特に注意してください』


 声は、少しかすれていた。

 だが、折れていなかった。


『私たちは今、経験したことのない複合災害の中にいます。それでも、国は命を諦めません。どうか、隣の人と声をかけ合ってください。支援を必要とする人を一人にしないでください。救助に当たる皆さん、どうか生きて戻ってください。生きて戻ることが、次の命を救います』


 質問が飛んだ。


「総理、昨夜、指示の途中で唇から出血されていたとの情報があります。体調は大丈夫ですか」


 高嶺は、一瞬だけ沈黙した。


 そして答えた。


『体調管理も、総理大臣の責任です。必要な処置は受けています。私は職務を続けます』


「三つの巨大災害が重なり、政府対応は限界ではありませんか」


 高嶺は、記者を見た。


『限界に近いことは事実です。しかし、限界に近いことと、諦めることは違います。政府は、国内外の全ての力を結集して対応します』


 別の記者が問う。


「救えない命が増える可能性について、どう受け止めていますか」


 高嶺の表情が、わずかに動いた。


『救えない命があることを、軽く受け止めることはありません。ですが、今この瞬間にも救える命があります。私たちは、その命へ向かいます』


 会見は続いた。

 外では、東京の空が少し灰色に霞み始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時三十分。


 八月十九日の朝。


 富士山の噴火は続いていた。

 南海トラフ被災地では、瓦礫の下の音を探す隊員がいた。高知で、森下三曹が灰の情報を聞きながら、それでも泥の中で呼びかけていた。


「誰かいますか!」


 相模トラフ被災地では、横浜港の神崎二佐が、降灰予測を確認しながら倒壊倉庫の救助を続けていた。


「灰が来る前に、この区画を開ける」


 富士山麓では、柳沢たち即応予備自衛官が、火山灰の中で避難者を誘導していた。


「こちらへ! マスクをつけて!」


 駐屯地では、坂井予備陸曹長が正門に立ち、支援物資車両と家族対応を続けていた。


「確認を飛ばすな。焦るな。ここを守る」


 官邸では、高嶺紗枝が次の会議に向かっていた。唇の傷は痛んだ。だが、その痛みは、彼女を立たせていた。

 窓の外の空は、少しずつ灰を含み始めていた。

 日本は、地震と津波と火山灰の中にあった。


 それでも、人々は動いていた。

 泣きながら。

 怒りながら。

 震えながら。

 血を流しながら。

 それでも、誰かの手を取り、誰かの名前を呼び、誰かの命へ向かっていた。


 午前六時三十分。


 地獄絵図のような朝だった。

 だが、その地獄の中で、まだ人間の声がした。


「こちらへ!」


「生存反応あり!」


「水を持ってきて!」


「大丈夫、手を離さないで!」


 日本は、まだ終わっていなかった。


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