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第十話 灰の首都、南西の海

 八月十九日、午前七時。


 東京の朝は、灰色だった。


 曇っているのではない。空そのものが、細かい灰を含んでいた。ビルの窓は白く曇り、道路の端には薄い粉が溜まり始めている。車が通るたびに、灰がふわりと舞い上がる。相模トラフ・首都直下地震の傷がまだ生々しい湾岸部では、液状化の泥と火山灰が混ざり、路面を滑りやすい灰色の膜で覆っていた。

 富士山は、まだ噴いていた。

 山腹の複数箇所から上がる噴煙は、夜明けの光の中で巨大な柱となって見えた。火口列の一部は赤く、樹海の火災は煙を上げ続け、自衛隊富士演習場周辺の一部区域では噴石と火山灰、山火事への対応が続いている。火砕流が流れた区域には誰も入れない。入ってはならない。そこは、人間が踏み込める災害現場ではなく、山そのものが支配する死の領域だった。

 首都圏の避難所では、人々が朝の配給を待っていた。だが、この朝の配給には、これまでと違うものが加わった。


 マスク。

 ゴーグル。

 濡らした布。

 火山灰対策の注意紙。


 自治体職員が、かすれた声で説明していた。


「火山灰は水で流さないでください。排水溝が詰まります。外出は控えてください。車の運転もできるだけ控えてください。呼吸器の病気がある方、高齢者、乳幼児は屋内にいてください」


 避難者の一人が呟いた。


「地震で逃げて、津波で逃げて、今度は灰か」


 誰も返事をしなかった。

 返事のしようがなかった。


 相模トラフ地震の被災地では、東京消防庁、警視庁、神奈川県警、千葉県警、消防、自衛隊、海上保安庁、自治体職員が夜通し動いていた。横浜港、川崎港、東京港、羽田、浦安、船橋、千葉、木更津。津波と液状化で損傷した湾岸部には、灰が加わり始めていた。


 南海トラフ巨大地震の被災地では、四日目を越えてもなお救助は続いていた。高知の泥の中、宮崎の倒壊家屋、和歌山の山間集落、静岡の沿岸部。七十二時間を過ぎても、隊員たちは耳を澄ませていた。


 そしてこの朝、日本の危機は、もう一つの方向から近づいていた。


 南西の海。

 沖縄のさらに外側。

 中国人民解放軍海軍の艦艇群が、「人道支援」と「救援隊輸送」を名目に、日本側の制止線へ向かっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時四十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、朝の統合対策会議に入った。唇の傷には小さな処置が施されていたが、まだ赤みが残っている。顔色は悪い。だが、目は折れていなかった。

 壁面の大型画面には、四つの情報群が並んでいた。


 南海トラフ巨大地震被災地。

 相模トラフ・首都直下地震被災地。

 富士山噴火・降灰予測。

 そして、南西諸島周辺の海上状況。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、最初に国内災害を報告した。


「富士山噴火は継続。山腹火口列からの噴煙、火山灰、火山礫、噴石、火砕流区域の危険継続。静岡、山梨、神奈川方面で降灰。風向き次第で東京、千葉、埼玉へ拡大の可能性。相模トラフ被災地では、東京湾岸部の液状化、浸水、火災、帰宅困難者対応が継続。南海トラフ被災地では救助継続、避難所環境悪化、医療逼迫」


 次に、小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が画面越しに報告した。


『現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官を再配分中です。南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火の三正面に対し、現職約五万八千人規模、即応予備約二万人規模を段階投入。予備自衛官は駐屯地警衛、後方拠点維持、物資集積所警備、車両誘導、家族問い合わせ対応に従事しています』


 高嶺は頷いた。


「救助者支援は」


『飲料水、食事、休息、心理支援、医官巡回を強化しています。ただし、現場の疲労は限界です』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が続いた。


『火山灰対策物資を緊急調達中。マスク、ゴーグル、フィルター、除灰資材、ブルーシート、簡易トイレ、発電機、燃料。南海・相模向け物資と競合しないよう、用途別に管理します』


 高嶺は、最後の画面を見た。


「南西方面は」


 空気が変わった。

 防衛省側の担当者が資料を開いた。


『中国人民解放軍海軍の艦艇群が、沖縄周辺海域へ接近しています。中国側は、救援隊および支援物資の輸送と説明していますが、事前調整のない進入であり、海上保安庁および海上自衛隊が警戒監視中です。沖縄県側の一部関係者から、中国側支援受け入れに前向きな発言が確認されていますが、政府として正式承認したものではありません』


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が顔を硬くした。


「中国側から支援金の具体額は」


 外務省担当者が答えた。


「提示されていません。救援隊と支援物資という名目のみです。金額、物資リスト、隊員構成、医療資格、入域計画、全て不明確です」


 高嶺は、短く言った。


「支援を名乗る以上、透明性が必要です。無許可上陸は認めません」


 小森が続けた。


『沖縄本島、宮古、石垣、与那国、鹿児島離島の警戒を強化します。南西方面の陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊、海上保安庁、在日米軍との連絡体制を上げます。ただし、災害派遣と防衛警戒を同時に行う必要があります』


 高嶺は、画面を見つめた。


 国内は、すでに地獄のような複合災害だった。

 その隙を突くように、外から別の圧力が来る。

 彼女は、血の味を思い出した。


 唇を噛む代わりに、机の縁を握った。


「日本政府として通告してください。支援は正式な外交経路、政府承認、受け入れ拠点、任務範囲、武装の有無、人員名簿、物資リストを明確にした場合のみ受け入れる。無許可上陸、港湾進入、領海内での一方的行動は認めない」


 外務省担当者が頷いた。


「直ちに」


 高嶺は、さらに言った。


「これは中国人民への拒絶ではありません。無秩序な軍事的進入への拒絶です。表現を誤らないでください」


 橘がメモを取った。


「はい」


 小森は、画面の向こうでまっすぐ首相を見た。


『南西方面、抑止と事故防止を両立します』


「お願いします。撃たせない。だが、入れない」


 その言葉が、この日の安全保障対応の軸になった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時三十分。


 富士山南麓。


 柳沢たち即応予備自衛官は、避難所の外で火山灰を払っていた。灰は細かく、服の縫い目に入り込み、髪、まつ毛、手袋、車両の隙間にまとわりつく。水で流せば泥状になり、排水を詰まらせる。ほうきとスコップで集め、袋へ詰めるしかない。

 演習場周辺では、現職自衛官が負傷者搬送、火災監視、避難経路確保に当たっていた。噴石危険区域、火砕流危険区域には入れない。そこへ向かおうとする者を止めることも任務だった。

 避難所の入口で、男性が叫んでいた。


「家に母がいるんだ! 戻らせてくれ!」


 警察官が止める。


「危険区域です。戻れません!」


「じゃあ誰が助けるんだ!」


 柳沢は、その声を聞いて足を止めた。


 南海トラフでも、相模トラフでも、何度も聞いた言葉。


 誰が助けるんだ。

 答えは、いつも苦しい。

 助けに行ける場所なら行く。

 行けない場所には、今は行けない。


 現職の三曹が、男性に近づいた。


「お名前と住所を記録します。危険が下がり次第、確認班を出します」


「今行けよ!」


「今行けば、確認班が死にます」


 男性が言葉を失った。

 三曹は、声を荒げなかった。


「死にに行かせるわけにはいきません。あなたのお母さんの情報は、ここで止めません。記録して、つなぎます」


 男性は泣き崩れた。


 柳沢は、その横で名簿を開いた。


「住所を教えてください」


 声が震えないように、必死で抑えた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時十五分。


 横浜港。


 相模トラフ地震で倒壊した倉庫の救助現場では、火山灰の影響が出始めていた。まだ濃い降灰ではないが、空気が白く濁り、マスクが必要になっている。灰は目を刺し、咳を誘発し、救助犬の活動にも影響した。


 神崎二佐は、救助班の交代を指示した。


「マスク着用を徹底。目を洗える水を確保。救助犬は無理させるな」


 即応予備三曹の大迫が、資材搬送路を確認していた。


「二佐、搬送路に灰が乗り始めています。濡れると滑ります」


「滑り止めを入れろ。担架搬送は二名増やす」


「了解」


 若い即応予備自衛官が、咳き込んだ。


「下がれ」


 大迫が言った。


「大丈夫です」


「大丈夫の言葉は、昨日から禁止だ。下がって水を飲め。マスク交換」


 若い隊員は悔しそうにしたが、従った。

 神崎は、そのやり取りを見ていた。


 即応予備自衛官が入ったことで、現場は持続し始めている。現職だけでは限界だった。即応予備が資材を運び、通路を作り、避難者を誘導し、搬送を補助する。その分、専門の救助班が瓦礫へ集中できる。

 だが、即応予備も人間だ。

 普段の生活から突然、複合災害の現場へ引き出され、灰の中、津波の後、倒壊倉庫の前に立っている。


 神崎は、大迫に言った。


「即応予備の休息管理、厳しめに見ろ」


「了解しています。自分も含めて」


「そうだ。自分も含めろ」


 大迫は少し苦笑した。


「現職の方が、それを一番守りません」


 神崎は、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。


「耳が痛いな」


 その時、倉庫の奥から再び音がした。

 全員が動きを止める。


 コン。


 神崎の目が変わった。


「生存反応あり。灰対応班は空気管理。救助班、入るぞ」


 富士山が噴いても、目の前の瓦礫から音がすれば、そこが最前線だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 南西諸島周辺海域。


 中国艦艇群は、速度を落としながらも進路を変えなかった。

 中国側は、通信で繰り返していた。


『我々は人道支援のため、日本の被災地支援に向かっている。沖縄への救援隊上陸と物資搬入を求める』


 日本側は、海上保安庁巡視船と海上自衛隊艦艇から応答した。


『日本政府は、無許可の港湾進入および上陸を認めていない。支援は正式な外交経路と政府承認に基づき調整される。現在の進路を変更せよ』


 海は、鈍い鉛色だった。

 沖縄本島周辺では、海上保安庁の巡視船が前方を押さえ、海上自衛隊の護衛艦が距離を保ちながら警戒していた。空では航空自衛隊機が監視し、陸上では南西諸島の駐屯地が警戒を強めている。米軍も情報共有を行い、必要に応じて支援できる態勢を取っていた。


 宮古島、石垣島、与那国島。


 それぞれの島で、自衛官たちは災害対応と防衛警戒を同時に見ていた。地震、津波、富士山噴火の影響は遠いようでいて、物流と通信、住民不安を通じて南西諸島にも届いている。そこへ、中国艦艇群の接近が重なった。


 与那国島の駐屯地では、若い隊員が海の方を見ていた。


「本当に来るんですか」


 上官が答えた。


「来させないために、ここにいる」


「災害派遣じゃなくて、防衛ですか」


「両方だ」


 上官は、静かに言った。


「国を守るというのは、瓦礫の下の人を助けることも、島に勝手に入らせないことも含む」


 若い隊員は頷いた。


 その時、遠くの空で監視機の音がした。

 南西の海は、災害とは別の緊張を帯び始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時。


 官邸では、中国側の動きに関する国家安全保障会議が、災害対策会議とほぼ連続して開かれていた。


 通常なら、これだけで一日が終わる規模の会議だった。だが、今は違う。会議と会議の間に、富士山の噴煙高度、横浜港の救助、宮崎の避難所、羽田の滑走路、東京湾の浸水、南海トラフ被災地の医療搬送が割り込んでくる。

 高嶺紗枝は、全てを同時に聞いていた。

 外務省担当者が言った。


「中国側は、人道支援の意思を強調し、日本政府の対応を非人道的とする声明を準備している模様です。沖縄県内の一部関係者が、独自に受け入れを歓迎する趣旨の発信を行っています」


 橘官房長官が眉を寄せた。


「自治体が国の承認なく外国軍を受け入れることはできません」


 防衛省担当者が続ける。


「中国艦艇群は、沖縄本島方向と先島方向へ分かれる可能性があります。現時点で武力行使の兆候は限定的ですが、無理な接近、港湾進入、ヘリ発着、搭載舟艇の降下などに警戒が必要です」


 高嶺は、冷静に言った。


「こちらから挑発しない。だが、既成事実を作らせない」


 小森が頷く。


『海上保安庁と海上自衛隊の役割分担を明確にします。法執行は海保、防衛警戒は海自。陸上自衛隊は沖縄本島、宮古、石垣、与那国、鹿児島離島の重要施設と住民安全を確保。米軍、友好国部隊とは情報共有』


 高嶺は、外務省へ向いた。


「中国政府へ再通告。支援を希望するなら、まず人員名簿、物資リスト、医療資格、非武装確認、受け入れ拠点、任務範囲を提示すること。軍艦による無許可接近は支援ではなく圧力である、と」


 外務省担当者が、少し緊張した顔で頷いた。


「文言は強めです」


「強くてよい。ただし、中国国民への敵意ではない。中国政府と軍の行動への抗議です」


「承知しました」


 高嶺は、画面の南西諸島を見た。

 日本は今、災害で弱っている。

 だが、弱っている国にこそ、主権を守る力が必要だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 日本列島の空は、灰と煙と雲で不均一に染まっていた。


 富士山の噴火は継続。噴煙高度は変動し、降灰域は広がったり濃淡を変えたりしている。首都圏では、相模トラフ地震で損傷した交通網が、降灰でさらに制限された。車の運転は視界不良と路面滑走で危険になり、鉄道は点検と灰対策で再開が遠のいた。航空便は、富士山の火山灰雲を避けるため、大幅な制限に入った。

 羽田空港では、地震と津波の影響確認に加えて、火山灰への対応が必要になった。滑走路上の灰、エンジンへの影響、視界、機材繰り。空港職員は、疲労した顔で灰の積もり方を確認していた。

 静岡県東部の道路では、除灰が追いつかない。灰は乾けば舞い、濡れれば重い泥になる。側溝を詰まらせ、車両のフィルターを詰まらせ、救急車の速度を落とす。

 南海トラフ被災地では、遠く富士山の噴火を聞いた避難者が、呆然としていた。


「富士山まで」


「東京も大変らしい」


「じゃあ、こっちの支援は」


 その不安を聞いた森下三曹は、高知の避難所で言った。


「支援は続いています。自分たちもここにいます」


 避難者の女性が尋ねた。


「でも、自衛隊さん、東京にも行かないといけないんでしょう」


「東京にも仲間がいます。富士山にも仲間がいます。ここにも自分たちがいます」


 森下は、言いながら自分に言い聞かせていた。


 足りない。

 全てが足りない。

 だが、ここにいる以上、ここを支える。


 その一点だけは揺らしてはいけなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 東京のある駐屯地。


 予備自衛官による警衛業務は、さらに重要になっていた。現職部隊は相模トラフ被災地、富士山周辺、南海トラフ被災地へ向かっている。即応予備自衛官も、救助支援と避難所支援へ投入されている。駐屯地そのものを維持する人員は、限られていた。


 坂井予備陸曹長は、物資集積所の警備へ回った。


 水、食料、マスク、ゴーグル、衛星通信機、発電機、燃料、医薬品。積み上がる物資は、命そのものだった。だからこそ、混乱の中で紛失、誤配送、盗難、誤搬出を防がなければならない。


 若い予備自衛官が、伝票を見ながら言った。


「このマスク、富士山方面ですか。首都圏避難所ですか」


 担当職員が答えに詰まる。


「両方から要請が来ています」


 坂井が言った。


「優先順位表を確認。医療機関、呼吸器疾患避難者、富士山麓、降灰濃度の高い首都圏避難所。その順だ」


「数が足りません」


「足りないから、順番を守る」


「はい」


 その時、民間業者のトラック運転手が怒鳴った。


「早くしてくれ! こっちも次があるんだ!」


 若い予備自衛官が焦る。

 坂井が前に出た。


「確認が終われば出します。誤配送すれば、もっと遅れます」


「こっちは徹夜だぞ!」


「こちらもです」


 坂井の声は低かった。


「だから、互いに手順を守りましょう」


 運転手は、息を荒くしながらも黙った。

 後方は、静かな戦場だった。

 怒号、伝票、灰、疲労、家族の不安、物資の不足。


 そこを守る予備自衛官たちもまた、災害の中にいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 南西諸島周辺。


 中国艦艇群の一部が、沖縄本島の港湾方向へさらに接近した。日本側は海上保安庁巡視船を前面に出し、海上自衛隊艦艇が後方から警戒を維持した。

 通信が交わされる。


『日本政府の許可なき港湾進入は認められない。進路を変更せよ』


『我々は人道支援を目的としている。日本側は被災者支援を妨害している』


『支援受け入れは日本政府が指定する手続きに従うこと。現在の行動は承認されていない』


 沖縄本島の一部港湾では、県内関係者と報道機関がざわついていた。中国側支援を歓迎すべきだという声、無許可の軍艦接近は危険だという声、政府は災害で手いっぱいだから沖縄独自に受け入れるべきだという声、国の主権の問題だという声。


 SNSでは、情報戦が始まっていた。



   《中国が支援に来てくれてるのに日本政府が拒否してる》


   《軍艦で無許可接近は支援じゃない》


   《沖縄を見捨てるな》


   《見捨てるどころか勝手に入らせないために海保と自衛隊が出てる》


   《災害時に政治を持ち込むな》


   《災害時だからこそ主権を守れ》


   《支援物資リストも人員名簿も出さない支援って何》


   《デマ多すぎ。公式を見よう》



 官邸の情報班は、中国語、日本語、英語で流れる投稿を監視していた。偽映像、古い映像、加工画像、存在しない沖縄県発表、偽の港湾受け入れ通知。災害デマと安全保障デマが混ざり、見分けはさらに難しくなった。


 橘官房長官は、記者会見で短く言った。


『日本政府は、国際社会からの支援に感謝しています。一方で、外国軍隊の日本国内への入域は、日本政府の正式な承認と調整が必要です。無許可の港湾進入や上陸は認められません。これは特定国の国民を拒むものではなく、災害対応の秩序と日本の主権を守るための当然の措置です』


 言葉は、国内外へ発信された。


 だが、海の上では、言葉だけでは足りない距離まで艦艇が近づいていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時三十分。


 官邸。


 高嶺紗枝は、中国側の動きと富士山噴火対応を同時に受けていた。

 羽鳥が国内災害を報告する。


「富士山噴火継続。降灰は静岡、山梨、神奈川に加え、東京都西部でも確認。首都圏の避難所でマスク不足。相模トラフ被災地では、火災の一部鎮圧、港湾部救助継続。南海トラフ被災地では、救助から避難生活支援への比重が増えつつありますが、生存者捜索は継続」


 外務省担当者が続ける。


「中国側は、日本政府の対応を非人道的とする声明を出しました。救援隊の即時受け入れを求めていますが、こちらが求める人員名簿、物資リスト、非武装確認、任務範囲の提示には応じていません」


 防衛省担当者。


「中国艦艇群の一部が、沖縄本島方向で日本側制止線へ接近。別動の艦艇が先島諸島方向へ動いています。搭載ヘリの発艦準備らしき動きも確認されています」


 高嶺の声は、低くなった。


「ヘリによる無許可上陸も認めません」


 小森が頷く。


『航空自衛隊、海上自衛隊、海上保安庁で対応します。撃墜や攻撃ではなく、警告、進路阻止、着陸拒否を徹底。米軍とも連絡しています』


「衝突を避ける努力は最大限。ただし、既成事実は作らせない」


『はい』


 片倉皐月が言った。


『総理、金融市場と国債市場への影響が出始めています。災害に加え、安全保障危機が重なったことで、海外からの照会が殺到しています』


「市場を開けるか閉めるかは」


『明朝までに判断が必要です。決済機能維持を最優先にします』


 高嶺は、目を閉じなかった。


「日本政府は機能している。そう示し続けます」


 橘が言った。


「総理、午後四時に会見を」


「出ます」


「富士山、中国、首都圏、南海、全て聞かれます」


「全て答えます。分からないことは分からないと」


 橘は頷いた。


 高嶺は、手元の資料を見た。


 災害は、国土を壊す。

 安全保障危機は、国家意思を試す。


 今、日本は両方を同時に受けていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時。


 高嶺紗枝は、会見室に立った。


 灰の影響で、官邸の窓の外もわずかに白く霞んでいた。記者たちの顔にも疲労がある。彼らもまた、帰宅困難者であり、被災者であり、情報を伝える側だった。



  ――――

  内閣総理大臣声明

  富士山噴火・複合災害対応

  南西諸島への無許可進入認めず

  救助と主権を守る

  ――――



『富士山の噴火は継続しています。火山灰が広い範囲に影響を与え始めています。降灰地域の皆様は、不要不急の外出を控え、マスク等で口と鼻を覆い、目を保護してください。火山灰を水で流さないでください。車の運転は控えてください』


 高嶺は、一拍置いた。


『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震の被災地での救助と支援は継続しています。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官、警察、消防、海上保安庁、自治体職員、医療関係者、民間事業者、海外支援関係者が、それぞれの場所で任務に当たっています』


 記者のペンが動く。


『また、中国人民解放軍海軍の艦艇が、救援を名目として沖縄周辺海域へ接近しています。日本政府は、国際社会からの支援に感謝します。しかし、外国軍隊の日本国内への入域、港湾進入、上陸は、日本政府の正式な承認と調整が必要です。無許可の進入や上陸は認めません』


 会見室の空気が緊張した。


『これは中国国民への拒絶ではありません。災害対応の秩序、日本の主権、そして住民の安全を守るための措置です。支援を希望する場合は、人員名簿、物資リスト、任務範囲、非武装性、受け入れ拠点を明確にし、日本政府の調整に従う必要があります』


 質問が飛んだ。


「総理、中国側は日本政府が人道支援を妨害していると批判しています」


『事実ではありません。日本は、米国、台湾、欧州各国、国際機関、民間団体からの支援を受け入れています。必要なのは、秩序ある受け入れです。無許可の軍事的進入は、人道支援ではなく混乱を招く行為です』


「沖縄県側の一部から、中国支援を受け入れるべきとの声があります」


『地方自治体の声は丁寧に聞きます。しかし、外国軍隊の入域は国の権限と責任に属します。政府として住民の安全を守ります』


「武力衝突の可能性は」


 高嶺は、記者をまっすぐ見た。


『日本政府は衝突を望みません。最大限の外交努力と現場での抑制を行います。同時に、日本の主権と国民の安全を守るため、必要な対応を取ります』


 その言葉は、国内外へ流れた。


 南海トラフの瓦礫の下へ。

 首都圏の避難所へ。

 富士山麓の灰の中へ。

 沖縄の港へ。

 そして、南西の海へ。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後五時三十分。


 南西諸島方面。


 中国艦艇群の一部が、搭載ヘリの発艦準備を進める動きを見せた。日本側はただちに警告を発した。


『日本政府の承認なき航空機の接近、着陸、上陸行動は認められない。進路を変更せよ』


 海上保安庁の巡視船が前面で警告を続け、海上自衛隊は距離を保ちつつ警戒を強めた。航空自衛隊は領空接近を監視し、陸上自衛隊は沖縄本島、宮古、石垣、与那国の重要施設と港湾周辺で警戒態勢を強化した。


 米軍も、沖縄周辺で日本側との連絡を密にしていた。


 沖縄本島の港湾では、住民が不安そうに海を見ていた。


「本当に上陸してくるのか」


「支援って言ってるんでしょ」


「軍艦で来る支援があるか」


「でも、日本政府は手が足りないんじゃ」


 近くにいた消防団員が言った。


「手が足りないからって、誰でも勝手に入れていいわけじゃない」


 その言葉に、周囲が黙った。

 島の人々も、災害と安全保障の間で揺れていた。

 支援は欲しい。

 だが、支援を名乗る力が、自分たちの島を別の方向へ引きずろうとしているのではないか。


 その不安は、海から来ていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 富士山麓では、夕方になっても空は明るくならなかった。


 噴煙と灰で、太陽は鈍い円になり、地上は早い夕暮れのように暗かった。避難所の中では、咳をする人が増えていた。高齢者、乳幼児、喘息のある人、相模トラフ地震から避難してきた人、富士山噴火でさらに避難してきた人。避難所は、災害の層をそのまま抱えていた。

 柳沢は、避難所の外で火山灰を袋へ詰めていた。灰は軽そうに見えて、集めると重い。湿気を含むと、さらに重くなる。


 現職の三曹が言った。


「交代だ。中で水を飲め」


「まだ」


「まだは禁止だ」


 柳沢は、苦笑しようとして咳き込んだ。


「分かりました」


 中へ入ると、子どもが昨日の男の子と同じ場所に座っていた。


「自衛隊のお兄ちゃん」


「おじさんだよ」


「富士山、まだ怒ってる?」


 柳沢は、水を飲んでから答えた。


「まだ、少し怒ってる」


「いつ終わるの」


「分からない」


「大人も分からないの多いね」


 柳沢は、少しだけ笑った。


「そうだね。でも、分からなくても、守るために動くことはできる」


 子どもは、よく分からないという顔をした。


 それでいいと思った。


 子どもが全部分かる必要はない。


 大人が分からないなりに動けばいい。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 官邸では、中国側の強行作戦が、より明確な段階へ入ったとの報告が入った。

 防衛省担当者が言った。


「中国艦艇の一部が、沖縄本島および先島方向への接近を継続。搭載ヘリの一部が甲板上で待機状態。小型艇の準備らしき動きも確認されています。現時点で発進・降下は確認していませんが、強行上陸または示威的接近の可能性があります」


 小森進一は、即座に言った。


『海保、海自、空自、陸自、米軍との情報共有を維持。現場には、過剰反応を避けつつ、港湾進入・上陸阻止を徹底させます』


 高嶺は、低い声で確認した。


「中国側に、最後通告ではなく、再警告を」


 外務省担当者が頷いた。


「はい」


「言葉は慎重に。こちらは衝突を望まない。しかし、上陸は認めない。支援は政府指定の受け入れ枠でのみ受ける。これを繰り返してください」


 橘が言った。


「国内向けにも発信しますか」


「します。デマが広がる前に」


 羽鳥が、別の報告を差し込んだ。


「富士山の噴火活動、なお継続。降灰域拡大。首都圏の一部鉄道再開見込み、さらに遅れ。病院の吸気フィルター、非常電源、透析患者搬送が課題」


 高嶺は、目を閉じなかった。


「全部、並行で行きます」


 片倉皐月が、静かに言った。


『総理、閣僚も職員も限界です。交代指示を出してください』


 高嶺は、言葉を返そうとして止まった。

 自分自身も限界に近い。

 だが、限界に近い者が限界に気づかなくなることが、最も危険だった。


「分かりました。全省庁、強制交代表を作ってください。幹部も含めます。私も」


 会議室が、わずかにざわめいた。

 高嶺は続けた。


「ただし、私は三十分だけです」


 片倉が即座に言った。


『一時間です』


「三十分」


『総理、三十分では判断力は戻りません』


 高嶺は、片倉を見た。

 財務大臣の目は、厳しかった。

 友人の目ではない。

 閣僚として、総理を守る目だった。


「……四十五分」


 片倉は、わずかに頷いた。


『それで記録します』


 高嶺は、少しだけ息を吐いた。

 国を守るためには、自分の体も守らなければならない。

 その当たり前のことが、今は最も難しかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時三十分。


 南西の海は、夜に入った。


 暗くなることで、緊張は増した。艦艇の灯火、レーダー、通信、警告、位置取り。誤認が最も怖い時間だった。

 海上保安庁巡視船の船橋では、乗員が黙って計器を見ていた。相手は軍艦。こちらは法執行機関として前に立つ。後方には海上自衛隊がいる。空には監視がある。陸には島の住民がいる。


 船長が言った。


「挑発に乗るな。進路を塞ぐ。ぶつけに行くな。だが、入れるな」


 若い海上保安官が頷いた。


「はい」


 その声は硬かった。


 彼は、内心で恐怖を感じていた。相手は軍艦だ。だが、目の前の海を開ければ、無許可上陸の既成事実が作られるかもしれない。

 巡視船は、静かに進路を取った。

 中国艦艇から、強い口調の通信が入る。


『人道支援を妨害するな』


 日本側は、同じ文言を繰り返した。


『日本政府の承認なき進入は認められない。進路を変更せよ』


 同じ言葉を、何度も。

 それは退屈なやり取りではない。

 衝突を防ぐための命綱だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時。


 高嶺紗枝は、四十五分の休息を終え、危機管理センターへ戻った。

 眠れたわけではない。

 横になっただけだった。

 だが、目の奥の痛みは少しだけ引いていた。唇の傷はまだ痛む。その痛みは、昨夜の一瞬の崩落から自分を戻した記憶でもあった。

 戻ると同時に、報告が来る。


 富士山噴火継続。

 降灰域拡大。

 相模トラフ被災地の火災一部鎮圧。

 横浜港で生存者一名救出。

 南海トラフ被災地で避難所感染症懸念。

 中国艦艇、なお接近。

 米国、台湾、欧州支援の受け入れ拠点再調整。

 国内SNSでデマ拡大。

 令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部が、中国支援拒否を批判。

 中道連盟と民権民主党は、政府に情報公開を求めつつ、無許可上陸には慎重姿勢。


 全てが同時に動いていた。


 高嶺は、椅子に座らず立った。


「午後十時に、今日の総括と夜間方針を出します。富士山、南海、相模、南西方面。全部です」


 橘が頷いた。


「準備しています」


 小森が画面越しに言った。


『南西方面、今夜が一つの山です』


「分かっています」


『富士山も夜間噴火継続。現場は限界です』


「それも分かっています」


 高嶺は、少しだけ声を低くした。


「分かっていることが増えるほど、できることが少なく見えますね」


 羽鳥が言った。


「それでも、できることを並べます」


 高嶺は頷いた。


「はい。一つずつ」




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 日本列島は、災害と緊張の夜に包まれていた。


 富士山は噴火を続け、火山灰は風下へ広がっている。首都圏では、灰と地震被害が重なり、交通、医療、通信、物流が制約を受けている。相模トラフ被災地では、東京湾岸と相模湾沿岸の救助が続く。南海トラフ被災地では、四日を越えた救助と避難生活支援が同時に進む。

 そして南西の海では、中国艦艇群がなお、日本の制止線の外側で圧力をかけ続けていた。


 高嶺紗枝は、会見室に立った。



  ――――

  政府夜間方針

  富士山噴火対応継続

  南海・相模の救助継続

  南西諸島の主権と住民安全を守る

  ――――



『八月十九日午後十時現在、富士山の噴火は継続しています。降灰地域の皆様は、不要不急の外出を控え、マスク等で口と鼻を覆い、目を守ってください。火山灰を水で流さず、自治体の指示に従ってください』


 高嶺は、正面を見た。


『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震の被災地では、救助と避難生活支援を継続しています。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官を含む防衛省・自衛隊、警察、消防、海上保安庁、自治体職員、医療関係者、民間事業者が、各地で任務に当たっています。救助者の休息と安全確保も、救助を継続するための重要な任務です』


 記者席は、静かだった。


『南西諸島周辺では、中国人民解放軍海軍の艦艇が、救援を名目に接近しています。日本政府は、国際社会からの支援に感謝しています。しかし、無許可の港湾進入、上陸、航空機の接近は認めません。支援は、日本政府の承認と調整に基づき、秩序をもって受け入れます。日本政府は、沖縄県民、南西諸島の住民の安全と、日本の主権を守ります』


 彼女は、少しだけ言葉を切った。


『災害で弱った時こそ、私たちは互いを支えなければなりません。そして、国として守るべき線を失ってはなりません。政府は、救助を続け、避難を支え、火山灰に対応し、南西の海を守ります』


 最後に、高嶺は言った。


『国民の皆様。今夜も、不安な夜になります。どうか、公式情報を確認し、隣の人と声をかけ合ってください。私たちは、まだ折れていません。折れたままでも、立っています。明日の朝へ、命をつなぎます』


 会見が終わった時、日本の夜はまだ続いていた。

 富士山は赤く噴き、首都は灰に霞み、西日本は泥の中で救助を続け、南西の海では艦艇の灯が静かに向かい合っていた。


 それでも、各地で人の声がした。


「こちらへ避難してください!」


「水を配ります!」


「生存反応あり!」


「進路を変更せよ!」


「門を開けるな、でも人を見捨てるな!」


「マスクをつけて!」


「手を離さないで!」


 午後十時。


 日本は、災害と圧力の中にあった。

 だが、まだ誰かが誰かを呼んでいた。

 その声が消えない限り、この国は終わっていなかった。


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