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第十一話 灰の二十四時間

富士山噴火での自衛隊の行動に関する記述は、雲仙普賢岳噴火災害派遣を経験された諸先輩方に当時の流れなどを今一度お聞きし、それを元に表現しています。

 八月二十日、午前零時。


 日本列島は、眠っていなかった。


 眠れなかった、と言う方が正しい。


 富士山は、夜の中央で噴き続けていた。山腹の火口列から上がる噴煙は、闇の中でも存在を主張していた。火山雷が噴煙の内部を裂き、赤い溶岩と火砕物の光が山体の一部を不気味に照らしている。樹海の火災は一部で延焼を続け、自衛隊富士演習場周辺では、火山灰と噴石による被害確認、避難誘導、負傷者搬送が夜通し行われていた。

 首都圏には、灰が降っていた。

 東京の街灯は、細かな白い粒を照らしていた。雪ではない。触れればざらつき、吸えば喉を刺し、濡れれば重い泥となる火山灰だった。港区、品川区、江東区、中央区、浦安市、川崎市、横浜市、千葉市。相模トラフ・首都直下地震によって損傷した湾岸部に、富士山からの灰が重なっていた。

 南海トラフ巨大地震の被災地では、四日を越えた救助と避難生活支援が続いていた。高知の泥、宮崎の倒壊家屋、和歌山の孤立集落、徳島の港、静岡の沿岸部。生存者捜索は、少しずつ救助から確認へ、確認から生活支援へと比重を変えつつあった。だが、誰も「終わった」とは言わなかった。言えるはずがなかった。

 そして南西諸島の海では、中国人民解放軍海軍の艦艇群が、なお沖縄方面への圧力を続けていた。


 救援。

 人道支援。

 物資輸送。


 中国側はそう言い続けた。


 だが、人員名簿は出ない。物資リストは不明確。武装の有無も曖昧。受け入れ拠点は日本政府指定ではなく、中国側が沖縄の港湾を名指ししていた。

 支援を名乗りながら、主権の線を踏み越えようとしている。

 官邸の危機管理センターでは、その四つの危機が同じ画面上に並んでいた。


 南海。

 相模。

 富士山。

 南西諸島。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、机の前に立っていた。唇の傷はまだ痛む。小さなガーゼの下で、血の味が残っているような気がした。だが、彼女はその痛みをもう、弱さの証とは思っていなかった。


 あの夜、折れかけた自分を引き戻した痛み。

 今は、その痛みとともに立っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前零時三十分。


 官邸では、夜間統合会議が開かれていた。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、短い報告を重ねる。


「富士山噴火は継続。降灰は静岡、山梨、神奈川、東京都西部から二十三区の一部、千葉県北西部にも確認。風向きにより変動。火砕流危険区域への進入は禁止継続。噴石被害区域では住民避難継続」


「相模トラフ被災地では、東京湾岸部の浸水、液状化、火災、帰宅困難者支援が継続。横浜港、川崎港、東京港、羽田空港の機能回復は大幅に制限」


「南海トラフ被災地では、避難所環境悪化、感染症懸念、医療搬送、物資不足。高知、宮崎、和歌山、徳島、静岡で孤立地域支援継続」


「南西諸島周辺では、中国艦艇群が接近継続。海上保安庁、海上自衛隊、航空自衛隊、陸上自衛隊、在日米軍と連携し監視中」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣は、防衛省から回線で入っていた。目の下に濃い影がある。それでも、声は崩れていない。


『自衛隊の部隊配分は極限です。現職部隊は南海、相模、富士山、南西警戒へ分散。即応予備自衛官は避難所支援、物資搬送、道路啓開補助、救助支援、医療搬送補助へ投入中。予備自衛官は駐屯地警衛、物資集積所警備、車両誘導、家族問い合わせ対応、後方施設維持に従事しています』


 高嶺は確認した。


「隊員の疲労は」


『深刻です。南海トラフから継続投入の部隊では、睡眠不足、脱水、急性ストレス反応、食欲不振、フラッシュバック。相模側でも、津波・火災・倒壊現場で同様の症状が出ています。富士山麓では、灰による呼吸器症状と視界不良、噴石への恐怖が加わっています』


 高嶺は、静かに言った。


「交代を強制してください」


『現場は抵抗します』


「抵抗してもです。本人が行けると言うほど危ない。休ませることも指揮だと、再徹底してください」


『承知しました』


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が、別画面から言った。


『火山灰対策物資の調達は進めていますが、輸送が問題です。首都圏の物流網が地震と灰で傷んでいる。日本海側、東北側、内陸経路、海上輸送を組み替えます』


 橘義隆(たちばなよしたか)官房長官が続ける。


「情報発信は、災害情報と安全保障情報を分けて出します。混ぜると、デマが増えます」


 高嶺は頷いた。


「分ける。ただし、国民には全体像も示す。今、日本は複合災害と外部圧力に同時に向き合っている。隠さない。煽らない」


 羽鳥が、深く頷いた。


「はい」


 高嶺は、南西諸島の海図を見た。


「中国側には、再度通告を」


 外務省担当者が答える。


「支援受け入れは政府指定の枠組みに限る。無許可進入は認めない。文書と音声で再通告します」


「お願いします」


 高嶺は、机の上の水を一口飲んだ。

 水を飲める自分が、飲まなければならない。

 現場で水を飲めない自衛官がいる。

 だからこそ、指示を出す者は飲み、食べ、立ち続けなければならない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時二十分。


 富士山南麓の避難所。


 火山灰は、屋根に薄く積もり始めていた。時折、噴石より小さな火山礫が建物の外壁を叩く。避難所の中では、咳をする音が増えていた。乳幼児、高齢者、喘息のある人、相模トラフ地震から避難してきた人、富士山麓から逃げてきた人。床の上には毛布が敷かれ、人々はマスク越しに小さな声で話していた。

 即応予備自衛官の柳沢は、入口で避難者を誘導していた。


「外から入る時は、服の灰を軽く落としてください。目をこすらないでください。水は一人一本です。体調の悪い方は医療班へ」


 声を出すたびに、喉が痛む。


 マスクの中が湿っている。ゴーグルの縁に灰が溜まる。手袋の上からでも、指先の感覚が鈍い。


 現職の二曹が交代に来た。


「柳沢、十五分下がれ」


「まだ行けます」


「その言葉を言う奴から下げる」


「了解しました」


 柳沢は苦笑しようとして、咳き込んだ。

 二曹が水を渡す。


「飲め」


 柳沢は受け取った。


「自分、即応予備なのに、現職の方に水を」


「関係ない。今は同じ現場だ」


 柳沢は、水を一口飲んだ。

 ぬるい。

 灰の味がする気がする。


「二曹」


「何だ」


「自分の家族、東京なんです。連絡、まだ取れてなくて」


 二曹は、一瞬黙った。


「俺も、静岡の親と連絡が取れていない」


「そうですか」


「だから、目の前をやる」


 柳沢は頷いた。


「はい」


「後で、通信が空いたら安否確認しろ。今は十五分休め」


 その言葉には、厳しさだけでなく、同じ痛みを持つ者の温度があった。

 柳沢は壁際に座った。目を閉じると、噴火の赤い光が瞼の裏に残っていた。


 眠れない。


 それでも、座っていることが今の任務だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 関東地方の駐屯地。


 予備自衛官による警衛業務は、夜間に入っても緊張が緩まなかった。正門では、支援物資を積んだトラック、災害派遣関係車両、業者、報道関係者、隊員家族が断続的に訪れる。灰が照明に照らされ、門前のアスファルトを白くしていた。

 坂井予備曹長は、交代の警衛班を整列させた。


「灰で視界が落ちている。車両誘導は必ず二名。身分確認は照明を当てすぎるな。相手も疲れている。怒鳴られても、こちらは怒鳴らない。だが、規則は曲げない」


「はい」


「支援物資車両は優先。だが、許可番号なしは入れない。不審物確認を飛ばすな。災害時は善意も来るが、混乱に乗じる者も来る」


 若い予備自衛官が、少し緊張した声で言った。


「この状況で、そんな人がいるんですか」


 坂井は答えた。


「いるかどうかではなく、いる前提で守る。それが警衛だ」


 その時、一台の乗用車が正門前に止まった。中年男性が降りてきて、声を荒げた。


「息子に会わせろ! 富士の方に行ってるんだろ!」


 若い予備自衛官が前へ出る。


「申し訳ありません。個別の面会はできません。安否確認窓口へ――」


「窓口じゃなくて息子を出せ!」


 男性は門へ近づいた。

 坂井が間に入った。


「ここから先は入れません」


「俺は親だぞ!」


「承知しています」


「分かってない!」


「分かっていないかもしれません」


 坂井は、静かに言った。


「ですが、ここを開けることはできません。お名前、息子さんの所属が分かる範囲、連絡先を記録します。必ず窓口へ上げます」


 男性の肩が震えた。


「死んでたらどうする」


 その問いに、若い予備自衛官の顔が強張った。

 坂井は、少しだけ目を伏せてから答えた。


「その確認も、正式な経路で行います。ここで曖昧なことは言えません」


「冷たいな」


「冷たく聞こえると思います」


 坂井の声は揺れなかった。


「でも、曖昧な慰めであなたをここに縛りつける方が、もっと残酷です」


 男性は、泣きながら膝をついた。

 若い予備自衛官が椅子を持ってきた。

 水も。


 門は開けない。

 人は見捨てない。


 その線を守ることが、この夜の警衛だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時。


 南西諸島周辺海域。


 中国艦艇群の動きは、夜の闇の中で続いていた。大きな衝突はまだ起きていない。だが、接近と警告、進路変更と再接近が繰り返されていた。海上保安庁巡視船は前面で法執行としての警告を続け、海上自衛隊護衛艦は後方で抑止の線を維持している。

 巡視船の船橋では、若い海上保安官がレーダー画面と目視を交互に確認していた。


「距離、変わらず」


 船長が言った。


「相手の進路は」


「微速で接近傾向。こちらの進路を見ています」


「警告を継続」


 通信担当が、定型文を送る。


『日本政府の承認なき港湾進入、上陸、航空機発着は認められない。進路を変更せよ』


 中国側から返答が来る。


『人道支援を妨害する行為を停止せよ』


 同じ言葉。

 同じ応酬。


 だが、その背後で互いの艦が動く。


 一歩間違えれば、接触事故になる。

 さらに間違えれば、武力衝突の引き金になる。


 災害で傷ついた国が、海の上で別の危機を抱えていた。

 沖縄本島、宮古島、石垣島、与那国島の部隊では、隊員たちが夜明け前の空を見ていた。災害派遣ではない。だが、住民を守る任務だった。


 ある若い陸上自衛官が、上官に尋ねた。


「この状況で、中国は本当に来るんでしょうか」


 上官は、暗い海の方を見た。


「来ないようにするのが、今の任務だ」


「戦うんですか」


「戦わないために立つ」


 若い隊員は、その言葉を胸に刻んだ。


 戦わないために立つ。

 救助するために休む。

 守るために入れない。


 災害の中で、逆説のような命令ばかりが増えていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時三十分。


 東京湾岸の避難所。


 火山灰は、避難所の窓の外を薄く白くしていた。相模トラフ地震で自宅に戻れなくなった人々が、灰の朝を待っていた。眠っている人は少ない。横になるだけで、余震の記憶、津波警報、富士山噴火の映像、中国艦艇のニュースが頭に浮かぶ。

 自治体職員の女性は、壁際で数分だけ座っていた。手には避難者名簿。別の手には、マスク配布数のメモ。眠気で文字が二重に見える。

 そこへ、即応予備自衛官の支援班が到着した。


「避難所支援に来ました。物資搬入、配布、要支援者確認、手伝います」


 女性職員は、一瞬、言葉を失った。


「本当に、助かります」


 即応予備自衛官の隊長が言った。


「まず、何が一番足りませんか」


「人です」


 女性職員は、思わず笑ってしまった。

 笑いながら涙が出た。


「すみません。水とマスクと、トイレの整理も、あと外国人の方への説明も」


「分けましょう。水、マスク、トイレ、通訳支援、要配慮者。こちらで班を作ります」


 即応予備自衛官たちは、すぐに動いた。


 誰かが水の箱を運ぶ。

 誰かがマスクを数える。

 誰かが英語とやさしい日本語で掲示を書く。

 誰かが高齢者の薬を確認する。


 女性職員は、初めて五分だけ目を閉じた。

 その五分が、避難所を支える力になった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 八月二十日の朝が来た。


 空は明るいはずなのに、灰で白く霞んでいた。太陽は輪郭の鈍い光となり、地上の色は薄く奪われていた。東京の道路では、火山灰を巻き上げないよう車両速度が落とされ、警察と自治体が外出抑制を呼びかけている。鉄道は点検と降灰対応で、再開できる区間とできない区間が分かれていた。道路も同じだった。救急搬送、物資輸送、除灰車両、自衛隊車両、警察、消防、民間物流。全てが限られた道路へ集中していた。

 富士山麓では、噴火が続いていた。噴煙は高く、火口列の一部では赤い光が残る。火砕流区域は厳重に立入禁止。樹海火災は一部で延焼を続け、風向きによって煙と灰が避難所へ流れた。

 南海トラフ被災地では、朝の配給が始まった。食料、水、薬、衛生用品。高知の避難所で、森下三曹は物資を運びながら、遠くのニュースで富士山噴火と中国艦艇の接近を知った。


 避難者の男性が言った。


「日本中、めちゃくちゃやな」


 森下は、段ボール箱を置いた。


「それでも、物資は届いています」


「ありがたいけど、自衛隊さんも大変やろ」


「大変です」


 森下は、初めてそう言った。

 避難者が驚いた顔をした。

 森下は続けた。


「でも、ここにいます」


 男性は、静かに頷いた。


「それがありがたい」


 森下は、少しだけ頭を下げた。

 強がりだけでは、もう持たない。

 大変だと言った上で、それでもいる。

 それが、今の彼にできる誠実さだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時三十分。


 官邸。


 高嶺紗枝は、朝の統合会見に臨んだ。



  ――――

  政府朝方針

  富士山噴火継続

  降灰対策を強化

  南西諸島の無許可進入を認めず

  ――――



『富士山の噴火は継続しています。降灰地域の皆様は、不要不急の外出を控え、マスク等で口と鼻を覆い、目を保護してください。火山灰は水で流さず、自治体の指示に従って除去してください』


 高嶺は、言葉を区切った。


『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震の被災地では、救助と避難生活支援を継続しています。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官を含む全ての関係者が、各地で任務に当たっています。救助者の休息と安全確保は、救助継続のために不可欠です』


 そして、南西諸島について述べた。


『中国人民解放軍海軍の艦艇による、救援を名目とした無許可の接近が続いています。日本政府は、正式な手続きに基づく国際支援を歓迎します。しかし、無許可の港湾進入、上陸、航空機の接近は認めません。沖縄県民、南西諸島の住民の安全と、日本の主権を守るため、海上保安庁、自衛隊、関係機関が連携して対応しています』


 質問が飛んだ。


「総理、中国側は日本が支援を拒んでいると国際社会へ訴えています」


『日本は支援を拒んでいません。日本政府の調整に従わない軍事的進入を拒んでいます。支援であるなら、透明性と秩序が必要です』


「複合災害の中で、安全保障対応に人員を割く余裕があるのですか」


 高嶺は、まっすぐ答えた。


『余裕があるから守るのではありません。余裕がない時でも守らなければならないものがあるから、守ります。主権と住民の安全は、その一つです』


 その言葉は、短く切り取られ、国内外へ広がった。



   《余裕がない時でも守るものがある》


   《これは強い》


   《災害対応中に中国と揉めるな》


   《揉めてるんじゃなくて勝手に入ろうとしてる》


   《沖縄を盾にするな》


   《政府は情報を出せ》


   《公式情報を見よう。デマ多すぎ》



 情報の海もまた、荒れていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 富士山噴火による降灰は、都市機能へさらに深く入り込み始めた。


 首都圏の病院では、吸気フィルターの確認が急がれた。非常用発電機が灰を吸い込めば停止する危険がある。地震で負傷者を受け入れている病院にとって、電源停止は致命的だった。

 ある都内の災害拠点病院では、設備担当者が屋上へ上がっていた。マスク、ゴーグル、ヘルメット。灰が機械室の周囲に薄く積もっている。


「フィルター、交換準備」


「予備、あと何枚」


「少ないです」


「吸気を絞れるか」


「絞りすぎると発電機が持ちません」


 医師が下から連絡する。


『ICUは絶対に落とせない。透析も止められない』


 設備担当者は、灰の積もる空を見た。


「分かってますよ」


 分かっている。


 だが、分かっているだけでは設備は守れない。


 そこへ、即応予備自衛官と民間設備業者の支援班が到着した。


「フィルター搬入です。どこへ」


 設備担当者は、一瞬だけ顔を上げた。


「こっちです。助かります」


 小さなフィルター一枚が、命につながっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時三十分。


 南西諸島周辺では、中国艦艇群の一部が、沖縄本島方向への接近を強めた。

 海上保安庁巡視船が警告を続ける。


『日本政府の承認なき港湾進入は認められない。進路を変更せよ』


 中国側は応答する。


『我々は救援隊を輸送している。人道目的である』


 その時、中国艦艇の甲板上でヘリ一機がローターを回し始めたとの報告が入った。

 防衛省中央指揮所に緊張が走る。


「発艦準備確認」


「進路は」


「沖縄本島方向へ向かう可能性」


 小森進一は、即座に命じた。


「警告。無許可飛行、着陸は認めない。航空自衛隊、海自、海保で追跡。沖縄県、米軍へ即時共有」


 官邸にも同時に報告が入る。

 高嶺は、短く言った。


「撃たせない。だが、降ろさせない」


 小森は頷いた。


『警告と進路阻止を優先します』


 外務省は、中国側へ即時抗議を入れた。

 同時に、米国、台湾、欧州各国へも状況説明が送られた。日本は支援を拒んでいるのではない。無許可の軍事的行動を拒んでいるのだと。

 中国側ヘリは、しばらく甲板上でローターを回し続けた。

 発艦はしなかった。

 だが、それだけで十分な圧力だった。


 南西の海で、災害支援をめぐる言葉が、軍事的な形を帯びていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 日本は昼を迎えたが、日差しは鈍かった。

 灰が空の色を変え、富士山の噴煙が気象衛星画像に明瞭に映っていた。政府は、降灰対策を災害対応の中心課題の一つへ格上げした。


 国土交通省は、道路除灰の優先順位を発表した。


 病院、避難所、物資集積所、自衛隊・消防・警察拠点、空港、港湾、主要幹線道路。

 鉄道各社は、線路、架線、ポイント、車両吸気系の確認に追われた。

 電力会社は、変電所、送電設備、発電所吸気設備の灰対策を急いだ。

 水道事業者は、浄水場への火山灰流入を警戒した。

 農業関係者は、畑とビニールハウスを見て呆然としていた。

 火山灰は、ただ降るだけではない。


 社会の隙間に入り込み、機械を止め、人の肺を傷め、物流を鈍らせ、復旧の手を遅らせる。

 官邸では、片倉皐月財務大臣が声を張った。


『除灰に必要な民間重機、清掃車、運搬車、袋、保管場所、全て政府調達に切り替えます。自治体ごとに待たせない。費用は国が見ると明言してください』


 高嶺が頷く。


「明言します」


 片倉は続けた。


『災害対応に協力する民間企業への支払いを遅らせれば、次が続きません。即時払いの仕組みを作ります』


「お願いします」


 片倉は、疲れた顔で少しだけ笑った。


『金を出すのが、私の災害派遣です』


 高嶺は、その言葉に小さく頷いた。


「頼りにしています」


 財務大臣は、画面の向こうで背筋を伸ばした。


 彼女もまた、現場にいた。


 机の上の数字という現場に。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後一時三十分。


 高知県黒潮町。


 南海トラフ巨大地震の被災地には、富士山の灰はほとんど届いていなかった。だが、灰のニュースは届いていた。相模トラフの首都被害も、中国の沖縄接近も、避難所の小さなテレビに流れていた。

 避難者の一人が言った。


「もう、うちらのこと忘れられるんじゃないか」


 その言葉に、周囲が黙った。


 森下は、水の箱を下ろし、振り返った。


「忘れていません」


 声が、思ったより強く出た。

 避難者たちが彼を見た。

 森下は続けた。


「自分たちはここにいます。物資も来ています。医療班も来ます。道路も開けています。全部が遅れています。でも、忘れていません」


 高齢の女性が、小さく言った。


「東京も大変やろうに」


「はい。大変です」


「富士山も」


「はい」


「それでも来てくれるんか」


 森下は、少しだけ息を吸った。


「来ます。遅れても、来ます」


 その言葉が、約束として重すぎることは分かっていた。

 だが、言わなければならなかった。

 避難者の顔に、ほんの少しだけ力が戻った。

 森下は、班長に後で叱られるかもしれないと思った。

 しかし班長は、離れた場所で黙って頷いていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後三時。


 中国艦艇群をめぐる緊張は、国際社会にも広がっていた。


 米国政府は、日本政府の主権と災害対応秩序を支持する声明を出した。台湾も、日本への支援は日本政府の調整に従って行うと明確にした。欧州各国も、支援は受け入れ国の主権と手続きに基づくべきだと表明した。


 中国政府は反発した。


 しかし、人員名簿、物資リスト、非武装確認、受け入れ拠点の提示にはなお応じなかった。


 官邸の会議で、外務省担当者が言った。


「国際的には、日本側への理解が広がっています。ただし、中国側は情報戦を強めています。日本政府が沖縄を見捨てている、日本が中国支援を拒否して被災者を苦しめている、という主張です」


 橘官房長官が言った。


「沖縄向けに、政府支援の具体策を強く出す必要があります」


 高嶺は頷いた。


「沖縄県民へ向けて、物資、医療、燃料、通信支援を具体的に示してください。中国を拒むだけでは駄目です。日本政府が沖縄を支えていると、行動で示す」


 小森が続けた。


『沖縄本島、先島、鹿児島離島への物資輸送を再確認します。海保、海自、民間船、航空輸送を組み合わせます』


 片倉が言った。


『沖縄向け緊急支援予算も切ります。発表してください』


 高嶺は、画面を見た。


「沖縄を孤立させない。これを明確に」


 外の国が「支援」を名乗って近づく時、内側の不安を放置すれば、そこが裂け目になる。

 高嶺は、その裂け目を作らせないと決めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時三十分。


 富士山麓では、降灰の中で避難所運営が続いていた。


 柳沢は、午後の交代で外へ出た。灰は朝より厚くなっている。スコップで集めると、袋がすぐに重くなる。避難所の屋根に積もる灰も心配だった。雨が降ればさらに重くなる。建物の強度、排水、空調、発電機。火山灰は、あらゆるものを少しずつ追い詰める。

 現職の二曹が、周囲を確認しながら言った。


「屋根の灰、次の班で落とす。安全帯を使え。滑るぞ」


 柳沢が頷く。


「了解」


 その時、避難所の中から、朝の男の子が出てきそうになった。


「外は駄目!」


 柳沢は、思わず強く言った。

 男の子がびくっと止まる。

 母親が駆け寄る。


「すみません」


 柳沢は、すぐ膝をついた。


「ごめん。怒ったんじゃない。灰が目に入ると痛いから」


 男の子は、目に涙を浮かべた。


「富士山、まだ怒ってる?」


「うん。だから中にいよう」


「お兄ちゃんも中に来ないの」


「あとで行く」


「嘘じゃない?」


 柳沢は、一瞬詰まった。

 災害の中で、大人の「あとで」は守れないことがある。

 だから、彼は言い換えた。


「交代が来たら行く」


 男の子は、少し考えて頷いた。


「じゃあ、交代来て」


 柳沢は、初めて少し笑った。


「そうだね。交代、大事だね」


 近くで聞いていた二曹が言った。


「いいこと言うな、その子」


 柳沢は立ち上がった。

 交代は、命をつなぐ仕組みだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 政府は、沖縄・南西諸島向けの支援強化を発表した。



  ――――

  政府発表

  沖縄・南西諸島支援強化

  物資・医療・燃料・通信を追加

  無許可進入は認めず

  ――――



 橘官房長官が発表した。


『政府は、沖縄県および南西諸島の住民の安全確保、物資供給、医療支援、燃料確保、通信維持のため、追加支援を実施します。支援は海上保安庁、自衛隊、自治体、民間事業者と連携して行います。同時に、外国軍隊による無許可の港湾進入、上陸、航空機の接近は認めません』


 この発表は、沖縄県内でも大きく報じられた。


 港町の避難所で、高齢の男性が言った。


「国は見てるんだな」


 別の男性が言う。


「そりゃそうだろ」


「でも、遠いからな、東京は」


「今の東京も大変だ」


「だからこそ、不安になる」


 若い女性が、スマートフォンを見ながら言った。


「物資追加、出てます。燃料も通信も」


 高齢の男性は、少しだけ頷いた。


「なら、待つか」


 待つことは、簡単ではない。

 だが、見捨てられていないと感じられれば、人は少しだけ待てる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 南西の海で、中国艦艇群の一部が進路をわずかに変えた。

 完全な撤退ではない。

 だが、日本側制止線への直進は避けた。

 防衛省中央指揮所に、短い安堵が走った。


「進路変更を確認」


 小森進一は、すぐに言った。


「警戒を緩めるな。別動を確認」


「はい」


 官邸にも報告が入る。


 羽鳥が言った。


「中国艦艇の一部、進路変更。ただし周辺海域に留まっています」


 高嶺は頷いた。


「外交ルートで、支援を希望するなら指定手続きへ、と再度伝えてください。こちらから勝利宣言のような発信はしない」


 橘が言った。


「国内向けには」


「冷静に。緊張は継続。無許可進入は現時点で阻止。警戒継続」


「はい」


 小森が画面越しに言った。


『現場の海保と自衛隊は、よく抑えています』


 高嶺は、深く頷いた。


「必ず伝えてください。国は見ています、と」


『はい』


 南西の海で、武器を使わずに線を守っている者たちがいた。

 それもまた、この日の救助だった。

 住民を、戦火から遠ざけるための救助だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時三十分。


 首都圏では、夜の降灰が始まっていた。


 街灯の下で灰が舞う。車のライトが灰を照らす。歩く人は少ない。政府と自治体は外出抑制を呼びかけ、鉄道の多くは限定運行または停止を続けている。避難所には、地震からの避難者、帰宅困難者、降灰を避ける人々が混在していた。

 都内のある避難所では、即応予備自衛官が子どもたちに紙マスクの付け方を教えていた。


「鼻も隠してね」


「苦しい」


「苦しかったら、少し大人に言ってね。でも外へ出る時はつけよう」


 別の場所では、予備自衛官が物資搬入車両を誘導していた。


「バック誘導、ゆっくり。灰で滑ります」


 現職自衛官は、倒壊現場へ向かっていた。


 それぞれの任務が違う。


 だが、どれも命につながっていた。


 避難所の壁には、手書きの紙が貼られていた。



    水は一人一本まで

    マスクは必要な人を優先

    外の灰を室内へ持ち込まない

    家族への連絡は災害用伝言板へ

    救助者も休息が必要です



 最後の一文を見て、ある女性が小さく言った。


「自衛隊さんも休んでくださいね」


 近くにいた隊員は、少し驚いた顔をした。


「ありがとうございます。交代で休みます」


「本当にですよ」


「はい」


 その隊員は、腰の水を一口飲んだ。

 見せるためではない。

 自分のために。



  ☆☆☆ ☆☆☆



 午後九時。


 官邸では、八月二十日最後の統合会議が開かれた。

 羽鳥が報告する。


「富士山噴火は継続。ただし噴煙高度と噴出量は変動。降灰対策を継続。火砕流危険区域は立入禁止。山麓避難は継続」


「相模トラフ被災地では、火災の多くは制圧方向。ただし湾岸部浸水、液状化、倒壊建物救助、帰宅困難者、医療逼迫が継続」


「南海トラフ被災地では、救助継続と避難生活支援が並行。感染症対策、仮設トイレ、水、医療、遺体安置、家族照会が課題」


「南西諸島では、中国艦艇の一部が進路変更。ただし周辺海域に留まり、警戒継続」


 小森が続けた。


『現場の疲労はさらに深刻です。特に複数災害をまたいで移動した部隊、即応予備自衛官、予備自衛官にも疲労が出ています。予備自衛官の警衛業務でも、家族対応、長時間勤務、灰対策で負荷が増えています』


 高嶺は言った。


「予備自衛官にも心理支援を」


『準備します』


「彼らは後方に見えて、前線を支えています。軽く見ないでください」


『承知しています』


 片倉が言った。


『明日、国家複合災害特別財政措置の骨子を出します。南海、相模、富士山、降灰、南西諸島支援を含めます』


 橘が言った。


「政治側では、令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部が、中国支援拒否を批判し続けています。一方で、中道連盟、民権民主党は、政府の無許可進入拒否を支持しつつ、沖縄支援の具体化を求めています」


 高嶺は、疲れた目で資料を見た。


「批判は受けます。支援策は出します。主権は譲りません」


 会議室に、静かな緊張が戻った。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時三十分。


 高嶺紗枝は、夜の声明を出した。



  ――――

  政府夜間声明

  富士山噴火・降灰対策継続

  南海・相模の救助支援継続

  南西諸島警戒継続

  ――――



『八月二十日午後十時三十分現在、富士山の噴火は継続しています。降灰地域の皆様は、引き続き外出を控え、マスク等で口と鼻を覆い、目を保護してください。火山灰は水で流さず、自治体の指示に従ってください』


 彼女は、次の紙を見ずに続けた。


『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震の被災地では、救助と避難生活支援を続けています。七十二時間を過ぎても、救助を諦めません。同時に、避難生活を支える水、食料、医療、衛生、通信、心のケアを強化します』


 会見室は静かだった。


『中国人民解放軍海軍の艦艇による接近については、一部進路変更を確認していますが、警戒を継続しています。日本政府は、国際支援を歓迎します。しかし、無許可の港湾進入、上陸、航空機の接近は認めません。沖縄県民、南西諸島の住民の安全と、日本の主権を守ります』


 高嶺は、少しだけ息を吸った。


『現場の皆さん。現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官、警察、消防、海上保安庁、自治体職員、医療関係者、民間事業者、支援に当たる全ての皆さん。どうか、休息を取ってください。水を飲んでください。食べてください。あなたが倒れないことが、次の命を守ります』


 その言葉は、富士山麓の柳沢にも、横浜港の神崎にも、高知の森下にも、駐屯地の坂井にも、海上保安庁の巡視船にも届いた。


 届いた者もいた。

 届かない者もいた。


 だが、同じような言葉は、各現場で誰かが誰かに言っていた。


 飲め。

 休め。

 戻ってこい。

 まだ行くな。

 今はここを守れ。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時三十分。


 富士山麓では、噴火の音が遠く低く続いていた。

 柳沢は、交代で避難所の外へ出た。灰は積もり、地面は白くなっている。空は暗い。山の方角だけが、赤黒く光っていた。

 現職の二曹が隣に立つ。


「明日も続くな」


「はい」


「怖いか」


「怖いです」


「それでいい」


 柳沢は頷いた。


「怖くなくなったら、下がれ、ですよね」


「誰に聞いた」


「南海の現場から来た隊員が言っていました」


 二曹は、少しだけ笑った。


「いい言葉だ」


 その頃、高知では、森下が避難所の外で夜の点呼を手伝っていた。

 横浜では、神崎が明日の救助計画を組み直していた。

 駐屯地では、坂井が正門の警衛を交代し、若い予備自衛官に「確認を飛ばすな」ともう一度言った。

 南西の海では、巡視船が進路を保ち、中国艦艇の灯を見続けていた。

 官邸では、高嶺が次の報告を待っていた。

 誰も完全には休めていない。

 誰も全てを救えていない。

 それでも、線は守られていた。


 命をつなぐ線。

 主権を守る線。

 救助者を生かす線。

 情報を正しく出す線。


 その線の上に、国はかろうじて立っていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月二十一日、午前零時。


 八月二十日の二十四時間が終わった。


 富士山は、まだ噴いていた。

 首都圏は、灰に霞んでいた。

 南海トラフ被災地では、避難生活の長期化が始まっていた。

 相模トラフ被災地では、初動救助から本格支援へ移る準備が進んでいた。

 南西諸島の海では、中国艦艇群がなお周辺海域に留まっていたが、日本側の制止線は崩れていなかった。


 高嶺紗枝首相は、危機管理センターの時計を見た。


 午前零時。


 新しい日付になった。

 だが、災害は日付で区切られない。


 彼女は、次の資料に目を落とした。


 富士山噴火継続。

 降灰域更新。

 南海被災地感染症対策。

 相模被災地港湾復旧。

 沖縄・南西諸島警戒継続。

 予備自衛官交代計画。

 即応予備自衛官追加配置。

 海外支援受け入れ再編。


 全てが、明日へ持ち越される。


 高嶺は、水を一口飲んだ。


 唇の傷が少し痛んだ。


 その痛みを感じながら、彼女は言った。


「次の報告を」


 羽鳥が頷いた。


「はい」


 日本の夜は続いていた。

 だが、各地でまだ声がしていた。


「点呼を取ります!」


「水を配ります!」


「灰を吸わないで!」


「進路を変更せよ!」


「生存反応、確認!」


「門を守れ!」


「大丈夫、手を離さないで!」




 午前零時。


 国はまだ、折れていなかった。

 折れたまま、立っていた。

 そしてまた、新しい一日へ入っていった。


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