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第十二話 灰の国境線

火山灰に関しては私が幼少期から桜島等で経験していることを踏まえて書いています。

 八月二十一日、午前零時。


 日付が変わっても、災害は変わらなかった。


 富士山は噴き続けていた。噴煙は夜空へ立ち上がり、上空の風に流され、灰は静岡、山梨、神奈川、東京、千葉の一部へと広がっていた。山腹の火口列は赤く、火山雷が時折、噴煙の中を白く裂いた。樹海の火災は完全には収まらず、自衛隊富士演習場の一部は、灰と噴石と焦げた草地で、昼と夜の区別がつかない異様な風景になっていた。

 首都圏では、相模トラフ・首都直下地震の傷が、灰の下で見えにくくなっていた。液状化で波打った道路、沈んだマンホール、亀裂の入った岸壁、浸水した地下施設、停止した鉄道、閉じ込められたエレベーター、火災の跡。そこへ灰が薄く積もり、すべての輪郭を白くぼかした。

 南海トラフ巨大地震の被災地では、津波に壊された町が、四日を越えた疲労の中で朝を待っていた。高知の高台避難所では、眠れない人々が天井を見上げていた。宮崎の避難所では、日向灘地震から続く疲労が限界に達していた。和歌山の山間部では、孤立集落へようやく届いた水を、住民たちが黙って分け合っていた。

 そして南西諸島の海では、中国人民解放軍海軍の艦艇群が、なお沖縄方面の外側に留まっていた。


 日本は、海と山と灰と外交の圧力に囲まれていた。


 官邸危機管理センターの時計が午前零時を示した時、高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、壁面の四つの地図を見ていた。


 南海。

 相模。

 富士山。

 南西諸島。


 それぞれの地図に、赤い印が増え続けている。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が、静かに言った。


「総理、夜間態勢へ移行します。ただし、全省庁とも通常の夜間態勢ではなく、統合継続態勢です」


 高嶺は頷いた。


「休息交代は」


「閣僚、幹部職員、自衛隊中央、各省庁対策室、すべて強制交代表を運用しています。ただ、予定どおりには進んでいません」


「予定どおりに進む災害ではありません」


 高嶺は、机に置いた水を一口飲んだ。

 唇の傷に水が触れ、鈍く痛んだ。


「それでも、交代表は守ってください。倒れる人を減らすことも、救える命を増やすことです」


 羽鳥は、短く答えた。


「はい」


 この夜、政府は救助だけでなく、持久に入った。

 持ちこたえなければならない。

 それが、八月二十一日の始まりだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前一時。


 富士山南麓の避難所では、灰を払う音が続いていた。


 屋根に積もった灰をそのままにしておけば、雨が降った時に重さが増す。排水溝が詰まれば、避難所そのものが使えなくなる。だから、夜でも、交代で灰を落とさなければならなかった。

 即応予備自衛官の柳沢は、安全帯をつけ、現職自衛官とともに低い屋根の灰を落としていた。ヘッドライトの光が灰を照らす。スコップを入れるたびに、さらさらと崩れる。見た目より重い。腕が痺れ、肩が痛む。


 現職の二曹が言った。


「無理するな。手元が鈍ったら下りろ」


「はい」


「返事が早い時は、だいたい無理してる」


 柳沢は苦笑しようとして、また咳き込んだ。


「すみません」


「謝るな。水を飲め」


「今、屋根の上です」


「下りたら飲め」


「了解」


 灰の向こうに、富士山の火口列が赤く見えた。夜の山が、ところどころ燃えている。遠くから見ると、地面が裂けて、そこから別の世界の光が漏れているようだった。

 柳沢は、ふと会社のデスクを思い出した。


 昨日までではない。もう何日も前のことのように感じる。パソコン、電話、昼休みの弁当、同僚との雑談。即応予備自衛官として訓練は受けていた。災害派遣に出る覚悟もあった。


 だが、南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火が重なる世界など、想像したことはなかった。


 二曹が声をかける。


「柳沢、手が止まってる」


「すみません」


「考えるなとは言わん。考えながら動け」


「はい」


 柳沢は、もう一度スコップを入れた。

 灰が落ちる。

 下では、避難者の子どもが眠っている。

 屋根を守ることも、命を守ることだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時三十分。


 関東地方の駐屯地。


 予備自衛官による警衛は、深夜の疲労と闘っていた。正門の照明には灰がまとわりつき、車両確認に時間がかかる。物資輸送車両は途切れない。マスク、飲料水、簡易トイレ、衛星通信機、発電機、フィルター、医療品、ブルーシート、食料。どれも必要で、どれも足りない。

 坂井予備曹長は、三度目の巡回に出た。正門、物資集積所、燃料保管区、仮眠所、家族問い合わせ窓口。現職が前へ出ている今、後方拠点の小さな綻びが、前線の大きな遅れになる。

 若い予備自衛官が、立ったまま一瞬、意識を落としかけた。


 坂井はすぐに声をかけた。


「交代」


「大丈夫です」


「禁止語だ」


「――交代します」


「水を飲んで、十分横になれ」


「十分でいいんですか」


「まず十分だ。その後、班長が判断する」


 若い隊員は、悔しそうに頷いた。


「すみません」


「謝るな。立哨中に倒れる方が迷惑だ」


 言葉は厳しい。だが、坂井はその背中を軽く叩いた。


 その隊員が下がると、別の予備自衛官が正門へ入った。普段は運送会社で働いている男だった。車両誘導が上手い。トラックの動き、運転手の苛立ち、待機列の詰まり方をよく見ている。


「次の大型、少し左へ寄せます。灰で滑るので誘導二人ください」


 坂井は頷いた。


「頼む」


 予備自衛官は、それぞれの日常で身につけた経験を持ち寄っていた。

 警衛は単なる門番ではない。

 災害時の後方拠点を、社会の混乱から守る仕事だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時。


 南西諸島周辺海域。


 中国艦艇群は、夜間も完全には離れなかった。前日夕方に一部が進路変更したとはいえ、艦艇は依然として沖縄周辺海域に留まり、日本側の対応を測るように位置を変えていた。


 海上保安庁巡視船は、灰の降らない南の海で、別の灰色の緊張に包まれていた。レーダー画面、相手艦の灯火、通信、進路、距離。人道支援という言葉の裏側にある意図を見極めながら、法執行の言葉を繰り返す。


『日本政府の承認なき港湾進入、上陸、航空機発着は認められない。進路を変更せよ』


 中国側から、また同じ返答が来る。


『我々は救援を目的としている。日本側は被災者支援を妨害している』


 巡視船の船長は、通信を聞き終えると、静かに言った。


「同じ文言で返せ」


 若い海上保安官が、疲れた目で頷く。


「はい」


 同じ言葉を繰り返すことは、簡単ではない。挑発に対して怒らず、焦らず、言葉を崩さない。海上保安庁の現場もまた、持久戦だった。

 後方にいる海上自衛隊護衛艦では、乗員が中国艦艇の動きを監視していた。さらに後方では、航空自衛隊が空の動きを見ていた。陸上では、南西諸島の駐屯地が、住民避難、重要施設警戒、災害支援、警戒監視を同時にこなしている。


 戦わないために立つ。


 その言葉が、夜の海で現実になっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前四時三十分。


 高知県黒潮町。


 南海トラフ巨大地震の被災地では、深夜の避難所巡回が行われていた。森下三曹は、避難者の寝息と咳、泣き声、寝言の間を歩いていた。富士山の灰はここには届いていない。だが、避難所のテレビは消されていた。ニュースを流し続けると、眠れない人が増えるからだった。


 井ノ口は、壁際に座っていた。


「眠れましたか」


 森下が尋ねる。

 井ノ口は首を振った。


「目ぇ閉じたら、坂の下が見える」


 森下は隣に座った。


「水は」


「飲んだ。三口」


「増えましたね」


「自慢にならん」


「なります」


 井ノ口は、少し笑った。笑った後、顔を伏せた。


「自衛隊さん」


「はい」


「七十二時間過ぎたら、諦めると思ってた」


「自分たちも、そう思いそうになります」


 森下は正直に言った。


「でも、諦めるという言葉は使いません。次に行く判断はあります。でも、諦めるとは言いません」


「それ、つらいやろ」


「はい」


「つらいって言ってえいがか」


「最近、言っていいんだと思うようになりました」


 井ノ口は、森下の顔を見た。

 若い自衛官の顔には、疲労と泥と、消えない悔いが残っている。それでも彼は、そこにいた。


「お前さんらも、人間やもんな」


 森下は、少しだけ笑った。


「はい。人間です」


 その答えは、強さのように聞こえた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前六時。


 八月二十一日の朝は、灰色だった。


 富士山噴火から二度目の朝。首都圏では、多くの人が窓の外を見て、雪のように積もった灰を見た。だが、それは雪ではない。踏めばざらつき、車が通れば舞い、吸えば喉を刺す。

 自治体の放送が流れた。


『火山灰が積もっています。不要不急の外出を控えてください。火山灰を水で流さないでください。除去はマスク、ゴーグル、手袋を着用し、少量ずつ行ってください』


 東京湾岸の相模トラフ被災地では、除灰と地震復旧が同時に始まった。液状化の泥の上に火山灰が積もる。側溝は詰まりやすく、車両は滑りやすい。救急車の搬送速度も落ちた。

 都内の病院では、発電機フィルターの交換が続いた。透析患者の搬送、酸素ボンベ、薬品冷蔵庫、手術室の電源。火山灰は、病院の見えない部分を脅かしていた。

 官邸では、朝の方針が出された。



  ――――

  政府朝方針

  降灰対策を全国支援へ

  南海・相模の救助支援継続

  南西諸島警戒継続

  ――――



 高嶺紗枝は、会見で言った。


『火山灰は、健康、交通、電力、通信、上下水道、医療、農業、物流に大きな影響を与えます。政府は、降灰地域へのマスク、ゴーグル、フィルター、除灰資材、医療物資を優先的に供給します。火山灰を水で流さず、自治体の指示に従ってください』


 続けて、彼女は南海と相模に触れた。


『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震の被災地支援は継続しています。被災地が複数に分かれても、政府はどの地域も忘れません』


 最後に南西諸島。


『南西諸島周辺では、引き続き警戒監視を行っています。沖縄県民、南西諸島の住民の安全、そして日本の主権を守ります。同時に、沖縄・南西諸島への物資、燃料、医療、通信支援を強化しています』


 その言葉は、災害対応だけでなく、国家としての意思表示だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前八時。


 富士山麓の避難所で、柳沢はようやく二十分の仮眠を取った。

 夢を見た。

 会社の机で、灰がキーボードに積もっている夢だった。電話が鳴る。出ると、相手は避難所の子どもで、「交代、来た?」と聞く。答えようとすると、富士山の噴火音が電話の向こうから聞こえる。

 目が覚めた時、彼は汗をかいていた。


 隣に現職の二曹がいた。


「うなされてたぞ」


「すみません」


「謝るな。水」


 柳沢は水を飲んだ。

 喉が痛い。


「自分、戻れます」


「戻れるかどうかは俺が見る」


 柳沢は黙った。

 二曹は、少しだけ表情を緩めた。


「目は戻ってる。だが、十五分は座れ」


「はい」


 柳沢は、避難所の中を見た。子どもが母親の膝で眠っている。高齢者が咳き込んでいる。自衛官、消防、警察、自治体職員、医療者が、少しずつ役割を分けて動いている。


 巨大な噴火を止めることはできない。

 だが、マスクを渡すことはできる。

 屋根の灰を落とすことはできる。

 眠れない子どものそばにいることはできる。

 できることは、小さい。


 しかし、小さいことが積み重ならなければ、人は生きられない。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十時。


 官邸では、国家複合災害特別財政措置の骨子が示された。

 片倉皐月財務大臣は、紙ではなく画面を見ながら説明した。


『対象は、南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震、富士山噴火および降灰被害、南西諸島支援強化に伴う緊急措置です。通常の災害復旧枠では足りません。自治体への直接交付、医療機関支援、避難所運営、除灰、上下水道、電力、通信、港湾・空港、道路、鉄道、農業、漁業、中小企業、被災者生活再建、すべて別枠で組みます』


 高嶺は頷いた。


「財源は」


『災害国債を含めます。国民への説明が必要です』


「説明します」


『増税ではなく、まず命と生活を守るための国債です。ただし、後年度負担を隠してはいけません』


 高嶺は、片倉を見た。


「隠しません。今は命を守る。後で責任を持って返す。それを言います」


 片倉は、少しだけ頷いた。


『それが財政の誠実さです』


 橘官房長官が、政治側の反応を報告した。


「中道連盟と民権民主党は、財政措置には協議に応じる姿勢です。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部は、災害国債と自衛隊展開、中国支援拒否を合わせて政権批判を強めています」


 高嶺は、疲れた表情のまま言った。


「協議に応じる党とは協議してください。批判する党にも資料を出してください。災害財政は、政権の所有物ではありません」


 橘は頷いた。


「はい」


 高嶺は、画面の向こうの片倉へ言った。


「皐月さん、数字で国民を支えてください」


 片倉は、背筋を伸ばした。


『はい。数字を命の側へ置きます』




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 南西諸島方面で、再び緊張が高まった。


 中国艦艇群の一部が、先島諸島方面へ接近を強めた。宮古島、石垣島、与那国島の警戒態勢が上げられ、陸上自衛隊、海上保安庁、警察、自治体が連絡を取り合った。


 宮古島の駐屯地では、隊員たちが装備を確認していた。災害対応用の資材と、防衛警戒用の装備が同じ場所に並ぶ。それは、今の日本の状況そのものだった。


 若い隊員が、上官に言った。


「住民避難も、防衛警戒も、同時ですか」


「そうだ」


「人が足りません」


「足りない」


 上官は、正直に言った。


「だから、優先順位を間違えるな。住民の安全、重要施設、港湾、通信。勝手に動くな」


「はい」


 島の住民は、不安の中にいた。

 地震と噴火は遠くても、物資と燃料は海を通ってくる。そこを中国艦艇群が圧迫している。自分たちの島が、災害支援の名目で政治の最前線にされるかもしれない。

 自治体職員が、住民説明で言った。


「政府から物資支援は継続されています。港湾と空港の安全を確保しながら、燃料と医療品を優先します。不確かな情報を拡散しないでください」


 住民の一人が尋ねた。


「中国が上陸してくるんですか」


 職員は、言葉を選んだ。


「政府と関係機関が、無許可の進入を認めない対応をしています。私たちは、避難情報と生活情報を出します。落ち着いて公式情報を確認してください」


 落ち着いて。


 その言葉は、列島のあらゆる場所で使われていた。

 だが、落ち着くためには、落ち着けるだけの情報と支援が必要だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 首都圏の除灰作業が本格化した。


 自衛隊、自治体、建設業者、道路会社、消防、警察、ボランティア調整団体が、優先道路から灰を取り除いていく。だが、灰はただの土ではない。細かく、舞いやすく、吸い込めば健康被害を起こす。水で流せば固まり、排水を詰まらせる。

 江東区の湾岸道路で、即応予備自衛官の支援班が、灰を袋へ詰めていた。相模トラフ地震で液状化した場所は、足元が不安定だった。灰と泥が混ざり、靴底に重くまとわりつく。

 隊員の一人が言った。


「これ、終わるんですか」


 班長が答えた。


「今日では終わらない」


「明日は」


「明日も終わらない」


「じゃあ」


「だから、今日やる分をやる」


 その言葉に、隊員は黙ってスコップを入れた。

 巨大災害の復旧は、終わりが見えない作業の連続だった。


 一袋。

 もう一袋。

 道路の一メートル。

 また一メートル。


 それが、救急車の通る道になる。

 それが、物資の届く道になる。

 それが、誰かの命を数時間縮める。


 灰を袋に詰める手にも、救助の意味があった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時。


 南海トラフ被災地では、避難生活支援が救助と同じ重さを持ち始めていた。

 宮崎県内の避難所では、感染症対策のため、仮設トイレの増設、手洗い水、消毒液、換気、寝床の間隔調整が行われていた。だが、水が足りない。人手が足りない。高齢者の体力が落ちている。子どもたちは限界まで我慢している。

 若い三曹は、日南市の避難所で水を配っていた。


 あの日、津波の音で水が飲めなくなった彼は、今、自分から水を持って歩いている。


「一口ずつ飲んでください。喉が渇いていなくても、飲んでください」


 高齢の女性が言った。


「自衛隊さんも飲んでる?」


 三曹は、腰のボトルを取り出した。


「飲みます」


 彼は、その場で一口飲んだ。

 波の音はまだ残ってる。

 だが、飲めた。

 女性は、安心したように笑った。


「よかった」


 三曹は、少しだけ頭を下げた。

 自分が水を飲むことで、人を安心させる日が来るとは思わなかった。

 成瀬一尉が、離れた場所からそれを見ていた。


 副官が言った。


「戻ってきましたね」


 成瀬は答えた。


「戻ったんじゃない。進んだんだ」


 三曹は、元に戻ったのではない。

 傷を持ったまま、別の場所へ進んでいた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 中国艦艇群の一部が、再び距離を取った。


 完全撤退ではない。だが、先島方向への強い接近は一時的に止まった。米国、台湾、欧州各国の声明、日本側の追加支援発表、海保と自衛隊の制止、国際世論の変化が重なり、中国側も一気に既成事実を作ることを避けたと見られた。

 官邸に報告が入る。


 羽鳥が言った。


「中国艦艇群、一部距離を取りました。ただし、海域には留まっています」


 高嶺は頷いた。


「警戒継続。勝ったような発信はしない」


 小森が言った。


『現場にも伝えます。油断しない。挑発しない。線は維持する』


「お願いします」


 外務省担当者が言った。


「中国側は、引き続き日本の対応を批判しています。ただ、支援手続きの透明性を求める国際的な声が強まっています」


 高嶺は、静かに言った。


「支援を受ける国にも、主権があります」


 その言葉は、会議室の中で短く響いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後七時三十分。


 富士山の噴火活動に、わずかな変化が見られた。

 噴煙高度は依然高いが、山腹火口列の一部で噴出量が弱まったように見える。一方で、別の火口では赤い光が強まり、火山性微動は継続していた。気象庁は、活動が弱まったとは表現しなかった。

 火山は、簡単には終わらない。



  ――――

  火山情報

  富士山の噴火継続

  火山活動は依然高い状態

  降灰・噴石・火砕流に警戒

  ――――



 青見怜一は、T大学の研究室でその文面を見た。

 藤崎が言った。


「一部、弱まっているようにも見えます」


「見えるだけかもしれない」


「終息ではない」


「終息と言うには早すぎる」


 青見は、疲労で震える手を机に置いた。

 南海トラフから始まった巨大災害は、今や地震学、火山学、防災行政、安全保障、財政、医療、物流、情報戦、全てを巻き込んでいた。


「先生」


「何だ」


「これ、いつまで続くんでしょう」


 青見は答えられなかった。

 科学者として答えられないことがある。

 人間としても答えられないことがある。


「分からない」


 青見は、正直に言った。


「だが、分からなくても、見続ける」


 藤崎は頷いた。

 観測を続けること。

 それが彼らの現場だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時。


 官邸では、八月二十一日夜の総括会議が開かれた。


 高嶺紗枝は、朝より少し声が掠れていた。だが、判断は速かった。


 羽鳥が報告する。


「富士山噴火継続。降灰対策は首都圏と東海、山梨を中心に継続。相模トラフ被災地は救助と復旧準備。南海トラフ被災地は避難生活支援へ比重増。南西諸島では中国艦艇の一部が距離を取りましたが、警戒継続」


 小森が続ける。


『自衛隊は、明日以降、持続態勢へ切り替える必要があります。現職、即応予備、予備のローテーションを再編します。特に予備自衛官の警衛と後方業務を長期化前提に組みます』


 高嶺は頷いた。


「家族支援も入れてください。予備自衛官は民間生活から来ています。職場、家族、収入、心理的負担。制度で支えないと続きません」


『承知しました』


 片倉が言った。


『その補償も財政措置に含めます』


 高嶺は、少しだけ表情を和らげた。


「お願いします」


 橘が政治情勢を報告する。


「中国艦艇への対応について、与党内と中道連盟、民権民主党はおおむね政府対応を支持。令明新生組、日本民衆共産党、社会民主会の一部は批判継続。ただし、中国側が名簿等を出していない点が広がり、世論は政府支持に傾きつつあります」


 高嶺は言った。


「世論で判断しません。法と住民安全で判断します」


 橘は頷いた。


「はい」


 この夜、政府は次の段階へ移る準備を始めた。


 救命から生活へ。

 初動から持続へ。

 危機回避から長期防衛へ。


 しかし、そのどれも、まだ途中だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月二十二日、午前零時。


 富士山は噴き続けていた。


 噴火開始から二日目に入る。噴煙は夜空へ上がり、降灰域は風向きにより揺れ続けた。首都圏の灰は、街の色を変えた。道路、屋根、車、街路樹、避難所の入口。白く、灰色に、ざらついた膜が積もっていた。


 南海トラフ被災地では、夜間の救助は縮小され、避難生活支援と医療支援に力が移っていた。だが、生存者捜索を完全に止めた地域はなかった。

 相模トラフ被災地では、倒壊建物救助、火災鎮圧、湾岸部の浸水排除、帰宅困難者支援が続いた。

 南西諸島では、中国艦艇群がまだ海域に留まり、日本側は警戒を解かなかった。


 官邸の時計が午前零時を示した時、高嶺は机に手を置き、静かに言った。


「八月二十二日に入ります。今日から、持久戦として組み直します」


 羽鳥が答えた。


「はい」


 高嶺は続けた。


「国民に、終わっていないことを伝える。けれど、終わらない絶望ではなく、続けるための方針を示す」


 その言葉は、この日の政府運営の軸になった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 横浜港。


 神崎二佐の部隊は、倒壊倉庫の捜索を一部終了し、次の区画へ移っていた。救出できた者がいる。間に合わなかった者もいる。遺体を搬出する時、若い隊員が拳を握って泣いた。

 神崎は、その隊員に言った。


「泣け。だが、手は止めるな」


 隊員は泣きながら頷いた。


「はい」


 即応予備二曹の大迫は、搬送路の灰を払い続けていた。彼もまた、眠れていない。膝が痛む。肩も重い。だが、彼が作った通路を担架が通る。

 大迫は、若い即応予備自衛官に言った。


「今日からは、無理して一気にやる段階じゃない。続ける段階だ」


「続ける方が、きついですね」


「そうだ」


「終わりが見えません」


「見えない時は、次の一時間を見る」


 若い隊員は、灰の積もった地面を見た。


「一時間」


「そうだ。次の一時間を落とすな」


 持久戦は、心を細かく区切らなければ続かない。


 一日ではなく、一時間。

 一時間ではなく、一回の搬送。

 一回の搬送ではなく、一歩。


 そうやって、人は巨大災害の前で潰れないようにする。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時。


 富士山麓の空が、灰色に明るくなってきた。


 柳沢は、避難所の外で朝の点呼を手伝っていた。


「名前を呼びます。返事をしてください」


 避難者たちが、マスク越しに返事をする。


「はい」


「はい」


「はい」


 声は小さい。


 だが、返事があること自体が救いだった。

 昨日の男の子も、母親の後ろから小さく手を上げた。


「はい」


 柳沢は、少しだけ笑った。


「よし」


 男の子が言った。


「交代、来た?」


「来たよ。だから少し寝た」


「よかった」


 子どもに心配されるとは思わなかった。

 柳沢は、胸の奥が少し温かくなった。

 その温かさを抱えたまま、彼は次の名簿を開いた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時。


 高嶺紗枝首相は、八月二十二日の朝会見で、初めて「長期対応」という言葉を明確に使った。



  ――――

  政府朝方針

  複合災害は長期対応へ

  救助・避難生活・降灰・南西警戒を継続

  ――――



『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震、富士山噴火への対応は、長期化します。政府は、救助を継続するとともに、避難生活、医療、衛生、降灰対策、物流、通信、電力、水道、地域経済、心のケアを含めた長期支援へ移行します』


 記者が尋ねた。


「総理、救助より復旧へ移るという意味ですか」


『違います。救助を続けながら、生活を支える段階へ入るという意味です。人は救助された後も、生き続けなければなりません』


 別の記者が聞く。


「南西諸島の中国艦艇について、撤退の見通しは」


『一部艦艇の距離変化は確認していますが、警戒を継続しています。日本政府は、支援を正式な枠組みで受け入れる用意があります。しかし、無許可進入は認めません』


「富士山噴火の終息見通しは」


『気象庁が監視を続けています。現時点で終息を判断できる段階ではありません。降灰地域の皆様は、引き続き公式情報に従ってください』


 会見は短かった。

 だが、方向性は明確だった。

 終わっていない。

 だから、続ける仕組みへ移る。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 南海トラフ被災地では、仮設入浴支援が一部で再開された。

 宮崎県内の避難所で、自衛隊の入浴支援車両が到着すると、避難者たちの表情が少し変わった。泥、汗、灰ではないが、数日分の疲労と臭い。風呂に入ることは、単なる清潔ではなく、人間に戻る行為だった。


 若い三曹は、入浴支援の誘導に立っていた。


「高齢者と体調の悪い方を優先します。時間を区切って案内します」


 避難者の女性が言った。


「自衛隊さんは入ったの?」


 三曹は、少し笑った。


「交代で入ります」


「本当に?」


「本当です」


「見張ってるよ」


「お願いします」


 その冗談に、周囲で小さな笑いが起きた。

 災害の中で笑いが出ることに、罪悪感を覚える人もいた。

 だが、笑いは不謹慎ではなかった。

 生きる力だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 中国艦艇群の主力が、ようやく日本側制止線から距離を取り始めた。

 完全撤退ではない。周辺海域に一部は残る。だが、前日までの強い接近は緩んだ。国際的な批判、米国や欧州、台湾の声明、日本側の冷静な阻止、沖縄支援強化が重なり、中国側の「支援」名目は説得力を失い始めていた。


 官邸に報告が入る。


 外務省担当者が言った。


「中国側は、人道支援を継続する意思はあるが、日本側が適切な受け入れ手続きを示すなら協議すると表現を変えています」


 橘官房長官が言った。


「実質的には一歩引いた形です」


 高嶺は、すぐに言った。


「勝利宣言はしない。支援手続きの窓口を示してください。相手の面子を潰すためではなく、無許可進入を止めるためです」


 小森が頷いた。


『現場の警戒は維持します』


「お願いします」


 高嶺は、南西諸島の地図を見た。


 この危機は、まだ完全には終わっていない。

 だが、少なくともこの時点で、無許可上陸の既成事実は作らせなかった。

 海上保安庁、自衛隊、外務省、沖縄の現場、米軍、友好国、そして情報発信。

 全てが、細い線を支えた結果だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 首都圏では、学校や公共施設の一部が避難所、物資拠点、医療補助拠点として再編された。

 火山灰のため、屋外活動は制限される。除灰作業も、休息を挟みながら進める必要がある。灰を吸えば体調を崩す。頑張りすぎるほど、次の人手が減る。

 江東区の避難所で、自治体職員が即応予備自衛官に言った。


「すみません、また人手を」


「そのために来ています」


「でも、そちらも疲れてますよね」


「疲れてます」


 即応予備自衛官は、そう答えた。


 職員が驚いた顔をする。


「でも、動けます。交代も組んでいます。だから、やることを分けてください」


 職員は、少しだけ息を吐いた。


「では、トイレ清掃と灰を室内に持ち込まない導線作りを」


「了解しました」


 災害対応は、華々しい救助だけではない。


 トイレ。

 導線。

 清掃。

 掲示。

 水の列。

 薬の確認。


 それらが崩れれば、避難所は壊れる。

 即応予備自衛官たちは、静かな崩壊を防ぐために動いていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時三十分。


 富士山の噴火活動は、なお続いていた。


 一部火口の勢いは変動し、噴煙高度も上下している。気象庁は終息を否定し、監視継続を呼びかけた。降灰は風向きにより地域差があり、首都圏では一時的に弱まった場所もあれば、新たに降り始めた場所もあった。


 T大学で、青見はデータを見続けていた。


 藤崎が、紙コップを置いた。


「先生、飲んでください」


「ありがとう」


「今度は、本当に飲んでください」


 青見は、紙コップを持ち上げた。


 冷めたコーヒーだった。


「まずいな」


「何時間も前のです」


「だろうな」


 藤崎は少しだけ笑った。


 その笑いは、数日ぶりのものだった。


 青見は言った。


「笑えるなら、まだ大丈夫だ」


「先生は」


「私は、もう少し怪しい」


「休んでください」


「データを見てから」


「それ、ずっと言ってます」


 青見は、画面の富士山を見た。


「火山は、こちらの都合で休まない」


「人間は休まないと見誤ります」


 藤崎の言葉に、青見は黙った。


 正しい。


 正しい言葉は、ときに若い者から来る。


「三十分だけ寝る」


「一時間です」


「三十分」


「では四十五分」


 どこかで聞いたようなやり取りだった。


 青見は苦笑した。


「官邸みたいだな」


 藤崎は真顔で言った。


「官邸も休んでほしいです」


 青見は頷いた。


「そうだな」


 人間が見るから、科学は社会に届く。


 人間が壊れれば、データは意味を失う。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 官邸では、長期対応のための「複合災害統合本部」への再編が決定された。


 南海トラフ巨大地震対応本部、相模トラフ・首都直下地震対応本部、富士山噴火対応、南西諸島安全保障対応。これらを個別に動かしながら、資源配分、情報発信、財政、海外支援、自治体支援を統合する。


 高嶺は、会議で言った。


「災害は分かれていても、国民の生活は分かれていません。水、食料、医療、通信、道路、港、空港、人員、財源。全てつながっています。縦割りで奪い合う段階ではありません」


 羽鳥が頷いた。


「統合調整班を拡大します」


 小森が言った。


『自衛隊も、統合運用をさらに強めます。現職、即応予備、予備自衛官の長期ローテーションを組みます』


 片倉が続ける。


『財政措置も統合本部と連動させます。自治体が申請書類で止まらないよう、概算払いを前提にします』


 橘が言った。


「国民向けには、長期対応への移行を説明します」


 高嶺は、静かに言った。


「移行ではなく、拡張です。救助をやめるのではない。生活支援を足す。復旧を始める。降灰を除く。南西を守る。全部やる」


 会議室の誰かが、小さく息を吐いた。


 全部やる。


 その言葉は無謀にも聞こえる。


 だが、政府が「どれかを捨てる」と言うことはできなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時。


 高知の避難所で、森下は夜の配食を手伝っていた。


 温かい汁物が届いた。


 それだけで、避難所の空気が少し変わった。紙椀から湯気が上がる。味は薄い。量も多くない。それでも、温かいものが喉を通るというだけで、人の目に少し光が戻る。


 井ノ口が、椀を持って言った。


「自衛隊さんも食べたか」


「後で」


「今食べ」


「配ってから」


「それ、いかんやつやろ」


 森下は、言葉に詰まった。


 井ノ口は、椀をもう一つ持ってきた。


「ここで食べ。見よっちゃる」


 森下は、少し困った顔をした。


「自分、勤務中です」


「食うのも勤務やろ」


 以前、班長に言われた言葉と同じだった。


 森下は、椀を受け取った。


「いただきます」


 汁はぬるかった。


 だが、温かかった。


 喉を通る。


 生きている味がした。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十時。


 八月二十二日夜の政府声明が出された。



  ――――

  政府夜間声明

  複合災害は長期対応へ

  救助・生活支援・降灰対策を継続

  南西諸島警戒を維持

  ――――



『南海トラフ巨大地震、相模トラフ・首都直下地震、富士山噴火への対応は、長期化します。政府は、救助を継続しながら、避難生活支援、医療、衛生、降灰対策、物流、通信、電力、水道、地域経済の支援を進めます』


 高嶺紗枝は、カメラを見た。


『現場では、現職自衛官、即応予備自衛官、予備自衛官、警察、消防、海上保安庁、自治体職員、医療関係者、民間事業者、海外支援の方々が、長時間にわたり任務を続けています。どうか、救助者と支援者の休息にも理解をお願いします。続けるためには、休むことが必要です』


 そして南西諸島について。


『中国艦艇の一部に距離を取る動きが見られますが、政府は警戒を継続します。国際支援は、正式な手続きに基づき受け入れます。無許可の進入は認めません。沖縄県民、南西諸島の住民の安全を守ります』


 最後に、彼女は少しだけ声を柔らかくした。


『今夜も、不安な夜です。ですが、各地で支援の手が届き始めています。温かい食事が届いた避難所があります。水が届いた集落があります。病院へ搬送された方がいます。救出された方がいます。灰の中で道を開いている人がいます。門を守っている人がいます。海で線を守っている人がいます。どうか、明日へ命をつないでください』


 その言葉は、各地へ届いた。


 届かない場所もあった。


 だが、届いた場所では、誰かが少しだけ顔を上げた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月二十三日、午前零時。


 四十八時間が終わった。


 富士山は、なお噴火を続けていた。勢いは変動しているが、終息とは言えない。降灰は首都圏と東海、山梨、神奈川に生活の制約を与え続けている。


 南海トラフ被災地では、救助と生活支援が同時に進んでいた。相模トラフ被災地では、初動救助から復旧の入口へ進みつつあった。だが、行方不明者の捜索は続いている。


 南西諸島では、中国艦艇群の一部が距離を取ったものの、完全な撤退ではない。日本側は警戒を維持していた。


 駐屯地では、坂井予備曹長が、次の警衛班へ引き継ぎを行っていた。


「確認を飛ばすな。人を雑に扱うな。門は守れ」


 横浜港では、神崎二佐が翌朝の捜索計画を確認していた。


「灰が薄いうちに、東側区画を開ける」


 富士山麓では、柳沢が三十分の休息に入り、目を閉じた。


 高知では、森下が温かい汁を飲み終え、椀を置いた。


 宮崎では、若い三曹が水を配り終え、自分も一口飲んだ。


 南西の海では、巡視船がなお灯を見ていた。


 官邸では、高嶺紗枝が時計を見た。


 午前零時。


 新しい日。


 終わらない災害の、新しい区切り。


 羽鳥が言った。


「総理、次の報告まで十五分あります」


 高嶺は、少しだけ考えた。


「では、十分休みます」


 羽鳥は、驚いたように見た。


「本当に?」


「本当に」


 高嶺は椅子に座った。


 目を閉じる。


 南海の海。


 相模の湾。


 富士の灰。


 南西の海。


 全てが瞼の裏に残っている。


 眠れるはずはなかった。


 だが、目を閉じることはできた。


 その十分も、任務だった。


 八月二十三日、午前零時。


 日本はまだ、折れていなかった。


 折れたまま、支え合っていた。


 そして、長い復旧と防衛と生活再建の入口に、ようやく立ち始めていた。


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