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第十三話 灰が降りやむ前に

八月二十三日、午前零時。


 富士山は、まだ噴いていた。


 噴火開始から五日目に入った山は、夜の中で赤黒く脈打っていた。山腹に開いた火口列の一部では、噴出の勢いが弱まったように見える瞬間があった。だが、別の裂け目からは、なお火山灰と火山礫が吹き上がり、噴煙は暗い空に太い柱を立てていた。


 富士樹海の火災は、全域が燃えているわけではなかった。だが、火砕流が通った区域、噴石が落ちた区域、熱を帯びた火山灰が積もった区域では、木々が黒く焼け、地面が焦げ、夜明け前の風の中に煙が低く漂っていた。自衛隊富士演習場の一部も、もはや訓練のための土地ではなく、灰と焼け跡と噴石の荒野になっていた。


 首都圏では、灰が都市の形を変えていた。


 東京の道路には、火山灰が灰色の膜のように積もっている。車のタイヤは音を変え、路面は乾けば舞い、湿れば滑った。相模トラフ・首都直下地震で傷んだ湾岸部では、液状化の泥と火山灰が混じり、排水溝を詰まらせ、救急車両と物資輸送車両の進行を遅らせていた。羽田空港はなお制限が続き、鉄道各社は線路、架線、ポイント、車両機器への灰の影響を確認していた。


 南海トラフ巨大地震の被災地では、救助の声が少しずつ生活支援の声に変わっていた。


「誰かいますか!」


 その声はまだ消えていない。


 だが、その隣で、


「水を配ります」


「薬のある方はこちらへ」


「仮設トイレの順番を守ってください」


「体調の悪い方は申告してください」


 という声が増えていた。


 生き残った人々が、生き続けるための時間に入っていた。


 相模トラフの被災地でも同じだった。横浜港、川崎、東京湾岸、浦安、船橋、千葉、木更津、鎌倉、小田原、熱海、南房総。津波、液状化、火災、倒壊、帰宅困難者、そして灰。被災の種類が重なりすぎて、どこから手をつければよいのか分からない場所が増えていた。


 南西諸島では、中国艦艇群の一部が距離を取り始めたとはいえ、完全撤退には至っていなかった。日本側の制止線は維持され、海上保安庁と海上自衛隊、航空自衛隊、陸上自衛隊、在日米軍との連携は続いていた。


 八月二十三日。


 日本は、爆発の瞬間ではなく、続く災害の重さと向き合い始めていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前零時四十分。


 官邸危機管理センター。


 高嶺紗枝(たかみねさえ)首相は、十分の休息から戻ったばかりだった。眠れたわけではない。目を閉じ、椅子に体を預け、呼吸を整えただけだった。それでも、戻った時、彼女の声はわずかに低く安定していた。


 羽鳥真紀(はとりまき)危機管理監が報告を始めた。


「富士山噴火は継続。ただし、火口列ごとに噴出量の変動があります。気象庁は終息判断には至っていません。降灰は東京都区部、神奈川県、千葉県北西部、静岡県東部、山梨県南部で継続。局地的に灰の厚みが増えています」


 小森進一(こもりしんいち)防衛大臣が、防衛省から回線で続けた。


『富士山麓の現職部隊、即応予備自衛官による避難所支援、除灰支援、物資搬送は継続中。火砕流危険区域への進入は禁止。自衛隊富士演習場周辺の人員確認は完了方向ですが、一部施設被害は大きい』


 高嶺は頷いた。


「南海、相模は」


 羽鳥が資料をめくる。


「南海トラフ被災地では、孤立地域の解消が一部進んでいます。ただし、避難所の衛生、感染症、医療継続、遺体安置、家族照会が深刻化。相模トラフ被災地では、横浜港、東京湾岸、川崎、浦安、千葉方面で除灰と液状化対応が重なっています。救助継続地域もあります」


 高嶺は、画面の南西諸島を見た。


「中国艦艇」


 外務省担当者が答えた。


「主力の一部は距離を取っています。しかし、一部艦艇は沖縄周辺外側の海域に留まっています。中国側は支援意思を維持すると述べつつ、日本政府指定の手続きに関する協議へ応じる可能性を示しています。ただし、完全な人員名簿、物資リスト、非武装確認はまだ提示されていません」


 高嶺は短く言った。


「警戒継続。窓口は開ける。線は下げない」


「はい」


 片倉皐月(かたくらさつき)財務大臣が、画面越しに言った。


『複合災害特別財政措置の骨子を、夜明けまでに閣僚へ回します。地方自治体への概算払い、医療機関、除灰、上下水道、電力、通信、農業、漁業、港湾、空港、被災者生活再建、予備自衛官と即応予備自衛官の補償を含めます』


 高嶺は、わずかに表情を緩めた。


「予備自衛官の補償を入れたのですね」


『当然です。彼らにも職場と家族があります。国が呼んだ以上、国が支えます』


「ありがとうございます」


 片倉は、少しだけ疲れた笑みを見せた。


『総理。数字にも、人の顔があります』


 高嶺は頷いた。


 この内閣は、限界の中で少しずつ変わっていた。


 災害に押されて、政治家が人間の顔を取り戻していく。


 その皮肉を感じる余裕は、まだなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前二時。


 富士山麓の避難所。


 柳沢は、灰の中で交代勤務に入っていた。噴火開始から何度目の交代か、もう正確には数えていない。マスク、ゴーグル、ヘルメット、手袋。装備をつけるだけで疲れる。だが、つけなければ灰を吸い、目を痛め、手を切る。


 避難所の中では、咳をする人が増えていた。医療班は呼吸器症状のある人を優先して見ている。酸素が必要な人、吸入薬が必要な人、高齢者、乳幼児。水も必要だが、水は灰を流すために使えない。飲むため、洗うため、医療のため、最低限に分ける必要があった。


 柳沢は、避難者名簿を持って巡回していた。


「体調の悪い方はいますか。咳が強い方、息苦しい方、目の痛みが強い方は申し出てください」


 昨日の男の子が、母親の横で眠っていた。マスクが少しずれている。柳沢は膝をつき、そっと直そうとして、手を止めた。


 母親が気づいた。


「すみません」


「いえ。苦しそうなら、少し位置を調整してください」


 母親は、子どもの頬を撫でた。


「この子、あなたのことを自衛隊のお兄ちゃんって言ってます」


「おじさんなんですけどね」


「昨日、交代が大事って言ってから、何度もそれを言ってます。お母さんも交代して寝て、って」


 柳沢は、少しだけ目を細めた。


「いい子ですね」


「怖いはずなのに」


「怖いと思います」


 柳沢は、外の暗い空を見た。


「大人も怖いです」


 母親は、静かに頷いた。


「怖いって言っていいんですね」


「はい。怖くても、ここにいればいいです。こちらで守ります」


 言い切った後、柳沢は胸の奥が少し重くなった。


 守ります。


 その言葉は重い。


 だが、今は必要だった。


 人は、誰かがそう言わなければ、眠ることもできない夜がある。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前三時三十分。


 南西諸島周辺海域。


 海上保安庁の巡視船では、夜間監視が続いていた。中国艦艇の主力は距離を取ったが、一部艦艇はなお外側に残り、位置を変えながら日本側の反応を探っているように見えた。


 船長は、疲れの滲む声で言った。


「相手が下がったように見えても、気を抜くな」


 若い海上保安官が頷いた。


「はい」


「一番危ないのは、終わったと思った時だ」


 その言葉は、地震にも、噴火にも、外交にも当てはまった。


 通信が入る。


『こちら航空監視。中国艦艇甲板上、ヘリ動きなし。小型艇展開なし。進路、南西方向へ微速』


 船長は短く答えた。


「了解。警戒継続」


 若い海上保安官は、暗い海を見た。


 彼は、富士山の灰を浴びてはいない。南海の津波も見ていない。相模の倒壊現場にもいない。だが、彼の前にも国民の生活があった。


 沖縄の港。


 島の燃料。


 医療物資。


 住民の不安。


 支援を名乗る艦艇を無秩序に入れれば、それらが別の危険にさらされる。


 海で線を守ることも、避難所で水を配ることと同じく、人を守る仕事だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前五時。


 高知県黒潮町。


 夜明け前の避難所で、森下三曹は外へ出た。空気は湿っていた。ここには富士山の灰は届いていない。だが、ニュースで見る東京の灰色の空が頭から離れなかった。


 井ノ口が、同じように外へ出てきた。


「眠れんか」


「少し寝ました」


「自衛隊さんの少しは、信用ならん」


 森下は苦笑した。


「本当に少しです」


「それも信用ならん」


 二人は、しばらく黙って夜明け前の暗さを見ていた。


 井ノ口が言った。


「ここも大変やけど、東京も富士山も沖縄も大変で、なんか、言葉がないな」


「はい」


「うちらは忘れられてないかって、つい思う。でも、そっちも地獄みたいで、そんなこと思う自分も嫌になる」


 森下は、静かに答えた。


「そう思ってもいいと思います」


「えいがか」


「被災している人が、自分たちを見てほしいと思うのは当然です」


 井ノ口は、森下を見た。


「お前さん、若いのに変なこと言うな」


「自分も、ここのことを忘れられたくないです」


 森下は、自分で言ってから、その本音に気づいた。


 南海トラフ被災地で泥の中を歩いてきた。津波に呑まれた町を見た。救えなかった場所に頭を下げた。七十二時間を過ぎても呼び続けた。


 だから、ここが「最初の災害」として過去にされることが怖かった。


 井ノ口は、深く息を吐いた。


「じゃあ、忘れられんように、生きちょかんとな」


 森下は頷いた。


「はい」


 生きて声を出すこと。


 それも、被災地の任務になっていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前七時。


 官邸の朝会見。


 高嶺紗枝は、噴火五日目の政府方針を発表した。



  ――――

  政府朝方針

  富士山噴火五日目

  降灰下の生活維持を最優先

  南海・相模・南西支援を継続

  ――――



『富士山の噴火は、五日目に入っています。噴火活動には変動がありますが、現時点で終息と判断できる段階ではありません。降灰地域の皆様は、引き続き外出を控え、火山灰を吸い込まないよう注意してください。火山灰を水で流さず、自治体の指示に従って除去してください』


 高嶺は、原稿から目を上げた。


『南海トラフ巨大地震の被災地では、救助と避難生活支援を継続しています。相模トラフ・首都直下地震の被災地では、救助、火災対応、液状化対策、降灰対策を同時に進めています。被災地が増えても、政府はどの地域も忘れません』


 その言葉は、意図して入れたものだった。


 高知、宮崎、和歌山、徳島、静岡。最初に壊れた地域へ向けて。


『南西諸島周辺では、警戒を継続しています。国際支援は正式な手続きに基づき受け入れます。無許可の港湾進入、上陸、航空機の接近は認めません。沖縄、南西諸島への物資、燃料、医療、通信支援も継続します』


 記者が質問した。


「総理、富士山噴火が五日目に入り、首都圏の経済活動は大きく制限されています。経済再開の見通しは」


『安全確認と降灰対策を進めながら、段階的に再開します。ただし、火山灰は交通、電力、通信、医療に影響します。急いで再開して二次被害を出すことは避けなければなりません』


「南海トラフ被災地から、首都圏や富士山対応で支援が薄くなるのではないかという不安が出ています」


 高嶺は、まっすぐ答えた。


『その不安は当然です。だからこそ、政府は地域別の支援状況を毎日公表します。南海トラフ被災地への水、食料、医療、衛生、仮設トイレ、入浴支援、道路啓開は継続しています。忘れていません』


 忘れていません。


 その言葉は、短く、だが重かった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前九時。


 首都圏の降灰対応は、さらに細かい生活問題へ広がっていた。


 火山灰で滑りやすくなった歩道。


 灰を吸い込むエアコン室外機。


 動かせない車。


 詰まり始めた雨どい。


 灰を室内へ持ち込まないための玄関対応。


 学校再開の見通し。


 保育所の換気。


 高齢者施設の空調フィルター。


 透析患者の搬送。


 ひとつひとつは小さい。


 しかし、都市全体では巨大な負荷だった。


 江東区の避難所では、即応予備自衛官と自治体職員が「灰持ち込み防止動線」を作っていた。入口にブルーシートを敷き、靴底の灰を落とす場所を作り、濡らした布で拭き取る。灰を水で流せないため、汚れた布は袋へ入れる。


 自治体職員が言った。


「こんな細かいことまで、すみません」


 即応予備自衛官が答えた。


「細かいことが崩れると、避難所が持ちません」


「本当に、その通りです」


 その横で、子どもが灰のついた靴で走り込もうとした。


「待って!」


 職員が止める。


 子どもは驚いて泣きそうになる。


 即応予備自衛官がしゃがんだ。


「ここで靴をトントンしてから入ろう。灰が中に入ると、みんな咳が出ちゃうんだ」


 子どもは頷き、靴を小さく叩いた。


 避難所を守るとは、そういうことだった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午前十一時。


 駐屯地の物資集積所では、予備自衛官たちが新しい問題に直面していた。


 物資は届く。


 だが、分類が追いつかない。


 南海向け、相模向け、富士山麓向け、首都圏降灰向け、沖縄・南西諸島向け。水はどこでも必要。マスクもどこでも必要。発電機も、燃料も、医薬品も、簡易トイレも、衛星通信機も、全て足りない。


 坂井予備陸曹長は、ホワイトボードに優先順位を書いていた。


 医療機関。


 孤立地域。


 呼吸器疾患避難者。


 乳幼児・高齢者施設。


 救助活動拠点。


 南西諸島燃料・通信。


 若い予備自衛官が言った。


「全部最優先に見えます」


 坂井は答えた。


「そうだ」


「じゃあ、どうやって」


「命に直結する順。時間で劣化する順。代替手段がない順」


「難しいです」


「難しい。だから記録を残す」


 坂井は、伝票を指差した。


「なぜそこへ送ったのか。なぜ送れなかったのか。記録がなければ、次に直せない。救えなかった時にも、向き合えない」


 若い隊員は、黙って頷いた。


 後方にも、選択の痛みがあった。


 水の箱ひとつをどこへ送るか。


 それが、命の順番に見えてしまうことがあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 正午。


 富士山の噴火活動に、一時的な低下が見られた。


 火口列の一部で噴出の勢いが弱まり、噴煙高度もやや下がった。だが、火山性微動は続き、別の火口ではなお赤い光が確認されている。気象庁は慎重だった。



  ――――

  火山情報

  富士山の噴火継続

  一部活動に変動

  終息と判断せず

  警戒継続

  ――――



 T大学で、青見怜一(あおみれいいち)は文面を見て頷いた。


「これでいい」


 藤崎が言った。


「弱まった、と言わないんですね」


「言えば、戻る人が出る」


「でも、弱まってはいる」


「一部はな。火山全体が終わったわけではない」


 青見は、目の下を指で押さえた。


 彼は四十五分の仮眠を取ったが、疲労は抜けていない。それでも、頭の芯は少し戻っていた。


「藤崎、火口列ごとの活動推移を整理して官邸へ」


「はい」


「降灰予測は、気象条件の更新ごとに変わる。固定した印象を持たせるな」


「了解です」


 藤崎が作業へ戻る。


 青見は、窓の外を見た。


 東京の空は、灰で白く霞んでいた。


 地質学の時間で見れば、噴火は自然の一部だ。


 だが、人間の時間では、それは生活を奪う暴力だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後二時。


 南西諸島周辺で、中国側から新たな提案が入った。


 中国政府は、軍艦による直接上陸ではなく、第三国機関を介した支援物資の引き渡しを協議する用意があると伝えてきた。ただし、救援隊の一部については沖縄での活動を求め続けている。


 外務省担当者が官邸で報告した。


「中国側が一部譲歩した形です。ただし、救援隊の入域については、なお軍関係者を含む可能性があります」


 高嶺は言った。


「物資は、第三国機関または日本政府指定拠点で受け取る余地があります。救援隊は、人員名簿、資格、非武装、任務範囲、政府管理下の活動が条件です」


 小森が頷く。


『軍関係者が含まれる場合、活動範囲は極めて限定すべきです』


「当然です」


 橘が言った。


「国内向けには、支援を拒否していないことを明確にできます」


「はい。ただし、中国側の譲歩を大きく報じすぎない。現場の警戒は継続」


 高嶺は、少しだけ息を吐いた。


 危機は、力で押し返すだけでは終わらない。


 出口を用意しなければ、相手は下がれないことがある。


 だが、出口を用意することと、線を譲ることは違う。


 その違いを、政府は慎重に歩いていた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後四時。


 宮崎県日南市。


 南海トラフ被災地の避難所では、入浴支援が続いていた。若い三曹は、避難者の誘導を終えた後、成瀬一尉に呼ばれた。


「三曹」


「はい」


「次の交代で、お前も入れ」


 三曹は、一瞬、意味が分からなかった。


「入浴ですか」


「そうだ」


「自分はまだ」


「まだ、は聞かない」


 三曹は口を閉じた。


 成瀬は、少し声を柔らかくした。


「お前が清潔を保つことも任務だ。体を洗え。飯を食え。水を飲め。寝ろ。戻るために」


 三曹は、黙って頷いた。


「はい」


「津波の音は」


 三曹は、少しだけ目を伏せた。


「まだあります。でも、前より遠いです」


「そうか」


「水は、飲めます」


「よし」


 三曹は、迷った後で言った。


「一尉は」


「俺も次で入る」


 三曹は、疑うような顔をした。


 成瀬は眉を上げた。


「何だ」


「本当にですか」


「本当だ」


「見ています」


「お前までそれを言うのか」


 三曹は、ほんの少し笑った。


 成瀬も、わずかに笑った。


 その小さな笑いは、避難所の喧騒の中ですぐに消えた。


 だが、確かにそこにあった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後六時。


 政府は、富士山噴火の「終息前段階ではないが、活動変動あり」とする慎重な解説を出した。



  ――――

  政府・気象庁解説

  富士山の活動に変動

  噴火は継続

  危険区域へ戻らないでください

  ――――



 避難者の中には、戻りたいと訴える人が増えていた。


 家畜がいる。


 薬がある。


 位牌を置いてきた。


 貴重品を取りたい。


 家が心配だ。


 気持ちは当然だった。だが、危険区域には戻れない。


 富士山麓の避難所で、柳沢は、戻りたいと訴える男性の話を聞いていた。


「五分でいい。家の様子だけ見たい」


「今は危険区域です」


「噴火、弱まってるってニュースで」


「終わったわけではありません」


「でも、家が」


 柳沢は、言葉を選んだ。


「住所を記録します。確認可能になれば、自治体と確認班が入ります。今戻れば、あなた自身が救助対象になります」


 男性は、拳を握った。


「分かってるよ。でも、分かってても行きたいんだよ」


「はい」


 柳沢は、その言葉を否定しなかった。


「行きたい気持ちは、記録できません。でも、住所は記録できます。つなぎます」


 男性は、しばらく黙ってから、住所を言った。


 柳沢は、丁寧に書いた。


 救えない感情もある。


 だが、次の行動へつなぐことはできる。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後八時。


 南西諸島周辺では、中国艦艇群のさらに一部が後退した。


 海上保安庁と海上自衛隊は警戒を緩めなかったが、無許可上陸の危険は前日より低下していた。外交ルートでは、支援物資の第三国経由引き渡し案が議論され始めた。


 巡視船の船長は、若い海上保安官に言った。


「まだ終わりじゃない」


「はい」


「でも、今夜は少し距離がある」


「少し、ですか」


「少しで十分な時もある」


 若い海上保安官は、暗い海を見た。


 距離。


 災害でも、安全保障でも、その少しの距離が命を守ることがある。


 津波からの高さ。


 火砕流からの距離。


 灰を吸わないためのマスク一枚。


 艦艇同士の距離。


 人が生き残るためには、わずかな余白が必要だった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後九時三十分。


 官邸では、八月二十三日夜の総括会議が開かれた。


 羽鳥が報告する。


「富士山噴火は継続。ただし一部活動に変動。警戒継続。降灰対策は首都圏、東海、山梨、神奈川、千葉で継続」


「南海トラフ被災地では、避難生活支援、医療、衛生、孤立解消。相模トラフ被災地では、救助、除灰、港湾復旧、帰宅困難者支援。南西諸島では、中国艦艇の一部後退、警戒継続」


 小森が続ける。


『自衛隊は、長期ローテーションへ移行中です。現職部隊の一部を休ませ、即応予備自衛官で支援業務を補完。予備自衛官による駐屯地警衛と後方維持は継続。疲労管理を強化します』


 高嶺は言った。


「予備自衛官の職場補償、家族支援、心理支援を早く具体化してください」


 片倉が答える。


『財政措置に入れています。明日、骨子を発表します』


 橘が言った。


「政治情勢ですが、中国艦艇の後退で政府対応への支持が広がっています。一方で、災害対応の遅れ、降灰対策、南海被災地支援不足への批判も強まっています」


 高嶺は頷いた。


「批判は必要です。現場を邪魔しない形で受けます。改善できるものは改善してください」


 羽鳥が、少しだけ表情を緩めた。


「はい」


 高嶺は、四つの地図を見た。


 赤い印はまだ多い。


 だが、線は少し整理され始めていた。


 混乱の中に、かすかな秩序が戻り始めている。


 その秩序を、明日へつながなければならなかった。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 午後十一時二十三分。


 富士山噴火開始から、ちょうど五日。


 気象庁の観測画面で、山腹火口列の主要な噴出が急激に低下した。噴煙はなお残り、火山性微動も完全には消えていない。火口周辺には高温域があり、二次的な噴出や火山ガス、火砕流堆積物の再移動、降雨時の泥流の危険もある。


 だが、五日間続いた大規模な噴出は、明らかに勢いを落としていた。


 気象庁は、即座に終息とは言わなかった。



  ――――

  火山情報

  富士山の噴火活動が低下

  終息とは判断せず

  危険区域への立入禁止継続

  降灰・泥流に警戒

  ――――



 T大学で、藤崎が息を呑んだ。


「先生、落ちました」


 青見は、画面を見つめた。


「そうだな」


「終わったんですか」


「終わったとは言わない」


「でも」


「大規模噴出は低下した。だが、火山は終わった後も危ない。灰、泥流、ガス、再噴火、火口周辺の崩壊」


 藤崎は頷いた。


 それでも、目に涙が浮かんでいた。


「少し、よかったと思っていいですか」


 青見は、長い沈黙の後で言った。


「少しなら」


 藤崎は、静かに息を吐いた。


 官邸にも、同じ報告が届いた。


 羽鳥が読み上げる。


「富士山の主要噴出活動が午後十一時二十三分頃から急激に低下。ただし、気象庁は終息とは判断せず。警戒継続」


 会議室に、張り詰めていた空気が少しだけ揺れた。


 高嶺紗枝は、すぐには言わなかった。


 喜ぶには早い。


 だが、五日間噴き続けた山が、初めて明確に息を弱めた。


 彼女は、小さく頷いた。


「国民向けには、活動低下。ただし危険は継続。絶対に戻らない。降灰と泥流に警戒。これで」


 橘が頷く。


「はい」


 小森が言った。


『現地部隊にも、警戒を緩めないよう伝えます』


「お願いします」


 片倉が、画面の向こうで目を閉じた。


『少しだけ、息をしてもいいですか』


 高嶺は、静かに答えた。


「はい。少しだけ」


 その少しだけの息が、この五日間で初めて許されたように感じた。




  ☆☆☆ ☆☆☆




 八月二十四日、午前零時。


 富士山の大規模噴出は低下していた。


 だが、噴火災害は終わっていなかった。火口周辺の危険、降灰、泥流、火山ガス、山麓火災、道路、鉄道、空港、電力、通信、農業、医療。むしろ、本当の復旧はこれからだった。


 首都圏の空は、灰で白く霞んでいた。


 南海トラフ被災地では、避難所の夜が続いていた。


 相模トラフ被災地では、倒壊現場と港湾復旧が続いていた。


 南西諸島では、中国艦艇群が一部後退したものの、警戒は解かれていなかった。


 高知で、森下は避難所の隅で十分だけ目を閉じた。


 宮崎で、若い三曹は水を一口飲み、眠る高齢者に毛布をかけた。


 横浜で、神崎二佐は翌朝の捜索範囲を赤鉛筆で囲んだ。


 富士山麓で、柳沢は避難所の入口で灰を払う道具を並べ直した。


 駐屯地で、坂井予備陸曹長は正門勤務の引き継ぎを終えた。


 南西の海で、巡視船は距離を取った中国艦艇の灯をなお見ていた。


 官邸で、高嶺紗枝は時計を見た。


 午前零時。


 八月二十四日。


 彼女は、深く息を吸った。


 富士山の主要噴出は弱まった。


 だが、国はまだ、災害のただ中にある。


 高嶺は、羽鳥へ言った。


「明日から、マグマ噴出後の五日間が始まります」


「はい」


「空は灰に覆われたまま、交通も通信も、さらに乱れる。被災地の生活支援も本格化する。南西もまだ終わらない」


「はい」


 高嶺は、水を一口飲んだ。


 唇の傷は、まだ少し痛んだ。


 その痛みを感じながら、彼女は言った。


「次の報告を」


 羽鳥は頷いた。


「はい」


 八月二十四日、午前零時。


 日本は、ひとつの噴火の山場を越えた。


 だが、灰の時代が始まろうとしていた。


 それでも、各地で声は消えていなかった。


「水を配ります!」


「灰を吸わないで!」


「危険区域へ戻らないで!」


「物資車両、通します!」


「進路を監視継続!」


「点呼を取ります!」


「大丈夫、ここにいます!」


 折れたまま、立つ。


 それは、もはや比喩ではなかった。


 この国の、その日の姿そのものだった。


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