第十四話 灰の言葉
八月二十四日、午前零時。
富士山の大規模噴出は、明らかに勢いを落としていた。
だが、富士山噴火が終わったわけではなかった。山腹の火口列には赤い熱が残り、噴煙は細くなりながらも空へ上がり続けている。火口周辺の地面は高温で、火砕流が通った谷筋には、まだ人が近づけない。灰をかぶった樹海の一部からは、低い煙が上がり、自衛隊富士演習場の焼けた区域には、夜の闇の中でも白い灰が月明かりを鈍く返していた。
噴火の山場は越えつつある。
しかし、災害はそこから別の形で始まった。
灰である。
首都圏の空は、まだ白く霞んでいた。東京、神奈川、静岡、山梨、千葉。濃淡はあるが、都市の表面に火山灰が積もり、道路、線路、屋根、空調設備、送電設備、病院の吸気口、学校の校庭、避難所の入口に入り込んでいた。灰は、静かに都市の肺を塞ぐ。
相模トラフ・首都直下地震で壊れた東京湾岸部では、液状化の泥と火山灰が混ざり、排水を詰まらせ、路面を滑らせ、救急車の速度を落とした。横浜港、川崎港、東京港、千葉港、羽田空港。物流の心臓は、地震、津波、液状化、降灰の四重の損傷を受けていた。
南海トラフ巨大地震の被災地では、救助と生活支援が続いている。高知、宮崎、和歌山、徳島、静岡、愛知、三重。津波に壊された町は、すでに次の段階に入っていた。水。食料。薬。トイレ。入浴。遺体安置。家族照会。仮設住宅。感染症。心のケア。
災害は、一瞬で壊す。
だが、人が壊れていくのは、その後の長い時間の中だった。
そして、その長い時間へ、通信が戻り始めた。
スマートフォンが、再びつながり始めたのである。
圏外だった地域に、一本、二本と電波が戻る。避難所の隅で、誰かがスマートフォンを掲げる。
「つながった!」
その声に、周囲の人々が一斉に顔を上げる。
安否確認。
災害用伝言板。
家族へのメッセージ。
ニュース。
地図。
給水所情報。
避難所情報。
支援物資。
そして、SNS。
つながることは、救いだった。
だが、この国がつながり直した時、そこへ別の災害が流れ込んできた。
言葉の災害だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前一時。
官邸危機管理センター。
高嶺紗枝首相は、深夜の報告を受けていた。
羽鳥真紀危機管理監が、淡々と読み上げる。
「富士山の主要噴出活動は低下傾向。ただし噴火警戒は継続。降灰は首都圏、静岡、山梨、神奈川、千葉の一部で継続。道路除灰、病院フィルター、浄水場対策、鉄道施設点検、空港機能回復が課題です」
小森進一防衛大臣が続ける。
『自衛隊は、救助から生活支援、除灰、物資輸送、医療搬送、警戒監視へ任務比重を移しています。現職、即応予備、予備自衛官の長期ローテーションを再編中。富士山麓、首都圏、南海被災地、南西諸島警戒を同時に維持しています』
片倉皐月財務大臣が言った。
『複合災害特別財政措置の骨子は、朝に公表できます。被災自治体への概算払いを最優先にします』
高嶺は頷いた。
「お願いします」
その時、橘義隆官房長官が、別の資料を差し込んだ。
「総理、情報空間で異常な動きが出ています」
高嶺の目が動いた。
「どの種の」
「降灰に関する地域間対立です。東京と鹿児島を対立させる投稿が急増しています。鹿児島県民、特に桜島や霧島連山の降灰に長年向き合ってきた地域住民と、今回の富士山噴火で初めて大規模降灰を受けた首都圏住民を、意図的に対立させる内容です」
羽鳥が補足した。
「内閣サイバー・情報分析室によれば、発信の一部に不自然な同期、翻訳調の文体、過去の中国系情報工作ネットワークと類似する拡散パターンが見られます。国内にいる中国系工作関係者、または協力者が日本人を装って投稿している疑いがあります。ただし、在留中国人全体を指すものではありません」
高嶺は、すぐに言った。
「そこは厳密に。中国政府系の工作と、一般の中国人住民を混同させないでください」
橘は頷いた。
「はい」
画面に投稿例が映る。
《東京の人間は灰くらいで騒ぎすぎ。鹿児島は毎年耐えてるのに甘えるな》
《鹿児島県民は東京の苦しみを笑ってるらしい》
《桜島の灰と富士山の灰を一緒にするな。東京の被害を軽く見る地方民は最低》
《東京が止まると日本が止まる。鹿児島とは被害の意味が違う》
《鹿児島は灰に慣れてるんだから東京の除灰に来い》
《東京人が桜島を見下してたのを忘れるな》
《鹿児島県民は東京を助ける必要なし》
高嶺は、画面を見つめた。
言葉が、灰よりも細かく人の肺に入り込む。
災害で疲れ切った人々は、怒りを探す。怒りは、悲しみより扱いやすい。誰かを責めれば、自分の痛みに形ができる。
その弱い部分を、外から突かれている。
「目的は」
羽鳥が答えた。
「国内分断。政府対応への不信増幅。被災地間の支援感情の破壊。鹿児島・宮崎南部など火山灰常襲地域と、首都圏住民の対立誘導。中国艦艇問題で後退した分、情報空間での揺さぶりに移った可能性があります」
高嶺は、短く息を吐いた。
「灰が薄くなったら、今度は言葉で曇らせるのですね」
会議室は沈黙した。
高嶺は続けた。
「対策を。削除要請だけでは足りません。公式情報、地域間連帯、鹿児島県・東京都・静岡県・山梨県・神奈川県・千葉県の共同発信。火山灰を経験した地域から、首都圏へ知見を共有する形にしてください。対立ではなく、知識の橋をかける」
橘が書き留める。
「はい」
高嶺は、さらに言った。
「そして、国民へ言います。怒りを向ける相手を間違えないでほしい、と」
その声は、疲れていた。
だが、強かった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前二時三十分。
鹿児島市。
桜島は、いつものようにそこにあった。
大災害の中心から遠いようでいて、鹿児島の人々は火山灰のニュースを他人事には見られなかった。灰を吸う苦しさ。洗濯物を外へ干せない不便。車のフロントガラスに積もる細かな粒。雨の日に泥になる灰。側溝が詰まる厄介さ。農作物への影響。機械の故障。子どもの目と喉。
それを、鹿児島は知っていた。
だから、最初は助けようとする投稿が多かった。
《東京の人、灰は水で流したら詰まります。袋に集めてください》
《コンタクトより眼鏡がいいです。目をこすらないで》
《車はできるだけ動かさない方がいい。フィルターやられます》
《灰が降った後の雨は本当に滑るから気をつけて》
《鹿児島から言う。火山灰は慣れててもきつい。東京の人も無理しないで》
だが、その流れの間に、別の言葉が差し込まれた。
《鹿児島は毎年これなんだけど? 東京だけ被害者ぶるな》
《東京人、今まで桜島の灰をネタにしてたよね?》
《首都圏様は灰が降っただけで全国に助けろって?》
《鹿児島県民は東京に除灰を教える義理なし》
最初は、誰かが怒っただけに見えた。
しかし、同じような文言が、複数のアカウントから、少しずつ言い回しを変えて流れた。プロフィールは日本人風。鹿児島在住と書いている者もいれば、東京在住を名乗る者もいる。過去の投稿は少なく、急に災害関連だけを連投しているものも多かった。
鹿児島市内の避難支援ボランティア団体で、若い職員がスマートフォンを見て眉をひそめた。
「何か、おかしくないですか」
年配の職員が尋ねる。
「何が」
「最初は東京の人に灰対策を教えようって流れだったのに、急に喧嘩を煽る投稿が増えています」
年配の職員は画面を見た。
「これは、鹿児島の人間の言い方じゃないな」
「ですよね」
「それに、桜島の灰を知ってるなら、東京を笑えん。きついのを知ってるからな」
若い職員は頷いた。
「止める投稿、出しますか」
「出そう。東京を責めるんじゃなく、知っていることを渡す。そういう言い方で」
数分後、団体の公式アカウントが投稿した。
《鹿児島は火山灰の大変さを知っています。だからこそ、富士山の降灰で困っている地域を笑いません。灰は水で流さず、マスクと眼鏡を使い、無理な外出を避けてください。経験を分け合いましょう。》
その投稿は、静かに広がり始めた。
だが、同時に挑発も増えた。
《いい子ぶるな。鹿児島は東京に馬鹿にされてきただろ》
《東京に媚びる鹿児島県民》
《火山灰の先輩面して気持ち悪い》
止めようとする者へ、矛先が向いた。
認知戦は、仲裁者を攻撃する。
分断を止める人間を黙らせるために。
☆☆☆ ☆☆☆
午前四時。
東京湾岸の避難所。
スマートフォンがつながり始めたことで、避難者の多くがSNSを見始めていた。家族の安否を確認するために開いた画面に、怒りの投稿が流れ込んでくる。
「鹿児島の人が東京を笑ってるって本当?」
「違うでしょう。そんな人ばかりじゃない」
「でも、こう書いてる」
「それ、誰の投稿?」
「分からないけど、拡散されてる」
避難所の空気が微妙に変わった。
ただでさえ、東京の人々は疲れていた。相模トラフ地震で揺れ、津波で逃げ、液状化で家に戻れず、富士山の灰で息苦しい。そこへ「東京は甘えている」という言葉が刺さる。
若い男性が苛立った声で言った。
「鹿児島は慣れてるんだろ。じゃあ助けに来ればいいじゃん」
隣の女性が、すぐに言った。
「そういう言い方はやめよう」
「だって向こうが言ってるんだろ」
「向こうって誰? 本当に鹿児島の人なの?」
「知らないけど」
「知らないなら、乗らない方がいい」
その女性の言葉に、別の男が割り込んだ。
「出たよ、綺麗事。東京が苦しんでる時だけ我慢しろって?」
女性は言葉に詰まった。
その男は、避難所の住民ではなかった。数時間前に入ってきた人物で、東京在住を名乗っていた。身分確認はされていたが、言葉の端々に不自然なものがあった。わざと大きな声で、周囲の怒りを拾っているようだった。
自治体職員が近づいた。
「避難所内での対立を煽る発言は控えてください」
男は笑った。
「対立? 言論統制ですか?」
「違います。ここは避難所です。体調の悪い方もいます」
「東京が馬鹿にされてるのに黙れってこと?」
周囲の一部がざわついた。
即応予備自衛官の支援班長が、静かに間に入った。
「ここでは、誰かを地域で責める話はしません。必要な情報は掲示します。火山灰対策、給水、医療、安否確認。そちらを優先します」
男は、班長の胸元を見た。
「自衛隊まで言論統制か」
班長は表情を変えなかった。
「避難所の安全管理です」
男は舌打ちした。
だが、その様子をスマートフォンで撮っている者がいた。
数分後、切り取られた動画が投稿された。
《避難所で東京被災者が鹿児島批判をしただけで自衛隊が圧力》
事実とは違う。
だが、映像は言葉より速く流れた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前六時。
内閣サイバー・情報分析室。
壁一面の画面に、SNSの拡散状況が表示されていた。火山灰関連の投稿。鹿児島。東京。桜島。富士山。甘えるな。馬鹿にするな。地方差別。首都優遇。言論統制。自衛隊圧力。
分析官の一人が言った。
「鹿児島対東京の対立軸が、急激に伸びています」
別の分析官が答える。
「初動の中核アカウント群に不審点。日本語は自然ですが、投稿時間、相互拡散、過去の政治関連投稿の傾向が、中国系情報作戦で見られたネットワークと類似しています」
「国内協力者か、自動化か」
「両方の可能性。実在人物を装ったアカウントもあります。中には、日本国内から発信されているものも」
「在留中国人全体を疑うような発信は絶対に避ける必要があります」
「はい。対象は組織的工作関係者と協力アカウント。民族や国籍一般ではありません」
室長が、短く指示した。
「官邸へ。鹿児島県、東京都、総務省、警察庁、プラットフォーム各社と連携。削除要請、ラベル付け、公式情報の上位表示。加えて、対立を煽るのではなく、経験共有を広げるキャンペーンを提案」
分析官が頷く。
「鹿児島の火山灰経験を、首都圏支援に」
「そうだ。分断の逆を作る」
認知戦への対応は、相手を叩き潰すことだけではない。
割ろうとする線を、別の糸で縫い直すことだった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時三十分。
官邸朝会議。
高嶺紗枝は、情報分析室の報告を聞いていた。
橘官房長官が言う。
「降灰関連の地域間対立投稿が急増。鹿児島、東京を対立させる構図です。止めようとする投稿や経験共有の投稿に対し、日本人を装う不審アカウントが挑発を仕掛けています。それに乗ってしまう一般ユーザーも増えています」
高嶺は、目を細めた。
「現実の口論は」
警察庁担当者が答える。
「鹿児島市内、東京都内、神奈川県内の避難所周辺、物資配布所、一部街頭で口論が確認されています。暴力に至った例は限定的ですが、挑発的な動画撮影、切り取り投稿が増えています」
羽鳥が続ける。
「避難所運営にも影響が出始めています。東京の避難所で鹿児島出身者が肩身の狭い思いをしている例、逆に鹿児島側で東京への支援発信をした人が攻撃される例があります」
高嶺の表情が硬くなった。
「最悪です。災害で弱った人同士を殴り合わせようとしている」
小森進一が画面越しに言った。
『自衛隊現場でも、避難所内の口論に巻き込まれる例が出ています。隊員には、政治的・地域的議論に加わらず、安全管理と情報掲示に徹するよう指示します』
「お願いします」
片倉皐月が言った。
『鹿児島県と東京都、静岡、山梨、神奈川、千葉をつないだ共同支援メッセージを出しましょう。火山灰は地域を選ばない。経験を共有する、と』
高嶺は頷いた。
「私からも言います。鹿児島は東京を笑っていない。東京は鹿児島を見下してはいけない。火山灰に苦しむ地域は、互いに学び合うべきだと」
橘が確認する。
「かなり踏み込んだ表現です」
「踏み込みます。曖昧な綺麗事では止まりません」
高嶺は、机の上の資料を閉じた。
「ただし、中国系住民への差別は絶対に許さない。工作を行う者と、普通に暮らす人々を混同してはならない。これも同時に言います」
羽鳥が頷いた。
「はい」
高嶺は、静かに言った。
「災害時に一番守らなければならないものは、人命です。そして次に、互いを人間として見る目線です。それが壊れたら、復旧はもっと遠くなる」
☆☆☆ ☆☆☆
午前九時。
鹿児島県庁、東京都庁、静岡県、山梨県、神奈川県、千葉県が、共同メッセージの調整に入った。
鹿児島県側の防災担当者は、疲れた顔で言った。
「鹿児島は灰を知っている。だから、困っている地域を笑うものではない。この一文は入れたい」
東京都側の担当者が答える。
「東京も、これまで火山灰常襲地域の苦労を十分に理解していなかった。その反省も入れます」
静岡県側が続ける。
「富士山周辺は、今も避難中です。東京と鹿児島だけの話にしないでください」
山梨県側が頷いた。
「山麓住民の避難も入れてほしい」
神奈川、千葉も同意した。
やがて、短い共同メッセージがまとまった。
《火山灰は、どの地域にとっても深刻な災害です。鹿児島をはじめ火山灰と向き合ってきた地域の知見を、富士山噴火で影響を受ける地域の安全に生かします。互いを責めるのではなく、経験を分け合い、命と生活を守りましょう。》
このメッセージは、各自治体の公式アカウントから同時に発信された。
多くの人が、それを共有した。
《これだよ。喧嘩してる場合じゃない》
《鹿児島県民だけど、灰は本当に大変。東京も無理しないで》
《東京在住です。桜島の灰、正直なめてました。教えてください》
《火山灰経験共有、ありがたい》
しかし、挑発もすぐに来た。
《自治体まで東京に媚びた》
《綺麗事。東京は地方を見下してきた》
《鹿児島県民の本音は違う》
《東京人は謝罪しろ》
《鹿児島は東京の下請けじゃない》
止める者。
煽る者。
煽りに怒る者。
怒った者を撮る者。
その映像を切り取る者。
収拾は、少しずつ難しくなっていった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十時三十分。
東京都内の物資配布所。
火山灰用マスクの配布列で、口論が起きた。
発端は、列に並んでいた男性のスマートフォンだった。画面に流れていた投稿を見て、彼が言った。
「鹿児島の人間は、東京が困ってるのを笑ってるんだってよ」
近くにいた鹿児島出身の女性が、驚いて振り向いた。
「そんなことありません」
「でも、SNSで見た」
「私の家族も鹿児島です。そんなこと言ってません」
そこへ、別の男が割り込んだ。
「鹿児島出身なら、東京に灰の片づけ教えろよ。慣れてるんだろ」
女性の顔が強張る。
「慣れてるから平気なわけではありません」
「じゃあ何で東京を馬鹿にするんだ」
「していません」
周囲がざわつき始めた。
物資配布を担当していた自治体職員が間に入る。
「地域に関する言い争いはやめてください。ここは配布所です」
すると、後ろからスマートフォンを向けていた若い男が声を上げた。
「言論統制ですか? 東京が馬鹿にされてるのに?」
その男は、先ほどから列の外に立ち、口論が起きる瞬間だけ撮影していた。日本語は自然だった。だが、周囲の感情を拾い、燃え上がらせるタイミングが妙に巧みだった。
警備に入っていた予備自衛官が、静かに前へ出た。
「撮影は控えてください。配布所の安全確保を優先します」
「自衛隊が撮影禁止? 何を隠してる?」
「個人が映っています。トラブルを拡大させないためです」
「都合が悪いんだろ」
若い男の言葉に、並んでいた別の男性が乗ってしまった。
「そうだよ。何で撮っちゃ駄目なんだ」
空気が一気に荒れた。
予備自衛官は、声を荒げなかった。
「皆さん、マスク配布を続けます。列を崩さないでください。体調の悪い方がいます」
だが、すでに一部の人々はスマートフォンを向けていた。
数分後、また切り取られた映像が流れた。
《東京の配布所で鹿児島擁護発言に怒号、自衛隊が撮影制限》
実際には、鹿児島出身の女性が誤解を解こうとしただけだった。
だが、ネット上では違う物語になった。
言葉は、現実より速く変形した。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
官邸。
高嶺紗枝は、緊急の情報対策会議を開いた。
橘が報告する。
「配布所、避難所、駅前、物資集積所での口論動画が拡散しています。鹿児島対東京、地方対首都、被災地間格差、自衛隊による言論統制、政府の情報隠しという複数の文脈に加工されています」
警察庁担当者が続ける。
「現場では、挑発的に撮影し、切り取り投稿する人物が複数確認されています。国籍や背後関係は捜査中ですが、一部は中国政府系情報ネットワークと接点のあるアカウントと連動しています。国内在住の中国人工作関係者、協力者、日本人協力者も含まれる可能性があります」
高嶺は言った。
「繰り返します。中国人全体への攻撃にしてはいけません」
「はい」
羽鳥が続けた。
「対策として、まず公式動画で、切り取り前後の状況を説明できるものは説明。自治体と共同で、配布所・避難所内での撮影ルール、個人情報保護、安全確保の基準を明示。さらに、火山灰対策の共同知見発信を強化します」
小森が言った。
『自衛隊には、挑発に乗らない、議論に加わらない、撮影制限は自治体職員や警察と連携して説明する、という指示を出します』
高嶺は頷いた。
「警察は、暴力や威力業務妨害には対応してください。ただし、単なる怒りを犯罪扱いしないこと。災害で疲れている人が多い」
警察庁担当者が答える。
「承知しています」
片倉皐月が、静かに言った。
『総理、これは災害支援の分配にも影響します。鹿児島県側から東京支援に知見を出す動きが萎縮すれば、灰対策が遅れます。東京側が鹿児島に反感を持てば、共同支援が壊れます』
「分かっています」
高嶺は、画面の投稿分析を見た。
災害で壊れた道路は、重機で直せる。
壊れた港は、時間をかけて直せる。
だが、壊れた感情は、見えない。
だからこそ、放置すれば長く残る。
「午後二時に、私から発信します」
橘が頷いた。
「内容は」
「火山灰は誰かを罵る材料ではない。経験は武器ではなく、支援に使うものだ。中国の認知戦の疑いがあるが、中国系住民への差別は許されない。これを明確に」
会議室が静かになった。
高嶺は、続けた。
「強い言葉が必要です。けれど、誰かを殴る言葉ではなく、殴り合いを止める言葉にしてください」
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時三十分。
鹿児島市内でも、現実の口論が起き始めていた。
駅前の広場で、火山灰対策の支援物資を整理していた市民団体の前に、数人の若者が現れた。スマートフォンを持ち、配信をしているようだった。
「東京に支援するんですか?」
若者の一人が尋ねる。
団体の代表が答える。
「東京だけではありません。富士山噴火で降灰している地域へ、鹿児島の経験を共有しています」
「鹿児島は東京に馬鹿にされてきたのに?」
「そういう対立を煽る話には乗りません」
「逃げた」
「逃げていません。灰で困る人に、灰の知識を渡すだけです」
周囲に人が集まり始めた。
別の若者が、わざと大きな声で言った。
「鹿児島県民は東京のために働けってことですか?」
団体代表の顔が硬くなる。
「違います」
「じゃあ、東京を助けないんですね?」
「そういう二択ではありません」
「はっきりしないな」
代表の横にいた中年男性が、怒りに耐えきれず前へ出た。
「お前ら、何がしたいんだ!」
若者のスマートフォンが、その瞬間を捉えた。
「ほら、暴力的」
中年男性は、さらに怒りかけた。
だが、団体代表が腕を掴んだ。
「乗らないでください」
「でも」
「乗ったら、相手の動画になります」
中年男性は、息を荒くしながら立ち止まった。
代表は、若者たちを見た。
「私たちは、東京を助けるためだけにやっているのではありません。火山灰で困る人を助けるためにやっています。鹿児島の経験は、誰かを見下すためではなく、誰かを守るためにあります」
周囲から拍手が起きた。
若者たちは、面白くなさそうにその場を離れた。
だが、切り取られた短い動画はすぐに流れた。
《鹿児島支援団体、東京支援を批判され逆ギレ》
事実は、また歪められた。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
高嶺紗枝首相は、緊急メッセージを出した。
――――
内閣総理大臣メッセージ
火山灰をめぐる地域対立に注意
経験を分け合い命を守る
差別と認知戦に乗らないでください
――――
『富士山噴火による降灰が続く中、火山灰をめぐって、鹿児島と東京、地方と首都を対立させるような投稿や動画が急増しています。政府は、これらの一部に、組織的な情報工作、いわゆる認知戦の疑いがあると見ています』
高嶺は、まっすぐカメラを見た。
『火山灰は、誰かを罵る材料ではありません。鹿児島をはじめ、火山灰と長く向き合ってきた地域の経験は、今回被害を受けている地域の命と生活を守るための大切な知見です。東京を責めるためでも、鹿児島を責めるためでもありません』
言葉に力がこもった。
『同時に、情報工作の疑いがあることをもって、日本で暮らす中国系住民や外国人の方々を攻撃することは、絶対にあってはなりません。問題は、災害時の混乱に乗じて日本社会を分断しようとする行為です。国籍や出自による差別は、災害対応をさらに壊します』
記者席は静かだった。
『避難所、配布所、街頭で、挑発的に撮影し、切り取った動画を拡散する行為が確認されています。どうか、怒りに任せて反応する前に、公式情報を確認してください。相手が誰であっても、地域を一括りにして責めないでください。止めようとする人を攻撃しないでください』
高嶺は、最後に言った。
『私たちは、南海トラフ、相模トラフ、富士山噴火という複合災害の中にいます。今、必要なのは罵り合いではなく、知識の共有です。鹿児島の経験を東京へ。東京の資源を被災地へ。全国の力を、命を守る方向へ向けてください』
そのメッセージは、すぐに拡散された。
支持する声もあった。
《これは本当にそう。鹿児島と東京で喧嘩してる場合じゃない》
《灰の経験を共有しよう》
《中国人差別に行くなって明言したのは大事》
《切り取り動画に乗らないようにする》
だが、反発も強かった。
《認知戦と言えば批判を封じられると思うな》
《政府が都合悪い投稿を工作扱い》
《鹿児島の本音をなかったことにするな》
《東京優遇を隠すための綺麗事》
《中国のせいにして逃げるな》
さらに、日本人を装う不審アカウントが、すぐに別の角度から煽り始めた。
《中国人差別をするなと言いながら日本人の怒りは黙らせる政府》
《鹿児島県民の怒りを認知戦扱い》
《東京被災者の苦しみを地方が笑ってるのは事実》
《止めようとする奴は政府の犬》
言葉の火は、消えなかった。
むしろ、形を変えて燃え広がった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後三時三十分。
東京の避難所。
高嶺のメッセージを見た人々の間で、少しだけ空気が変わった。
朝、口論になりかけた鹿児島出身の女性は、避難所の掲示板の前に立っていた。手には、鹿児島県が公開した火山灰対策の資料を印刷した紙がある。
「これ、貼ってもいいですか」
自治体職員が頷いた。
「お願いします」
女性は、紙を貼った。
火山灰を水で流さない
目をこすらない
マスク・眼鏡を使う
車の運転は控える
雨どいと排水の詰まりに注意
灰は少しずつ袋へ
近くにいた男性が、気まずそうに言った。
「朝は、すみません」
女性は、少し驚いた顔をした。
「私に?」
「鹿児島の人が笑ってるって、決めつけました」
女性は、しばらく黙ってから言った。
「私も、東京の人に分かってもらえないって思っていたことはあります。でも、今は、それを言っている場合じゃないと思います」
男性は頷いた。
「灰の片づけ、教えてください」
女性は、掲示した紙を指差した。
「まず、水で流さないことです」
その会話を、今度は別の誰かが撮影していた。
だが、その動画は、朝とは違う形で広がった。
《避難所で鹿児島出身者が火山灰対策を共有。東京住民が謝罪》
《こういうのを広げたい》
しかし、その投稿にも挑発がつく。
《台本くさい》
《政府の演出》
《謝る必要ない。東京が被害者》
善意は広がる。
悪意も追いかける。
情報空間は、避難所よりもずっと広く、ずっと壊れやすかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後五時。
警察庁と各都県警は、挑発的な動画撮影と威力業務妨害への対応を強めた。
ただし、政府は慎重だった。
怒っている被災者を取り締まるのではない。
避難所や配布所で、意図的に口論を誘発し、業務を妨害し、切り取り動画を拡散する行為を止める。
その線引きは難しかった。
東京都内の配布所で、警察官が撮影者に声をかけた。
「個人が映る形での撮影は控えてください。配布業務に支障が出ています」
「報道の自由だろ」
「あなたは報道機関ですか」
「市民ジャーナリストだ」
「では、個人情報と避難者の安全に配慮してください。列を妨げないでください」
「政府に都合悪いものを撮らせたくないんだろ」
警察官は、感情を動かさなかった。
「配布所の安全確保です」
同じ言葉を、何度も繰り返す。
南西の海で海上保安庁が繰り返している言葉と同じだった。
進路を変更せよ。
配布所の安全確保です。
形は違っても、どちらも線を守る言葉だった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後七時。
富士山の噴火活動は、さらに弱まりつつあった。
気象庁は慎重に表現した。
――――
火山情報
富士山の噴火活動は低下傾向
終息とは判断せず
降灰・泥流・火山ガスに警戒
――――
降灰も徐々に薄くなり始めた地域が出てきた。東京の一部では、空の霞がわずかに薄くなった。スマートフォンの通信も、復旧した基地局が増え、避難所や配布所、被災地の一部でインターネット利用が可能になっていった。
つながることは、安堵をもたらした。
同時に、混乱も増やした。
安否確認が進む一方で、デマも増える。支援情報が届く一方で、切り取り動画も広がる。鹿児島と東京の対立を止めようとする投稿が伸びる一方で、それを挑発する投稿も増える。
鹿児島、東京、静岡、山梨、神奈川、千葉。
火山灰に関する経験共有のオンライン会議が、自治体職員、防災士、火山灰常襲地域の住民団体、医療者、道路管理者、学校関係者をつないで開かれた。
鹿児島の担当者が言った。
「灰は慣れてもつらいです。だから、慣れていない地域はもっとつらい。まずそこを共有したい」
東京の担当者が答えた。
「正直、火山灰を甘く見ていました。道路、排水、病院、学校、想定以上です」
静岡の担当者が続ける。
「山麓は避難と降灰が同時です。首都圏だけでなく、山に近い地域の支援も必要です」
山梨の担当者が頷く。
「観光地、農業、畜産、水源への影響もあります」
その会議の一部は、公式に公開された。
対立ではなく、共有。
それが、政府と自治体の打ち出した答えだった。
だが、情報工作側は、それさえも攻撃した。
《自治体同士の茶番》
《鹿児島が東京に利用されてる》
《東京が地方の知識を奪う》
《地方は首都の下請け》
収拾は、まだつかなかった。
☆☆☆ ☆☆☆
午後八時三十分。
官邸では、情報空間の悪化に対する再協議が行われた。
橘官房長官が報告する。
「総理メッセージ後、一時的に連帯投稿が増えました。しかし、挑発アカウントは論点を変え、政府による言論統制、鹿児島の怒りの封殺、中国人差別問題のすり替え、東京優遇批判へ拡散しています」
高嶺は、疲れた顔で言った。
「一度の発信で止まるとは思っていません」
羽鳥が続ける。
「プラットフォーム各社へ、災害デマ、なりすまし、切り取り動画への対応強化を要請済み。警察は威力業務妨害、脅迫、暴行への対応を進めています」
警察庁担当者が言った。
「挑発に乗って実際に口論や小競り合いに発展する事例が増えています。鹿児島、東京、神奈川、千葉、静岡の一部で確認。大規模暴動ではありませんが、避難所運営や物資配布への支障が懸念されます」
小森が言った。
『自衛隊には、避難所内の対立へ深入りせず、自治体と警察へつなぐよう指示しています。ただ、現場隊員が罵声を浴びる例も出ています。東京優遇だ、地方を見捨てるのか、中国人を守るのか、日本人を黙らせるのか、と』
高嶺の表情が一瞬険しくなった。
「隊員に言ってください。それは隊員個人へ向けられた言葉ではない。災害と情報工作で追い詰められた社会の歪みです。受け止めすぎないように、と」
『伝えます』
片倉が言った。
『総理、情報対策にも予算をつけます。自治体の広報支援、翻訳、やさしい日本語、ファクトチェック、避難所掲示、地域間連携。ネット上だけでなく、現場の紙と声も必要です』
高嶺は頷いた。
「その通りです。ネットで起きた火を、ネットだけで消そうとしない。避難所の掲示、職員の説明、地域の顔が見える発信。全部使います」
言葉の災害には、言葉だけでは足りない。
信頼できる人の声が必要だった。
☆☆☆ ☆☆☆
八月二十五日、午前零時。
降灰は、地域によって薄くなり始めていた。
東京の一部では、夜空の色が少し戻った。だが、地面に積もった灰は残っている。車両が動けば舞い上がる。雨が降れば泥になる。排水溝、雨どい、線路、空調、病院、学校。除灰はこれからが本番だった。
スマートフォンの通信は、さらに復旧した。避難所の人々が家族と連絡を取り、被災地の画像を送り、支援情報を受け取る。涙を流して安否確認できた人もいた。
しかし、同時に対立投稿も増えた。
鹿児島と東京。
地方と首都。
日本人と中国人。
政府支持と政府批判。
自衛隊感謝と自衛隊不信。
災害支援と安全保障。
複数の対立軸が、同時に走り始めていた。
中国側の強硬的な海上作戦が後退した一方で、国内の情報空間では、より細かく、より執拗な揺さぶりが始まっていた。
官邸では、高嶺が午前零時の報告を受けた。
羽鳥が言った。
「物理的な災害は、少しずつ持久態勢に入っています。一方、情報空間の混乱が拡大しています」
高嶺は、静かに答えた。
「災害の第二波ですね」
「はい。言葉の第二波です」
高嶺は、水を飲んだ。
唇の傷は、少し塞がり始めていた。
だが、痛みはまだ残っている。
「明日から、情報災害対策を災害対応の柱に入れます」
「はい」
高嶺は、四つの地図に加え、五つ目の画面を見た。
SNS拡散図。
赤い線が、地域と地域を結ぶのではなく、裂くように走っていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前二時。
東京都内の避難所。
鹿児島出身の女性は、眠れなかった。昼間に火山灰対策を掲示してから、多くの人に感謝された。一方で、スマートフォンには見知らぬアカウントからの罵倒が届いていた。
《東京に媚びるな》
《鹿児島の裏切り者》
《地方の苦しみを首都に売るな》
《お前みたいなのがいるから地方は舐められる》
彼女は、画面を閉じた。
手が震えていた。
隣にいた東京の男性が、小さく言った。
「大丈夫ですか」
朝、彼女に謝った男性だった。
女性は、少し迷ってから言った。
「怖いです」
「すみません。自分も、朝、あんなことを」
「あなたのせいではないです」
「でも、乗りました」
男性は、床を見た。
「怒りやすくなってました。家も戻れないし、灰も降るし、ネット見たら鹿児島が笑ってるって出てきて」
女性は、静かに頷いた。
「私も、東京の人は鹿児島の灰を馬鹿にしてきたって思っていました。全部の人じゃないのに」
二人は、少し黙った。
避難所の中で、誰かが咳をした。
女性は、掲示板を見た。
「明日、灰の片づけ方を説明する時間を作ってもらいます」
男性が顔を上げた。
「手伝います」
「いいんですか」
「はい。今度は、乗らない側にいたいので」
その言葉に、女性は少しだけ笑った。
分断は広がる。
だが、その逆向きの小さな結び目も、確かに生まれていた。
☆☆☆ ☆☆☆
午前五時。
鹿児島市。
火山灰対策の知見を共有していた市民団体は、誹謗中傷を受けながらも発信を続けていた。
代表は、短い動画を撮った。
『鹿児島では、灰に慣れていると言われることがあります。でも、慣れているから平気なのではありません。つらさを知っているから、困っている人に伝えたいことがあります。水で流さないこと。目をこすらないこと。車を無理に動かさないこと。子どもや高齢者、呼吸器の弱い人を優先すること。これは東京のためだけではありません。火山灰で困る全ての人のためです』
動画は、静かに広がった。
挑発コメントも来た。
だが、それ以上に、感謝の言葉が増え始めた。
《東京です。助かります》
《神奈川ですが、灰の片づけ方が分かりませんでした》
《鹿児島の方、ありがとう》
《桜島の灰、本当に大変なんですね》
《経験を分けてもらえるのありがたい》
情報空間は完全には浄化されない。
だが、善意もまた、拡散することがある。
☆☆☆ ☆☆☆
午前七時。
政府は「火山灰経験共有プラットフォーム」を立ち上げた。
鹿児島、宮崎南部、長崎、熊本、北海道の一部火山地域、伊豆諸島、富士山周辺自治体、首都圏自治体、防災科学者、医師、道路管理者、学校関係者、農業関係者が、火山灰に関する知見を短く整理して掲載する。
高嶺紗枝は、朝の会見で述べた。
『火山灰に長く向き合ってきた地域の知恵は、今回の災害対応に不可欠です。経験を持つ地域を、支援の下請けとして扱うのではありません。対等な知識の提供者として、国が敬意をもって受け止めます』
その表現は、片倉皐月の助言で入ったものだった。
鹿児島を利用している、と言われないために。
東京を特別扱いしている、と言われないために。
言葉は、細心でなければならなかった。
高嶺は続けた。
『同時に、災害時の不安につけ込み、地域同士を対立させる投稿や、外国人住民への差別を煽る投稿には注意してください。政府は、組織的な情報工作の疑いを含めて監視しています。しかし、国籍や出自で人を攻撃することは、決して許されません』
この発信は、前日よりも具体的だった。
ただ「仲良く」と言うのではなく、知識共有の仕組みを示したからだった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前九時。
通信復旧が進むにつれ、南海トラフ被災地からも声が上がり始めた。
高知の避難所で、井ノ口はようやく親戚にメッセージを送れた。
>生きちゅう。避難所におる。家は分からん。水はある。自衛隊さん来てくれちゅう。
送信ボタンを押した瞬間、手が震えた。
返信はすぐには来なかった。
だが、送れた。
それだけで、胸のつかえが少し下りた。
隣で森下三曹が物資を運んでいた。
「つながりましたか」
「送れた」
「よかったです」
「お前さんも家族に連絡したか」
森下は、一瞬止まった。
「まだです」
「しなさい」
「後で」
「またそれか」
井ノ口は、少し怒ったように言った。
「お前さんらが家族に連絡せんと、家族が心配するやろ」
森下は、言葉に詰まった。
班長が近くで聞いていた。
「森下。五分。連絡してこい」
「しかし」
「命令だ」
森下は、ようやくスマートフォンを取り出した。
圏内。
何日ぶりかの表示だった。
彼は短いメッセージを打った。
>無事。高知で任務中。少し疲れてるけど大丈夫。水は飲んでる。
送信。
すぐに既読がついた。
返信が来た。
>無事でよかった。大丈夫じゃなくてもいいから、生きて帰ってきて。
森下は、画面を見たまま動けなくなった。
水は飲んでる。
その一文を入れた自分に、少し笑いそうになり、泣きそうになった。
☆☆☆ ☆☆☆
午前十一時。
情報工作は、さらに形を変えた。
今度は、鹿児島と東京の対立に加えて、「中国人が攻撃されている」という偽情報と、「中国人が日本人を煽っている」という過剰一般化の両方が拡散し始めた。
一方では、日本人を装った不審アカウントが、中国系住民への怒りを煽る。
《やっぱり中国人が全部やってる》
《近所の中国人を監視しろ》
《日本人のふりをしてる奴を探せ》
もう一方では、別の不審アカウントが、それを切り取って拡散する。
《日本で中国人差別が始まった》
《日本政府が中国人排斥を煽っている》
《災害時の日本社会は外国人を攻撃する》
両方とも、日本社会を裂くための刃だった。
官邸の情報分析室では、分析官が頭を抱えそうになっていた。
「両側を煽っています」
室長が言った。
「目的は対立の最大化だ。日本人対中国人、日本人同士、地域同士、政府対国民。全部を同時に走らせている」
「対応は」
「差別を否定し、工作を否定せず、捜査対象を限定する。難しいが、それしかない」
警察庁と法務省、出入国管理当局、自治体、外国人支援団体が連携し、中国系住民を含む外国人住民向けに多言語情報を出した。
災害情報は自治体公式で確認してください。
困った時は相談窓口へ。
差別や脅迫を受けた場合は警察へ。
不確かな情報を拡散しないでください。
同時に、警察は組織的工作に関与する疑いのある人物やアカウントの捜査を進めた。
線引きは難しい。
しかし、線を引かなければ、社会は一気に雑な憎悪へ落ちる。
☆☆☆ ☆☆☆
正午。
高嶺紗枝は、昼の会見で、明確に言った。
『政府は、災害時の混乱に乗じた組織的な情報工作の疑いについて、関係機関で分析と捜査を進めています。同時に、国籍や民族、出自を理由に、地域社会で暮らす人々を攻撃することは絶対に許されません。工作を行う者を特定して対処することと、一般の外国人住民を攻撃することは、全く別です』
記者が問う。
「総理、中国による認知戦と断定するのですか」
『現時点で、全てを断定する段階ではありません。ただし、中国政府系の情報作戦と類似する拡散パターン、国内外からの不審な連動が確認されています。政府は事実に基づき対応します』
「国民の怒りを抑え込むことになりませんか」
『怒りを持つことと、誰かを地域や出自で攻撃することは違います。災害で苦しい時だからこそ、怒りを向ける先を間違えてはなりません』
その言葉は、支持も反発も呼んだ。
だが、政府が沈黙するよりは良かった。
沈黙は、空白になる。
空白には、悪意が入り込む。
☆☆☆ ☆☆☆
午後一時。
富士山麓。
柳沢は、避難所の掲示板に新しい紙を貼っていた。
不確かな投稿を広げないでください
火山灰対策は公式情報を確認
地域を責めない
外国人住民を攻撃しない
困った時は避難所職員へ
昨日の男の子が、それを見上げていた。
「難しい字が多い」
柳沢は、少し笑った。
「そうだね」
「なんて書いてるの」
柳沢は、しゃがんだ。
「けんかしないで、困ったら大人に言って、うそかもしれない話をすぐ信じないで、って書いてある」
男の子は頷いた。
「じゃあ、けんかしちゃだめだね」
「そうだね」
「富士山が怒ってるのに、人も怒ったら大変だもんね」
柳沢は、返事に詰まった。
子どもの言葉は、時々、大人が長い会議でたどり着く結論を一言で言う。
「その通りだね」
男の子は、少し誇らしそうにした。
外では、灰が薄くなり始めていた。
だが、地面にはまだ積もっている。
怒りも同じだった。
空から降る勢いが弱まっても、積もったものを片づけるには時間がかかる。
☆☆☆ ☆☆☆
午後二時。
八月二十六日。
降灰は、地域によって明らかに薄くなっていた。
東京の空には、まだ霞が残る。道路には灰が積もり、除灰は終わらない。病院のフィルター交換も、浄水場の監視も、鉄道の点検も、空港の制限も続いている。だが、噴火直後のような黒い絶望感は少しだけ薄れていた。
スマートフォンのインターネットは、全国的に復旧した地域が増えた。
南海トラフ被災地から、安否の声が上がる。
相模トラフ被災地から、支援要請が上がる。
富士山麓から、避難生活の現実が上がる。
鹿児島から、火山灰対策の知見が上がる。
東京から、感謝の言葉も上がる。
そして同時に、罵声も、挑発も、切り取り動画も、偽情報も上がり続ける。
収拾は、まだついていなかった。
鹿児島と東京の罵り合いは、止めようとする人々によって何度も弱まった。だが、そのたびに、日本人を装った不審アカウントや、現実に怒りを抱えた人々が、別の火種を投げ込む。中国人への差別を煽る投稿も、それを利用して日本を貶める投稿も、同時に走った。
官邸危機管理センターで、高嶺紗枝は午後二時の報告を受けていた。
羽鳥が言った。
「物理的な降灰は薄くなりつつあります。一方、情報空間の対立は継続。鹿児島・東京対立、外国人差別、政府不信、自衛隊不信の複合的な拡散が続いています」
高嶺は、静かに頷いた。
「灰は目に見える。言葉の灰は見えにくい」
橘が言った。
「対策を継続します。自治体共同発信、火山灰経験共有、プラットフォーム連携、警察対応、多言語支援」
小森が続ける。
『現場自衛官には、挑発に乗らないこと、避難所運営は自治体・警察と連携すること、隊員自身の心身を守ることを再徹底しています』
片倉が言った。
『財政措置にも情報対策と自治体広報支援を入れます。これも復旧費です』
高嶺は、窓の外を見た。
灰色の空は、ほんの少し明るくなっていた。
しかし、国の中には、別の灰が舞っていた。
怒り。
疑念。
差別。
疲労。
孤独。
外から投げ込まれた火種に、内側の乾いた感情が燃え移ろうとしている。
高嶺は、ゆっくり言った。
「ここからは、災害復旧と同時に、社会の復旧です」
羽鳥が頷いた。
「はい」
高嶺は続けた。
「道路を除灰するように、言葉の灰も少しずつ払うしかありません。一度では終わらない。毎日、毎時間、公式情報を出し、地域をつなぎ、差別を止め、工作を暴く」
橘がメモを取る。
高嶺は、最後に言った。
「収拾がつかないように見える時ほど、こちらは手順を崩さない。災害対応と同じです」
午後二時。
八月二十六日の日本は、少しずつ空を取り戻し始めていた。
だが、人々の手の中の画面には、まだ灰が降っていた。
鹿児島で、誰かが東京へ火山灰対策を送る。
東京で、誰かが鹿児島へ謝意を送る。
その間に、誰かが罵声を投げる。
別の誰かが、それを止めようとする。
止めようとする者へ、挑発が向く。
怒りに乗る者が出る。
乗りかけて、踏みとどまる者も出る。
社会は、まだ揺れていた。
南海の海は傷を残し、相模の湾は瓦礫を抱え、富士の山は熱を残し、南西の海は緊張を残し、ネットの中では見えない火山灰が降り続けている。
それでも、声はあった。
《鹿児島から。灰は水で流さないで。無理しないで。》
《東京です。教えてくれてありがとう。》
《地域で責めるのやめよう。みんな被災してる。》
《デマに乗らない。公式を見よう。》
《中国人差別は違う。工作と住民を混同するな。》
《止めようとしてる人を攻撃するな。》
《灰は一緒に払おう。》
午後二時。
収拾は、まだついていなかった。
だが、収拾を諦めていない人々がいた。
その人々がいる限り、国はまだ、言葉の灰の中でも呼吸していた。




